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「アタリショック」の版間の差分

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それに加えて、アタリ社が発売したビッグタイトルにも大きな失敗作があった。たとえばアーケードの大人気タイトル『[[パックマン]]』のVCS移植版は良い出来ではなく、映画『[[E.T. (アタリ2600)|E.T.]]』を題材としたゲームは非常に評判が悪かった。[[1982年]]に発売されたこれらのビッグタイトルはそれなりの売り上げがあったものの、極端な生産過剰であったため、アタリ社にとって大きな損失になっただけでなく、ユーザーの信用を失う結果にもなった<ref>{{cite web|url=http://www.gamasutra.com/view/feature/3551/a_history_of_gaming_platforms_.php?page=5 |title=A History of Gaming Platforms: Atari 2600 Video Computer System/VCS|author=Matt Barton, Bill Loguidice|publisher=Gamasutra|date=2008-02-28|accessdate=2014-05-22|language=英語}}</ref>。
それに加えて、アタリ社が発売したビッグタイトルにも大きな失敗作があった。たとえばアーケードの大人気タイトル『[[パックマン]]』のVCS移植版は良い出来ではなく、映画『[[E.T. (アタリ2600)|E.T.]]』を題材としたゲームは非常に評判が悪かった。[[1982年]]に発売されたこれらのビッグタイトルはそれなりの売り上げがあったものの、極端な生産過剰であったため、アタリ社にとって大きな損失になっただけでなく、ユーザーの信用を失う結果にもなった<ref>{{cite web|url=http://www.gamasutra.com/view/feature/3551/a_history_of_gaming_platforms_.php?page=5 |title=A History of Gaming Platforms: Atari 2600 Video Computer System/VCS|author=Matt Barton, Bill Loguidice|publisher=Gamasutra|date=2008-02-28|accessdate=2014-05-22|language=英語}}</ref>。


生産過剰の背景には、1981年10月当時、売上の増大に生産が追いつかないことを問題視していたアタリが、各販売代理店に対し翌年分の一括発注を求めたことがある。代理店は在庫切れを避けるために大量の水増し発注を行い、アタリはそれを鵜呑みにして需要予測を誤ったまま生産を行った。そしていざ1982年になると発注の多くがキャンセルされてしまい、大量の売れ残りを抱える羽目になったのである<ref name="藤田直樹">{{Cite journal |和書 |author = 藤田直樹 |title = 米国におけるビデオ・ゲーム産業の形成と急激な崩壊 ―現代ビデオ・ゲーム産業の形成過程(1)― |date = 1998-11 |publisher = 京都大學經濟學會 |journal = 經濟論叢 |volume = 162 |number = 5-6 |naid = 120000904860 |pages = 54-71 |ref = harv |url = http://hdl.handle.net/2433/45249}}</ref>。
生産過剰の背景には、1981年10月当時、売上の増大に生産が追いつかないことを問題視していたアタリが、各販売代理店に対し翌年分の一括発注を求めたことがある。代理店は在庫切れを避けるために大量の水増し発注を行い、アタリはそれを鵜呑みにして需要予測を誤ったまま生産を行った。そしていざ1982年になると発注の多くがキャンセルされてしまい、大量の売れ残りを抱える羽目になったのである<ref name="藤田直樹">{{Cite journal |和書 |author = 藤田直樹 |title = 米国におけるビデオ・ゲーム産業の形成と急激な崩壊 ―現代ビデオ・ゲーム産業の形成過程(1)― |date = 1998-11 |publisher = 京都大學經濟學會 |journal = 經濟論叢 |volume = 162 |number = 5-6 |naid = 120000904860 |pages = 54-71 |ref = harv |url = https://hdl.handle.net/2433/45249}}</ref>。


なお、後にアタリショック最大の戦犯にしてクソゲーの象徴ともされることになる『E.T.』は、アタリショック後の1983年9月に14台のトラックに満載されてニューメキシコ州アラモゴルド市の砂漠に埋められた([[ビデオゲームの墓場]])、と当時[[ニューヨーク・タイムズ]]で報道されている<ref>[http://www.nytimes.com/1983/09/28/business/atari-parts-are-dumped.html Atari Parts Are Dumped]ニューヨーク・タイムズ</ref>。この「ビデオゲームの墓場」はアタリショックとクソゲーの象徴として半ば[[都市伝説]]化して後世に語られていたが、2014年4月に当該の地域で「発掘調査」が行われ、実際に『E.T.』が発掘されたことにより実在したことが確認された(詳細については[[E.T. (アタリ2600)#アタリの埋立用地|当該項目]]の記載を参照)。
なお、後にアタリショック最大の戦犯にしてクソゲーの象徴ともされることになる『E.T.』は、アタリショック後の1983年9月に14台のトラックに満載されてニューメキシコ州アラモゴルド市の砂漠に埋められた([[ビデオゲームの墓場]])、と当時[[ニューヨーク・タイムズ]]で報道されている<ref>[http://www.nytimes.com/1983/09/28/business/atari-parts-are-dumped.html Atari Parts Are Dumped]ニューヨーク・タイムズ</ref>。この「ビデオゲームの墓場」はアタリショックとクソゲーの象徴として半ば[[都市伝説]]化して後世に語られていたが、2014年4月に当該の地域で「発掘調査」が行われ、実際に『E.T.』が発掘されたことにより実在したことが確認された(詳細については[[E.T. (アタリ2600)#アタリの埋立用地|当該項目]]の記載を参照)。

