トム・ヨーク
| トム・ヨーク | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 出生名 | Thomas Edward Yorke |
| 別名 | Tchock,[1] Tchocky,[2][3] Dr. Tchock[4][5] |
| 出生 | 1968年10月7日(44歳) |
| ジャンル | オルタナティヴ・ロック 電子音楽 |
| 職業 | ミュージシャン |
| 担当楽器 | ボーカル ギター ピアノ キーボード パーカッション エレクトリックベース プログラミング オルガン ドラムス ハーモニカ ラップトップ サンプラー |
| 活動期間 | 1985— |
| レーベル | XLレコーディングス |
| 共同作業者 | レディオヘッド, UNKLE, ビョーク, Atoms for Peace |
トム・ヨーク(Thomas Edward Yorke、1968年10月7日 -)は、イギリス・オックスフォード出身のミュージシャン。オルタナティヴ・ロックバンド「レディオヘッド」のボーカル・ギター・ピアノ他多くの楽器演奏とソングライターを務める。ソロアーティストとしても活動。2006年にはソロデビューアルバム「ジ・イレイザー」("The Eraser")をリリース。2009年には新バンド「アトムス・フォー・ピース」("Atoms for Peace"(直訳すると平和のための原子力))をナイジェル・ゴッドリッチやレッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリーらと結成し、さらに活動の幅を広げている。
2002年のQ誌において「最も精力的なイギリス人ミュージシャンの一人」に選出、「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第13位に選出された。
2005年のブレンダー誌における「歴代の偉大なポピュラーミュージックシンガー投票」で18番目に選出。
2008年のローリング・ストーン誌においては「歴史上最も偉大なシンガー100人」の第66位に選出された。
目次 |
生い立ち [編集]
1968年10月7日、イングランドのノーサンプトンシャーに生まれる。生後間もなく化学工業関係に勤めていた父グレアムの仕事の関係でスコットランドに転居。生まれた時、彼の左目は完全に麻痺していた。「僕の瞼は閉じたままで、誰もが一生このままだと思っていた。その後ある専門医が義眼みたいに筋肉を移植できることを思いついた。そして僕は生後間もなくから6歳までの間に大きな手術を6回受けたんだ。彼らは最後の手術を失敗して僕の目は半分見えなくなったんだ」と本人はインタビューで語っている。半年に2回の引っ越しと、年中付けている眼帯で子供の頃のストレスは相当なものだった。
1976年、父の仕事の関係でイングランド南部へ再び転居。八歳の誕生日に安いスパニッシュ・ギターをプレゼントされる。人生で初めて熱中した楽器となり、短期間だがギタースクールにも通った。1978年、引っ越し続きだった一家はようやくオックスフォードに落ち着く。1980年まで、オックスフォード、ウィットニーのスタンドレイク英国教会小学校に通った。後に弟のアンディ・ヨークも入学。母バーバラは教師で、その学校の教壇に立っていた。
1978年、10歳でスクールの友達と生まれて初めてバンドを結成。楽器が出来るのがそもそもトムだけで、「バンドというよりギターの配線を面白おかしくして燃やしたりする科学グループ」(Q誌)だったらしい。1979年、11歳で生まれて初めて作曲を行う。曲名は「Mushroom Cloud」で、原子爆弾の爆発を歌った曲。「(きのこ雲の)恐ろしさではなく、ただ単純にその見た目について書いた曲」と、後年インタビューで話している。(1998年Opinion誌)
レディオヘッド結成 [編集]
