電算写植

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

電算写植(でんさんしゃしょく)とは、手動写植による組版作業を電算機=コンピュータで行えるようにしたシステムのこと。

新聞社を含む印刷会社ごとに異なるシステム(CTS)と写植会社の写植機のシステムの双方を指し、印刷出版業界内では「電算」と言えば電算写植のことを意味する。

本項目では日本の電算写植について述べる。海外での写植システムがコンピュータ化されていった過程はen:Phototypesettingを参照。

概要[編集]

旧来の活版印刷や手動写植の欠点を補い、ワークフローを一新するものとして1960年代に登場した。日本では写研が開発したSAPTONシステムが初の電算写植システムで、まず大手新聞社の支社や地方新聞社などの小規模印刷から導入が進み、その後に朝日新聞社や凸版印刷といった大規模出版社による独自のシステムが開発された(朝日新聞社の「NELSON」、神戸新聞社の「六甲」等)。

1950年代に開発された「漢字テレタイプ」(通称「漢テレ」)というシステムの装置を受け継いでおり、アルファベットやかなが並んだ現在のコンピュータのキーボードではなく、打鍵する漢字の「要素」(部首のようなもの)が大量に並んだ、文字の形で写植する文字を選んで打鍵する、極めて複雑な打鍵装置を使う。写研の初期の電算写植機で採用された、51種類の要素が並んだもの(「一寸ノ巾…」という順番で文字が並んでいたので「一寸ノ巾配列」と呼ばれる)ものが有名だが、後期にはより複雑化した。

電算写植の打鍵は慣れるとDTPより早いが、オペレーターには活字の文選工と同じだけの熟練を要求された。編集組版ソフトウェアも、プログラミング言語と同様のコマンドの羅列で行う(「バッチ組版」「コマンド組版」などと呼ばれる)ため、取り扱いに熟練を要する上に、印刷するまで出力結果が全く分からなかった(後期の製品にはディスプレイが搭載され、ある程度は確認できるようになった)。また、ほとんどの小規模出版で導入されていた写研のシステムは、導入コストもさることながら、フォントが活字時代のような買いきりではなく、印刷するたびに写研にフォント使用料を払わないといけなかった。そのため、普通のパソコンとマウスを使って組版が行え、パソコンの画面に表示されたものと印刷される出力結果が同じであるWYSIWYGを実現し、モリサワのフォントが買い切りで使えるDTPが1980年代に登場すると、まず小規模印刷からDTPに置き換えられていった。初期のDTPで唯一の選択肢だったモリサワの書体は、写植時代は写研の書体よりも安価で、「ダサい」とされていたが、便利さにはかなわなかった。

電算写植はDTPよりも高速印刷・大量印刷に適しており、また初期のDTPよりも「美しい」組版が可能だったため、大手新聞社や大手出版社では1990年代以後も電算写植が生き残ったが、2000年代からDTPベースのシステムに次第に置き換えられている。

写研は出版の電算化と写植化を共にリードし、電算写植システムとフォント使用料で大きな利益を上げたが、そのためにDTPに乗り遅れ、1998年には組版業界の最大手の座をモリサワに奪われることとなった。

なお、1970年代以降に写植機の電算化が進められる一方で、手動写植機の開発も1980年代までは続いており、その堅牢性が評価され、1990年代までは一定の需要があった。最終的には手動写植機もディスプレイ、メモリー、フロッピーディスク装置などを搭載した電子制御式手動写植機となり、電算写植機と遜色ない機能を備えるようになっている。特にモリサワが1986年に発売した手動写植機の最終形態「ROBO 15XY型」は、電算写植機と同様に組版を自動で行う上に、仮印字した写植の位置をディスプレイ上で確認して調整でき、さらに簡単な作図機能も備えるなど、写植機の内部で文字盤が物理的に動作している点を無視すればDTPに近い機能すら備えていた。また、電子制御式手動写植機の他にも、電子制御式ではない手動写植機や旧来の活版印刷機など、1990年代までは予算や規模や用途に従ってさまざまな印刷機が存在していたが、これらは「経営者が高齢」などの特別な理由がない限り、2000年代までには全てDTPに一本化された。

