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訪日は[[1998年]]11月におこなわれているが、この際にも[[今上天皇]]と当時の[[小渕恵三]]首相に過去の歴史に基づいた謝罪要求をし、その執拗さに保守派のみならず親中派の反発まで買うことになった。またこの際の11月26日に行われた天皇皇宮主催の[[豊明殿]]での宮中晩餐会の席上、江澤民は中国共産党の礼服である中山服([[人民服]])で出席。これが非礼ではないかと問題視する者もいる。これに対して中国政府側は「式服か民族服を着用するように日本外務省から要望があったために、中山服を民族服として選んだ」としている。
訪日は[[1998年]]11月におこなわれているが、この際にも[[今上天皇]]と当時の[[小渕恵三]]首相に過去の歴史に基づいた謝罪要求をし、その執拗さに保守派のみならず親中派の反発まで買うことになった。またこの際の11月26日に行われた天皇皇宮主催の[[豊明殿]]での宮中晩餐会の席上、江澤民は中国共産党の礼服である中山服([[人民服]])で出席。これが非礼ではないかと問題視する者もいる。これに対して中国政府側は「式服か民族服を着用するように日本外務省から要望があったために、中山服を民族服として選んだ」としている。


この訪日の際に、講演をおこなった[[早稲田大学]]からの名誉博士号の授与を固辞している。これは、同大創立者・[[大隈重信]]が首相時代に[[対華21か条要求]]を出したである。これに対して、「なぜ事前にこの事実を確認せずに同大学において公演を行ったのか」といぶかしむ声もある。
この訪日の際に、講演をおこなった[[早稲田大学]]からの名誉博士号の授与を固辞している。これは、同大創立者・[[大隈重信]]が首相時代に[[対華21か条要求]]を出したためである。これに対して、「なぜ事前にこの事実を確認せずに同大学において公演を行ったのか」といぶかしむ声もある。


またこれに先立つ[[1997年]]10月の訪米時、[[ハワイ]][[真珠湾]]へ立ち寄って[[戦艦アリゾナ]]記念館に献花をおこない、ここで日本の中国(当時の中国大陸は[[中華民国]]の[[中国国民党]]政府の統治下であった)侵略と[[真珠湾攻撃]]を批判。歴史修正主義者からは「歴史問題を通じての米国への接近、ひいては日米離間を狙った演説だった」とされている。
またこれに先立つ[[1997年]]10月の訪米時、[[ハワイ]][[真珠湾]]へ立ち寄って[[戦艦アリゾナ]]記念館に献花をおこない、ここで日本の中国(当時の中国大陸は[[中華民国]]の[[中国国民党]]政府の統治下であった)侵略と[[真珠湾攻撃]]を批判。歴史修正主義者からは「歴史問題を通じての米国への接近、ひいては日米離間を狙った演説だった」とされている。

2008年8月20日 (水) 12:34時点における版

江澤民

2001年10月、ホワイトハウスにて

中華人民共和国
第5代 主席
任期 1993年3月27日2003年3月15日

任期 1989年2003年

任期 1989年2004年

出生 1926年8月17日
中華民国の旗江蘇省揚州市
政党 中国共産党
配偶者 王冶坪
江澤民
各種表記
繁体字 江澤民
簡体字 江泽民
拼音 Jiāng Zémín
ラテン字 Jiang Zemin
和名表記: こう・たくみん
発音転記: チャン・ツォーミン
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江澤民(こう たくみん、チアン・ツォーミン江泽民、Jiāng Zémín。1926年8月17日 - )は、中華人民共和国政治家中華民国江蘇省揚州市出身。中国共産党総書記国家主席大統領)、中軍委主席、国家中央軍事委員会主席を務めた。中国科学院副院長・江綿恒は長男。

生涯

江澤民の実父江世俊は、日本軍占領下の江蘇省で日本の特務機関に協力をしていた。叔父江世侯 (上青) は抗日分子と目され、嫡男を得ないまま1939年に死亡した。江澤民は、公式にはこの江世侯の養子ということになっているが、本家の次男である江澤民が、祖父からみて第6子にあたる叔父江世侯の養子となるのは、中国の家族慣行では異例であり、「漢奸の息子」という出自を隠すためと考えられている[1]

1943年に楊州中学卒業後、汪兆銘政権下の南京中央大学に入学し、1946年上海交通大学に移籍、1947年に卒業した。 中央大学在籍の経歴は隠されることが多い。この間、1946年に中国共産党に入党したことになっているが、この経歴にも疑問がある。 1950年代には機械技術者としてモスクワのスターリン自動車工場で研修を受けた。駐ルーマニア大使や電子工業部部長(大臣)、上海市長、党上海市委員会書記を経て、1989年6月 天安門事件直後の中共13期4中全会で、失脚した趙紫陽の後任として鄧小平に党総書記に抜擢された。ロシア語ルーマニア語に堪能。日本語も自在に操れるとされるが、公式の場で話したことはない。

