久保敏文

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久保敏文
(古賀敏文)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 佐賀県鳥栖市
生年月日 (1943-11-21) 1943年11月21日(80歳)
騎手情報
所属団体 日本中央競馬会(JRA)
所属厩舎 京都栗東・久保道雄(1963 - 1984)
栗東・フリー・栗東(1984 - 1994)
初免許年 1963年5月4日
免許区分 平地(初期は障害免許も保持)
騎手引退日 1993年3月20日(最終騎乗)
1994年2月28日
重賞勝利 32勝
G1級勝利 3勝
通算勝利 4687戦562勝
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久保 敏文(くぼ としふみ、1943年11月21日 - )は、佐賀県鳥栖市出身の元騎手。引退後に実業家に転身し、出版社の社長に就任。中央競馬馬主資格も取得した。騎手時代は追い込みを得意とし、ファンの多い騎手であった[1]。旧姓は古賀。

来歴[編集]

少年の頃に両親が離婚したことに伴って福岡県福岡市に移住し、芸妓置屋を経営していた叔母の元に身を寄せた[1]

義叔父が馬主として競走馬を所有しており、義叔父と付き合いのあった京都上田武司調教師から騎手になることを勧められ、中学卒業後に京都・久保道雄厩舎に騎手見習いとして入門[1]馬事公苑騎手養成長期課程に第8期生として入所し、同期生には清水出美鹿戸明久保田秀次郎安田伊佐夫大崎昭一笹倉武久などがいる。

騎手課程修了後の1963年3月に騎手免許を取得したが、デビュー直前の調教中に怪我を負う。他の同期生より2カ月遅い5月4日の京都第1競走アラブ4歳以上オープン・ヒメカツプで初騎乗を迎え[1]、見事に史上11人目の初騎乗初勝利を挙げた。1年目から11勝と2桁勝利を挙げ、2年目の1964年には同馬でタマツバキ記念(春)を制し、重賞初勝利も挙げている。やがて久保厩舎の主戦騎手となり、関西の有力若手騎手として頭角を現した。

1966年はヒヨシキングでタマツバキ記念(春)2勝目を挙げ、1967年11月25日の京都第4競走3歳新馬・ハイネスモアで通算100勝を達成。

1968年からは平地競走での騎乗に専念し始める。同年の10月には久保の娘と結婚して娘婿となり、姓を本名の「古賀」姓から「久保」姓に改姓。その前の8月11日札幌第9競走札幌競馬場スタンド増築記念で、宮本悳に替わってダービー馬・タニノハローモアの手綱を取ったが、2着に敗れて1戦のみで降板。この後に伊藤修司調教師から「タニノハローモアを降ろされたのなら」と、騎乗停止を受けていた保田隆芳に代わって皐月賞馬・マーチスの手綱を任され[2]、初の古馬相手となった札幌記念に初騎乗で勝利に導いた。続くハリウッドターフクラブ賞でも古馬相手に重賞2連勝と復活させ、これをきっかけとして伊藤厩舎からの騎乗依頼が増える[2]

1969年には同厩舎のヒデコトブキ桜花賞を制し、GI級レース・八大競走初制覇を果たした。同年は自己最多の43勝を挙げ、ベストテン入りは逃したものの全国12位と自己最高位をマーク。マーチスとのコンビでは札幌記念2連覇、目黒記念(秋)制覇に導く。1970年12月27日阪神第3競走4歳以上100万下・ブリテイホースで200勝を達成。

1972年には条件馬であったシンザン産駒のシンザンミサキで愛知杯を制し、1973年鳴尾記念ではナオキを相手にレコード勝ちを決め、続く天皇賞(春)でもタイテエムの3着に入る健闘を見せた。

1975年にはキーミサキでタマツバキ記念(春)3勝目を挙げ、武邦彦から乗り替わりのロングホーク阪神大賞典を制覇[3]

