アタリショック
アタリショックとは、1982年のアメリカ合衆国においての年末商戦を発端とする家庭用ゲーム機(パソコンゲーム市場を含まない)の売上不振「Video game crash of 1983」のことである[1]。
ここから転じて、ゲームソフトの供給過剰や粗製濫造により、ユーザーがゲームに対する興味を急速に失い、市場需要および市場規模が急激に縮退する現象を指すこともある。
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事象 [編集]
1977年にアメリカでアタリ社から発売されたテレビゲーム機「Atari 2600(発売当初は Video Computer System と呼ばれた・以下、一般略称のVCSと表記)」は、それまでゲーム機のハードウェア本体に内蔵されていたゲームソフトのプログラムROMを、カートリッジに収めて外部から供給できるようにし、これが爆発的な人気を博した[1]。だが、同ゲーム機のブームは、発売開始から5年ほどで終わる。
以下に、VCSとその関連商品の市場が辿った状況を、順を追って示す。
VCSの成功 [編集]
アタリ社は、外部からソフトウェアを入れ替えられる同ゲーム機を市場に投入、当初はさっぱり売れなかったが、1980年よりキラーソフトとして、「スペースインベーダー」、「パックマン」、「バトルゾーン」などの人気ゲームが、アーケードゲームから数多く移植され、またアタリ社がプログラム仕様も広く公開した。
これにより売り上げは急加速、基本的に何処の誰でも・自由に・アタリ社に関係なく、同機で動作するソフトウェアを開発し、販売する事が可能になった[1]。このため、市場には様々なゲームソフトが流通し、他にもアタリ社から巣立っていったゲーム製作者たちが興したアクティビジョン社を始めとする、様々なゲームメーカーが勃興、多くの人に楽しまれるゲームソフトを発売していったのである。
それらゲームソフトを再生するためのゲーム機本体の売上も華々しく、出荷台数は最終的に1400万台を超えた。
粗製濫造の影 [編集]
しかし、ゲーム市場の急激な拡大に釣られて、多数のサードパーティーメーカーが参入した結果、非常に質の低いソフトまでもが市場に溢れ返った。
この当時、アタリ社は発売されているゲームの内容は一切把握していなかった。またユーザーサイドに立ったゲームレビュー雑誌も発達しておらず、基本的にユーザーは玩具店の店頭で、ゲームソフトのパッケージから、中身の質を推察するしかなかった[2]。
こうして、ユーザーは「買って自宅のVCSに挿し込むまで、本当に面白いかどうか判らない」ような状況にまでなり、ユーザーの購買意欲減退を招いた。
この一方で、弱小のゲームを製造・販売していた製作会社が勃興と衰退を繰り返し、その激しい新陳代謝の中で「開発企業の倒産」・「在庫の捨て値処分」・「市場にそれらが流れて、ゲームソフト定価ラインを崩壊させる」といった現象を多発させる事となった。つまり、倒産流れのソフトが安価に販売されている隣にあって、新作ソフトの販売価格はいかにも高価に映り、ユーザーの買い控えを招いたのである。
それに加えて、アタリ社が発売したビッグタイトルにも大きな失敗作があった。たとえばアーケードの大人気タイトル『パックマン』のVCS移植版は良い出来ではなかったし、映画『E.T.』を題材としたゲームは非常に評判が悪かった。1982年に発売されたこれらのビッグタイトルはそれなりの売り上げがあったものの、特に『E.T.』は極端な生産過剰であったため、アタリ社にとって大きな損失になっただけでなく、ユーザーの信用を失う結果にもなった。
低価格パソコンとの競争 [編集]
1970年代後半までは、パソコンは主にパソコン専門店において1,000米ドル程度の価格で流通していた。これは2007年時点においては、約2,500米ドルに相当する。しかし1970年代終盤~1980年代初頭には、カラーグラフィックス機能を持ち、サウンド機能も強化された、テレビに接続するタイプのパソコンが登場。このようなパソコンはホームコンピュータと呼ばれ、Atari 400・Atari 800(1979年)が初の製品であったが、すぐに各社から競合機種が登場し、販売競争が始まった。激しい価格競争により低価格化が進み、1982年10月の段階での市場小売価格は、VIC-20が259.95米ドル、コモドール64が595.00米ドル、Atari 400・Atari 800がそれぞれ167.95米ドルと649.95米ドル、TI-99/4Aが199.95米ドルであった[3]。