1981年、男子全寮制のパブリックスクールであるアビントン・スクールに入学。1982年、コリン・グリーンウッドら、スクールの友人達とパンクバンド「TNT」を結成。その後コリンとトムの二人は隙を見て脱退。 1985年、エド・オブライエンをギターとして勧誘し、三人をオリジナル・メンバーとしてバンドを結成。メンバーは流動的で、一時はホーンセクションが在籍していたこともあった。その後、リズムを刻んでいたドラムマシンが故障したため、上級生のドラマーフィル・セルウェイを勧誘してレディオヘッドの前身「オン・ア・フライデー」結成。兄のバンドに入りたがっていた当時15歳のジョニー・グリーンウッドをサポートメンバー、キーボードとして入れる。
1987年、スクール卒業。一年間いくつかのバイトを転々として生計を立てる(ほぼ全てクビになるか自分から辞めており、一つも長続きしていない)。1988年、トム単身でエクセターに移り、エクセター大学に入学。バンドは一時休止。大学で将来の妻レイチェル・オーエンスと出会う。大学では一時的に「ヘッドレス(ヘッドレス・チキン)」というバンドに参加。メンバーの一人、ジョン・マティアス(ザ・ベンズではコーラス・ストリングスに参加)はメジャーデビューしており、現在も活動中。ザ・ベンズ収録の「High&Dry」はこのバンドでトムが書き下ろした曲。1991年春、単位を取得しエクセター大学卒業。ヘッドレスを抜けオックスフォードへと戻る。オン・ア・フライデー活動再開。ジョニーをギタリスト兼キーボーディストとして正式加入。
1992年、EMI傘下パーロフォンと契約。レディオヘッドとバンド名を変えてメジャーデビュー。2000年、ビョークのアルバム『セルマソングス〜ミュージック・フロム・ダンサー・イン・ザ・ダーク』収録曲「アイヴ・シーン・イット・オール」にゲスト参加。2001年2月、学生時代からの恋人であるレイチェル・オーエンスとの間に息子ノアが生まれる。2006年7月5日、初のソロ・アルバム『The Eraser』を発売。
使用楽器 [編集]
エレクトリックギターはフェンダー・テレキャスター系をメインにしており、近年はテレキャスター・カスタム、テレキャスター・デラックスといった派生モデルを多く使用する。テレキャスター以外にも、リッケンバッカー、ギブソン・SG、フェンダー・ジャズマスターなども曲によって使い分ける。エレアコも多く使用し、特にOK コンピューター以降は使用頻度が高い曲が多い。エフェクターは歪みとディレイを中心とした汎用的なシステムを使用。ツアーごとに買い替えているのか頻繁にエフェクターは変化するが、歪み+空間系という基本的な構成自体はデビュー当初から変わらない。アコースティックギターはほぼアコースティックギグ専用であり、エフェクターでダイナミックに音色を変化させる必要のある曲が多いため、通常のギグでは基本的にエレアコを使う。
グランドピアノ、スタンドピアノ、シンセサイザー、ハルモニウムなどの鍵盤楽器も使用する。ピアノはヤマハのものが多いが、ツアーとスタジオで同様のものを使用することは少なく、同じ曲でもギグによって違ったメーカー、型のものを演奏していることが多い。
その他、タンバリン、ミニドラムキットなど、曲に合わせて演奏する楽器は大きく異なる。
歌唱・演奏スタイル [編集]
美しい高音の裏声を多用した歌唱スタイルが特徴。「女性や子供のよう」とも形容されるこの歌声は同時にトムのコンプレックスでもあり、Kid Aでは意図的にそのスタイルを封印して歌声をノイズやエフェクトでかき消したりなど、時期によって試行錯誤を重ねている。パブロ・ハニー期には線の細い歌声とは正反対の、エモーショナルなシャウトを用いていたこともあった。現在では本来の高い裏声をメインにした歌唱に戻っており、2006年のソロアルバム以降のインタビューでは「僕にはこの声しかないって改めて分かった」などと語っている。新作イン・レインボウズでは裏声のファルセットを昔以上に多用している。
レディオヘッドの楽曲は一部のプログラミング主体の曲以外、トムの弾き語りを基調にバンドサウンドを肉付けしていくものが非常に多いため、トムのギタープレイはその多くが、伴奏となるコードプレイもしくはリフ主体であり、ギターノイズやリードプレイは通常エド・オブライエンとジョニー・グリーンウッドに任せている。しかし、多くのバンドのリード・ヴォーカルの弾くようなサイドギターとしてのプレイ一辺倒というわけではなく、歌いながらメロディーラインとは全くリズムの違うリフを弾いていたりなど、ギター歴が非常に長いだけあって目立たないながらも技術は高い水準にある。デビュー初期は非常に低い位置でギターを構えていたが、現在は標準もしくはやや高め。