1976年4月10日の阪神第10競走スプリングハンデキャップ・タニノダーバリーで300勝を達成。12月には阪神3歳ステークスリュウキコウでGI級レース2勝目を挙げると、阪神牝馬特別・メジロジゾウ、阪神大賞典・ホクトボーイで2連覇と3週連続重賞勝利を決める。1977年には年間で重賞6勝をマークし、その内の3勝をホクトボーイとのコンビで挙げた。関東初遠征の天皇賞(秋)では道中後方を進み、直線だけでトウショウボーイグリーングラスの2強を豪快に抜き去り、GI級レース3勝目・八大競走2勝目を挙げる。12月にはタニノチェスターで阪神大賞典3連覇を達成。1978年はアグネスホープで毎日杯を制し、同馬をデビュー3連勝で重賞初制覇に導く。クラシック本番は皐月賞6着、NHK杯10着と評価を落とすが、東京優駿で20頭中12番人気ながらサクラショウリの2着と健闘。

1979年には初の1桁勝利となる5勝に終わり、デビューから続けていた2桁勝利が16年連続でストップ。1980年も8勝と2年連続1桁に終わるが、1981年には19勝と3年ぶりに数字を2桁に乗せる。同年は6月14日中京第4競走4歳未勝利・ヤマニンピットで400勝を達成し、CBC賞・アグネスベンチャーで3年ぶりの重賞制覇も決める。1982年スワンステークスでは重賞2勝目を飾るが、久保にとっては重賞30勝目となり、関西現役騎手の重賞勝利数で武に次いでいた[4]。同年の菊花賞では21頭中19番人気のマサヒコボーイで3着に入って波乱を演出し、同馬で1983年には京都記念(春)を制覇。同年暮に義父の久保が逝去し、1984年からはフリーに転身。

以後は若手騎手の台頭もあって徐々に勝ち鞍が減少し始め、1986年中京記念・シャイニングルビーで3年ぶりの重賞制覇を挙げるが、これが自身最後の重賞制覇となった。12月14日の中京第8競走4歳以上400万下・ケーティライズで500勝を達成。この後は日本騎手クラブ副会長兼関西支部長を務める様になると、騎乗数も減少していった。

1989年は8勝と2桁勝利が8年連続でストップするが、1990年は10勝と2年ぶりの2桁、1991年は13勝と自身最後の2桁をマーク。1991年2月小倉開催では同9日の第11競走帆柱山特別・タマビッグギャル、第12競走4歳以上500万下・ミリオンシーザーと連勝。1989年10月15日福島以来の1日2勝を挙げると、翌10日も第2競走4歳未勝利・タイコンチェルト、第4競走4歳未勝利・サハリンロマンで2日連続1日2勝を挙げるが、第11競走周防灘特別・スリーヤーは人気に応えられず3着と1日3勝は挙げられなかった。

1993年2月21日の小倉第1競走アラブ4歳以上400万下・アキノアイランドが最後の勝利となり、3月20日の小倉第1競走アラブ4歳以上800万下・アキノアイランド(14頭中12着)が最後の騎乗となった。1994年2月28日に現役引退。これにより日本騎手クラブ副会長兼関西支部長の後任には河内洋が就任した。

引退後はJRAから競馬学校教官への転身を勧められていたが、後に知人の実業家男性より雑誌制作への参画を勧められ、こちらに従って九州に戻った[5]。後に福岡の出版社「ベストプランニング」の社長に就任し、九州で唯一の風俗店求人誌『赤いりんご』と『アップルページ』を創刊[6]。会社は2000年時点で年商6億円の企業に成長し[6]地方では1996年頃から馬主となっていたが、1999年には高年収・資産額を求められる中央の馬主資格を取得[7][注 1]。事業で成功し、中央の馬主資格を取得することは実業家転身に当たっての目標であった[5]。かつて騎手であった人物が引退後に馬主登録した例は、日本では少数である[注 2]。中央所属所有馬に騎乗する騎手が着用する勝負服の配色は、「青地・黄襷・赤袖」である。

通算成績[編集]