これらのホームコンピュータは、VCSよりも多くのメモリを搭載し、グラフィックやサウンド機能でもVCSを凌駕していたため、VCSより高度なゲームが実現できた。加えて、ワープロや会計処理といった、ゲーム以外の用途にも使用可能であった。また、これらのパソコンの多くは、ROMカートリッジによるソフトウェア流通を広く用いていたものの、フロッピーディスクやカセットテープのゲームも流通され、これらのゲームはROMカートリッジのゲームに比べてずっと容易にコピーできた。
ホームコンピュータを販売した各社の中でも、コモドール社はゲームユーザーを狙ったマーケッティング戦略を採り、広告において、コモドール64の購入の際に、他のホームコンピュータやゲーム機の下取りを行なうことや、大学進学を目指す子供はゲーム機よりホームコンピュータを購入すべき、と謳った。アタリ社やマテル社の調査では、この広告戦略により、両社の家庭用ゲーム機のイメージや販売に大きなダメージがあったことが確認されている(※下取り戦略は1983年になってからである点には注意)。
また、コモドール社は、他のホームコンピュータ・メーカーとは異なり、ホームコンピュータを、ディスカウント・ストアやデパート、玩具店など、家庭用ゲーム機と同様の流通ルートで販売した。モステクノロジー社という半導体企業を傘下に収め、MOS 6502 CPUを始めとする同社製半導体を数多くコモドール社製ホームコンピュータに採用するという垂直統合戦略により、大胆な低価格化が実現できていた。
市場崩壊 [編集]
こうして迎えた1982年のクリスマス商戦では、一時30億ドルにもなった市場規模を見越して流通・販売側は強気な在庫確保に奔走したが、ユーザーから見た実際のアタリVCS市場は完全に崩壊しきっており、実際の市場は1億ドル未満にしぼんでしまっていた。もちろん、1990年代以降のメディアとして確立したゲーム市場と違い、まだ玩具のひとつに過ぎなかった当時のVCSを考えれば、依然として市場規模は大きく、市場拡大が急激だったことを思えば、当時市場が一旦収縮に向かったことは非常に自然なものともいえる(後述の評価を参照)。
ともあれ、年が明けた1983年には、全米の小売店の多くは不良在庫のゲームソフトを大量に抱えていた。倒産した弱小メーカーのソフトはメーカーに返品することができなかったため、小売店は在庫処分価格でこれらのソフトを販売した。1983年6月までには、正規価格のソフト市場は大幅に縮小しており、ユーザーは在庫処分価格のソフトを主に買い求めるようになっていた。そして、低品質なこれらのソフトにうんざりしたユーザーの多くは、高価だがクオリティの高いソフトを見直すことはなく、ゲームそのものを止めてしまった。
この売上の急激な減少は、当時のアタリ社の親会社であるワーナー・コミュニケーションズまで巻き込み、株価の大幅下落を誘発している。
さらに、影響はアタリ社以外のゲーム関連企業にも広く及び、アタリ社のゲーム機に競合するゲーム機を製造していたマグナボックス社及びコレコ社は、ゲーム事業から撤退した。また、大手ゲームソフトメーカーであるImagic社は、新規株式公開を断念せざるを得ず、この何年か後には倒産に追い込まれた。最大手のゲームソフトメーカーであったアクティビジョン社は、パソコンゲーム市場での成功などにより生き残ることに成功したものの、VCSに参入していたほとんどの中小ゲームソフトメーカーは倒産してしまった。
そしてこの後、後述のアメリカ版ファミリーコンピュータ“NES”が発売されるまで、アメリカの家庭用ゲーム市場(※ただし、パソコンゲーム市場はこれに含まない)は最悪の氷河期を迎える。
これが今日言われている「アタリショック=Video game crash of 1983」の概要である。この名称は「ニクソン・ショック」をもじったものである。ただし、アタリショックの評価についてはいまだ定まっていない。
評価 [編集]
