フィアット・X1/9

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X1/9X1-9エックスワンナイン)は、フィアットが生産したフィアット128ベースのスポーツ・スパイダー。「128AS」という形式名のSはスパイダーを意味する。 1972年11月26日イタリアシチリア島タルガ・フローリオコース上にて発表。1978年5速マニュアルトランスミッションが追加され1,498ccへ排気量アップしてからは「128AS1」となる。1982年3月からベルトーネに販売権を移行し1989年まで生産された。量産ミッドシップスポーツカーのパイオニア的存在。

Fiat X1/9

概要

成り立ち

フィアット・850 スパイダーの後継車種として、ベルトーネが提案したアウトビアンキ・ランナバウト(1969年)を原型としている。いくつかのパーツをフィアット・128と共有し、より現実的な形での大量生産ミッドシップとしてお手本となった。とはいえ、提案から3年余り、紆余曲折を経てさまざまな実験が行われ、開発されたシャーシ・ボディ・サスペンションは完全な新設計で、そのまま競技へもちこんでもおかしくないほど高剛性であり、高い潜在能力を誇る。

あらゆる方向から検証してみても、X1/9がこのような形で生まれたことは、奇跡的なことといえる。事の発端はイタリア自動車協会の会長ダンテ・ジアコーサのプロジェクトだった。横置きエンジンにディファレンシャルギヤとトランスミッションを直列に配置するレイアウトは彼の発明であるが、このジアコーサ式横置きユニットをそのまま運転席の背後へ移動したミッドシップカーを作るという構想で、1960年の後半から幾度となく実現化が図られた。このプロジェクトはG31と呼ばれた。

初のジアコーサ式ミッドシップ車はアウトビアンキ・クーペとして1967年に発表された。128のパイロットモデルとなるアウトビアンキ・プリムラ (Autobianchi Primula)のエンジンを背後に積んだ。

同じことをベルトーネも提案した。フィアットへ向けて、A112(のちに127とも共通)のエンジンを積んだミッドシップ・バルケッタ(イタリア語の小舟の意)、アウトビアンキ・ランナバウトとして1969年11月のトリノショーで発表された。

その後フィアットは具体的にX1/1として開発を進めていた初のFF車、128(1969年発表)のパワートレーンをベースとし、850スパイダーの後継車として北米マーケットをターゲットとしたスポーツ・スパイダーをベルトーネに提案させる。フィアットはFFFRの2案出すように依頼したが、ベルトーネはFF車とFR車、3番目にMR車を提案した。ヌッチオ・ベルトーネにはスモール・ミウラを作りたいという野望があってミッドシップ案を押したが、フィアットの首脳陣は大量生産として可能性の高いFF車を選んだ。しかしモータースポーツ好きでもあった当時のフィアット社長であるジャンニ・アニェッリによりミッドシップ案で決定した。

このプロジェクトはX1計画の9番目となり、ベルトーネのもとで開発が進められた。ボディスタイルのみならずランチア・ストラトス同様、ホイールベースから全体のディメンジョンにいたるまでを、当時のベルトーネ・チーフデザイナー、マルチェロ・ガンディーニが決定した。シャーシ構造などはフィアット技術部のプレオ技師が担当し、走行テストなど、サスペンション開発、パワートレーン系でコンサルタントとしてジャンパオロ・ダラーラが参加した。北米向けの厳しい安全規定へ対応させるため、それまでフィアットのスパイダーモデルに採用されていた伝統的で軽快なソフトトップは不採用となったが、取り外してフロントトランクへきっちりと収納できるタルガトップは、ガンディーニらしい良くできた設計であった。

ガンディーニはX1/9について、「今でもそのコンセプトを気に入っているし、スタイリングにも満足している[1]」と語り、ダラーラは「最も好きなクルマは?」の問いに「ミウラ、X1/9、最初のF3モノコック[2]」と語っている。彼は「X1/9プロジェクトに参加し1リットルから1.6リットルエンジンでテストした[2]」とも語った。

また、当時まだ情報のない頃、カロッツェリア・ギアトム・ジャーダ)デザインのデ・トマソ1600GT(1971年トリノショー)が、酷似していることから広まってしまった「フィアットがこのデザインを買ってベルトーネにリデザインさせた[3]」というがあったが、当時のデ・トマソ関係者からの証言により、デトマソにX1/9の設計図が漏洩し、それを元にアレッサンドロ・デ・トマソがトム・ジャーダにリデザインさせた、とされている。

