大中臣能宣

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大中臣能宣
大中臣能宣(狩野尚信『三十六歌仙額』)
時代 平安時代中期
生誕 延喜21年(921年
死没 正暦2年(991年)8月
官位 正四位下神祇大副
主君 村上天皇冷泉天皇円融天皇花山天皇
氏族 大中臣氏
父母 父:大中臣頼基
藤原清兼娘
輔親、輔長、輔□、宣理、源兼澄
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大中臣 能宣(おおなかとみ の よしのぶ)は、平安時代中期の貴族歌人神祇大副大中臣頼基の子。官位正四位下祭主・神祇大副。三十六歌仙の一人。

経歴

天延元年(973年伊勢神宮祭主、寛和2年(986年)正四位下に叙位。

天暦5年(951年梨壺の五人の一人に選ばれて和歌所寄人となり、『万葉集』の訓読と、『後撰和歌集』の撰集にあたった。冷泉天皇円融天皇大嘗会和歌を詠進したほか、円融天皇花山天皇に家集を召されている。また歌合や屏風歌の制作でも活躍し、母娘二代の伊勢斎宮となった徽子女王規子内親王家にも出入りした。

拾遺和歌集』(59首)以下の勅撰和歌集に124首が入集[1]。家集に『能宣集』がある。なお、百人一首に「みかきもり衛士のたく火の夜はもえ昼はきえつつ物をこそ思へ」が能宣作として入っているが、作者は能宣ではないとの説が有力である[要出典][誰によって?]

人物

能宣が敦実親王宇多帝の子)のの日の祝いに招かれたとき、「千とせまで限れる松も今日よりは君にひかれてよろづ代や経む」と歌を詠んだ。能宣はこの歌を自賛して父の頼基にこれを告げた。頼基は数度この歌を吟じ、突然能宣に枕を投げつけて「帝に招かれたら、これ以上のどのような歌を詠むのだ」と怒鳴りつけたという[2]

系譜

  • 父:大中臣頼基
  • 母:不詳
  • 妻:藤原清兼の娘
  • 生母不明の子女
    • 男子:大中臣輔長
    • 男子:大中臣輔□(名不詳)
    • 男子:大中臣宣理(963-995)
    • 女子:源兼澄

脚注

  1. ^ 『勅撰作者部類』
  2. ^ 前賢故実』一条朝 大中臣能宣の条

関連項目