山内溥
|
やまうち ひろし
山内 溥 |
|
|---|---|
| 生誕 | 1927年11月7日(84歳) 京都府 京都市 |
| 出身校 | 早稲田大学(中退) |
| 職業 | 実業家 任天堂 相談役 |
| 子供 | 山内克仁 |
山内 溥(やまうち ひろし、1927年11月7日 - )は、京都府京都市出身の実業家。任天堂創業家出身で3代目社長を勤めた。初代社長である山内房治郎の曾孫。早稲田大学第二法学部中退。本名は山内博。50歳のときに「溥」へと改名する。当時、山内博という同姓同名の人が多数いたため、としているが、諸説がある。
目次 |
[編集] 人物
1949年、祖父山内積良の後を継ぎ、任天堂代表取締役社長に就任。2002年に50年来務めた社長職を退き、2005年6月まで同社取締役相談役、以後取締役からも退任し同社相談役。
京都にて花札、カードゲームの製造を行う、比較的地味な企業であった任天堂を、幾度とない倒産の危機を乗り越え、テレビゲーム等の展開により世界的大企業へ成長させた。現代における、いわゆる「中興の祖」の例として広く知られる。
独特の経営哲学で知られ、「ワンマン経営者」の典型としても非常に有名であったが、宮本茂がかつて「皆、社長の喜ぶ顔が見たくてやっている」と語っていたようにカリスマ性にも優れ、社員の殆ど全員から厚い信頼を得ていた。独断的手法については評価が分かれる部分があるものの、「ファミリーコンピュータ(ファミコン)」に代表される一連のテレビゲームや、任天堂では初の開発部長である横井軍平の発案による「ウルトラハンド」「ゲーム&ウオッチ」等の新規市場開拓型のヒット商品については、山内の決断により成功したことはよく知られている(横井とは犬猿の仲のように報じられがちだが、実質この2名と宮本茂の3名で現在の任天堂を創り上げたとも評される)。
[編集] 社長業
本来は社長職を継ぐはずの父・山内鹿之丞が出奔してしまったため、早稲田大学第二法学部を4年で中退し、22歳の若さで社長に就いた。その際、「こんな若造に従うことは出来ない」と、100人あまりのストライキにあっている。そのような事態にもめげず、溥は世界初のプラスチック製トランプを発明。それ以前は舶来の博打の道具としてしか認識されていなかったトランプを「ディズニーキャラクターを絵柄に使う」「遊び方の簡単な説明書を同梱する」と言った手法をとることで、家庭の団欒のための玩具として再定義することで任天堂のトランプは爆発的に売れ、一躍業界のトップに躍り出る。
1958年にアメリカ最大手のトランプ会社であるU.Sプレイング・カード社の工場とオフィス(小さなビルの一階分の事務所)を見学した山内溥はその規模の小ささに失望、「トランプだけではちっぽけな会社で終わってしまう」と悟り、経営規模拡大のため多角化経営を始める。ベビーカーやインスタントライス、ディズニーフリッカー(ふりかけ)、さらにはダイヤタクシー(後に京都名鉄タクシーを経て現在は南ヤサカ交通)、ラブホテル経営など、手当たりしだいに進出してことごとく失敗、1960年代後半から任天堂は倒産の危機に直面した。一方で当時工場技師であった横井軍平が暇つぶしで作った遊び道具をウルトラハンドとして商品化すると大ヒット。横井軍平を玩具商品開発の主任に据える。
すでにトランプの販売でデパートのおもちゃ売り場と得意の関係にあったため、その経験から溥は考えを改め、1970年代以降は本業のトランプと同業に位置する玩具販売に専念。横井は工学部出身であったため電気・電子関係の技術を使った目新しい玩具でヒットを出す。ただし最終的な商品化の決定権はすべて山内溥にあり膨大な数の企画が没にされることが多かった。光線銃シリーズをヒットさせた際には全国各地にレーザークレー射撃場を展開させたが、第一次オイルショックの影響ですぐに客足は遠のき、レーザークレーシステムに社運をかけていた任天堂は多額の負債を背負うこととなった。しかし、1979年には世界初の携帯型ゲーム機「ゲーム&ウオッチ」を発売し大ヒットをおさめ、負債を返済した。1983年、その利益を使って、業界用ゲームから撤収をして家庭用ゲームに投資する。その中で開発した「ファミリーコンピュータ」を発売、歴史的大ヒットにより、娯楽企業として今日の地位を築き上げた。
