トム・ヨーク

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トム・ヨーク
コンサート中のトム・ヨーク
コンサート中のトム・ヨーク
基本情報
出生名 トーマス・エドワード・ヨークThomas Edward Yorke
別名 Dr. Tchock
Tchocky
出生 1968年10月7日(40歳)
出身地 イングランド
ノーサンプトンシャー州
ウェリングバロ
ジャンル オルタナティブ・ミュージック
アート・ロック
電子音楽
職業 ミュージシャン
美術家
積極行動主義
担当楽器 ボーカル, ギター
ピアノ
レーベル XLレコーディングス
共同作業者 レディオヘッド
公式サイト http://www.theeraser.net/
  

トム・ヨークThom Yorke、本名:Thomas Edward Yorke1968年10月7日 -)は、イギリスオックスフォード出身のミュージシャンエクセター大学卒業。身長は5フィート6インチ(約168 cm)。

目次

[編集] 概説

英国を代表するバンド・レディオヘッドのメンバーであり、ボーカルギターシンセサイザーピアノを担当する。バンドの楽曲のすべての作詞を手掛ける。作曲もメンバーで最も貢献度が高いと言えるが、レディオヘッドの楽曲の多くはデモや大枠をトムが作り、アレンジをメンバー5人とナイジェル・ゴッドリッチで議論しながら行うというスタイルをとっているため、一人でバンドのすべての曲を一から十まで作曲しているわけではない[1]。ソロアーティストとしても活動。

第三世界人権問題環境問題を軽視するコマーシャリズムグローバリズムに嫌悪感を抱いており、貿易法改善を呼びかけるといった社会運動にも積極的に参加している。

楽曲の歌詞にも政治、社会問題に関連して(多くは婉曲的に)書かれたものがいくつか存在するが、その多くは何らかの扇動的意識や不特定多数への問いかけを内包しているというより、むしろ皮肉的、厭世的なものであり、ここは同じく政治的な歌詞が目立つU2ボノR.E.M.マイケル・スタイプとの大きな相違点である。

[編集] 略歴・生い立ち

  • 1968年10月7日、イギリスのウェリングバラに生まれる。
  • 生後間もなく化学工業関係に勤めていた父グレアムの仕事の関係でスコットランドに転居。
  • 1976年、父の仕事の関係でイギリス南部へ再び転居。
  • 八歳の誕生日に安いスパニッシュ・ギターをプレゼントされる。人生で初めて熱中した楽器となり、短期間だがギタースクールにも通った。
  • 1978年、引っ越し続きだった一家はようやくオックスフォードに落ち着く。1980年まで、オックスフォード、ウィットニーのスタンドレイク英国教会小学校に通った。後に弟のアンディ・ヨークも入学。母バーバラは教師で、その学校の教壇に立っていた。
  • 1978年、10歳でスクールの友達と生まれて初めてバンドを結成。楽器ができるのがそもそもトムだけで、「バンドというよりギターの配線を面白おかしくして燃やしたりする科学グループ」(Q誌)だったらしい。
  • 1979年、11歳で生まれて初めて作曲を行う。曲名は「Mushroom Cloud」で、原子爆弾の爆発を歌った曲。「(きのこ雲の)恐ろしさではなく、ただ単純にその見た目について書いた曲」と、後年インタビューで話している。(1998年Opinion誌)
  • 1981年、アビントン・スクールに入学。
  • 1982年コリン・グリーンウッドら、スクールの友人達とパンクバンド「TNT」を結成。その後コリンとトムの二人は隙を見て脱退。
  • 1985年エド・オブライエンをギターとして勧誘し、三人をオリジナル・メンバーとしてバンドを結成。メンバーは流動的で、一時はホーンセクションが在籍していたこともあった。その後、リズムを刻んでたドラムマシンが故障したため、上級生のドラマーフィル・セルウェイを勧誘してレディオヘッドの前身「オン・ア・フライデー」結成。兄のバンドに入りたがっていた当時15歳のジョニー・グリーンウッドをサポートメンバー、キーボードとして入れる。
  • 1987年、スクール卒業。一年間いくつかのバイトを転々として生計を立てる(ほぼ全てクビになるか自分から辞めており、一つも長続きしていない)。
  • 1988年、トム単身でエクセターに移り、エクセター大学に入学。バンドは一時休止。大学で将来の妻レイチェル・オーエンスと出会う。
  • 大学では一時的に「ヘッドレス(ヘッドレス・チキン)」というバンドに参加。メンバーの一人、ジョン・マティアスザ・ベンズではコーラス・ストリングスに参加)はメジャーデビューしており、現在も活動中。ザ・ベンズ収録の「High&Dry」はこのバンドでトムが書き下ろした曲。
  • 1991年春、単位を取得しエクセター大学卒業。ヘッドレスを抜けオックスフォードへと戻る。オン・ア・フライデー活動再開。ジョニーをギタリスト兼キーボーディストとして正式加入。
  • 1992年EMI傘下パーロフォンと契約。レディオヘッドとバンド名を変えてメジャーデビュー。
  • 2001年2月、学生時代からの恋人であるレイチェル・オーエンスとの間に息子ノアが生まれる。
  • 2006年7月5日、初のソロ・アルバム『The Eraser』を発売。

