ブルグント王の一覧
ブルグント王の一覧では、2つのブルグント王国の王及びカロリング家全体による策謀の発展から来る政治的称号を与えられた人物の数を列挙する。
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民族大移動期 [編集]
300年頃にブルグント族はボーンホルム島を去りヴィスワ川流域に落ち着いた。ヨルダネスはヴィスワ川流域でブルグント族は4世紀にゲピード族に敗北したことでラインラントに移動したことを記述している。
- ゲビッカ(4世紀後半 - 407年)
- グンドマール(407年 - 411年) - ゲビッカの息子
- ギセルハール(407年 - 411年) - ゲビッカの息子
- グンダハール(407年 - 436年) - ゲビッカの息子
アエティウスはブルグント族をサパウディア(上ローヌ川)に移動させた。
- グンディオク(436年 - 473年)
- 対立王キルペリック1世、グンディオク(443年 - c.480年)
- グンディオクの4人の息子達によって王国は分割された。
- ジギスムント(516年 - 523年) - グンドバドの息子
- ゴドマールないしグンディマール(523年 - 532年) - グンドバドの息子
フランク王統治下のブルグント [編集]
532年から534年にかけてブルグントは徐々にフランク王キルデベルト1世及びクロタール1世によって征服された。
メロヴィング朝 [編集]
- グントラム(561年 - 592年)
一つの王のもとでネウストリアと統一されたが、行政は分割された(613年 - 751年)。
カロリング朝 [編集]
- ピピン3世(751年 - 768年)
- カールマン(768年 - 771年)
- カール大帝(771年 - 814年)
- ルートヴィヒ1世(814年 - 840年)
- ロタール1世(840年 - 855年、817年以降父のもとで統治)
ルートヴィヒ1世の息子達は843年のヴェルダン条約で王国を分割し、ブルグントは兄弟間で分割された。
- シャルル2世はソーヌ川西部の小さい部分を相続した。この領域は公的にはregnum burgundiae(ブルグント王国)と呼ばれたが、それ以来フランス王は公を行政官として派遣して、領域はブルゴーニュ公国ないしブルゴーニュとして知られるようになった。
ブルグントの残りの部分と統一する以前のプロヴァンス王に関してはen:list of dukes, kings, counts, and margraves of Provenceを参考。
ユーラブルグント王国 [編集]
「ユーラブルグント王国」を参照
- ロタール2世(855年 - 869年)
ロタール2世は自分のブルグントの部分をロタリンギアに包含し、兄弟のシャルルがその死滅した王国の北部の区域を獲得した。869年にロタール2世が死ぬとその領域はメルセン条約で2人の叔父であるシャルル2世とルートヴィヒ2世によって分割された。
884年にプロヴァンス王国を除くフランク王国を再統一したカール3世が888年に死ぬとユーラブルグントの貴族及び聖職者達は聖マルタンのもとに集まり、古ヴェルフ家出身のオセール伯ルドルフ1世を王に推戴した。ルドルフ1世は最初はロタール2世の王国を再統一しようとしたが、アルヌルフの抵抗でブルグントの領域に焦点を当てた。
933年にルドルフ2世は自分の請求権をイタリア王国のユードに譲渡し、プロヴァンスを取り戻し、それ故に2つの王国は再統一された。
1032年にブルグント王国は神聖ローマ帝国にドイツ王ないしは神聖ローマ帝国と並ぶブルグント王としての3番目の王国であるアルル王国として組み込まれた。
神聖ローマ帝国としてのブルグント王国(アルル王国) [編集]
「アルル王国」を参照
ザーリアー朝 [編集]
- コンラート2世(ブルグント王:1032年 - 1039年、神聖ローマ皇帝:1027年 - 1039年)
- ハインリヒ3世(ブルグント王:1039年 - 1056年、神聖ローマ皇帝:1046年 - 1056年)
- ハインリヒ4世(ブルグント王:1056年 - 1105年、神聖ローマ皇帝:1084年 - 1105年)
- ハインリヒ5世(ブルグント王:1105年 - 1125年、神聖ローマ皇帝:1111年 - 1125年)
ズップリング朝 [編集]
- ロタール3世(ブルグント王:1125年 - 1137年、神聖ローマ皇帝:1133年 - 1137年)
ホーエンシュタウフェン朝 [編集]
- コンラート3世(ブルグント王:1138年 - 1152年)
- フリードリヒ1世(ブルグント王:1152年、神聖ローマ皇帝:1155年 - 1190年)
- ハインリヒ6世(ブルグント王:1190年、神聖ローマ皇帝:1191年 - 1197年)
ブルグントの支配者 [編集]
コンラート及びルドルフ3世のもとで王権は弱体化し、一方でブルグント伯のような地方の貴族が台頭していった。
神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世が早期に死んだ後に未亡人アグネスは自分の幼少の息子であるハインリヒ4世の摂政として活動した。アグネスはルドルフ1世をシュヴァーベン大公に任命し、合わせてブルグント全体の支配権を委ねた。しかし、ルドルフ1世が対立王に選出された時、成長したハインリヒ4世は1079年にその力を奪い、ローザンヌとシオン(現在のスイス)の司教領に派遣した。
1127年3月1日にブルゴーニュ伯ギヨーム3世が暗殺されると、ロタール3世はギヨーム3世の母方の叔父でルドルフ1世の外孫であるツェーリング家出身のツェーリング大公コンラート1世の伯領への請求権を支持し、ブルグントの全権を委ねた。
適当な称号を欠いていたことから、ツェーリング家はブルグント公の地位を得るため自分でブルグントの公及び支配者と名乗った。しかしながら大公家の書記官達は一貫してこの部分を避け、en:rector(ローマ法では地方総督の一般的な概念である)はツェーリング家が統治するユーラ東部に限られるようになった。
ツェーリング家の請求権の強行及び王国の西部及び東部への王権の拡大といった幾つかの試み(その中で最も著名なのは1153年の遠征である)は失敗した。これらの失敗の後、皇帝フリードリヒ1世はブルゴーニュ伯領の相続人であったベアトリス1世と結婚したことにより1156年までに確固たる支配を築いた。この相続は永続的にツェーリング家をユーラとアルル間に限定させることになり、そこで同家は権威を拡大させた。1218年にコンラート1世の孫のベルトルト5世は後継を残すことなく没し、ツェーリング家は断絶した。
この後、ローマ王フリードリヒ2世はツェーリング家の遺領を所有するために、それに見合う称号として息子のハインリヒ7世にブルグントの支配者の称号を与えた。この任命は単に一時的な重要なもので、ハインリヒ7世が1220年4月にドイツ王に選ばれるとこの称号は消滅した。またブルゴーニュ王国内部での王権の失墜は不可逆であった。
脚注 [編集]
- ^ Britannica (1922). The Encyclopædia Britannica: A Dictionary of Arts, Sciences, Literature. Original from Harvard University: Encyclopædia Britannica. p. 821.