ゲームボーイ開発時には、横井軍平に対し厳しく注文をつけた。ゲーム機は子供が買うものであるから、乱暴に扱われても壊れてはならないというのが理由であったといわれる。そして数々のテストに合格し、ゲームボーイは販売された。結果、ゲームボーイは先進国から発展途上国まで、世界一販売されたゲーム機となった。中には湾岸戦争で爆撃を受けるも、通常通りに動作する個体もあり、ニューヨークの任天堂直営店「Nintendo World Store」に保管展示されている。なお、「最終デモ機が完成し受け取った際にわざと床に落として強度のテストを行った」という逸話が流布しているが、これについて任天堂広報室は「いつの間にか、そのような話ができあがった」とコメントしている[1]。 インベーダーゲームがブームの時にタイトーのスペースインベーダーを模倣したアーケードゲームを販売し、当時のテレビのインタビュー[2]では「遊び方にパテントは無いわけです」「これからの娯楽業界の発展のためには、むしろこういった新たな技術(ソフトウェア)を互いに公開・交流することが大切」といった旨の発言をした。当時はソフトウェアの著作物としての解釈が決まっていない時期ではあるが、ある意味“開き直った”とも取れるこの発言は、道義的な問題に反するものではないのかと受け取る人は、現在でも一定数存在する[要出典]。
2002年、山内の社長業からの引退が発表された時、任天堂の株価は一気に下落した。日本経済新聞が行う優良企業ランキングで一位を何度も取得し、日本を代表する無借金超優良企業へと築き上げた「中興の祖」としての山内の手腕を最大限に評価した結果とも言える。 大株主であると同時に三代続いた一族経営会社の社長でありながら、同社に勤める自分の息子を次期社長には指名せず、HAL研究所から同社取締役へと呼び寄せていた岩田聡に社長職を譲った。岩田を社長に任命する直前、一対一で3時間みっちりと経営哲学を語り、この際に「異業種には絶対手を出すな」と言い残した。会社の意思決定は社長への一任ではなく、「これからの時代は~」と言って、取締役会での集団指導体制へと移行を促した。
2002年1月に「ファンドキュー」というベンチャーのゲーム会社を支援する投資ファンドを設立している。「ゲームキューブとゲームボーイアドバンスの連携」、「開発期間は一年」、「任天堂による審査」など条件はあったが、無担保で融資を行うという零細ベンチャーには魅力あるものであり、全額山内のポケットマネーで行われた。
2005年、山内が取締役を退任する際、任天堂側からは長年の功績に対する慰労金として12億3600万円を提示されていたが、山内は「それよりも社業に使ってほしい」と、この申し出を断っている。
[編集] 投資家としての山内溥
1992年、米国大リーグ球団シアトル・マリナーズが経営危機に瀕し、シアトルから移転されることも考えられたが、「長い間米国任天堂を置かせてくれたシアトルへの恩返し」として大リーグ球団をシアトルに留めるために、山内がポケットマネーでマリナーズ運営会社の株式を購入。大リーグ史上初の非白人オーナーとなった。任天堂社長を退いた後も共同オーナーに名を連ねていた。2004年8月までに任天堂がそれらを買い取り(持株比率が50%を超え)、マリナーズ運営会社The Baseball Club of Seattleは任天堂の持分法適用会社となっている。
社長をしていた当時、マリナーズの日本人大リーガーの佐々木主浩やイチローが、任天堂のコマーシャルに登場したこともある。イチローが大リーグへ挑戦を表明した時には、「何が何でも獲れ」と厳命を下している。山内がマリナーズに対して口出しをしたのはこれっきりであり、基本的には金だけ出し、口を出すことはない。それどころか「飛行機が嫌いだから」という理由で、マリナーズの本拠地セーフコ・フィールドに一度も行ったことがない。2005年には、個人保有していた任天堂の株式5000株をイチローの年間最多安打達成のお祝いとして贈呈した[3]。 小倉百人一首をテーマとして、京都文化や京都観光の発展に貢献するために設立された「財団法人小倉百人一首文化財団」の理事長を務めている。同文化財団の建築する百人一首のテーマパーク「時雨殿」の建設の際には、建築費用21億円すべてを個人で負担した。
2006年2月、京都市左京区の京都大学医学部附属病院に「大学病院の使命にふさわしい病棟を建設してほしい」と約70億円の個人資産を寄附。これにより京大では地上8階・地下1階で延べ床面積約2万平方メートル・病床約300の新病棟を建設する(2007年2月着工)[4]。
