伊古奈比め命神社
| 本来の表記は「伊古奈比咩{口+羊}命神社」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。 |
| 伊古奈比咩命神社 | |
|---|---|
拝殿(本殿は山上) |
|
| 所在地 | 静岡県下田市白浜2740 |
| 位置 | 北緯34度41分38秒 東経138度58分25秒 |
| 主祭神 | 伊古奈比咩命 |
| 社格等 | 式内社(名神大)、旧県社、別表神社 |
| 創建 | 不明 |
| 本殿の様式 | 三社間流造向拝付 |
| 例祭 | 10月29日 |
| 主な神事 | 火達祭、御幣流祭など |
伊古奈比咩命神社(いこなひめのみことじんじゃ)は、静岡県下田市白浜にある神社である。
式内社で、旧社格は県社。縁結び・子授け・子育てなどの神徳で名高く、また伊豆諸島の造島伝説に由来する神事でも知られる。
目次 |
[編集] 社名
鎮座地に因み白浜(濱)神社(しらはまじんじゃ)と通称される。他に「命」字を除いて「伊古奈比咩神社」としたり、「白浜大社」・「白浜明神」と書くなど様々である。古くは祭神数から「五社明神」とも呼ばれ、また三島大社の故殿地であるとの伝承から「古宮」とも呼ばれた。
[編集] 祭神
伊古奈比咩命(いこなひめのみこと)を主祭神として、以下の4柱を相殿に祀る。
- 三嶋大明神 - 三嶋大社の主祭神である
- 見目(みめ) - 女神で三嶋大明神の随神
- 若宮(わかみや) - 三嶋大明神の随神
- 剣ノ御子(つるぎのみこ) - 同上
主祭神は三嶋大明神(以後三島大神と記す)の后神であるが、本后は神津島の阿波命神社の祭神阿波命とされるので、「後后」と称される。 柏槇を神木とし、また薑(はじかみ)を神草とするが、これは祭神が伊豆半島の端に示現したので「端神(はしかみ)」の意味であるという。
ちなみに、見目・若宮・剣ノ御子の3柱は『三宅記』に登場する。
[編集] 歴史
社伝によると、孝安天皇6年[1]に三島大神とともに三宅島に創祀された(現富賀神社の旧社地)というが、後に三島大神とともに現地に遷座した。なお、当初は700m程北西に隔たった長田部落の神明(かみあけ)(現在十二明神社が鎮座する)に鎮座したと伝え、また三島大神は更に伊豆国の国府があった旧田方郡府中(現在の静岡県三島市の三嶋大社)に遷座した。現社地は、その立地条件から、太古の昔には伊豆諸島を遙拝し、または島々の神を招迎する聖地であったと推考され、鎮座の時代は不明であるものの、後述する天長9年(832年)から、『吾妻鏡』に源頼朝が三島神に奉幣したと記す治承4年(1180年)の間であることは確かである[2]。
天長9年に大旱魃が起こったのでその原因を占わせると、三島大神と伊古奈比咩命の祟りであると判ったので、3日後に「名神」に叙したという記事(『釈日本紀』所引『日本後紀』逸文)が当社の史上における初見であるが、以後昇格を重ね、『延喜式神名帳』で三島大社とともに名神大社に列した[3]。
室町時代には社領70余町に及び、社殿壮大にして社家36家、年間祭祀75度を数えたと伝える。延徳3年(1491年)の北条早雲の参詣以後、後北条氏の崇敬厚く、11貫200文が寄進された。慶長年間(17世紀初頭)には伊豆代官大久保石見守長安から信仰されたが、寛永7年(1630年)の検地で境内以外の全社領が上地にあって以来、徐々に衰退して行き、神官も祢宜原氏1家を残すのみになった。なお江戸時代を通じて、幕府からは毎年八丈島に渡船を発するたびに、初穂米や祈願絵馬を奉納されていた。
