モンゴル系民族

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Rezabot (会話 | 投稿記録) による 2012年5月31日 (木) 08:40個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (r2.7.1) (ロボットによる 追加: ur:منگول)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

歴史的モンゴル

モンゴル(Mongol、モンゴル文字ᠮᠤᠨᠭᠭᠤᠯ Mongɣulキリル文字Монгол)は、モンゴル高原(現在のモンゴル国中華人民共和国内モンゴル自治区を合わせたものにほぼ一致する地域)にバイカル湖~興安嶺の一帯とバイカル湖~アルタイ山脈の一帯を合わせた地域。または、当該地域や中央ユーラシアに居住するモンゴル諸語モンゴル語などを母語とする民族。

大雑把な人口の内訳は、モンゴル国に200万・内モンゴル自治区に400万・ロシアのブリヤート共和国に20万である。詳細に見るとモンゴル国では人口約253万3,100人のうち95%(約241万人)がモンゴル族(2004年統計年鑑)であり、中国には約1,000万人(内モンゴル自治区に約400〜500万、それ以外の中国内に約500〜600万)のモンゴル族がいる。 遊牧民族として知られているが、いずれの地域でも、現在は牧畜をやめて都市や農村に居住する割合がかなり多い。また、中国やロシアでは、モンゴル語を話せなくなった人も少なくない。 主な宗教はチベット仏教の流派で、文化的にチベットとの関わりが深い。また、シャーマニズムも存在している。

名称

「モンゴル」という名称は初め、中国の史書に「蒙兀室韋」[1]や「蒙瓦部」[2]、「萌古国」[3]、「蒙古」[4]などと記され、ペルシア語史料[5]に「مغول Mughūl」と記された。

現在、中華人民共和国内モンゴル自治区で使われるモンゴル文字表記では「ᠮᠤᠨᠭᠭᠤᠯ Mongɣul」、モンゴル国で使われるキリル文字表記では「Монгол Mongol」となっている。

「モンゴル」の意味はラシードゥッディーンの『集史』に「モンゴルとは素朴で脆弱という意味」と記されている。

分布

モンゴル国および中華人民共和国におけるモンゴル族の自治区域

多くがモンゴル人のハルハと呼ばれる集団に属する。前近代からモンゴルを自称としている人々のうち、ハルハ以外の集団では、中華人民共和国が内モンゴル自治として区分するモンゴル高原の南部地方に居住するものが多い。内モンゴルをはじめとする中国領内の各地に住むモンゴル人は、中国語ではモンゴル族と呼ばれ、中国の少数民族のひとつに数えられている。

「内モンゴル」地方の北部には、伝統的にモンゴルの一員を自認しつつ、モンゴルの主流諸族とはかなり相違する言語的、文化的特徴を有するダウールバルガ族などの諸集団がある。中国人民政府が建国直後、国民の民族所属を定めるために行った「民族識別工作」においては、バルガ族が「モンゴル族」として「識別」される一方、ダウールは別個の一つの独立した少数民族に認定されている。

モンゴル系の言語を用いる諸族のうち、中国が独立の「少数民族」として識別したものとしてはダウール族トンシャン族バオアン族、などがある。

歴史

モンゴルの歴史
モンゴルの歴史
モンゴル高原
獫狁 葷粥 山戎
月氏 匈奴 東胡
南匈奴
丁零 鮮卑
高車 柔然
鉄勒 突厥
  東突厥
回鶻
黠戛斯 達靼 契丹
ナイマン ケレイト 大遼
(乃蛮) (客烈亦) モンゴル
モンゴル帝国
大元嶺北行省
ドチン・ドルベン
ハルハオイラト
大清外藩外蒙古
大モンゴル国
モンゴル人民共和国
モンゴル国

チンギス・ハーン以前のモンゴル

モンゴルの名をもった集団が最初に歴史上に現れるのは7世紀のことで、中国の記録に室韋の一派である「萌古」「蒙兀」「蒙瓦」などという漢字をあてられ、モンゴル高原の東端に住むに過ぎない小集団であった。末期頃に東部蒙古の大勢力部族であった韃靼(タタル)族は同系統であったという。後のモンゴル帝国の時代にまとめられた『元朝秘史』や『集史』に記録された始祖説話から、北東アジアの森林地帯の人々と北アジアの草原地帯の人々が混ざり合って部族を形成したらしいと考えられている彼らは、遊牧民契丹の王朝が、もともと狩猟民でモンゴル高原への強い影響力をもてない女真の金によって滅ぼされ、高原に権力の空白が生まれた11世紀頃には、モンゴル高原の中部から東部にかけて広がっているモンゴル諸語を話す諸部族のうちのひとつであった。

やがて、権力の空白を突いて成長し始めたモンゴル部族は、ウリヤンハイ部族やジャライル部族などを隷属させるようになり、12世紀の中頃にチンギス・ハーンの曽祖父にあたるカブル・ハーンを最初のハンに推戴して国家らしいまとまりを形成し始めた。ここでいう「部族」にあたる、遊牧民の寄り集まった政治体のことをモンゴル語でウルスといい、モンゴル部族はモンゴル・ウルスと称していた。カブル・ハンの死後、モンゴル部族の突出を警戒した金の策動により第2代ハンのアンバガイはタタル部族によって捕らえられて処刑されるとモンゴルの統一は揺らぎ、次の第3代クトラ・ハンを最後にモンゴル部族にはハンが立たなくなって、モンゴル・ウルスは12世紀後半には分裂の危機に陥った。ハンの称号を持たず、キヤト氏族の一首長に過ぎなかったチンギスの父イェスゲイ・バートルは、タタル部族と盛んに戦って勢力を広げ、モンゴルの再統一を進めつつあったが、チンギスが幼い頃に若くして死んだ。『元朝秘史』はタタル部族に毒殺されたとしている。