[編集] 使用楽器

エレクトリックギターフェンダー・テレキャスター系をメインにしており、近年はテレキャスター・カスタム、テレキャスター・デラックスといった派生モデルを多く使用する。テレキャスター以外にも、リッケンバッカーギブソン・SGフェンダー・ジャズマスターなども曲によって使い分ける。エレアコも多く使用し、特にOK コンピューター以降は使用頻度が高い曲が多い。エフェクターは歪みとディレイを中心とした汎用的なシステムを使用。ツアーごとに買い替えているのか頻繁にエフェクターは変化するが、歪み+空間系という基本的な構成自体はデビュー当初から変わらない。アコースティックギターはほぼアコースティックギグ専用であり、エフェクターでダイナミックに音色を変化させる必要のある曲が多いため、通常のギグでは基本的にエレアコを使う。

グランドピアノスタンドピアノシンセサイザーハルモニウムなどの鍵盤楽器も使用する。ピアノはヤマハのものが多いが、ツアーとスタジオで同様のものを使用することは少なく、同じ曲でもギグによって違ったメーカー、型のものを演奏していることが多い。

その他、タンバリン、ミニドラムキットなど、曲に合わせて演奏する楽器は大きく異なる。

[編集] 歌唱・演奏スタイル

美しい高音の裏声を多用した歌唱スタイルが特徴。「女性や子供のよう」とも形容されるこの歌声は同時にトムのコンプレックスでもあり、Kid Aでは意図的にそのスタイルを封印して歌声をノイズやエフェクトでかき消したりなど、時期によって試行錯誤を重ねている。パブロ・ハニー期には線の細い歌声とは正反対の、エモーショナルなシャウトを用いていたこともあった。現在では本来の高い裏声をメインにした歌唱に戻っており、2006年のソロアルバム以降のインタビューでは「僕にはこの声しかないって改めて分かった」などと語っている。新作イン・レインボウズでは裏声のファルセットを昔以上に多用している。

レディオヘッドの楽曲は一部のプログラミング主体の曲以外、トムの弾き語りを基調にバンドサウンドを肉付けしていくものが非常に多いため、トムのギタープレイはその多くが、伴奏となるコードプレイもしくはリフ主体であり、ギターノイズやリードプレイは通常エド・オブライエンジョニー・グリーンウッドに任せている。しかし、多くのバンドのギターボーカルがプレイしているようなストロークだけの単調なプレイは少なく、歌いながらメロディーラインとは全くリズムの違うリフを弾いていたりなど、ギター歴が非常に長いだけあって目立たないながらも技術は高い水準にある。デビュー初期は非常に低い位置でギターを構えていたが、現在は標準もしくはやや高め。