明治6年(1873年)に県社とされ、戦後に神社本庁の別表神社に加えられて現在に至っている。
[編集] 神階
天長9年に名神に預って後、嘉祥3年(850年)に従五位上、同年官社に列し、仁寿2年(852年)に正五位下に昇叙され、斉衡元年(854年)にも正五位下を授けられたと記す(以上『文徳天皇実録』)[4]。康永2年(1343年)の『伊豆国神階帳』には「一品当きさの宮」と記されている[5]。
[編集] 神事
- 火達(ひたち)祭(10月28日) - 例祭前夜、本殿裏で火を焚き伊豆諸島を遙拝する。かつては境内に隣接する火達山山上の火達野という場所で行い(火達山一帯より数多の祭祀遺物を出土し、現在「火達山祭祀遺跡」として市指定史跡にされている)、島々からもこれに応えて焚き合せを行ったといい、諸島から神々を迎える神事と見られる。因みに旧暦では9月20日に行っていた
- 御幣(おんべ)流し(10月30日) - 例祭翌日の夕刻、拝殿裏の海浜に幣串1本を立て、神饌を供して伊豆諸島を遙拝し、大明神岩という岩から海中に十本の幣串(伊豆諸島の数と同じ)と供物を投げ入れ、諸島へ神々を送る神事。因みに、この時必ず「御幣(おんべ)西」という西風が吹いて、御幣を島々へ送るという。
[編集] 社殿
本殿は三間社流造銅板葺(大正11年造替)、拝殿(万延元年(1860年造替))は正面6間、側面5間の瓦葺入母屋造で向拝が付く。
[編集] 摂末社
- 二十六社神社 - 大正10年の遷宮に際し、境内社26社を1社に合祀したもの。内訳は少彦名命神社、御子神社、応神神社、須佐之男命神社、天児屋根命神社、天水命神社、天照皇大神社、級長戸辺神社、木花開耶姫命神社、瀬織津姫命神社、倉稲魂命神社、豊宇気姫命神社、経津主命神社、熊野神社、海津見神社、海津豊玉彦神社、大年神社、石長比売命神社、若宮八幡宮、亥神社、大雷神社、高皇産霊神社、金山毘古命神社、大山祇神社、豊受大神宮、金山比咩命神社
ほかに、砂村稲荷神社・見目弁財天・聖徳太子命神社が祀られている。
[編集] 文化財
[編集] 天然記念物(国指定)
- 伊古奈比咩命神社のアオギリ自生地
[編集] 静岡県指定文化財
- 鰐口 - 径42.3cm、厚10.8cmで、両肩に釣手を有し、慶長12年(1607年)に伊豆代官大久保長安から奉納されたもの。当時長安は縄地金山奉行でもあったので、金山の隆盛を祈願して奉納したものと思われ、地金は青銅であるが金の成分が相当含まれていたようである。県指定有形文化財(工芸品)。
- 白浜神社のビャクシン樹林 - 小さな鱗片葉を十字対生につけるものと、針状の葉を3輪生するものとがあり、樹高15.5m、周囲4mに達する古木もある。県指定天然記念物。
[編集] 下田市指定文化財
- 御正躰(みしょうたい)1面 - 金銅製(銅製鍍金)の直径15.2cm、厚0.1cmの薄い円形板で、文字、尊像などは見られないが、当初は墨画があったと考えられている。「施主忌部能次 大歳嘉禄元年(1225年)十二月日乙酉 若宮御正躰」の銘文がある。文化9年(1812年)境内裏山にあった神木「命の松」(昭和41年に倒れた)の根元から掘り出された。
- 水草双鳥鏡 - 表面径10.7cm、縁厚0.7cmの青銅鋳製。背面には捩菊(ねじぎく)文様座鈕を中心に、上下に水流と水草、左右に双鳥の文様を薄肉で表現している。鋳上りも優れており平安時代後期の典型的な和鏡とされる。御正躰とともに掘り出された。