エンジンは128クーペ、128ラリーとほぼ同型で1969年に128のためにアウレリオ・ランプレディが設計した1,116ccを基本としたボア86.0×ストローク55.5mmという超ショートストロークでレーシーなシングルカムヘッド1,290ccとされるが、アバルト・OT1300のエンジンの基本設計をベースにフィアットがチェーン駆動をベルト方式に変更し、シングルカムヘッドを新設計した1,290ccエンジンがX1/9に採用されたとする説もある(ただし、この件を事実としてとらえているのはアメリカのアバルト・コレクター兼パーツ販売を行っていたアルフレッド・S・コセンティーノの文献のみである)[4]。オリジナルではEC仕様で75PSという非力なエンジンだが、ダラーラの協力のもとフィアット128でレース活動を行っていたスクーデリア・フィリピネッティのマイク・パークス(Mike Parkes)は機械式インジェクションツインカムヘッドにより190PSというオリジナルの2倍以上にまでチューンアップしている。この仕様は1973年という早い時期にGr.4エントリーというかたちで表に出たが、それまでのフィアットとの友好な関係によりまっさらなボディを入手できた為である[5]。また、オーストラリアのプライベートチューナーは1300ユニットにウェーバーDCOEツインキャブレターという組み合わせで9000rpm225km/hという速度記録を立てた。

フィアット・コードネーム
開発コード 生産車
X1/1 フィアット・128
X1/2 アウトビアンキ・A112
X1/3 フィアット・130
X1/4 フィアット・127
X1/8 X1/20として再計画[6]
X1/9 フィアット・X1/9
X1/20 ランチア・ベータ・モンテカルロ[6]
X1/38 フィアット・リトモ[7]

実際より低く評価されたX1/9

世間一般には大衆車、リーズナブルなミッドシップで通っているが、フィアット・アバルトX1/9プロトティポの開発リーダーであり、これをベースにWRCへ挑んだジョルジョ・ピアンタによれば「フィアットは速すぎるので作るのを止めてしまった」と言っている。

特筆すべきはそのサスペンションである。「これきしのパワーの車に、なぜこのようなすばらしい“足”が必要なのかと疑いたくなる[8]」と言われるように平凡なストラット式ではあるがリアのVの字に開いたロアウィッシュボーンアームは極めて強靱だ。のちの競技モデルでもサス・アームを軽量化することはあっても、構造まで変更するには至らず、アンチロールバーを追加する程度に留まる。

プロジェクトを取り巻く人物がミウラやストラトスの開発に携わったメンバーであること。これがX1/9をここまでレーシーに生んでしまった原因であると考えられる。当時フィアットとしては大衆車128ファミリーの仲間であることを強調した。競技車両としての資質はなるべく隠された。ガンディーニによる優れたパッケージングは単なるミッドシップ2シーターにしては異例に荷物が積める実用的スポーツカーとなり850スパイダーに負けず大ヒットした。

1982年フィアットはX1/9の販売権をベルトーネに渡す。フィアットとしてはいくらエンジンを生産してそのボディに載せようが赤字であった。ベルトーネにしてみれば中規模であるグルリアスコの自社工場をいっぱいにするX1/9はドル箱的存在であった。ベルトーネが全てを受け持つのが誰が見ても妥当であったし、ヌッチオはこのことをあらかじめ考慮してミッドシップ案を推したのだった。このような経緯が車名を128スパイダーとせずプロジェクト名「X1/9」のまま市販した理由でもある。

X1/9は1989年3月で生産を終了した。

ダラーラモデルは1400万リラ(当時の日本円で600万円相当)で、各国のレースドライバーに買われたがイタリア国内のヒルクライムではすべてにおいてクラス優勝。BMW、ポルシェなどと混走するグループ5でも健闘し戦績を残した。

WRCへ向けたアバルトX1/9プロトティポのプロジェクトは1973年から1974年にかけてのオイルショックの余波をもろにうけ、過度の不景気とフィアットの販売政策のために中止されたが、20秒以内で200km/hに達する加速は131ラリーよりも速かった。のちにシャルドネカラーのストラトスを駆ってツール・ド・コルスを6勝したベルナール・ダルニッシュはイタリア・フランスの国内ラリーにおいて、X1/9プロトティポで何度も優勝していることはあまり知られていない。1970年代のイタリア人ラリースト(ダリオ・チュラート)によればストラトスと比べてX1/9プロトティポのほうが扱いやすく正確にコーナーを曲がれるとコメントした。[9]