モンゴル帝国の形成

イェスゲイの死後、一時は支配下の部民に見放されるなどの苦労を重ねつつタタル部やタイチウト氏、ジャダラン氏などのモンゴル部内の敵対勢力と戦って独力で勢力を築き上げたチンギスは、やがてモンゴル部族の大部分を統合してそのハーンとなっていた。この力を背景にチンギスは、1203年に高原中部のケレイト1205年に高原西部のナイマンを滅ぼし、南部のオングト、北東部のオイラトなどの諸部族を服属させてモンゴル高原の全部族を統合し、1206年に大(イェケ)モンゴル・ウルス、すなわちモンゴル帝国を築いた。これ以降、モンゴルはもともとモンゴル・ウルスに所属した遊牧民のみならず、チンギス・ハーンとその子孫の歴代ハーンの統治する大モンゴル・ウルスに集った全ての部族の総称に転化する。

モンゴル帝国以降のモンゴル

モンゴル高原の側では、中国を支配したモンゴル帝国()がモンゴル高原に北走して北元となった後、北元のクビライの王統に従った諸部族と、これから離反してオイラト族を中心に部族連合を形成した諸部族の二大集団に分かれた。後者はドルベン・オイラト(四オイラト)と呼ばれるようになり、前者はこれに対してドチン・モンゴル(四十モンゴル)と称される部族集団となる。明は、四十モンゴルを韃靼(タタールの漢訳名)と呼んだため、この時代のモンゴルのことはタタールと呼ばれることが多いが、自称はモンゴルのままであり、代には蒙古(モンゴル)の呼称が復活する。清はモンゴルを服属させ、チベット仏教による徹底的な弱体化策を行った。

20世紀の初頭に清が崩壊すると、清朝末期の辺境への漢人殖民政策に苦しんでいた内蒙古人が外蒙古のハルハ諸侯に働きかけ、まずもともと清の支配が比較的緩かった北モンゴルでボグド・ハーン政権が樹立された。そして隣国ロシア帝国に援助を求めた。内蒙古各部族も帰順の動きを見せたが、露中蒙の協議の末、南モンゴルの中華民国帰属、北モンゴルの中国宗主権下の自治へと後退した。ロシアが十月革命を経てソビエト連邦となると、北モンゴルではロシア内戦に乗じて中華民国軍、白軍が侵入するが、北モンゴルが今度は赤軍の援助を得て再独立。ボグド・ハーンの死後、共産主義国家のモンゴル人民共和国を建てた。これが現在のモンゴル国となる。一方、南モンゴルの諸部族はモンゴル人民共和国への帰順や自主独立の動きがありながら、結局中華人民共和国の領内に残り、現在の内モンゴル自治区となった。また、新疆ウイグル自治区や青海省に多いオイラトは、中華人民共和国の成立にともなって蒙古族の民族籍を与えられ、中華民族の一部とみなされるようになった。

モンゴルの遊牧民が居住に使う移動式天幕住居をモンゴル語でゲルと呼ぶが、内モンゴル自治区では公用語が漢語であるため、「パオ(包)」と呼ばれる例も多い。

構成氏族・部族

チンギス・カンがモンゴル帝国を建設した後、モンゴル族起源の人民に区別が設けられた。チンギス・カンと同じ起源に出る諸部族は、アラン・ゴアが光線の作用によってはらんだ諸子の子孫であったために、その純潔を示すため「ニルン」という姓で呼ばれた。その他の諸部族は「ドルルキン(平民)」と呼ばれた。ドルルキンはエルゲネ・クン山中にこもっていたヌグズとキヤンの子孫であった。

ニルン諸氏族

ドルルキン諸氏族

モンゴル化したテュルク諸部族

ラシード・ウッディーンは『集史』において「現在はモンゴルと呼ばれているが、以前はそれぞれの別名を持ち、独立した首長を持っていたテュルク部族」をいくつか挙げている。

など

ダヤン・ハーン後のモンゴル

モンゴルを再統一したダヤン・ハーンの子孫によってトゥメン(万人隊)と呼ばれる6つの大部族が形成された。トゥメンはゴビ砂漠東北の「左翼」と、砂漠西南の「右翼」に分かれていた。

左翼
右翼
その他

外蒙古・内蒙古の諸部

張穆が著した『蒙古游牧記』には、内蒙古六盟四十九旗、外蒙古ハルハ八十六旗が記されている。

内蒙古六盟
外蒙古四部八十六旗
その他

脚注

  1. ^ 旧唐書』列伝第一百四十九下 北狄
  2. ^ 新唐書』列伝第一百四十四 北狄
  3. ^ 遼史』本紀第二十四 道宗四
  4. ^ 元史』以降
  5. ^ 『タリーフ・イ・ジャハーン・グシャーイ(世界征服者の歴史)』、『ジャーミ・ウッ・タワーリーフ(集史)』

参考資料

関連項目