鍵盤楽器はKid A以降から本格的に演奏し始めたうえ独学の部分が大きいため基本的に弾き語り以上のプレイはせず、シンセサイザーに関しても「プログラミングや演奏はジョニーやコリンのほうが得意」と語っている。
レディオヘッドにおける貢献・作風 [編集]
バンドの楽曲のすべての作詞を手掛ける。作曲もメンバーで最も貢献度が高いと言えるが、レディオヘッドの楽曲の多くはデモや大枠をトムが作り、アレンジをメンバー5人とナイジェル・ゴッドリッチで議論しながら行うというスタイルをとっているため、一人でバンドのすべての曲を一から十まで作曲しているわけではない[6]。ソロアーティストとしても活動。 第三世界の人権問題や環境問題を軽視するコマーシャリズム、グローバリズムに嫌悪感を抱いており、貿易法改善を呼びかけるといった社会運動にも積極的に参加している。楽曲の歌詞にも政治、社会問題に関連して(多くは婉曲的に)書かれたものがいくつか存在するが、その多くは何らかの扇動的意識や不特定多数への問いかけを内包しているというより、むしろアイロニカルで厭世的なものであり、ここは同じく政治的な歌詞が目立つU2のボノやR.E.M.のマイケル・スタイプとの大きな相違点である。
批判 [編集]
ヨークの行動はさまざまな歌手によって批判され続けている。 2001年にステレオフォニックスのリードシンガー、ケリー・ジョーンズはヨークのことを「みじめな弱虫(Miserable twat)」と発言。ジャック・ブラックがヨークのソロ活動を祝うパーティーに出席するもののヨークはブラックを無視、その後ブラックはインタビューで「彼は風邪だときいてるし、無視されたのは僕だけじゃない。」と語っている。また、オアシスのリアムはトムの「ロックはゴミ音楽」という発言に怒り、「トム・ヨークがゴミじゃねぇか。俺はゴミ人間だと思う」と発言を引用して批判している。 2009年の初めからはプレスを通じてローナン・キーティングが批判を続けている。その理由として、トムがキーティングとボーイゾーンのメンバーに対して無礼な態度をとっているからだとし、「山から突き落としたい」とキーティングは語っている。その他にも、マイリー・サイラスとカニエ・ウェストもヨークの行動を批判している。
発言 [編集]
- 「あなたの目は美しいんだけど、何かが全く違っているのよ。表現者としての僕を最初に批評してくれた人が言った言葉だよ」[7]
- 「小さい頃はただスターを目指してたよ。もしかすると、今もそうかもしれないね」[8]
- 「ロックなんてゴミ音楽じゃないか! 僕はゴミだと思う」[9]
- 「僕らは民主的だから、何一つ決まらないんだ。だからいつも苦しむんだ」[10]
- 「基本的に僕らのアルバムには完全に近い凝集性がある。シングル用じゃないから時間をかけずとか、そんなこと"何言ってんだこのクソ野郎は"ってぐらい、よく理解できない」[11]
- 「作品を出す時、余計な人が絡んでこないのがすごく魅力的だったんだ」[12]
- 「ピクシーズなんかは最初からキッズに対して媚びた音楽は作っていなかった。そういうモデルは目指すべきものだと思った」[13]
- 「Radioheadってバンド名は、その名の通り、僕らの姿勢を代弁している」[14]
- 「僕は(大学に)行ったよ。他のアーティストをリスペクトするように教わった」(ノエル・ギャラガーのトムに対する「あんたがどれだけ"俺達は不運だ"って言うことに時間を費やしたとしても、客はクリープを歌ってほしいだけなのさ」「俺は大学になんか行ってねえ」などの攻撃的な発言に対して)
- 「ちょっと待って、君の仕事は何?」(インタビューで家族のことに話が及んだ際)[15]
- 「鬱病って言うのは病気だ。そういうのをアーティスティクなものと関連付けようとする輩もいるけど、頭がおかしいとしか思えない。それはただの苦しい病気なんだよ。病人を冒涜している」[16]