日本市場では絶対的パワー不足、日本国内の高温多湿下では不十分だったボディ防錆処理、夏の渋滞でのオーバーヒート、加えて1983年にアメリカの倉庫で水難にあった車両が大量に日本へ流れ、処理の悪かった車両に与えられた壊滅的ボディ状態等がすべて負の方向のイメージに拡大し、消費者の評判を悪くした。

しかし、趣味の世界では現代においても絶大な人気を誇り、イタリア国内のヒルクライムレースにおいては、今でも速いクルマとして認識され、日本でも、ミニサーキットで上位を狙えるベース車両としての需要がある。

各モデルの歴史

X1/9には大別してフィアットとベルトーネにわけられるが、当時の排出ガス規制等により各国向けに様々な細かい仕様の違いがあり、日本モデルもその種類が煩雑なほどある。海外では、さまざまな特別モデルも存在し、また競技用として開発したモデルもここで紹介する。

市販モデル

1972年12月から1989年3月まで16万台以上が生産された。

フィアット・X1/9
1300
概要
製造国 イタリアの旗 イタリア
販売期間 1973年 – 1978年
設計統括 マルチェロ・ガンディーニ
デザイン ベルトーネ
ボディ
乗車定員 2人
ボディタイプ 2ドア スパイダー
駆動方式 MR
パワートレイン
エンジン 128AS型 1.3L 直4 SOHC
最高出力 75PS/6000rpm
66PS/5900rpm(日本仕様)
最大トルク 9.9kgm/3,400rpm
9.1kgm/3600rpm(日本仕様)
変速機 4速MT
車両寸法
ホイールベース 2,202mm
全長 3,900mm
全幅 1,570mm
全高 1,170mm
車両重量 890kg(日本仕様)
その他
ディーラー ロイヤル・モータース
販売価格 189万円
系譜
先代 フィアット・850スパイダー
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  • 1300(1973-1975)
1972年11月26日発表。1973年イタリア国内デリバリー価格190万リラ(約90万円)、1973年10月東京モーターショー発表、1974年6月よりロイヤル・モータースによって輸入。販売価格189万円。直4、SOHC、1,290ccを横置き、ギアボックス4速。前後ストラット式コイル+ダンパー、前ラディアスアーム+トイリングアーム、後ロアウィッシュボーン。本国モデル880kg/75馬力、最高速170km/h。0-400m=18.6秒、日本モデルは基本的にアメリカ仕様と同等で圧縮比8.9→8.5に下げ、昭和48年排出ガス規制対策がされ890kg/66馬力、160km/h。18.9秒。車両のディメンションは全長3900mm×全幅1570mm×全高1170mm、ホイールベース2202mm。
  • 1300(1975-1976)
1974年に施行されたFMVSS(連邦保安基準)に適合した5マイルバンパーを装着し、エンジンスペックはそのまま、車重935kgに増加。ロイヤル・モータースのカタログも変更。イタリアではオーバーフェンダーや専用ホイール、ダックテイル等を装備したレースモデルCORSAが発表。
  • 1300(1976-1978)
ヨーロッパではスペシャル・シリーズ(Serie Speciale)と銘打たれマイナーチェンジ。圧縮比8.9→9.2に上げ、各国でそれぞれの排ガス規制が採られた。日本仕様は圧縮比8.5のまま昭和51年排出ガス規制対策がされ935kg/61馬力ともっともパワーが少ないモデル。東邦モーターズが正規代理店となり輸入された。販売価格222.7万円(1978年)。ボディサイドに黒い升目の入ったストライプはそのまま採用され、ベルトーネのサインプレートが連番入りでボディの左右フェンダー、あるいはどちらか片方に付く。1977年のF1チャンピオンに輝いたニキ・ラウダは連番の0001をFIATよりプレゼントされた。
フィアット・X1/9
1500
サイドミラーは東邦モーターズ物
概要
販売期間 1978年 – 1982年
設計統括 マルチェロ・ガンディーニ
デザイン ベルトーネ
パワートレイン
エンジン 138AS型 1.5L 直4 SOHC
最高出力 85PS/6000rpm
66PS/5250rpm(日本仕様)
最大トルク 12kgm/3,200rpm
10.5kgm/3000rpm(日本仕様)
変速機 5速MT
車両寸法
全長 3,970mm
全幅 1,570mm
全高 1,180mm
車両重量 980kg(日本仕様)
その他
ディーラー 東邦モーターズ
販売価格 239.7万円
テンプレートを表示
  • 1500(1978-1982)
1978年10月イギリスのバーミンガム・ショーでデビュー、右ハンドル仕様。それまで右ハンドルを待ち望んでいたイギリスのためにまっ先にニューモデルをという意が込められていた。ストローク拡大で1,498ccになり、トルクが増え扱いやすく、しかもギアボックスに5速が追加された。リアトランクのサインプレートは「X1/9 5 Speedと」なる。本国モデル920kg/85馬力、最高速180km/h。0-400m=17.8秒。同じく東邦モーターズが輸入した日本モデルは980kg/66馬力、165km/h。18.7秒。全長3969mm、全幅1570mm、全高1170mm、ホイールベース2202mm、前輪トレッド1345mm、後輪トレッド1365mm。販売価格239.7万円(1979年)。
  • 1500FI(1981-1982)
アメリカ向けにボッシュ・Lジェトロニック、電子燃料噴射を採用。940kg/75馬力、のものが東邦モーターズで少量販売された。キャブ仕様にくらべパワーがある。
  • ベルトーネ(1982-1985)
ベルトーネX1/9
1982年3月ジュネーブ・ショーでデビュー。エンブレムはすべてFIATからベルトーネのものになった。日本では代理店がBICS三晴となり本国の920kg/85馬力に3元触媒を追加したのみで排出ガス規制をクリア。パワーは85馬力のままとされる。2トーンカラーのボディ。内装は本革製でパワーウィンドウが標準装備。9.2の圧縮比と24-68のハイカムを持つ稀少モデル。販売価格298.8万円(1983年)。
  • ベルトーネ(1986-1989)
サイドプロテクター、リアスポイラー等がつきエンジンフードもボディと同色カラーとなる。ボッシュ・Lジェトロニックによる75馬力。車重1010kgともっとも重くなった。ディーラーはオートリーゼン。