総書記就任後は鄧小平改革開放政策を概ね継承し経済発展を推進した。その一方で、江の任期あたりから中国は大国意識を剥き出しにした対外強硬路線が目立つようになり、1996年には台湾総統選挙に圧力をかけるため台湾海峡にミサイルを撃ち込んで米軍の緊急展開を招くなど情勢を緊迫させた。他にも同年にCTBT採択直前に駆け込みで核実験を強行し、世界中から非難された。これら以外に野放図な経済発展による地域間格差や環境破壊などの負の遺産も残し、2002年には総書記を退任した。この際自ら提唱した3つの代表理論が党規約に盛り込まれたが、そのゴリ押し振りに自らを毛沢東鄧小平に並べるための売名行為との批判が出た。 総書記退任後も「上海閥」の総帥として党最高指導部である政治局常務委員の過半数が自派閥と言われるなど、腹心の曽慶紅らを通して影響力を発揮しているといわれる。

ただし近年では江澤民派の官僚はかなり減少しており、体制は胡錦濤がほぼ掌握していると思われる。

また江以前は、共産党一党独裁のため国家に党が優越し、その権力は党の軍隊である人民解放軍に担保されていたため、国家主席や総書記ですら就任する人物によってはソビエト連邦最高会議幹部会議長のように半ば名誉職と化していた一方で、無位無官のカリスマ鄧小平が最高実力者であるなど地位と実権が必ずしも一致しなかった。江の代からは最高指導者が国家主席/総書記/党中央軍事委員会主席を兼任して権力を一元化し名実ともに最高指導者が明らかになった。

日本に対しては歴史認識で執拗に批判しているが、一方ベトナムからの中越戦争の謝罪要求については「ベトナムのカンボジア侵略によるものだ」として、謝罪はしていない。欧米においては中国の経済発展や外交の改善(江澤民はよく外国を訪問しており、アメリカの二代の大統領であるクリントンブッシュとも複数回にわたって会っており、一緒にレジャーを過ごしたこともある)に貢献したとして好評を受けており、「中国を変えた男」として肯定的に評価されている。なお国家主席による首脳外交スタイルが確立したのは江の代からとなる。

訪日および対日政策

日本に対しては一貫して反日・強硬姿勢を貫いた。

訪日は1998年11月におこなわれているが、この際にも今上天皇と当時の小渕恵三首相に過去の歴史に基づいた謝罪要求をし、その執拗さに保守派のみならず親中派の反発まで買うことになった。またこの際の11月26日に行われた天皇皇宮主催の豊明殿での宮中晩餐会の席上、江澤民は中国共産党の礼服である中山服(人民服)で出席。これが非礼ではないかと問題視する者もいる。これに対して中国政府側は「式服か民族服を着用するように日本外務省から要望があったために、中山服を民族服として選んだ」としている。

この訪日の際に、講演をおこなった早稲田大学からの名誉博士号の授与を固辞している。これは、同大創立者・大隈重信が首相時代に対華21か条要求を出したためである。これに対して、「なぜ事前にこの事実を確認せずに同大学において公演を行ったのか」といぶかしむ声もある。

またこれに先立つ1997年10月の訪米時、ハワイ真珠湾へ立ち寄って戦艦アリゾナ記念館に献花をおこない、ここで日本の中国(当時の中国大陸は中華民国中国国民党政府の統治下であった)侵略と真珠湾攻撃を批判。歴史修正主義者からは「歴史問題を通じての米国への接近、ひいては日米離間を狙った演説だった」とされている。

日本首相による靖国神社参拝には断固反対の立場をとった。江澤民と後任の胡錦濤は、靖国神社を毎年参拝した小泉純一郎首相とは極力首脳会談を行わなかった。

2006年8月に発売された江澤民文選によると、1998年8月「(日本に対しては)歴史問題を始終強調し、永遠に話していかなくてはならない(=プレッシャーをかけ続けなければいけない)」と外国に駐在する大使など外交当局者を集めた会議で指示を出していた。同年11月に中国国家主席として初めて日本を訪れた際は「日本政府による歴史教育が不十分だから、(国民の)不幸な歴史に対する知識が極めて乏しい」と発言をして、日本の歴史教育を激しく非難している。

略歴

  • 1989年11月 - 中共13期5中全会で、党中央軍事委員会主席に選出。
  • 1990年3月 - 第7期全国人民代表大会第3回会議で、国家中央軍事委員会主席に選出。
  • 1993年3月 - 第8期全人代第1回会議で、国家主席に選出。
  • 1998年11月 - 中国国家主席として初めて日本を訪れる。(国賓)
  • 2000年2月 - 共産党の政権奪取によって階級闘争は終了したとして、永続的な階級闘争を否定する「3つの代表」思想を提起。
  • 2002年11月 - 中共16期1中全会で、党総書記を退任(後任は胡錦濤)。
  • 2003年3月 - 第10期全人代第1回会議で、国家主席を退任(後任、同)。
  • 2004年9月19日 - 中共16期4中全会で、党中央軍事委員会主席を辞任(後任、同)。

参考文献

  1. ^ 矢吹晋『激辛書評で知る 中国の政治・経済の虚実』日経BP社、2007年、p.74。

外部リンク

先代
趙紫陽
中国共産党総書記
1989年 - 2003年
次代
胡錦濤
先代
楊尚昆
中華人民共和国主席
1993年 - 2003年
次代
胡錦濤
先代
鄧小平
中国共産党中央軍事委員会主席
1989年 - 2004年
次代
胡錦濤