アタリショックはゲーム市場の質の低下による突然崩壊として捉えられているが、これが正しい評価とはいえないという声は強い。
まず、「Video game crash of 1983」といわれる現象自体が存在しないという指摘がある。実際、VCSの販売台数を見ると、1979年から400万台(1979年)/280万台(1980年)/330万台(1981年)/900万台(1982年)/630万台(1983年)/280万台(1984年)/(1985年以降は減少)、このように、1982年・1983年の2年間が非常に売れており、1982年の年末に突然売れなくなったわけではない(ただし、アタリショックの要因はソフトウェアの販売不振によるものであり、各年度のゲーム機本体の売り上げを見て判断するのは早計である)。また、1982年の爆発的な販売増は、1980年の「スペースインベーダー」の大ヒットによるものである[要出典]。
よって、1982年末で売り上げが激減し、ゲーム市場が崩壊したという事実はない。さらに、1980年代はまだゲーム市場と呼ばれるほどしっかりとした市場はなく、ゲームもまだ玩具市場のいち商品か、もしくはホームコンピュータへと続く商品に過ぎなかった。そのため、玩具産業の中で一時的なブームとしてアタリVCSという商品が売れたに過ぎないと見なす見方もある。
また、ワーナー・コミュニケーションズ社の1982年の株価大暴落にも様々な要因が関係している。
「アタリショックはアメリカの経済学上で重要な事件として捉えられている」という話がしばしば上がるが、アタリショックを単体の事件として経済学上で捉えているということは見られない。1990年代以降で、ゲーム市場の消費の一例として取り上げられることはあるが、そこでもゲームの質が下がったので崩壊したというような指摘はない。ただし、粗悪品の乱造販売が行なわれていた事は確かであり、結果としてユーザーの不信感を招いていた事がアタリショックに繋がった事は確かである。
アタリショックによって多くのゲームメーカーが倒産してしまった事は、後のゲーム開発技術の停滞を招く事となった。
注意点 [編集]
ただしここで注意すべきは、アタリ社自身の失敗だったのか、楽観的に旧式なハードウェアを供給し続けるよう指示していたワーナー・コミュニケーションズ側の経営戦略的な失敗だったのかという点である。この辺りに関する評価は資料によりまちまちである。ただ、アタリショックの直接の原因は先に述べたソフトウェア側の質の低下が要因にあり、ハードウェアには直接起因していない。
日本では「アタリショック」と呼ばれ、この呼び名からアタリ社の失敗によるアタリ社の没落と、それに巻き込まれたゲーム関連業者の暴落という印象が強いが、アメリカ国内での同現象は、実質的に同ハードウェアの市場に関係していた多くのゲームメーカーも株価の暴落という形を含んで、同時に苦境に陥っているため、ゲーム業界全体の総合的な現象として扱われている。
追加分析 [編集]
2007年になって、日本の新聞社系サイトで「当時の状況が(携帯機の売上が据置機を凌駕した)『2006年の日本のゲーム市場の状況』と似ていた」という説が発表された[4]。当時、アメリカでも「ゲーム&ウオッチ」のような電子ゲームが日本同様大ヒットしたものの、「当時のアメリカのゲーム市場では『ゲーム機』と認識されなかった為に売上に含まれなかった」事が前述の「突然崩壊」と錯覚させる一因となったとも言われる。
出典・脚注 [編集]
- ^ a b c 山田真司、ゲーム・ケータイの音楽 「<特集>音楽制作と情報処理の友好関係」、『システム/制御/情報』 (システム制御情報学会) 第56巻第5号226〜231頁、2012年。
- ^ 樺島榮一郎 「コンテンツ産業の段階発展理論からみる一九七二〜八三年の北米ビデオ・ゲーム産業─いわゆる「アタリ・ショック」をどう解釈するか」、『コンテンツ文化史研究』 (コンテンツ文化史学会)第4号24〜42頁、2010年。
- ^ The Freeman PC Museum - PC Timeline
- ^ 2006年は「第2のアタリショック」の年だった、NBonline(日経ビジネス オンライン)、2007年4月27日(全文を見るには登録(無料)が必要)