UCサンプドリア
UCサンプドリア | ||||
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原語表記 | Unione Calcio Sampdoria s.p.a | |||
愛称 | I Blucerchiati, La Samp, Il Doria | |||
クラブカラー | 青 | |||
創設年 | 1946年 | |||
所属リーグ | セリエA | |||
ホームタウン | ジェノヴァ | |||
ホームスタジアム | スタディオ・ルイジ・フェッラーリス | |||
収容人数 | 41,917 | |||
代表者 | マッシモ・フェレーロ | |||
監督 | ヴィンツェンツォ・モンテッラ | |||
公式サイト | 公式サイト | |||
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■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ |
ウニオーネ・カルチョ・サンプドリア(伊: Unione Calcio Sampdoria s.p.a)は、イタリア・ジェノヴァをホームタウンとする、イタリアプロサッカーリーグ(レガ・カルチョ)に加盟するプロサッカークラブ。2015-16シーズンはセリエAに所属している。愛称「サンプ(La Samp)」や「ドーリア(Il Doria)」、または「ブルチェルキアーティ(I Blucerchiati、青に囲まれしもの)」。
歴史
1946年にサンピエルダレネーゼとアンドレア・ドリアが合併して誕生。1980年代にはパオロ・マントバーニ会長による積極経営の下で、セリエAを代表するチームに成長し、名将ヴヤディン・ボシュコヴの下で1990-91シーズンにはセリエA優勝を果たした。しかしその後は資金難により1998-99シーズンにはセリエBに降格。2003-04シーズンにはセリエAに復帰し、安定した経営により中堅クラブとして地位を確立していたが、2010-11シーズンはリカルド・ガッローネ会長がアントニオ・カッサーノと喧嘩となり、冬の移籍でカッサーノがミランに移籍し、ジャンパオロ・パッツィーニもインテルに移籍したこともあり、決定力不足が顕著に表れて18位となり8シーズンぶりにセリエBへの降格となった[1]。2011-12シーズンは6位になり、プレーオフでASヴァレーゼ1910に勝利してセリエA復帰を決めた。
なお、2003-04シーズンには日本の柳沢敦が所属していた。
同じくジェノヴァを本拠地とする古豪ジェノアCFCとはライバル関係にあり、両クラブの対戦はデルビー・デッラ・ランテルナ(灯台ダービー)と呼ばれる。
タイトル
国内タイトル
- セリエA : 1回
- 1990-91
- コッパ・イタリア : 4回
- 1984-85, 1987-88, 1988-89, 1993-94
- スーペルコッパ・イタリアーナ : 1回
- 1991
- セリエB : 1回
- 1966-67
国際タイトル
- UEFAカップウィナーズカップ:1回
- 1989-90
ユース
- カンピオナート・プリマヴェーラ : 1回
- 2007-08
- コッパ・イタリア・プリマヴェーラ : 回
- 2007-08
- スーペルコッパ・プリマヴェーラ : 1回
- 2008
- トルネオ・ディ・ヴィアレッジョ : 回
- 1950, 1958, 1963, 1977
- カンピオナート・アッリェーヴィ・ナツィオナーリ : 1回
- 2011-12
過去の成績
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歴代会長
- パオロ・マントバーニ(1930-1993)
サンプドリア黄金期を創り上げた伝説の会長。ローマ出身。 サンプドリアにおけるこの会長の功績は計り知れない。
1979年、自身が所有する船舶の一部を売却し、セリエBに低迷していたサンプドリアを買収。1982年にセリエA昇格を成し遂げ、ボローニャより40億リラでロベルト・マンチーニを獲得。1984年には当時代表でもコンビを組んでいたジャンルカ・ビアッリを30億リラでクレモネーゼより獲得。その後も積極的にクラブへ投資し、トニーニョ・セレーゾ、ジャンルカ・パリュウカ、アッティリオ・ロムバルドなど優秀な選手を集める事に成功。 そして1990-91のスクデットを頂点とする「サンプ・ドーロ」と呼ばれる黄金期を創出した。
1993年、持病の心臓病が悪化し死亡。 葬儀の際、その棺をマンチーニをはじめとするサンプの選手達が運んだ映像はジェノバ市民のみならず、多くの人の涙を誘った。
- エンリコ・マントバーニ(任1993-2002)
