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内藤重頼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
内藤 重頼
時代 江戸時代初期
生誕 寛永5年(1628年
死没 元禄3年11月27日1690年12月27日
改名 弥三郎(幼名)、重頼
墓所 京都府京都市左京区金戒光明寺
官位 従四位下、若狭守、伊賀守、大和守、侍従
幕府 江戸幕府大番頭御側衆若年寄
大坂城代京都所司代
主君 徳川家光家綱綱吉
氏族 内藤氏
父母 父:内藤正勝、母:板倉重宗
正室久世広当の娘
娘(森川重高正室)
養子:清枚
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内藤 重頼(ないとう しげより)は、江戸時代初期の旗本、のち大名高遠藩内藤氏第5代(第6代とする説あり)。

生涯

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生い立ちと初期の経歴

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寛永5年(1628年)、安房勝山藩第2代藩主・内藤正勝の長男として誕生する。寛永6年(1629年)に正勝が死去すると、重頼は幼少のため、遺領2万石のうち5000石のみを相続した。減封にともない内藤家は大名から旗本となり、安房勝山藩は廃藩となった。

万治3年(1660年)の定火消を皮切りに、書院番頭大番頭御側衆を歴任した。寛文2年(1662年)には従五位下若狭守に叙任した。延宝4年(1676年)、所領を安房国長狭郡から下野国内に移封される。

内藤家中興の祖

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延宝8年(1680年)、徳川綱吉の長男徳松の傅役に就任し、上総国常陸国・下野国内で3000石を加増され、合わせて8000石を領した。徳松死後の貞享元年(1684年)、若年寄となり常陸国内で5000石を加増、合計1万3000石となり内藤家は大名に復帰する。翌貞享2年には大坂城代に転じ、摂津国河内国内で2万石を与えられ3万3000石となる[1]。貞享4年(1687年)には京都所司代を命ぜられ、従四位下侍従に叙任した。

元禄3年(1690年)11月27日、63歳で死去した。男子がなかったため、正勝の妹の子で天和元年(1681年)に養子としていた甥の清枚(旗本水野守政の次男)に跡を継がせた。清枚は元禄4年(1691年)に信濃高遠藩へ移封され、以後高遠藩内藤氏は明治維新まで約180年間存続した。

重頼は寛文8年(1668年)、父・正勝の葬儀を行った僧・太宗に寺地を寄進し、江戸に太宗寺を創建している。重頼自身は京都の金戒光明寺に埋葬されたが、その後も太宗寺は高遠藩内藤氏の菩提寺となった。

脚注

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  1. ^ “藤原氏 秀鄕流 内藤”. 寛政重脩諸家譜. 第5輯. 813. 國民圖書. (1923). p. 245. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082718/131 2022年4月4日閲覧. "(二年)九月二十七日大坂の城代に転じ、摂津国有馬川、嶋上、河内国澁川、丹北、若江六郡のうちにおいて二万石を加えられ、すべて三万三千石を領す" 

参考文献

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