2020年7月24日 (金) 22:54時点における版

Atari VCS(1977年)。北米の家庭用ゲーム市場を勃興させ、そして崩壊させた。

アタリショックとは、1982年アメリカ合衆国においての年末商戦を発端とする家庭用ゲーム機の売上不振「Video game crash of 1983」のことである[1]

この崩壊にはAtari VCS以外のゲーム機の家庭用ゲーム市場も含まれる。パソコンゲーム市場や、欧州や日本など北米以外のゲーム市場は含まれない。

概要

北米における家庭用ゲームの売上高は1982年の時点で約32億ドル(同年末の日本円で約7520億円)に達していたが、1985年にはわずか1億ドル(同年末の日本円で約200億円)にまで減少した。北米の家庭用ゲーム市場は崩壊し、ゲーム機ホビーパソコンを販売していた大手メーカーのいくつかが破産に追い込まれた。ゲーム市場最大手であったアタリ社も崩壊、分割された。この1983年から1985年にかけての北米家庭用ゲーム市場の崩壊をVideo game crash of 1983と呼ぶ。日本ではアタリショックと呼ばれる。

80年代後半にはヒット作の発売や新型ゲーム機の投入が相次ぎ、低迷した北米の家庭用ゲーム市場は徐々に回復していった。

1986年当時の任天堂社長の山内博の認識によると、「サードパーティによる低品質ゲームソフト(俗に言う「クソゲー」)の乱発がアタリの市場崩壊を招いた」と言う[2]。これは後世まで業界の共通認識となっており、2010年当時の任天堂社長である岩田聡は、「粗悪なソフトが粗製濫造されたことで、お客さんからの信頼を失ってしまった」と定義している[3]。ここから転じて、ハードやジャンルに関わらずゲームソフトの供給過剰や粗製濫造により、ユーザーがゲームに対する興味を急速に失い、市場需要および市場規模が急激に縮退する現象を「アタリショックの再来」または単に「アタリショック」と呼ぶこともある。

日本では1996年にNHKで放送された『新・電子立国』で取り上げられて広く知られるようになった。ただし、番組で述べられたように1982年のクリスマス商戦でいきなり市場が崩壊したわけではなく、以下に示すように1982年から1985年にかけて複雑な経過をたどった。なお、「アタリショック」という言葉そのものは米国最大の玩具小売業者トイザらスの副社長だったハワード・ムーア(Howard Moore、発言時は同社役員)の発言として1990年の『日経エレクトロニクス』に初めて登場した[4]

また、アタリショック後に売れ残った大量の不良在庫を埋葬したとされる「ビデオゲームの墓場」が存在するという都市伝説があったが、これは2014年に真実であったことが証明された[5]

事象

1977年にアメリカでアタリ社から発売されたテレビゲーム機「Atari 2600(発売当初はVideo Computer Systemと呼ばれた。以下、一般略称のVCSと表記)」は、それまでゲーム機のハードウェア本体に内蔵されていたゲームソフトプログラムROMを、カートリッジに収めて外部から供給できるようにし、これが爆発的な人気を博した[1]。だが、同ゲーム機のブームは、発売開始から5年ほどで終わる。

以下に、VCSとその関連商品の市場が辿った状況を、順を追って示す。

VCSの成功

初のサードパーティとしてActivision設立(1979年)。名作も多い。

アタリ社は、外部からソフトウェアを入れ替えられるAtari VCSを1977年に発売。当初はさっぱり売れなかったが、1980年よりキラーソフトとして、『スペースインベーダー』、『パックマン』、『バトルゾーン英語版』などの人気ゲームが、アーケードゲームから数多く移植され、人気に火が付いた。

アタリ社の上層部と対立して独立したゲーム製作者たちが興したアクティビジョン社が1979年に設立され、家庭用ゲーム史上初のサードパーティとしてVCS用のソフトをリリースした。アタリは当初サードパーティを認めず、アクティビジョンに対して販売差し止めの裁判を起こしたが、ロイヤリティを支払うことで1982年に和解。サードパーティ製ソフトの制作が合法であると認められ、それをきっかけに多数のサードパーティーメーカーが参入した。

これにより売り上げはさらに急加速、アタリに対してロイヤリティさえ払えば基本的に何処の誰でも・自由に・アタリ社に関係なく、同機で動作するソフトウェアを開発し、販売する事が可能になった[1]。このため、市場には様々なゲームソフトが流通し、様々なゲームメーカーが勃興、多くの人に楽しまれるゲームソフトを発売していったのである。

それらゲームソフトを再生するためのゲーム機本体の売上も華々しく、出荷台数は最終的に1400万台を超えた。

当時VCSをはじめ、各ハードのプログラム仕様などは公開されていなかったが、各サードパーティはファーストパーティから開発者を引き抜いたり、リバースエンジニアリングなどをしてゲームを開発していた。アタリ自身も競合ゲーム機であるマテルインテレビジョンの開発者を引き抜いて雇用していたほどである(そのためマテルから産業スパイの疑いで訴えられた)。