競技モデル

  • フィリピネッティX1/9(1973)
X1/9の発表後間もない1973年3月ジュネーブショーで発表される。スクーデリア・フィリピネッティ率いるマイク・パークスが手掛けたレーシングバージョン。パークスとジャンパオロ・ダラーラは以前から128用エンジン・トランスミッションの設計で協力しており、搭載されたエンジンは1,290ccのままクーゲルフィッシャー製機械式インジェクションを使用し、インテークポートを再設計した4バルブヘッドで190馬力を発生。市松模様のシリンダーヘッドを持ち、後のダラーラX1/9に採用したエンジンの原型である。最高速210km/h。特徴としてカンパニョーロ製5本スポークホイールで前輪7.5J後輪9.5Jという極太タイヤを履く。
  • フィアット・アバルトX1/9プロトティポ(1973-1975)
WRC参戦を目的としたラリーカー。1971年10月にフィアットがアバルトを買収したのち、フィアット社開発ドライバー兼技術者であった、ジョルジョ・ピアンタの発案で開発がスタートした。1974年3月シチリア島ラリーがデビュー戦でピアンタ自らがドライバーとなってテストされたがリタイヤが多かった。その後、改良モデルによっていくつかの国内ラリーで完走を果たし、1975年フランス国内でのラリーはベルナール・ダルニッシュがドライバーを務め、そのほとんどで優勝している。その年の公式レースを最後にプロジェクトは中止。理由は資金不足、X1/9より131のほうが売れると見込んだ販売政策、またランチアを傘下におさめたフィアットにとってはストラトスと並んで同様なミッドシップカーが2種参戦することは意味がないと考えた。1976年からWRCはアバルト131ラリーで争われ、これがフィアット車をベースとした最後のモデルとなる。1976年アバルトX1/9のプロジェクトはランチアへと引き渡され、多くの有効な手段はストラトスへ引き継がれた。1台の試作車(試作とはいえ他の3台と同様に実戦投入された)と3台のラリーバージョン、1台の市販バージョン(同モデルを500台以上生産しホモロゲーションを取得するため・規定数はのちに400台に緩和)、そしてもう1台がラリー用スペアとして用意されていた。ラリーバージョンのエンジンはすでにフィアット・アバルト124ラリーで実戦投入されていたものを採用。その変遷とともに大きく2タイプに分かれる。ひとつは圧縮比11.4、2バルブヘッドにウェーバー44IDFキャブレターを装備したボア84.0×ストローク79.2mmの1,756ccで180馬力、もう一つは48IDFのボア86.0×ストローク79.2mmの1,840ccで210馬力を発生する。クーゲルフィッシャー・インジェクションもテストされた。750kg/210馬力、加速0-100km/h=6.8秒、0-400m=14.5秒、最高速210km/h。車重950kg弱の124ラリーに比べ小さなX1/9プロトティポは明らかに戦闘力が高かった。生産数:5台+1台(市販モデル)。
  • ダラーラX1/9(1975-1976)
ダラーラX1/9
FIA グループ5(シルエット・フォーミュラー)を視野に入れ開発されたレーシングカー。1975年10月パリ・オートサロンにて発表。出展時の車名はDallara Bertone Icsunonove。icsunonoveはイタリア語でX(ics)1(uno)9(nove)の意。巨大なウィングとオーバーフェンダーを備えたベルトーネ製ボディはやはりマルチェロ・ガンディーニによるもの。ジャン・パオロ・ダラーラはそこに独自設計によるエンジンとトランスミッションを載せFRP製ボディパーツと耐火素材であるFPTを室内に利用するなどで徹底的に軽量化、サスペンションにも改良を施した。1,289cc128ASブロックをベースに4バルブツインカムヘッドを載せクーゲルフィッシャー機械式燃料噴射装置により192馬力を9700回転で発生。オイル循環は専用オイルパンとオイルポンプによるドライサンプ式。シーケンシャル式オリジナルトランスミッションにはLSDが追加され、サスペンションのアーム類は全てパイプシャフトによる独自の設計がされていた。車重650kg。ホイール:前輪8J後輪11J。生産数:約10台。
  • ダラーラX1/9 1.6(1976-1978)
ボアはそのままストロークアップを施し86.0×68.0mm 1,580ccになったセカンドバージョン。最高出力は210馬力となる。外見上の見分けはフェンダーのホイールアーチより後に冷却用の排出ダクトがあること。最終バージョンではリアウィングがボディと一体化されよりワイドになったモデルも存在する。最高速度230km/h。生産数:約20台。