パオロ・マントバーニの息子。パオロの死後、会長に就任。 在任中はシニシャ・ミハイロヴィッチ、クラレンス・セードルフ、クリスティアン・カランブー、フアン・セバスティアン・ベロンなど、優秀な選手を集めたもののクラブの財政状況の悪化から長く引き留めることはできなかった。
父パオロとは異なり、クラブの財政悪化によりビジネスライクに物事を運んだため、優秀な選手は集めるもののチーム強化には至らなかった。更にチームの象徴であるマンチーニとの確執も表面化。96-97シーズンを最後にマンチーニは、監督であったエリクソンとともにラツィオへ去った。 98-99シーズンはアリエル・オルテガやヴィンチェンツォ・モンテッラを要したもののチームとしてはうまく機能しなかった。更に監督の解任-再任騒動などフロントの対応のまずさも露呈し、最終節を待たずにセリエBに陥落した。
そして3年後の2002年にクラブは深刻な経営危機に陥り、マントバーニ一族はクラブの経営から手を引いた。
- リカルド・ガッローネ(任2002-2013)
ガッローネは石油精製業を経営するイタリア有数の大富豪であり、2002年財政破綻寸前のサンプドリアをマントバーニ一族より買収した。チームをセリエC1降格の危機より救い、ジュゼッペ・マロッタをGM(ジェネラル・マネージャー)に招聘、小規模予算ながら堅実かつ強力なチームづくりに成功した。2002-03シーズンにはワルテル・ノヴェッリーノ監督の下でセリエA昇格を果たした。
2009-10シーズンはルイジ・デルネーリ監督の下、ジャンパオロ・パッツィーニ、前任者ワルテル・マッツァーリ監督の下で再生を果たしたアントニオ・カッサーノの2トップが機能し、4位という大躍進を遂げ、UEFAチャンピオンズリーグ 2010-11のプレーオフからの出場権を獲得した。
2010-11シーズンにはセリエB降格を経験し、2011-12シーズンは苦しみながらも途中就任したジュゼッペ・イアキーニ監督の下でプレーオフを経て、セリエA昇格を果たした。しかし晩年は、デルネーリ退任以降は相次ぐ監督解任と2012-13シーズンには昇格の功労者イアキーニを切り、インテルを率いた経験を持つラファエル・ベニテス招聘を検討するなど、一貫性のないチーム作りが露呈しまう結果となった。
2013年1月21日、癌により76歳で死去。
現所属メンバー
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
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括弧内の国旗はその他の保有国籍を、星印はEU圏外選手を示す。
ローン移籍選手
- in
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
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- out
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
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歴代監督
- ヴィンチェンツォ・モンテッラ 2015.11-
- ワルテル・ゼンガ 2015.6-2015.11
- シニシャ・ミハイロヴィチ 2013-2015.6
- デリオ・ロッシ 2012-2013
- チロ・フェラーラ 2012
- ジュゼッペ・イアキーニ 2011-2012
- ジャンルカ・アッツォーリ 2011
- アルベルト・カヴァジン 2011
- ドメニコ・ディ・カルロ 2010-2011
- ルイジ・デルネーリ 2009-2010
- ワルテル・マッツァーリ 2007-2009
- ワルテル・ノヴェッリーノ 2002-2007
- ルイジ・カーニ 2000-2001
- ジャンピエロ・ヴェントゥーラ 1999-2000
- デビッド・プラット 1998-1999
- ルチアーノ・スパレッティ 1998, 1999
- セサル・ルイス・メノッティ 1997
- スヴェン・ゴラン・エリクソン 1992-1997
- ヴヤディン・ボシュコヴ 1986-1992, 1997-1998
歴代所属選手
GK
DF
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MF
FW
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注釈
- ^ 内部分裂で降格のサンプドリア 会長息子 チーム運営の失敗認める(2011年5月17日スポーツニッポンより)-2011年5月22日閲覧
- ^ “Prima squadra”. U.C. Sampdoria. 2016年2月29日閲覧。