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{{東側諸国}}
'''コミンフォルム'''({{lang-en-short|Cominform}})は、'''共産党・労働者党情報局'''(Communist Information Bureau)の略。欧州共産党情報局、共産党国際情報局とも。
'''コミンフォルム'''({{lang-en|Cominform}})、正式名称は'''共産党・労働者党情報局'''({{lang|en|'''Com'''munist '''Inform'''ation Bureau}})は、[[コミンテルン]]の解散以来、初の公式な国際共産主義運動である。コミンフォルムにより[[第二次世界大戦]]後の[[第二次世界大戦の影響|世界秩序の変革]]が確認され、[[東側諸国]]が誕生した。


== 概要 ==
== 概要 ==
1947年9月に[[ポーランド]]の{{仮リンク|シュクラルスカ・ポレンバ|en|Szklarska Poręba}}で、すでにソ連が支配している各国の[[共産党]]の指導者達が会議を行いコミンフォルムが設立された。
[[第二次世界大戦]]後のアメリカの世界戦略に対抗して、[[ヨシフ・スターリン]]と[[ヨシップ・ブロズ・チトー]]が提唱し、1947年にヨーロッパ9か国([[ソビエト連邦]]、[[ルーマニア]]、[[ブルガリア]]、[[ハンガリー]]、[[ポーランド]]、[[チェコスロバキア]]、[[ユーゴスラビア]]、[[フランス]]、[[イタリア]])の共産党または労働者党で結成された。


大戦前の[[コミンテルン]]の後身に相当するが、コミンテルンが労働者の統一戦線樹立を目指したのに対して、コミンフォルムでは各国共産党の情報交換が主な目的とされた。ソ連が東欧諸国とフランス・イタリア共産党統制強めるにつれて、独自路線を採ろうとする[[ヨシップ・ブロズ・チトー|チトー]]の対立深まりユーゴスラビアは1948年6月、除名処分を受けた。これにともって、コミンフォルムの拠点はユーゴスラヴィアの[[ベオグラード]]から、ルーマニアの[[ブカレスト]]へされた。1950年、占領軍を解放軍と規定して[[平和革命]]を掲げた[[日本共産党]]路線を誤りと指摘し。この干渉のため日本共産党は[[所感派]]や[[国際派 (日本共産党)|国際派]]など内部分裂した。
[[コミンテルン]]の後身に相当、コミンテルンが労働者の統一戦線樹立を目指したのに対して、コミンフォルムでは各国共産党の情報交換ソ連の指導の下で共産党活動調整するとが、目的とされた。また独自の新聞である「''恒久平和のために、人民民主主義のために!''」を発行ていた。


コミンフォルムの拠点は当初[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア連邦人民共和国]]の首都[[ベオグラード]]に設置されていたが、独自路線を採ろうとするチトーとスターリンの対立が深まり、1948年6月に組織からユーゴスラビアが追放されると、ルーマニアの[[ブカレスト]]へと移された。
[[ヨシ・スタリン|スターリン]]の死後[[スターリン批判]]を受けて[[1956年]]に廃止された。


設立前には[[チェコスロバキア社会主義共和国|チェコスロバキア]]、[[ポーランド人民共和国|ポーランド]]、[[ハンガリー人民共和国|ハンガリー]]は[[マーシャル・プラン]]による援助を受けたがったが、スターリンはソ連の勢力圏からの離脱は許さずマーシャル・プランに参加させなかった、それに代わりソ連の外相[[ヴャチェスラフ・モロトフ]]が[[モロトフ・プラン]]を提唱した。これはソ連による国際組織で、最終的に[[経済相互援助会議]](COMECON)に発展した<ref>[http://www.cnn.com/SPECIALS/cold.war/kbank/profiles/molotov/ CNN Cold War - Profile: Vyacheslav Mikhaylovic Molotov]</ref>。
== 関連項目 ==

ソ連がコミンフォルム加盟政党への統制を強めるにつれて、1950年、占領軍を解放軍と規定して[[平和革命]]を掲げた[[日本共産党]]の路線を誤りと指摘した。この干渉のため日本共産党は[[所感派]]や[[国際派 (日本共産党)|国際派]]などに内部分裂した。

