ミュンヘン=上バイエルン大管区
- ミュンヘン=上バイエルン
大管区 - Gau München-Oberbayern
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←1928年 - 1945年 →
→(国旗) (大管区章) - 国の標語: Ein Volk, ein Reich, ein Führer
一つの民族、一つの国家、一人の総統 - 国歌: Deutschlands Weltklasse
世界に冠たるドイツ
党歌: Die Fahne hoch
旗を高く掲げよ
ナチス・ドイツの地図-
公用語 ドイツ語 首都 ミュンヘン - 大管区指導者
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1930年 - 1942年 アドルフ・ワーグナー 1942年 - 1944年 パウル・ギースラー(臨時指導者代行) 1944年 - 1945年 パウル・ギースラー - 変遷
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成立 1928年 廃止 1945年
通貨 ライヒスマルク(ℛℳ) 現在 ドイツ - 【大管区登録番号】 第19番
ミュンヘン=上バイエルン大管区、ミュンヘン=オーバーバイエルン大管区(ドイツ語: Gau München-Oberbayern)は、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の設置した大管区の一つである。
概要
[編集]1928年、上プファルツ大管区指導者に任命されたアドルフ・ワーグナーは、翌1929年にミュンヘンの地区指導部とミュンヘン地域から構成される「大ミュンヘン大管区(Gau Groß-München)」の指導者を兼任していた。(それまでは1925年から党幹部のヘルマン・エッサーが率いていた)。1930年11月15日、上バイエルン(オーバーバイエルン)大管区(1928年よりフリッツ・ラインハルト指導下)と合併した後、ミュンヘン=上バイエルン大管区として再編され大管区指導者にはワーグナーが続投された。この大管区は上バイエルン地域の行政区画とほぼ一致していた。ワーグナーは1933年11月の国会選挙に当選している[1]。
ワーグナーは1931年6月までに、ナチ党の全国指導部と同様に5つからなる独自の組織体制を大管区内に確立した。(農業、経済、文化、社会政策などの各部署)また、大管区内の各地区指導部もこの組織構造に倣った。1932年1月1日、大管区機関紙「戦線(Die Front)」において、これらの組織運営は以下のように宣伝された。「我が大管区の諸組織は今日、たとえ小規模なものであっても、来たるべき国民社会主義国家の模範たる姿である。」
1935年の統計では、ミュンヘン=上バイエルン大管区は26の管区、249の地区、144の分区、1,291の細胞、4,258の街区で構成され、412人の政治指導者を含む計9,600人の政治指導部員を有していた。1935年のミュンヘン=上バイエルン大管区の党員数は、その地域の総人口(=1,767,655人)に対して、3.32%の党員(= 58,677人)しか存在せず、全体の3分の1であった。
1934年、大管区本部は「国民社会主義者の家(Haus der Nationalsozialisten)」に移転した。建物はプラナー通り20番地にある旧議事堂を改装し使用された。(以前の本部は1931年よりバラー通り14番地の建物に存在した)
1933年にバイエルン自由州では、リッター・フォン・エップが国家代理官に任命され、彼の下に6名の大管区指導者が置かれた。1933年4月12日、リンダウ市長ルートヴィヒ・ジーヴェルトがバイエルン州首相に任命された。1933年3月にワーグナーは州委員兼臨時内務大臣、1933年4月に内務大臣及び副首相、1936年12 月にバイエルン州文化大臣に就任した。また、当時ミュンヘン警察署長代理であったハインリヒ・ヒムラーに命じダッハウ強制収容所が設置された。
1939年に第二次世界大戦が開戦すると、ワーグナーは2つの軍管区(ミュンヘンとニュルンベルク)を統括する全国防衛委員に任命された。1942年6月、ワーグナーは脳卒中を起こし1944年4月12日に死亡した。パウル・ギースラーが代行として大管区の運営を引き継ぎ、1944年に正式に任命された。また、副大管区指導者には、ルートヴィヒ・ジーヴェルトの息子であるフリードリッヒ・ジーベルトが就任した。
備考
[編集]大管区及び大管区指導者の変遷
[編集]- 大管区指導者
- 上バイエルン大管区
- フリッツ・ラインハルト(1928-30年)
- 大ミュンヘン大管区
- ヘルマン・エッサー(1925-29年)
- アドルフ・ワーグナー(1929–30年)
- ミュンヘン=上バイエルン大管区
- アドルフ・ワーグナー(1930年11月1日-1944年4月12日)
- パウル・ギースラー(臨時指導者代行、1942年6月28日-1944年4月12日)
- パウル・ギースラー(1944年4月12日-1945年5月)
- 副大管区指導者
- オットー・ニッポルト(1932-40年)
- ヨアヒム・フォン・モルトケ(1940–42年)
- フリードリヒ・ジーベルト(1944–45年)
組織
[編集]- 党本部 - ミュンヘン、ケーニヒス広場、ブリエンナー通り45番地『褐色館』
- 大管区本部 - ミュンヘン、プラナー通り20番地 『国民社会主義者の家』
- 大管区指導者学校 ― グラッサウ、ニーダーンフェルス城
- SA『ホッホラント(高地)』管区集団本部
人事
[編集]- 大管区監査役及び訓練指導者 ― フランツ・ブフナー
- 大管区経済顧問 ― ハンス・ブフナー、アルフレッド・ファフ
- 大管区人種政策局長 ― ハインツ・キュルテン
構成管区
[編集]- アイヒャッハ(Aichach)
- アルトエッティング(Altötting)
- バート・アイプリング(Bad Aibling)
- ベルヒテスガーデン(Berchtesgaden)
- ダッハウ(Dachau)
- エーバースベルク(Ebersberg)
- エルディング(Erding)
- フライジング(Freising)
- フュルステンフェルトブルック(Fürstenfeldbruck)
- ガルミッシュ=パルテンキルヒェン(Garmisch-Partenkirchen)
- ヘルシング(Herrsching)
- インゴルシュタット(Ingolstadt)
- ランツベルク・アム・レヒ(Landsberg am Lech)
- ラウフェン(Laufen)
- ミースバッハ(Miesbach)
- ミュールドルフ(Mühldorf)
- ミュンヘン(München)
- ミュンヘン北(München-Nord)
- ミュンヘン東(München-Ost)
- ミュンヘン=パーシンク(München-Pasing)
- ミュンヘン南(München-Süd)
- ミュンヘン西(München-West)
- ムルナウ(Murnau)
- プファッフェンホーフェン(Pfaffenhofen)
- ローゼンハイム(Rosenheim)
- ショーンガウ(Schongau)
- シュローベンハウゼン(Schrobenhausen)
- シュタルンベルク(Starnberg)
- テルツ(Tölz)
- トラウンシュタイン(Traunstein)
- ヴァッサーブルク・アム・イン(Wasserburg)
- ヴァイルハイム(Weilheim)
- ヴォルフラーツハウゼン(Wolfratshausen)
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ Mathias Rösch: Die Münchner NSDAP 1925–1933: Eine Untersuchung zur inneren Struktur der NSDAP in der Weimarer Republik, München 2002 ISBN 3-486-56670-9