鍵盤楽器はKid A以降から本格的に演奏し始めたうえ独学の部分が大きいため基本的に弾き語り以上のプレイはせず、シンセサイザーに関しても「プログラミングや演奏はジョニーやコリンのほうが得意」と語っている。

[編集] 発言

  • 「あなたの目は美しいんだけど、何かが全く違っているのよ。表現者としての僕を最初に批評してくれた人が言った言葉だよ」[2]
  • 「小さい頃はただスターを目指してたよ。もしかすると、今もそうかもしれないね」[3]
  • ロックなんてゴミ音楽じゃないか!僕はゴミだと思う」[4]
  • 「僕らは民主的だから、何一つ決まらないんだ。だからいつも苦しむんだ」[5]
  • 「基本的に僕らのアルバムには完全に近い凝集性がある。シングル用じゃないから時間をかけずとか、そんなこと"何言ってんだこのクソ野郎は"ってぐらい、よく理解できない」[6]
  • 「作品を出す時、余計な人が絡んでこないのがすごく魅力的だったんだ」[7]
  • ピクシーズなんかは最初からキッズに対して媚びた音楽は作ってなかった。そういうモデルは目指すべきものだと思った」[8]
  • 「Radioheadってバンド名は、その名の通り、僕らの姿勢を代弁している」[9]
  • 「僕は行ったよ。他のアーティストをリスペクトするように教わった。」(ノエル・ギャラガーのトムに対する「あんたがどれだけ"俺達は不運だ"って言うことに時間を費やしたとしても、客はクリープを歌ってほしいだけなのさ」「俺は大学になんか行ってねえ」などの攻撃的な発言に対して)
  • 「ちょっと待って、君の仕事は何?」(インタビューで家族のことに話が及んだ際)[10]
  • 鬱病って言うのは病気だ。そういうのをアーティスティクなものと関連付けようとする輩もいるけど、頭がおかしいとしか思えない。それはただの苦しい病気なんだよ。病人を冒涜してる。」[11]
  • 「そこらへんを歩いている人々すべてに悲観的観測をしていたら、確実に気が狂ってしまうことに気付いた」[12]
  • 「この世界(=音楽業界)は隙あらば寝首をかいてやろうって人に溢れてる。でもR.E.M.のメンバーは本当に僕たちに良くしてくれている。」[13]
  • 「最近のシーンでドラムをドンドン叩くバンドがいっぱいいるけど、なんでそうする必然性があるのかもう少し理由を考えて見るべきだと思う」[14]
  • 「あの頃は色々最悪だったんだけど、一番酷かったのは髪型かな・・・。」(デビュー初期の自分について)[15]