区分 1着 2着 3着 4着以下 出走数 勝率 連対率
1963年 平地 11 8 5 31 55 .200 .345
障害 0 0 0 4 4 .000 .000
11 8 5 35 59 .186 .322
1964年 平地 17 15 17 99 148 .115 .216
障害 1 3 3 15 22 .045 .182
18 18 20 114 170 .106 .212
1965年 平地 12 13 14 72 111 .108 .225
障害 1 4 3 14 22 .045 .227
13 17 17 86 133 .098 .225
1966年 平地 24 23 31 143 221 .109 .213
障害 2 0 4 12 18 .111 .111
26 23 35 155 239 .109 .205
1967年 平地 31 18 33 133 215 .144 .228
障害 2 1 0 3 6 .333 .500
33 19 33 136 221 .149 .235
1968年 平地 28 30 29 127 214 .131 .271
1969年 平地 45 39 40 179 301 .143 .272
1970年 平地 26 19 29 127 201 .129 .224
1971年 平地 15 24 19 107 165 .091 .236
1972年 平地 13 15 16 86 130 .100 .215
1973年 平地 18 21 18 77 134 .134 .291
1974年 平地 22 22 27 137 208 .106 .212
1975年 平地 26 16 19 102 163 .160 .258
1976年 平地 24 14 16 96 150 .160 .253
1977年 平地 28 16 15 107 166 .169 .265
1978年 平地 30 20 20 108 178 .169 .281
1979年 平地 5 6 8 82 101 .050 .109
1980年 平地 8 11 8 90 117 .068 .162
1981年 平地 19 11 9 42 80 .225 .363
1982年 平地 13 17 12 106 148 .088 .203
1983年 平地 16 9 9 67 101 .158 .248
1984年 平地 26 17 34 167 244 .107 .176
1985年 平地 21 19 28 158 225 .089 .173
1986年 平地 17 9 12 104 142 .120 .183
1987年 平地 17 18 11 141 187 .091 .187
1988年 平地 11 7 8 68 94 .117 .191
1989年 平地 8 6 8 59 81 .099 .173
1990年 平地 10 9 18 125 162 .062 .117
1991年 平地 13 12 10 76 111 .117 .225
1992年 平地 5 2 3 42 52 .096 .135
1993年 平地 1 0 0 7 8 .125 .125
1994年 平地 0 0 0 0 0 .000 .000
平地 560 466 528 3065 4615 .120 .221
障害 6 8 10 48 72 .083 .194
総計 566 474 538 3113 4687 .120 .221

主な騎乗馬[編集]

※括弧内は久保騎乗時の優勝重賞競走、太字八大競走を含むGI級レース。

その他

エピソード[編集]

1968年中京競馬暴動[編集]

1968年12月8日の中京第10競走中日賞で、久保はフジタカに騎乗して1位入線した。フジタカは決勝線手前で斜行して他馬の進路を妨げていたが、場内に審議の発表が行われないまま、確定を示すランプが点された[8]。しかし、その後になって競馬会が進路妨害によるフジタカの失格を発表。これを不服とした一部の競馬ファンが暴徒化して場内で投石や放火を始め、機動隊が出動する事態となった[8]。久保ら当事者はパトカーによる護送で競馬場を後にし、翌12月9日には繰り上がり1位となったカルタゴに騎乗していた同期の清水出美や、競馬会の委員らと共に警察署で事情聴取を受けた[8]。久保は暴動発生の責任を負わされて競馬会から3か月間の騎乗停止を通告されたが、「暴動が起きたのは審議のランプを点けずに確定のランプを点けたせいだ」と抗議し、処分は1か月間に減じられた[8]。この事件によって中京開催は残り2日間が中止となり、予定されていた中京最後の繋駕速歩競走が行われないままで終わった[8]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 中央競馬の馬主資格を取得するためには、収入面にあっては「3年連続で年収2000万円以上、資産1億4000万円以上」という規定を満たさなければならない。
  2. ^ 他に中央の馬主資格を取得した例として浅見国一(調教師経験者として初)、地方競馬で馬主資格を取得した例としては、清田十一小林稔成宮明光内藤繁春の例がある。また吉田牧場の4代目場主である吉田晴雄は、中央競馬の騎手として関東地区で数年間騎乗していた。

出典[編集]

  1. ^ a b c d 井口(2000)p.78
  2. ^ a b 井口(2000)p.80
  3. ^ これが唯一の騎乗であった。
  4. ^ 梶山(1981)pp.252-253
  5. ^ a b 井口(2000)pp.77-78
  6. ^ a b 井口(2000)pp.83-84
  7. ^ 井口(2000)pp.76-77
  8. ^ a b c d e 井口(2000)p.79

参考文献[編集]

  • 『日本の騎手』(中央競馬ピーアール・センター、1981年)
    • 梶山隆平「関西の騎手」
  • 『書斎の競馬(14)』(飛鳥新社、2000年)ISBN 978-4870314146
    • 井口民樹「GI騎手から馬主へ! 久保敏文の華麗なる転身」

外部リンク[編集]