粗製濫造の影

北米ではラリーおじさんのパッケージでお馴染みのシリアル食品メーカー、クエーカーオーツがVCSに参入(1982年)。

しかし1982年頃より、家庭用ゲーム市場の急激な拡大に釣られて、ゲームを作ったこともない他業種のメーカーがVCSのサードパーティとして参入した。それらのメーカーの雇った開発者は、アタリやアクティビジョンなどの開発者とは違ってまともにゲームを作る能力がないことから、非常に質の低いソフトまでもが市場に溢れ返った。極端な例として、VCSに参入したクエーカーオーツ朝食シリアルのメーカー)やピュリナペットフードのメーカー)などが知られる。それらのメーカーは低品質ゲームソフトに大きな宣伝を打ち、家庭用ゲーム市場全体の信用を損なわせた。

この当時、アタリ社は発売されているゲームの内容は一切把握していなかった。また、ユーザーサイドに立ったゲームレビュー雑誌も発達しておらず[注 1]。基本的にユーザーは玩具店の店頭で、ゲームソフトのパッケージから、中身の質を推察するしかなかった[8]

こうして、ユーザーは「買って自宅のVCSに挿し込むまで、本当に面白いかどうか判らない」ような状況にまでなり、ユーザーの購買意欲減退を招いた。

この一方で、ゲームを製造・販売していた弱小の製作会社が勃興と衰退を繰り返し、その激しい新陳代謝の中で「開発企業の倒産」・「在庫の捨て値処分」・「市場にそれらが流れて、ゲームソフト定価ラインを崩壊させる」といった現象を多発させる事となった。つまり、倒産流れのソフトが安価に販売されている隣にあって、新作ソフトの販売価格はいかにも高価に映り、ユーザーの買い控えを招いたのである。

それに加えて、アタリ社が発売したビッグタイトルにも大きな失敗作があった。たとえばアーケードの大人気タイトル『パックマン』のVCS移植版は良い出来ではなく、映画『E.T.』を題材としたゲームは非常に評判が悪かった。1982年に発売されたこれらのビッグタイトルはそれなりの売り上げがあったものの、極端な生産過剰であったため、アタリ社にとって大きな損失になっただけでなく、ユーザーの信用を失う結果にもなった[9]

生産過剰の背景には、1981年10月当時、売上の増大に生産が追いつかないことを問題視していたアタリが、各販売代理店に対し翌年分の一括発注を求めたことがある。代理店は在庫切れを避けるために大量の水増し発注を行い、アタリはそれを鵜呑みにして需要予測を誤ったまま生産を行った。そしていざ1982年になると発注の多くがキャンセルされてしまい、大量の売れ残りを抱える羽目になったのである[10]

なお、後にアタリショック最大の戦犯にしてクソゲーの象徴ともされることになる『E.T.』は、アタリショック後の1983年9月に14台のトラックに満載されてニューメキシコ州アラモゴルド市の砂漠に埋められた(ビデオゲームの墓場)、と当時ニューヨーク・タイムズで報道されている[11]。この「ビデオゲームの墓場」はアタリショックとクソゲーの象徴として半ば都市伝説化して後世に語られていたが、2014年4月に当該の地域で「発掘調査」が行われ、実際に『E.T.』が発掘されたことにより実在したことが確認された(詳細については当該項目の記載を参照)。

市場飽和・供給過剰

マテル・インテレビジョン(1980年)。他にも多数のゲーム機が存在した。

1983年当時、市場にはAtari 2600(VCS)の他にも、Atari 5200バリーアストロケード、コレコ・コレコビジョンコレコジェミニエマーソン・アルカディアフェアチャイルド・チャンネルFマグナボックスオデッセイ2マテルインテレビジョンSears Tele-Games systemsTandyvisionVectrexなどのゲーム機が存在しており、さらにOdyssey3やAtari 7800と言った次世代機も発表されていた。各ゲーム機はそれぞれが豊富なゲームソフトのライブラリとサードパーティを抱えていたが、ソフトのラインナップを埋め合わせるために粗製の低品質ゲームソフトが乱発され、供給過剰の状態であった。

Atari VCSに限って言うと、発売から6年目に入ったVCSは既に旧世代機になりつつあるとともに、北米で普及しきっており、ハード的にはこれ以上シェアを伸ばすのは難しかった。既に市場は飽和しており、北米市場の限られたパイを各ハードで奪い合う状態となっていた。

低価格パソコンとの競争

コモドール64(1982年)。ホビーパソコンのマーケティング戦略は、ゲーム機のイメージを損なわせた。

1970年代後半までは、パソコンは主にパソコン専門店において1,000米ドル程度の価格で流通していた。これは2007年時点においては、約2,500米ドルに相当する。しかし1970年代終盤〜1980年代初頭には、カラーグラフィックス機能を持ち、サウンド機能も強化された、テレビに接続するタイプのパソコンが登場。このようなパソコンはホームコンピュータと呼ばれ、Atari 400Atari 8001979年)が初の製品であったが、すぐに各社から競合機種が登場し、販売競争が始まった。激しい価格競争により低価格化が進み、1982年10月の段階での市場小売価格は、VIC-20が259.95米ドル(当時の日本円で約7万2千円)、コモドール64が595.00米ドル(約16万5千円)、Atari 400・Atari 800がそれぞれ167.95米ドル(約4万7千円)と649.95米ドル(約18万円)、TI-99/4Aが199.95米ドル(約5万5千円)であった[12]

