アウディ・200

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200は、ドイツの自動車メーカー・アウディ1979年から1991年まで生産していた大型乗用車である。

アウディ・100(2代目、3代目)の上級仕様であり、アメリカ合衆国では「アウディ5000」の名称で販売されていたこともあった。100の上級仕様としては他に、1988年に発売されたアウディ・V8があった。

概要

初代C2系

アウディ・200
初代
概要
販売期間 1979年 - 1984年
ボディ
乗車定員 5名[1][2]
ボディタイプ 4ドア セダン[3][2][1]
駆動方式 FF[1]
パワートレイン
エンジン 水冷[3]直列5気筒[3][1]SOHC[3]2,144cc[3]
変速機 3AT[1][2]
前:ストラット/後:トレーリングアーム[2]
前:ストラット/後:トレーリングアーム[2]
車両寸法
ホイールベース 2,690mm[3][2]
全長 4,695mm[3][2]
全幅 1,770mm[3][2]
全高 1,390mm[2]または1,395mm[3]
車両重量 1,320kg[3][2]
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2代目アウディ・100の上級モデルとして、1979年にデビューした。これは100のシャシをベースに、100の上級車が搭載していた内径79.9mm×行程86.4mm[2]直列5気筒[2]2,144cc[2]ボッシュ燃料噴射装置Kジェトロニック付き136馬力、もしくはそれに圧縮比を7.0[4][2]に下げてKKK製[4]ターボチャージャーで過給した170馬力エンジンを搭載し、足回りを強化したモデルであった。駆動方式は前輪駆動のみとされた。

比較的大柄なボディを小型のターボエンジンが前輪駆動するという構造は、当時のアッパーミドルクラスの乗用車ではユニークであった。内外装も100よりも高級化されており、外観では角型4灯式ヘッドライト[4]と15インチ6J[4]アルミニウム合金[4]ホイールが特徴であった。

ターボモデルの動力性能は自然吸気2.8リットルクラスと概ね同等であり、当時のメルセデス・ベンツ・280EBMW528iなどがライバルとなり得た。それらとの比較では、新しさ(60扁平タイヤが前提のシャシセッティング、小排気量ターボ)、静粛性、室内スペースではアウディ200が優り、重厚な造りとタイヤに頼らないシャシセッティングのメルセデス、緻密な回転フィールのエンジンとハンドリングに優るBMWという構図であった[要出典]。とはいえ、当時のアウディはまだまだメルセデスベンツやBMWのライバルとは言える出来に達してはいなかった。

日本には1981年から[4]ターボモデルの5Tが輸入されたが、日本仕様では自動車排出ガス規制により135PS/5,400rpm[5][2]、20.6kgm/3,000rpm[5][2]にとどまり、更に3速AT[2]が難点であった。1982年モデルはヘッドライトがハロゲンのシールドビームとなり[5]、後部のエンブレムが「5T」から「Turbo」に変更された[5]。最高速度は180km/h[5]

2代目C3系

アウディ・200
2代目
概要
販売期間 1982年 - 1991年
ボディ
乗車定員 5名[6]
ボディタイプ 4ドア セダン[6]
駆動方式 FF/4WD
パワートレイン
エンジン 直列5気筒[6]2,144cc[6]インタークーラーつきターボ[6]
変速機 3AT[6]
前:ストラット[6]/後:トレーリングアーム[6]
前:ストラット[6]/後:トレーリングアーム[6]
車両寸法
全長 4,805mm[6]
全幅 1,815mm[6]
全高 1,420mm[6]
車両重量 1,360kg[6]
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かつてのNSU・Ro80の復活のようなCd=0.33[7]と空力的なスタイリングで登場したC3型においてもアウディのトップモデル[7]という位置付けは変わらなかった。当初のエンジンは2,144cc[7]直列5気筒[7]、136馬力と182馬力ターボ付きであったが、翌年には2,200ccに拡大され、NAが138馬力、ターボが触媒付きで1984年は141馬力、1985年以降は165馬力となり、更に1989年にはDOHC 20バルブ 2,200ccで220馬力を出す「200クワトロ20V」も追加された。ブレーキは4輪ディスクになった[7]

アメリカ市場においては「アウディ・5000」の名称で発売されたが、1989年式以降では世界市場と同様の「100/200」に改名された。これは、同国で5000(オートマチックトランスミッション仕様)の暴走事例が相次ぎ、それが人気ドキュメンタリーテレビ番組で報道されたことで社会問題化、「5000」の悪評が定着したためであった。

日本仕様は140PS/5,500rpm[7]、20.6kgm/3,000rpm[7]

1991年にフルモデルチェンジを受け、100は4代目のC4型に発展するが、この際名称は100に統一され、200の名は消滅した。

レース活動

200クワトロとしての参戦は1987年からのWRC グループAの限定的なラウンドとIMSA GTOクラスへのエントリーに留まった。

WRC

[8] [9] [10]

200クワトロミッコラ仕様(レプリカ)

1986年までのWRCにおいてアウディ・クワトロのクワトロシステムの優位性を築いたアウディ・モトールシュポルトはグループB、予定されていたグループSの廃止が決定されると1987年シーズン、ノウハウを積んでい基本コンポーネンツが同じ200クワトロでのグループA参戦に踏み切った。チームに残っていたのは、1987年はこれまでチームに残ったハンヌ・ミッコラヴァルター・ロールの2名となった。この年のシーズン、競合他社とも4WDとレギュレーションで過給圧を控えられたターボカーがトレンドとなる中で、ラリー・モンテカルロアクロポリス・ラリーサファリラリー、フィンランド・ラリーの4ステージであるが、シーズン序盤で劣勢とも思えたがミッコラがサファリでアウディにとって最後のマニファクチャラータイトルを飾ると、多くのプライベータの手によって200クワトロでの参戦がみられた。

200クワトロトランザム1989年仕様

出典

  1. ^ a b c d e 『外国車ガイドブック1982』pp.194-195。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『外国車ガイドブック1982』pp.202-203。
  3. ^ a b c d e f g h i j 『外国車ガイドブック1981』pp.218-219。
  4. ^ a b c d e f 『外国車ガイドブック1981』p.132。
  5. ^ a b c d e 『外国車ガイドブック1982』p.149。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l 『外国車ガイドブック1984』pp.208-209。
  7. ^ a b c d e f g 『外国車ガイドブック1984』p.127。
  8. ^ juwra.com audi_season_1987(英語)
  9. ^ rallybase.nl Walter Rohrl(英語)
  10. ^ rallybase.nl Hannu Mikkola(英語)

参考文献

  • 外国車ガイドブック1979』日刊自動車新聞
  • 『外国車ガイドブック1980』日刊自動車新聞社
  • 『外国車ガイドブック1981』日刊自動車新聞社
  • 『外国車ガイドブック1982』日刊自動車新聞社
  • 『外国車ガイドブック1983』日刊自動車新聞社
  • 『外国車ガイドブック1984』日刊自動車新聞社

関連項目