- 亀甲地双雀鏡 - 青銅鋳製。表面径11.4cm、縁厚0.7cm、亀甲地で亀座鈕の近くに双雀を配し、鎌倉時代後期の制作と考えられている。御正躰とともに掘り出された。
- 山吹双鳥鏡 - 青銅鋳製。表面径11.4cm、縁厚0.7cm、花形中隆鈕(はながたちゅうりゅうちゅう)で、全体に山吹を散らし、その中に双鳥を配した文様をやや肉高に鋳出し、鎌倉時代の製作と考えられている。御正躰とともに掘り出された。
以上3点はいずれも市指定有形文化財(工芸品)。
- 薬師如来坐像 - 高86.2cm。一木割矧造、彫眼で、明治の廃仏毀釈で解体されたものを復元し、現状は漆塗りとなっている。薬師如来は三島大神の本地仏とされ、縄を巻いたような特異な頭髪の表現が京都清凉寺の釈迦如来像に代表される鎌倉時代以降に流行した様式であることと、やや面長で男性的な独特の表情に宋風彫刻の影響が色濃く見られることから、鎌倉後期の彫刻の典型とされる。市指定有形文化財(彫刻)。
- 佐野北条氏忠朱印状 - 楮紙の折紙、縦29.0横56.5cm。天正11年(1583年)に北条氏忠から白浜郷名主百姓中に下された年貢の割付状で、裏面に、藤井伊予の依頼を受けた伴信友の考証が書かれている。戦国時代の貢祖納入の実態を知る上で貴重な文書とされる。市指定有形文化財(古文書)。
- 三番叟(さんばそう) - 「日の出三番叟」や「神さんば」とも呼ばれ、およそ300年前から例祭日の早朝に、原田・長田・板戸の氏子部落の青年が1年交替で奉仕している。戦前まで奉仕者は両親健在の未婚の長男に限られていた。市指定無形民俗文化財。
[編集] その他
- 御釜(みかま) - 社殿後方、海に面する崖下にある洞窟で、祭神の御陵とも伝え、本殿の直下あたりに漆塗の祠があるそうであるが、本殿裏一帯は禁足地とされているし、また地震で岸壁が崩れたため、現在近寄ることはできない
[編集] 交通
伊豆急下田駅からバスで約10分
[編集] 脚注
- ^ 同天皇元年とする説もあるが、『神社覈録』所引『伊豆志』、及び『特選神名牒』は6年にする。「元」と「六」と似ているので、いずれかが誤記であろう。今は後者に従う
- ^ 天長9年には三島大神とともに三宅島に祀られていたと思われ、治承4年の三島神は明らかに田方郡鎮座の現三嶋大社である
- ^ もっとも、『延喜式神名帳』に載せる「伊古奈比咩命神社」が現在地と三宅島のいずれを示しているかは不明である。なお、『延喜式神名帳』が必ずしも編纂当時の実情を伝えていないことについては、『式内社調査報告』の瀧川政次郎「序並に解題」参照
- ^ 仁寿と斉衡の記事はいずれかが衍文か、または斉衡の記載は「正五位上」の誤記であろうとされる
- ^ 当社は当時賀茂郡に属していたが、同書には「田方郡」に記載されている。これは「一品当きさの宮」の前に「三島大明神」と「きさきの宮」を掲げ、直後に「第三王子並十八所御子達」とあり、「きさきの宮」が神津島の阿波命神社、「第三王子並十八所御子達」が新島の十三社神社と伊豆諸島の御子神達であると見られることから、三島大明神に関係する神々を「田方郡」の条に述べたか、または三島大社境内にそれぞれの分祠があったためと思われる
[編集] 参考文献
- 式内社研究會編 『式内社調査報告』第10巻伊豆国・甲斐国 皇學館大學出版部、1981年
- 宮地直一・佐伯有義監修 『神道大辞典 縮刷版』 臨川書店、1969年
- 谷川健一編 『日本の神々-神社と聖地』 第10巻東海 白水社、1987年
[編集] 外部リンク
|
|||||||||||||||||||||||