これらのホームコンピュータは、VCSよりも多くのメモリを搭載し、グラフィックやサウンド機能でもVCSを凌駕していたため、VCSより高度なゲームが実現できた。加えて、ワープロや会計処理といった、ゲーム以外の用途にも使用可能であった。また、これらのパソコンの多くは、ROMカートリッジによるソフトウェア流通を広く用いていたものの、フロッピーディスクカセットテープのゲームも流通され、これらのゲームはROMカートリッジのゲームに比べてずっと容易にコピーできた。

ホームコンピュータを販売した各社の中でも、コモドール社はゲームユーザーを狙ったマーケッティング戦略を採り、広告において、コモドール64の購入の際に、他のホームコンピュータやゲーム機の下取りを行なうことや、大学進学を目指す子供はゲーム機よりホームコンピュータを購入すべき、と謳った。アタリ社やマテル社の調査では、この広告戦略により、両社の家庭用ゲーム機のイメージや販売に大きなダメージがあったことが確認されている(※下取り戦略は1983年になってからである点には注意)。

また、コモドール社は、他のホームコンピュータ・メーカーとは異なり、ホームコンピュータを、ディスカウント・ストアやデパート、玩具店など、家庭用ゲーム機と同様の流通ルートで販売した。モステクノロジー社という半導体企業を傘下に収め、MOS 6502 CPUを始めとする同社製半導体を数多くコモドール社製ホームコンピュータに採用するという垂直統合戦略により、大胆な低価格化が実現できていた。

市場崩壊

アタリの市場崩壊が親会社のワーナーをも直撃(1982年)。経営が悪化したアタリは1984年に分割・売却される。

こうして迎えた1982年クリスマス商戦では、かつてないほどの莫大な数のゲーム・ゲーム機が販売されることとなり、流通・販売側も強気な在庫確保に奔走した。業界では1982年度のゲーム業界の市場規模は38億ドルに達するとの市場予測で、極めて楽観的であった。しかし現実は前述のような状態で、北米ゲーム市場を握っていたアタリは自社の極めて楽観的な業績予測を満たせる見込みが12月の時点でなくなったため、12月8日、アタリは1982年度の第4半期の業績予測を下方修正。これは投資家に衝撃を与え、当時のアタリ社の親会社であるワーナー・コミュニケーションズまで巻き込み、12月8日から翌12月9日にかけて、株価の大幅下落を誘発している。マテル・コレコなどの競合他社、コモドールなどのホビーパソコンメーカー、小売りのトイザらスなどの関連銘柄も煽りを食って軒並み株価を下げた。

一方、供給過剰の状態であった小売店では、店頭に並べられなくなったゲームを販売元に返品しようとしたが、経営の苦しい販売元にはその対価として小売店に返金するキャッシュがなかった。1982年のクリスマス商戦が終わった直後に、後に『スペランカー』を制作するティム・マーティンが在籍したGames by Apollo社や、クエーカーオーツ傘下として低品質ソフトウェアを乱発したUS Games社を含む、複数の中小メーカーが倒産。

この1982年のクリスマスがアタリショックの発端とされている。ただし1982年度の市場規模は30億ドルを超えるなど市場は依然大きく、この時点ではまだ市場崩壊と言える状態ではなかった。

ともあれ年が明けた1983年には、全米の小売店の多くは不良在庫のゲームソフトを大量に抱えていた。倒産した弱小メーカーのソフトはメーカーに返品することができなかったため、小売店は在庫処分価格でこれらのソフトを販売した。在庫処分ではない正規のソフトの価格もそれにつられて下げざるを得なくなり、アタリも値下げに追随。業界は値下げラッシュに入った。それまで大体30ドル(約7千円)だったソフトの販売価格は一気に5ドル(約1,200円)にまで下がり、2ドル(約480円)で販売されるゲームすら登場した。

1983年に入っても市場は依然活発で、発売タイトルも販売本数もかなり多かったが、1983年6月までには正規価格のソフト市場は大幅に縮小しており、ユーザーは在庫処分価格のソフトを主に買い求めるようになっていた。ゲームが低価格化したことは当初はユーザーに歓迎されたようだが、やがて買ったソフトがどれも低品質という現実に直面する。そして、低品質なこれらのソフトにうんざりしたユーザーの多くは、高価だがクオリティの高いソフトを見直すことはなく、ゲームそのものを止めてしまった。

販売価格が下がったうえにゲームの売り上げが一気に落ち、各ゲームメーカーの経営は一気に悪化したが、特にアタリを直撃した。アタリの経営は1983年の第2四半期には極端に悪化していた。赤字の止まらないアタリのコンシューマ部門は1984年に分割、売却された。買収したのはアタリを崩壊させた一因であるコモドールの創業者、ジャック・トラミエルである。

さらに、影響はアタリ社以外のゲーム関連企業にも広く及び、アタリ社のゲーム機に競合するゲーム機を製造していたマグナボックス社及びコレコ社は、本業がゲームではないこともあり、市場崩壊に巻き込まれるのを恐れてゲーム事業から撤退した。また、大手ゲームソフトメーカーであるImagic社は、新規株式公開を断念せざるを得ず、この何年か後には倒産に追い込まれた。最大手のゲームソフトメーカーであったアクティビジョン社は、パソコンゲーム市場での成功などにより生き残ることに成功したものの、VCSに参入していたほとんどの中小ゲームソフトメーカーは倒産してしまった。