- 「そこらへんを歩いている人々すべてに悲観的観測をしていたら、確実に気が狂ってしまうことに気付いた」[17]
- 「この世界(=音楽業界)は隙あらば寝首をかいてやろうって人に溢れている。でもR.E.M.のメンバーは本当に僕たちに良くしてくれている」[18]
- 「最近のシーンでドラムをドンドン叩くバンドがいっぱいいるけど、なんでそうする必然性があるのかもう少し理由を考えてみるべきだと思う」[19]
- 「あの頃は色々最悪だったんだけど、一番酷かったのは髪型かな…。」(デビュー初期の自分について)[20]
エピソード・人物 [編集]
- ベジタリアンである。しかし好んで肉食ではないというだけで、偏執的に固執はしない。ちなみにコリン以外のメンバーは皆同じくベジタリアン。
- 若いころは「癇癪持ちで赤の他人にとってはちょっと近寄りがたい性格」(コリン・グリーンウッド)であり、デビュー後もステージ上や公の場で笑顔を見せることは非常に少なかったが、2003年以降のインタビューでは「僕も年取ったし、大人になった」とコメントしている。ヘイル・トゥ・ザ・シーフツアー以降はそれ以前とはうって変わって、ステージ上でおどけたり、笑顔を見せることも多い。
- 一番心に残っているギグは97年のグラストンベリー・フェスティバルと語る。このライブはグラストンベリー史上に残るギグとして、しばしば多くの英ロック雑誌のランキング投票で上位に挙げられる。
- 意外にも楽譜の読み書きが苦手で(多少はできる)一時期克服しようと努力していたが、グリーンウッド兄弟に「そんなバカなことをやるなら曲のデモの一つでも作ってくれ」と言われ現在はあきらめている。(レコーディングでストリングスやホーンセクションを呼ぶ際は、昔から基本的にジョニー・グリーンウッドが譜面を書く。)
- OK コンピューター期前後までノートを常時持ち歩いており、ノート片手にインタビューを受けることも多かった。単なる落書きや歌詞のインスピレーションとなる言葉など様々なものを書きなぐっていたらしい。
- 車嫌いで有名。歌詞には車について(多くは否定的に)書かれたものがいくつか見受けられる。自身も学生時代に大きな事故にあっており、二酸化炭素の大量排出やグローバル資本主義・第三世界労働者軽視の象徴という意味でも、車産業・車メーカーを忌み嫌っている。近場の移動には自転車を使用する。
- 1997年~2000年前後まで鬱病で医療機関にかかり、抗鬱剤を服用していたことを認めている(SPIN誌他)。
- 表記はThomであり本来なら「ソム」と発音しそうなものだが、これはThomasの愛称であるため、フランス語圏の発音でもある「トム」で特に問題はない。[21]
- 生まれたとき彼の左目は開いていなかった。これが原因でアビントン・スクールでは「サラマンダー」(=サンショウウオ)というあだ名で呼ばれていた。筋肉移植の手術を6歳までに5回受けている。現在まで後遺症が残っているのは「最初の医者がしくじりやがった」(Bigread誌等)かららしい。
- 本国やアメリカでは、顔がロシアのプーチンに似ていると話の種にされることがある。メンバーのエド・オブライエンの公式ダイアリーでもそれについての内容が書かれていたことがある。
- 家にいるときはニュースチャンネルに一日中かぶりついていることもあるらしい。またラジオをいつも持ち歩いている。
- エクセター大学の卒業作品で取り組んだのはMacintoshを使いミケランジェロの絵画の色をすべて変えて自分の作品に仕立て上げるというもの。
- マルタン・マルジェラの服を度々着用している。
- オアシスのノエル・ギャラガーとしばしばメディアを介して舌戦を繰り広げる。ちなみにリアム・ギャラガーはレディオヘッド自体も曲も嫌いだが、ノエルはバンドをけなしながらも新譜が出ると毎回購入し「ライブでは一発御見舞いされる。」と発言するなど作品やライブを評価している。3rdアルバムOK コンピューターの曲カーマ・ポリスをレディオヘッド・ベストに挙げている。