コミンォルムはソ連のユゴスラビアとの和解、及びスターリンの死後[[スターリン批判]]を受けて[[1956年]]に廃止された。

== 加盟政党 ==
*[[ソビエト連邦共産党]]
*[[ソビエト連邦共産党]]
*[[ルーマニ労働者党]]
*[[チェコスロバキ共産党]]
*[[ハンガリ労者党]]
*[[マニア共産党|ルーマニア者党]]
*[[ハンガリー社会主義労働者党|ハンガリー勤労者党]]
*[[ポーランド統一労働者党]]
*[[ポーランド統一労働者党]]
*[[ブルガリア共産党]]
*[[ユーゴスラビア共産主義者同盟]]
*{{仮リンク|トリエステ自由地域共産党|en|Communist Party of the Free Territory of Trieste}}
*[[フランス共産党]]
*[[イタリア共産党]]

== 関連項目 ==
*[[コミンテルン]]
*[[コミンテルン]]
*[[経済相互援助会議]]
*[[インターナショナル]]
*[[インターナショナル]]
*{{仮リンク|ドナウ川委員会(1948年)|en|Danube Commission (1948)}}
*[[コメコン]]
*[[ワルシャワ条約機構]]
*[[ワルシャワ条約機構]]
*{{仮リンク|平和と社会主義の問題点|en|Problems of Peace and Socialism}}

== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* G. Procacci (ed.), ''The Cominform. Minutes of the Three Conferences (1947-1949).'' Milan, Italy: Feltrinelli, 1994.


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2014年11月15日 (土) 08:22時点における版

共産党・労働者党情報局
略称 コミンフォルム
前身 コミンテルン
設立 1947年
設立者 ヨシフ・スターリン
ヨシップ・ブロズ・チトー
種類 共産主義政党国際組織
目的 各国の共産党の情報交換
本部 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビア ベオグラード(1947年-1948年6月
ルーマニアの旗 ルーマニア ブカレスト(1956年)
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コミンフォルム英語: Cominform)、正式名称は共産党・労働者党情報局Communist Information Bureau)は、コミンテルンの解散以来、初の公式な国際共産主義運動である。コミンフォルムにより第二次世界大戦後の世界秩序の変革が確認され、東側諸国が誕生した。

概要

1947年9月にポーランドシュクラルスカ・ポレンバ英語版で、すでにソ連が支配している各国の共産党の指導者達が会議を行いコミンフォルムが設立された。

コミンテルンの後身に相当し、コミンテルンが労働者の統一戦線樹立を目指したのに対して、コミンフォルムでは各国共産党の情報交換やソ連の指導の下で共産党間の活動を調整することが、主な目的とされた。また独自の新聞である「恒久平和のために、人民民主主義のために!」を発行していた。

コミンフォルムの拠点は当初ユーゴスラビア連邦人民共和国の首都ベオグラードに設置されていたが、独自路線を採ろうとするチトーとスターリンの対立が深まり、1948年6月に組織からユーゴスラビアが追放されると、ルーマニアのブカレストへと移された。

設立前にはチェコスロバキアポーランドハンガリーマーシャル・プランによる援助を受けたがったが、スターリンはソ連の勢力圏からの離脱は許さずマーシャル・プランに参加させなかった、それに代わりソ連の外相ヴャチェスラフ・モロトフモロトフ・プランを提唱した。これはソ連による国際組織で、最終的に経済相互援助会議(COMECON)に発展した[1]

ソ連がコミンフォルム加盟政党への統制を強めるにつれて、1950年、占領軍を解放軍と規定して平和革命を掲げた日本共産党の路線を誤りと指摘した。この干渉のため日本共産党は所感派国際派などに内部分裂した。

コミンフォルムはソ連のユーゴスラビアとの和解、及びスターリンの死後のスターリン批判を受けて1956年に廃止された。

加盟政党

関連項目

脚注

参考文献

  • G. Procacci (ed.), The Cominform. Minutes of the Three Conferences (1947-1949). Milan, Italy: Feltrinelli, 1994.