「ゲーム機の時代は終わった」と考えた北米の小売業者も、ゲーム機の取り扱いをやめてしまった。そしてこの後、後述のアメリカ版ファミリーコンピュータNES”が発売されるまで、アメリカの家庭用ゲーム機市場は最悪の氷河期を迎える。

一方、アタリショックによって倒産したゲームメーカーの開発者がホビーパソコン用ゲーム市場に参入。北米でNESがブームとなる1988年ごろまで北米ホビーパソコン用ゲーム市場は隆盛を迎える事となった。

NESによる復興

任天堂・NESが北米家庭用ゲーム市場を復興した(1985年)。

1985年の北米版ファミコンであるNintendo Entertainment System(NES)の発売に当たっては、ゲーム機に抵抗感を持つ小売業者の説得が最大の障壁となった。日本におけるファミコンの販売台数は1984年の時点で44万台と、日本でもファミコンの人気はそれほど高くなく、日本でもこれからはMSXのようなホビーパソコンの時代が来るとの憶測が広がっていたくらいで、まして、ホビーパソコンの販売競争がピークを迎えていたさなかの北米の小売りからは全く相手にされなかった[13]。北米小売り大手のトイザらスの担当者が「任天堂VS.システム」を気に入ってくれていたため、NESの北米発売までこぎつけたものの、ゲームだけでなく「BASICが使える」などの付加価値をアピールせざるを得なかった。console(ゲーム機)ではなくEntertainment System(エンターテイメントシステム)と命名されたのもそれが理由であり、小売業者の求めに応じてR.O.B.(ファミコンロボット)までバンドルして「ゲーム機ではない」ことを納得させたという[14]

マテルやコレコのゲーム機にはサードパーティを防止するプロテクトが施してあった一方で、アタリVCSはプロテクトが施されておらず、ハードメーカーの許認可を得なくてもサードパーティが合法的に低品質ゲームソフトをリリース出来たり、また違法な海賊版が野放しになったことは業界の教訓となった。アタリVCSでは、低品質ではあっても一応は合法的な「クソゲー」の他にも、例えば『カスターズ・リベンジ』(エロゲー)などといった違法なゲームが販売され、全米でニュースとなったためにアタリにまで大量の苦情が来て、これもVCSの評判を落とした一因となった。アタリショックの再来を防ぐため、NESではハードウェアプロテクトが厳しくなり、カートリッジにロックアウトチップが搭載されるようになった(アタリショック以前に発売された日本のファミコンには搭載されていなかったため、日本では「ダビング機」(現代でいうマジコン)などと呼ばれる違法な機器が出回り、違法なエロゲーも出た)。また、品質的にも厳しく管理されており、NESではサードパーティ製ソフトに対して任天堂社内で「ロットチェック」と呼ばれる工程が行われ、任天堂の制作ガイドラインに適合しないソフトウェアの販売はできなくなっている。NESのゲームのパッケージには、正規版であることと、高品質であることを証明する「Original Nintendo Seal of Quality 」と書かれたシールが貼られている。

高品質なゲームを保証するためにサードパーティが年間にリリースできるソフトの数を制限する「Seal of Quality」のシステムは、それでもクソゲーがリリースされたり、ダミー会社を作って作品をリリースする会社が現れるなどの回避例が一部にあったものの(有名な例では、原作者が「クソ」と言い切ったNES版『メタルギア』と、これをリリースしたコナミのダミー会社「ウルトラゲームズ」)、結果としてはNESでは低品質ソフトウェアによる市場崩壊は起こらなかった。一方、海賊版ゲームソフトは、1980年代後半から1990年代にかけて東南アジアや南米で大きな問題となったが、日本やアメリカでは1980年代には著作権法が整備されていたこともあり、プロテクトチップが搭載されていない日本版ファミコンや北米版アタリVCSでも懸念されたほどの被害はなく、違法なエロゲーもすぐに販売が禁止されている。

1985年にはファミコン(NES)のキラーソフトとして『スーパーマリオブラザーズ』が発売され、人気に火が付いた。当初は日本製ゲームが主だったNESも、1987年頃より北米サードパーティが続々と参入し、北米家庭用ゲーム市場は1988年に23億ドル(同年末の日本円で約2875億円)、1989年に50億ドル(同年末の日本円で約7150億円)にまで達し、ようやくアタリショックからの復興が成し遂げられた。

ここまでが、今日言われている「アタリショック=Video game crash of 1983」の概要である。この名称は「ニクソン・ショック」をもじったものである。ただし、アタリショックの評価については「神話」が含まれていることを、ファミコンの設計者である上村雅之が指摘している[13]

その後

NESの獲得した市場は5年でSega Genesisに奪われた(1990年)。そのセガも5年でソニーに市場を奪われた

ファミコン(NES)において低品質ゲームソフトの氾濫=アタリショックの再来を防ぐためとの名目で任天堂の取った強権的なサードパーティ管理方式は、成功したと考えられ、SNESやNINTENDO 64など、その後に任天堂が発売した全てのゲーム機でおおむね踏襲されている。しかし、エレクトロニック・アーツテンゲンといった大手サードパーティとの確執を生み(特にテンゲンとは親会社のアタリをも巻き込んで裁判沙汰となった)、1990年にはこれらのメーカーの支持を受けたセガ・メガドライブがNESやSNESに代わって北米市場シェアを握る結果となった。その後もソニープレイステーションなどが北米市場を握ったため、任天堂のゲーム機が再び北米市場でトップシェアを得るのは2006年のWiiを待たねばならない。