[編集] 親族
メディアへの露出を避けていることもあり、家族構成は不透明な部分が多い。妻の兄は元任天堂社外監査役の稲葉 実(稲葉 實、いなば みのる、1921年11月12日 - )。長女の夫は元Nintendo of America社長の荒川實。長男は任天堂作品の映画版スタッフとして名前が露出している。以下はそのプロフィールである。
- 山内 克仁(やまうち かつひと、1959年9月27日 - )
- 任天堂・広報室企画部部長として在籍中。大学を卒業後、1985年に電通に入社。その後、10年を経て任天堂に入社し任天堂のアメリカ支社に勤務。のち、本社に戻り、同社広報企画室企画部課長。2000年6月に部長代理。2001年より現職。映画「ポケットモンスター」のアソシエイトプロデューサーを担当し、最近はスーパーバイザーとして参加。山内一族の後継者ではあるが、現在も取締役の地位には無い。
[編集] その他
- 趣味の囲碁はアマ6段の腕前を持つ。山内は名目上は六段であるが、実際はもっと強いのではないかといわれている。2005年9月30日には、囲碁界への貢献が認められ、5年間空席だった日本棋院関西総本部長に就任した。
- 「任天堂が囲碁ゲームを出す際は、ゲームのCPU(思考ルーチン)が山内と勝負し、それに勝たなければならない」という暗黙のルールがあり、任天堂は2008年8月5日配信開始のWiiウェア『通信対局 囲碁道場2700問』まで一度も囲碁ゲームを発売できなかった(任天堂に技術がないわけではなく、2006年現在で最も強いとされるコンピュータ囲碁プログラムですら、甘めに見積もって人間のアマ初段程度の強さしか持っていない)。先述のゲームについても、コンピュータとの対局は初心者用の練習対局に限られている。
- 社長だった頃の、強烈なカリスマ性やワンマン経営、そして何よりもその風貌と歯に衣着せぬ物言いから、インターネットコミュニティ上では「社長」ならぬ「組長」とも呼ばれ、当時広報室長だった同じく強面の今西絋史(現・同社顧問)と共に、恐れられる存在であった。ただし彼を嫌ってのものというよりも、むしろ『愛称』としての側面が強いものであった。
- NINTENDO64発売当時、スクウェアが「ファイナルファンタジーシリーズ」最新作のプラットホームを土壇場でNINTENDO64からSCEのプレイステーションに変更したことに激怒したとされているが、実際は当時のスクウェア側の任天堂に対する侮辱的発言による説が有力。その影響で、スクウェア関係者は山内が社長から退任するまで任天堂本社に出入り禁止となっていた(詳しくはスクウェア・エニックスを参照)。
- ニンテンドーDSの大きな特徴である二画面による仕様は、山内のアイディアによるものである[5]。
- 64DDソフト「タレントスタジオ」では本人役で出演し、社長挨拶をしている。
- 「ゴニンカントランプ協会」の名誉名人を務めている。
- 『どうぶつの森+』では、プレイヤーへの最初の手紙を執筆している。
- 『まわる メイド イン ワリオ』の一部レコードに非常に小さいが彼が描かれたものがある。
- 2005年1月26日、2004年にイチローが大リーグの年間最多安打記録を更新したお祝いとして、個人所有している任天堂の株を5,000株(当時約5,800万円相当)贈呈した。
[編集] 脚注
- ^ “DS故障は無償交換!?任天堂の“神対応”は本当か”. ZAKZAK. (2009-05/21) 2011年4月21日閲覧。
- ^ NHK・1979年放送の「ルポルタージュにっぽん」。1996年放送のNHKスペシャル「新・電子立国」でもこのときのインタビュー映像が使われている。
- ^ “イチロー選手に任天堂5千株プレゼント 最多安打たたえ”. 朝日新聞. (2005年1月27日). オリジナルの2005年1月29日時点によるアーカイブ。
- ^ 京都大学 (2006-02-21), “山内溥氏から京都大学に対する寄附について”, プレスリリース 2011年4月21日閲覧。
- ^ 井上理「任天堂 驚きを生む方程式」日経BP社、2009年
- ^ #1 Hiroshi Yamauchi - Forbes.com
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
|
|
|