青山忠良

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
 
青山忠良
時代 江戸時代
生誕 文化3年4月10日1806年5月27日
死没 元治元年11月15日1864年12月13日
官位 従四位下因幡下野
幕府 江戸幕府老中
主君 徳川家斉家慶家定家茂
丹波篠山藩
氏族 青山氏
父母 父:青山忠裕、母:小川氏
兄弟 忠良幸哉(七男)、日野資敬
桜井松平忠誨正室のち松浦曜継室
正室:内藤政峻
忠敏(次男)、
成瀬正肥(三男、成瀬正住婿養子)、
井上正誠(四男)、大関増徳(五男、大関増昭養子)、忠誠(十男)、忠惇(十一男)、
太田資功正室、松平直諒継室、朽木為綱継室、板倉勝運正室のち戸沢正実継室、
土井利与正室、佐竹義堯継々室

青山 忠良(あおやま ただなが)は、江戸時代後期の大名老中丹波篠山藩第5代藩主。青山家宗家11代。

生涯[編集]

文化3年(1806年)、4代藩主青山忠裕の四男として誕生。

天保6年(1835年)、父・忠裕の隠居により家督を相続する。同8年(1837年)に寺社奉行、同11年(1840年大坂城代に就任。

弘化元年(1844年)に老中に抜擢された。同5年(1848年)、首席老中阿部正弘徳川斉昭を重用するのに反発し、水戸藩内の旧縁で斉昭に反目する水戸藩士の朝比奈某を焚きつけ、斉昭と親しい阿部を退けようと陰謀を企てたが、事前に計略が発覚し忠良は逆に詰め腹を斬らされて老中を辞任、幕閣を追放された。

文久元年(1861年)に忠良は篠山春日神社に能舞台能楽殿を寄進した(能舞台は2003年に国の重要文化財に指定されている)。翌2年(1862年)隠居。家督は次男・忠敏が継承した。

元治元年(1864年)、死去。

関連作品[編集]