アタリはゲーム機市場でVCSのような人気を得られないまま、アタリ・ジャガーを最後に1996年にゲーム機市場から撤退した。NESの成功以降、北米のゲーム市場は長らく日本製ゲーム機が席巻し、北米のゲーム機市場で人気を得る北米発のゲーム機は2001年のXboxを待たねばならない。

21世紀に入るとアタリショックの記憶は薄れ、「アタリショックは無かった」「ビデオゲームの墓場は都市伝説だ」などと考える者も現れている。そこで2014年4月、Xbox Entertainment Studiosの企画でビデオゲームの墓場が掘り返され、『E.T.』などのカートリッジが実際に発掘された。これに絡めてアタリ関係者にも改めて取材がなされ、ザック・ペン監督によって『Atari: Game Over』として映画化され、11月にXbox Liveで配信された。発掘された『E.T.』のうち一本はアタリショックの証人としてスミソニアン博物館群の国立アメリカ歴史博物館に収蔵されている。

世界的な影響

ヨーロッパ

アタリショックと同時期に欧州で流行していたZX Spectrum(1982年)。1990年代初めまで人気が続いた。

欧州へのアタリショックの影響はほとんどなかった。Atari VCS市場の崩壊によって一時的に北米ゲーム市場の覇者となったアタリやコモドールのホビーパソコンは、北米ではNESが普及する1980年代後半から1990年にかけて急激に人気を減らしていったが、一方で北米ゲーム市場での成功を足掛かりに欧州で人気を博し、欧州で「ゲームパソコン」として1990年代中頃まで生きながらえることが出来たのが、ある意味で間接的な影響である。

1983年当時、VCSはアメリカからの輸入と言うこともあって高価なため、当時のヨーロッパではあまり普及していなかった。一方、欧州では1982年にイギリスでホビーパソコンのZX Spectrumが発売され、北米でアタリショックが起こった1983年の時点で、「ゲーム用ホビーパソコン」としてヨーロッパ中で爆発的な人気を得ていた。欧州ではNESの発売が1987年と遅く、しかもマーケティングが失敗したこともあり、1990年代初めまでホビーパソコンの時代が続くこととなった。

1990年代にはとっくに時代遅れとなったはずのAtari 8ビットシリーズも、ZX Spectrumより高性能で16ビット機より安くてゲームが揃っていたので、東欧ではまだまだ人気だった。

日本

アタリショックと同時期に日本で流行していたファミコン(1983年)。

日本へのアタリショックの影響もほとんどなかった。当時の日本はVCSはおろかゲーム機自体が一般に広くは普及していなかった。アタリショック後に北米でホビーパソコンのブームが起こった結果、その層の厚さからMSXを筆頭とする日本のパソコンメーカーによる北米ホビーパソコン市場への進出が阻まれたのがある意味で間接的な影響である[注 2]。北米でアタリショックが起こっていた1983年には、ちょうど日本では家庭用ゲーム機の発売ブームとなり、各社から多数の家庭用ゲーム機が発売されている。最終的にファミコンが人気を独占するが、この時点ではスーパーカセットビジョンやセガ・SG-1000なども日本でそこそこ売れていた。

北米では1984年から1985年にかけて家庭用ゲーム市場が急激に縮小しているが、日本では1985年にファミコンでキラーソフトとなる『スーパーマリオブラザーズ』が発売され、逆に家庭用ゲーム市場が爆発的に拡大している。しかし当時の任天堂内部ではアタリショックの再来を非常に恐れていたことを当時の任天堂経理部長の今西絋史が証言しており[3]、1986年には確立されるファミコンの厳しいライセンス制度の背景となっている。北米ではアタリ以外の各社が既にゲーム機から撤退した1985年から1986年にかけて、逆に任天堂とセガは北米に進出し、中でも任天堂がアタリショック後の北米家庭用ゲーム機市場をほぼ独占した。

アタリショックを経験しなかった日本では欧米ほどホビーパソコンは普及しなかったが、パソコン用ゲーム市場ではロールプレイングゲーム、シミュレーションゲーム、テキストアドベンチャーゲームのジャンルを中心に多数の作品が生まれ、それらのソフトがゲーム機に移植されることでゲーム機用ソフトの多様性が高まり、ゲーム機の価値が一層増すことになった。

それ以外の地域

アタリショック後に発売されたAtari 2600Jr(1986年)。途上国などではこの頃よりVCSの普及期に入る。

それ以外の地域への影響もほとんどなかった。アタリショック後、1985年には北米の家庭用ゲーム機市場が底を打ち、1986年よりNESの普及が始まるが、一方1986年にはAtari VCSの廉価版(通称 Atari 2600 Jr.)が発売され、アジアや南米では逆にこの頃よりAtari VCSの普及期に入る。