歴史[編集]

漢テレ[編集]

電算写植システムの前史として、漢字テレタイプ(通称「漢テレ」)と呼ばれるシステムがある。

1950年代以前、文書を遠隔通信する際はモールス信号などの電信符号を機械でかなに翻訳する「かな印刷電信」が使われていたが、同音異義語を漢字変換する際のミスが起こりがちだったことから、漢字かな交じり文を高速に遠隔通信するためには主に伝書鳩が使われていた。

そんな中、1955年に朝日新聞社と新興製作所によって、漢字かな交じり文を電信で遠隔通信する「漢テレ」と呼ばれるシステムが試作される。これは、漢字かな交じり文を電信的にやり取りするための符号化コード、符号を紙テープ(鑽孔テープ)に記録する文字盤付きの鑽孔機「漢字テレタイプ」、紙テープを読み取とって符号を送信する送信機、遠隔地で受信して紙テープに記録する受信機、紙テープを読み取って印字する「漢字テレプリンタ」(当時はディスプレイがまだ発明されていなかったので、これが現代で言う「モニター」に相当する)などからなるものであった。

1959年には各新聞社の統一文字コードであるCO-59が策定されたこともあり、1960年代初頭には日本の新聞各社において漢テレによる自動活字鋳植システムが導入された。これは記事の受信から活字の鋳造・写植までを自動化し、新聞社の本社や共同通信社などから配信された記事を、日本の各地域の新聞社が受信して漢テレで紙テープ(鑽孔テープ)に記録し、その紙テープの内容を自動活字鋳植機(モノタイプ)が読み取って全自動で鋳植まで行うシステムで、従来の手作業で打字しながら活字を鋳植するのに比べて圧倒的な高速化が可能となった(なお、自社取材記事の場合はテレタイプを使って自分で鑽孔しないといけない)。

この当時のシステムは、記事の送信・受信装置、記事を紙テープに出力する鑽孔機、紙テープに内容を記録する漢テレ、紙テープの内容を読み取って鋳植する全自動活字鋳植機で構成されていた。まだ活字であり、写植ではなかったが、これらの装置が電算写植システムにも流用されることとなる。

その後、出版業界では写植の導入とコンピューターの導入がほぼ同時に進められ、まず写研が「SAPTONシステム」を実用化し、他の会社でも1970年代には「Computer Typesetting System」(CTS)と呼ばれるシステムが各社に構築されることとなる。

SAPTONシステム[編集]

1920年代に写研の石井茂吉と森澤信夫(のちにモリサワを創業)によって写植が発明されたが、写植は主に端物に用いられ、本文組みには従来通りの活字組版が用いられていた。写研は写植を本文組版へも使用されることをめざし、1960年に全自動写植機「SAPTONシステム」を発表。

1965年には新聞社向けの写植システム「SAPTON-N」が実用化され、1967年に朝日新聞北海道支社と佐賀新聞社に最初に納入された。また、書籍や雑誌などの本文組版を対象とした一般向けの写植システム「SAPTON-P」も1968年に実用化され、1969年8月にダイヤモンド社に最初に納入された。

「SAPTON」システムは、全自動写植機「SAPTON」とテープ編集機「SAPTEDITOR」で構成されており、「テープ編集機」で紙テープ(鑽孔テープ)に記録された文字コードを、「全自動活字鋳植機」で読み取って組版する形であった。「SAPTEDITOR-P」では制御部にリレーを用いた組版処理機能が組み込まれた。

「SAPTEDITOR」は後にトランジスタを用いて電子化され、より高度な組版処理機能が組み込まれたが、テープ編集機に対する組版処理機能の拡張要求は増加する一方であり、その全てをハードウェアだけで実現するのは困難だと判断された。そのため、写研はコンピュータを用いた編集組版ソフトウェアの開発に着手する。