[編集] エピソード・人物

  • ベジタリアンである。しかし好んで肉食ではないというだけで、偏執的に固執はしない。ちなみにコリン以外のメンバーは皆同じくベジタリアン。
  • 若いころは「癇癪持ちで赤の他人にとってはちょっと近寄りがたい性格」(コリン・グリーンウッド)であり、デビュー後もステージ上や公の場で笑顔を見せることは非常に少なかったが、2003年以降のインタビューでは「僕も年取ったし、大人になった」とコメントしている。ヘイル・トゥ・ザ・シーフツアー以降はそれ以前とはうって変わって、ステージ上でおどけたり、笑顔を見せることも多い。
  • 一番心に残っているギグは97年のグラストンベリー・フェスティバルと語る。このライブはグラストンベリー史上に残るギグとして、しばしば多くの英ロック雑誌のランキング投票で上位に挙げられる。
  • 意外にも楽譜の読み書きが苦手で(多少はできる)一時期克服しようと努力していたが、グリーンウッド兄弟に「そんなバカなことをやるなら曲のデモの一つでも作ってくれ」と言われ現在はあきらめている。(レコーディングストリングスホーンセクションを呼ぶ際は、昔から基本的にジョニー・グリーンウッドが譜面を書く。)
  • OK コンピューター期前後までノートを常時持ち歩いており、ノート片手にインタビューを受けることも多かった。単なる落書きや歌詞のインスピレーションとなる言葉など様々なものを書きなぐっていたらしい。
  • 嫌いで有名。歌詞には車について(多くは否定的に)書かれたものがいくつか見受けられる。自身も学生時代に大きな事故にあっており、二酸化炭素の大量排出やグローバル資本主義第三世界労働者軽視の象徴という意味でも、車産業・車メーカーを忌み嫌っている。近場の移動には自転車を使用する。
  • 1997年~2000年前後まで鬱病で医療機関にかかり、抗鬱剤を服用していたことを認めている(SPIN誌他)。
  • 日本ではトム・ヨークとして知られているが英語での発音はソム・ヨークに近い。TommyではなくThomの愛称のため、一音節目にアクセントがこない。
  • 生まれたとき彼の左目は開いていなかった。これが原因でアビントン・スクールでは「サラマンダー」(=サンショウウオ)というあだ名で呼ばれていた。筋肉移植の手術を6歳までに5回受けている。現在まで後遺症が残っているのは「最初の医者がしくじりやがった」(Bigread誌等)かららしい。
  • 親日家で、一時期は日本語を熱心に勉強していた。来日すると原宿などで服を買い込む。
  • 本国やアメリカでは、顔がロシアプーチンに似ていると話の種にされることがある。メンバーのエド・オブライエンの公式ダイアリーでもそれについての内容が書かれていたことがある。
  • 家にいるときはニュースチャンネルに一日中かぶりついていることもあるらしい。またラジオをいつも持ち歩いている。
  • エクセター大学の卒業作品で取り組んだのはMacintoshを使いミケランジェロの絵画の色をすべて変えて自分の作品に仕立て上げるというもの。
  • マルタン・マルジェラの服を度々着用している。
  • ブラーデーモン・アルバーンらと同様、オアシスノエル・ギャラガーとしばしばメディアを介して舌戦を繰り広げる。ちなみにリアム・ギャラガーはレディオヘッド自体も曲も嫌いだが、ノエルはバンドをけなしながらも作品自体は好きで新譜が出ると毎回購入する。
  • 自身、趣味が悩む事と称している通り音楽雑誌などのメディアからインタビューなどを受けてもバンドの環境や自分の声質など常に何かに悩んでいることが伺える。また本人曰く「自分の減らず口と皮肉さは最大の悩み事であり最大の取り柄である」と語っている。

[編集] 脚注

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  1. ^ ただし、Kid Aアムニージアック期のセッション・レコーディングを振り返り「あの時期のバンドを国連に例えるなら僕がアメリカの立場だった」と様々なメディアで発言している。(SPINNME他)この時期は特に、OK コンピューター後はロックポップス的作風への回帰を志向していたエド・オブライエンとの意見の折衝が大きかったようである
  2. ^ Jon Wiederhorn「static electricity」、ローリング・ストーン
  3. ^ 2001年NME
  4. ^ Kid A期の数多くのインタビュー
  5. ^ 2001、Giga Moris「in fact」
  6. ^ 1997年、Jim IrvinによるMojo誌においてのインタビュー
  7. ^ イン・レインボウズの発売方法についてのインタビュー。Q誌
  8. ^ 1996年James Alart。Mojo誌
  9. ^ 2001年、Q誌Anthony Johnstoneによるインタビュー
  10. ^ 2001年UNCAT誌
  11. ^ 同上のインタビューで
  12. ^ 同上
  13. ^ R.E.M.の前座として回ったツアーで
  14. ^ 2006年 Q誌のメールによる質疑インタビューにおいて
  15. ^ 2003年Mojo誌「How to Do "Yorke" Completely」