反論

日本では「アタリショック」と呼ばれ、この呼び名からAtari VCSの失敗によるアタリ社の没落と、それに巻き込まれた多数のVCSのサードパーティの没落・倒産、という印象が強いが、アメリカ国内での同現象は、実質的にAtari VCSの市場に関係していたメーカー以外にも、競合ゲーム機メーカー、またゲーム機と事実上競合するホビーパソコンのメーカー、ホビーパソコン用ゲームソフトメーカー、あるいはAtari VCSの後釜に収まった任天堂やセガと言った日本のゲーム機メーカー、それと同時に北米に進出してきた日本のゲームソフトメーカー、などにも複雑に関連してくるため、ゲーム業界全体の総合的な現象として扱われている。

上記のように、アタリショックの実態は複雑であり、「クソゲーによってアタリの市場が崩壊した」あるいは「アタリの株価が暴落して会社が分割、売却された」などと端的に語ることはできない。また、細部に関しても研究者によって複数の説がある。また、それとは別に、『電子立国日本の自叙伝』で「1982年に家庭用ゲーム市場が突然崩壊した」と語られたように、無知や、研究が進んでいなかった時代であるなどの理由で、誤解による不正確な分析もある。

「アタリショック=Video game crash of 1983」は存在しなかった

まず、「Video game crash of 1983」といわれる現象自体が存在しないという指摘がある。実際、VCSの販売台数を見ると、1979年から400万台(1979年)/280万台(1980年)/330万台(1981年)/900万台(1982年)/630万台(1983年)/280万台(1984年)/(1985年以降は減少)、このように、1982年・1983年の2年間が非常に売れており、1982年の年末に突然売れなくなったわけではない。

さらに、Atari VCSの生産が終了したのは1992年であり、すなわち1992年までVCSは売れ続けていた。よって、1982年末でVCSの市場が崩壊したという事実はない。VCSは発売から6年目となる1983年以降も売れ続け、1984年に会社が崩壊・分割・売却されてもVCSは売れ続け、1985年には市場規模が全盛期の1/32になりながらもまだ売れ続け、発売から9年目となる1986年には次々世代機Atari 7800が発売されるもVCSは廉価版を発売してまだ売れ続け、1988年には市場の8割以上をNESに奪われながらも売れ続け、北米では発売から14年目となる1991年まで売れ続けた。公式には発売から15年目となる1992年1月1日をもって販売終了としている。

加えて言うと、アタリの市場崩壊に巻き込まれるのを恐れてマテルからの販売が終了した競合機のインテレビジョンすら、別会社のINTV Corpに切り離されて販売が継続され、数字は少ないながらも1991年まで売れ続けている(総販売台数は約300万台)。もちろん新作ソフトも制作され、売れている。

VCSがブームとなった1980年-1983年の時点ではまだ家庭用ゲーム市場と呼ばれるほどしっかりとした市場はなく、ゲームもまだ玩具市場のいち商品に過ぎないと見なされており、そのため、玩具産業の中で一時的なブームとしてアタリVCSなどのゲーム機が売れたに過ぎないとも北米の玩具業界では思われていた。ホームコンピュータがブームとなった1983年-1985年頃には、やはり玩具であるゲーム機など本格的なホームコンピュータへと続く商品に過ぎなかった、と玩具業界では思われており、マテルやコレコなど、ゲーム機部門を打ち切ってホビーパソコン部門に重点を置いたメーカーも多い。玩具メーカーにおいては、当時は単に「玩具としての家庭用ゲーム機のブームが終了した」との認識で、「家庭用ゲーム機の市場が崩壊した」との認識はなかった。

「crash」すなわち「市場崩壊」との認識がゲーム業界全体でなされるのは、アタリ・コープとニンテンドー・オブ・アメリカ(NOA)とが、NOAの独占禁止法違反をめぐって1989年より1992年にかけて争った裁判(en:Atari Games Corp. v. Nintendo of America Inc.)の過程において、NOAのハワード・リンカーンが提示した資料に基づいてのことである。それまで業界においては「市場崩壊」と言う認識はなかった。

ただし、任天堂内部では「(クソゲーによる)VCSの市場崩壊=アタリショック」の認識が1985年の北米NES展開当時よりあったことを、山内や岩田などの関係者は証言している。

「アタリショック=1982年の株価大暴落」の要因

アタリの親会社であるワーナー・コミュニケーションズ社の1982年の12月8日から翌12月9日にかけての株価大暴落にも、「子会社のアタリがクソゲーの乱発で市場の信用を無くした」以外にも様々な要因が関係している。

「アタリショックはアメリカの経済学上で重要な事件として捉えられている」という話がしばしば上がるが、アタリショックを単体の事件として経済学上で捉えているということは見られない。1990年代以降で、家庭用ゲーム市場の消費の一例として取り上げられることはあるが、そこでもゲームの質が下がったので崩壊したというような指摘はない。ただし、粗悪品の乱造販売が行なわれていた事は確かであり、結果としてユーザーの不信感を招いていた事がアタリショックに繋がった事は確かである。

ただしここで注意すべきは、アタリ社自身の失敗だったのか、楽観的に旧式なハードウェアを供給し続けるよう指示していたワーナー・コミュニケーションズ側の経営戦略的な失敗だったのかという点である。この辺りに関する評価は資料によりまちまちである。ただ、アタリショックの直接の原因は先に述べたソフトウェア側の質の低下が要因にあり、ハードウェアには直接起因していない。