- その一方でブラーを絶賛しており、シングル「アウト・オブ・タイム」を名曲だと発言した。また、彼らの3rdアルバムパークライフのことを「素晴らしいアルバム。(リリース時は)あれに負けないようなアルバムを作らなければならないと思っていた」というような趣旨の発言をしていた。ちなみにその時に制作していたアルバムは2nd「ザ・ベンズ」。
- 自身、趣味が悩む事と称している通り音楽雑誌などのメディアからインタビューなどを受けてもバンドの環境や自分の声質など常に何かに悩んでいることが伺える。また本人曰く「自分の減らず口と皮肉さは最大の悩み事であり最大の取り柄である」と語っている。
- レディオヘッドメンバーや本人も語っているが、非常に気難しい性格らしく、他人に心を開くまで時間がかかり、それまでは冷たい人と思われることがあるらしいが、慣れれば非常にいい人だそうだ。
- [1995年アンケートより]
- 趣味:バンドをやること、眠る事、悩む事。
- 好きなアーティスト:ピクシーズ、マガジン、ザ・フォール、ジョイ・ディヴィジョン、ジャパン、R.E.M.、ザ・キュアー、パブリック・エナミー、クイーン、エルヴィス・コステロ、ビョーク、シガー・ロスetc。
- 好きな本:BEN OKRI "The Famished Road"(ベン・オクリ『満たされぬ道』・訳:金原瑞人)
- 好きな映画:"A NIGHT ON EARTH" "LES AMANTS DU PONT-NEUF" "ARTHUR"
ディスコグラフィー [編集]
The Eraser (2006) Feelingpulledapartbyhorses (2009)
Atoms For Peace名義 Default (2012)
脚注 [編集]
- ^ “All messed up”. guardian.co.uk (2006年6月18日). 2009年7月9日閲覧。
- ^ “Thom Yorke to exhibit Radiohead artwork?”. NME (2006年11月13日). 2009年7月9日閲覧。
- ^ “AllMusic - Tchocky - Overview”. allmusic.com. 2012年7月28日閲覧。
- ^ Force, Chris (2007年9月11日). “Thom Yorke, Longtime Radiohead Artist Issue Art Collection”. alarmpress.com. 2009年7月9日閲覧。
- ^ Jones, Alice (2009年3月25日). “The Dark Art of Radiohead”. independent.co.uk. 2009年7月9日閲覧。
- ^ ただし、Kid A~アムニージアック期のセッション・レコーディングを振り返り「あの時期のバンドを国連に例えるなら僕がアメリカの立場だった」と様々なメディアで発言している。(SPIN、NME他)この時期は特に、OK コンピューター後はロックポップス的作風への回帰を志向していたエド・オブライエンとの意見の折衝が大きかったようである
- ^ Jon Wiederhorn「static electricity」、ローリング・ストーン
- ^ 2001年NME
- ^ Kid A期の数多くのインタビュー
- ^ 2001、Giga Moris「in fact」
- ^ 1997年、Jim IrvinによるMojo誌においてのインタビュー
- ^ イン・レインボウズの発売方法についてのインタビュー。Q誌
- ^ 1996年James Alart。Mojo誌
- ^ 2001年、Q誌Anthony Johnstoneによるインタビュー
- ^ 2001年UNCUT誌
- ^ 同上のインタビューで
- ^ 同上
- ^ R.E.M.の前座として回ったツアーで
- ^ 2006年 Q誌のメールによる質疑インタビューにおいて
- ^ 2003年Mojo誌「How to Do "Yorke" Completely」
- ^ http://www.youtube.com/watch?v=a73i4PoNflg