脚注

  1. ^ 出典:カースタイリング1990.No.77 三栄書房「マルチェロ・ガンディーニ」ジャンカルロ・ペリーニのインタビューより
  2. ^ a b 出典:AutoItalia[英]1998.4 Interview with Gian Paolo Dallaraより
  3. ^ 出典:カーグラフィック1973.2 二玄社 New Model フィアットX1/9より
  4. ^ 出典:Faza Car Graphic Abarth Guide Alfred S. Cosentino (著) 1984.6 二玄社 Abarth OT1300より
  5. ^ 出典:Moter 1973.3 Filipinetti Fiatより
  6. ^ a b X1/9と同時に立ち上げられたX1/8プロジェクトは当初、X1/9より大きなエンジンを積むクローズドトップ2シーターとしてピニンファリーナにより進められた。X1/8のボディにフィアット・130用3リッターV6エンジンを載せ、より競技仕様に変更されたアバルト030が1974年10月の第2回ジーロ・デ・イタリアで試された(結果は総合2位)。1973年のオイルショックなどの要因から、コストを抑えてベータシリーズのエンジンをベースとすることに決定。改めてツインカム直列4気筒2リッターエンジンを載せX1/20として再開発された。スタイリングはピニンファリーナのチーフスタイリストであるレオナルド・フィオラヴァンティ。ストラトスのモンテカルロラリーでの活躍にあやかり、直前になりランチアブランドよりベータモンテカルロとして1975年ジュネーブショーにてデビューした。
  7. ^ The Fiat Ritmo was sold in the UK and US markets as the Strada.
  8. ^ 出典:オートスポーツ1975.3 三栄書房 試乗インプレッションより
  9. ^ 出典:Ciao!NEWS[米] 2003.9 The X1/9 Abarth Prototipo、RuoteClassiche[伊]Genevieve Obert訳の引用より

文献資料

  • 『Fiat X1/9』Carlo Alberto Gabellieri - テキストはイタリア語
Giorgio Nada Editore ; ISBN 88-7911-285-6 ; (2002)
  • 『Fiat X1/9: A Collector's Guide』Phil Ward - イギリスのオーナーズクラブが協力している。
Motor Racing Pubns ; ISBN 1-899870-51-2 ; (1994)
  • 『Fiat X1-9 (Super Profile Car Series)』Graham Robson
Motorbooks Intl ; ISBN 0-85429-341-8 ; (1983)

関連項目

外部リンク