更に注意すべきは、ワーナー・コミュニケーションズは音楽映像の経営戦略において、流通を握る者が成功するという基本方針があったが、アタリについてはハンドリング出来ないのが常態化していた点にある。これは当時のゲーム市場の全米の販売チャンネルが特約代理店に握られていたこともある。ワーナーがタイムと統合され世界最大のメディア帝国が誕生した際、シナジー効果として流通機構の発展を目的としたのと無関係ではない。ワーナーの苦境は会長だったスティーブ・ロスにMTVShowTimeを手放させたが、MTVを手に入れたケーブル・ネットワークが巨大メディア帝国、バイアコムの発展に繋がったのは神話となった。

誤った分析

2007年になって、日本の新聞社系サイトで「当時の状況が(携帯機の売上が据置機を凌駕した)『2006年の日本のゲーム市場の状況』と似ていた」という説が発表された[15]。当時、アメリカでも『ゲーム&ウオッチ』のような電子ゲームが日本同様大ヒットしたものの、「当時のアメリカのゲーム市場では『ゲーム機』と認識されなかった為に売上に含まれなかった」事が前述の「突然崩壊」と錯覚させる一因となったと言うのである。しかし『ゲーム&ウオッチ』はアメリカにおいては商業的に失敗した[16]ため、事実に反する。

脚注

注釈

  1. ^ ゲーム雑誌自体は存在した。特に1982年末から1983年にかけては複数の雑誌が創刊されている[6]。また、『ビルボード』誌には家庭用ゲームソフトのセールスチャートが掲載されており、ソフト購入の参考にすることができた[7]
  2. ^ 欧州製ホビーパソコンも北米進出は叶わなかった。また、日本のホビーパソコンは欧州へは進出しており、シャープ・MZシリーズなどが人気を得ている。

出典

  1. ^ a b c 山田真司ゲーム・ケータイの音楽「<特集>音楽制作と情報処理の友好関係」『システム/制御/情報』第56巻、第5号、システム制御情報学会、226〜231頁、2012年。 
  2. ^ "Video Games Gain In Japan, Are Due For Assault On U.S.". The Vindicator. June 20, 1986。海外紙の記事なので元の日本語は不明だが、山内本人の言葉として"Atari collapsed because they gave too much freedom to third-party developers and the market was swamped with rubbish games."とある。
  3. ^ a b 社長が訊く「スーパーマリオ25周年」ファミコン発売当時の関係者へのインタビュー。当時の任天堂内部のアタリショックへの恐怖が語られている。
  4. ^ “アタリショック”という言葉を初めて使ったのは米トイザらスの副社長さんです 日経エレクトロニクス1990年9月3日号(no.508)の記事の紹介
  5. ^ 都市伝説の「E.T.」ゲーム、30年ぶりに発掘”. CNN (2014年4月29日). 2014年5月11日閲覧。
  6. ^ ウェブサイト「Digital Press」を参照。
  7. ^ 参考として『ビルボード』1982年11月20日号、p.26の「Top 15 Video Games」Google ブックス)。
  8. ^ 樺島榮一郎「コンテンツ産業の段階発展理論からみる一九七二〜八三年の北米ビデオ・ゲーム産業─いわゆる「アタリ・ショック」をどう解釈するか」『コンテンツ文化史研究』第4号、コンテンツ文化史学会、24〜42頁、2010年。 
  9. ^ Matt Barton, Bill Loguidice (2008年2月28日). “A History of Gaming Platforms: Atari 2600 Video Computer System/VCS” (英語). Gamasutra. 2014年5月22日閲覧。
  10. ^ 藤田直樹「米国におけるビデオ・ゲーム産業の形成と急激な崩壊 ―現代ビデオ・ゲーム産業の形成過程(1)―」『經濟論叢』第162巻第5-6号、京都大學經濟學會、1998年11月、54-71頁、NAID 120000904860 
  11. ^ Atari Parts Are Dumpedニューヨーク・タイムズ
  12. ^ The Freeman PC Museum - PC Timeline
  13. ^ a b ファミコンの生みの親とスーパーマリオのデザイナーが登場! - GAME Watch
  14. ^ "NES". Icons. Season 4. Episode 5010
  15. ^ 2006年は「第2のアタリショック」の年だった、NBonline(日経ビジネス オンライン)、2007年4月27日(全文を見るには登録(無料)が必要)
  16. ^ デヴィッド・シェフ『ゲーム・オーバー―任天堂帝国を築いた男たち』(角川書店), 篠原慎訳,1993年

関連項目

ビデオゲームの墓場」から発掘された『E.T.』(2014年)。
  • Atari 2600 (Atari VCS)
  • NES - アタリショックで崩壊した北米家庭用ゲーム市場は任天堂のNESによって復興された。
  • マテル・インテレビジョン - Atari VCSの競合機。アタリショックに巻き込まれて市場が崩壊し、マテルは大きな損失を出したが倒産は免れた。
  • コレコ・コレコビジョン - Atari VCSの競合機。コレコはアタリショックによる損失は少なかったが、ゲーム事業を見限って本業のおもちゃ事業に打ち込んだ結果、キャベツ畑人形ブームへの過剰投資が原因で倒産した。
  • アクティビジョン - アタリショックを乗り切った数少ないサードパーティの一つ。