1969年に発表された「SAPTON-A」システム用に開発された「SAPCOL」が日本初の一般印刷向けの組版ソフトウェアである。編集組版用ミニコンピュータとしてはPDP-8が用いられ(これは1971年に日立製作所のHITAC-10に置き換えられた)、当時のコンピュータはOSに相当するものを持たなかったため、OS相当のプログラムなども写研が自社で開発した。紙テープ編集ソフト「SAPCOL」の登場で、紙テープ編集機「SAPTEDITOR」はその役目を終えた。

「SAPTON-A」は1970年に朝日印刷工業(官報などを印刷している群馬県の印刷会社)に納入された。これが日本初の電算写植システムである。新聞社向けのシステムも同時に開発され、同年に神奈川新聞社に納入された。

1972年の「SAPTON-Spits」システムでページ組版に対応。1976年には「サプトン時刻表組版システム」により、日本交通公社発行の時刻表が電算写植となった。

1970年代から1980年代にかけてはSAPTONシステムの小型化・低価格化・高機能化が進められ、写植を確認するディスプレイが搭載され、メディアは紙テープからフロッピーディスクとなった。DTPが普及する1990年代まで、写研の「SAPTON」システムは日本の小規模印刷における標準的な電算写植システムとして非常に普及した。

特に小規模印刷で大きなシェアを得たSAPTONシステムだが、小規模システムはDTPへの移行が早く、1980年代から1990年代にかけてMacを使ったDTPベースのシステムに置き換えられた。

なお、SAPTONシステムをほぼ独力で開発した写研の藤島雅宏(2014年に死去)は、「SAPCOL」によるコマンドベースの組版をDTPに拠らずに代替するものとして、晩年はXMLベースのXSL Formatting Objectsの普及に携わっていた。

その他の電算写植システム[編集]

NELSONは、朝日新聞社とIBMが共同開発した電算写植システムである。1980年に稼働し、2005年まで使われた。

日経新聞社のANNECSも朝日新聞社のものと同時期にIBMが開発した。

凸版印刷は、1968年に電算写植システム「Computer Typesetting System」(CTS)を富士通と共同開発した。2006年に電算時代の編集組版ソフトウェアのコマンドをXMLベースで置き換え、Adobe Indesignのプラグインとして提供する「次世代CTS」となった。

DTPへの移行[編集]

電算写植で印刷された写研の「ゴナ」と、DTPで印刷されたモリサワの「新ゴ」が混在している

モリサワは「MC型手動写植機」の成功で、手動写植の時代には写研に続く組版業界第2位であり、1976年には電子制御式の手動写植機「MC-100型」、1978年にはブラウン管ディスプレイを搭載して写植の印字を史上初めて肉眼で確認できるようになった「モアビジョン」を発表するなどしていたが、電算写植への動きはかなり遅く、モリサワと独ライノタイプ社との合弁会社であるモリサワ・ライノタイプ社によって1980年に発売された「ライノトロン」がモリサワによる最初の電算写植機となった。

1985年、ライノタイプ社はDTPにおいてアップルやアドビなどと提携する。アドビは日本のDTP業界に進出する機会をうかがっており、またモリサワもDTPに興味を持っていたことから、モリサワはライノタイプの仲介で1986年に米アドビ社と提携し、1989年にアドビよりポストスクリプト日本語フォントのライセンスを取得。同年には日本初のポストスクリプト書体となる「リュウミンL-KL」と「中ゴシックBBB」が搭載されたプリンター「LaserWriter NTX-J」がアップル社より発売され、日本におけるDTP元年となった。

1990年代に入ると、DTPは電算写植を急速に置き換え、モリサワは1998年には年商ベースで写研を抜いて業界トップとなった。特に、1970年代から1990年代にかけて非常に広範囲に使われた写研のフォント「ゴナ」とよく似たデジタルフォントが、モリサワの「新ゴ」として1993年に発売されたことが大きく、写研は1993年にモリサワを訴えたが2000年に敗訴した。

2000年代以降は大規模出版を含むほとんどの出版がAdobe IndesignベースのDTPに置き換えられ、写研を除くかつての写植メーカーがDTP向けのフォントの販売を行っているほか、Indesignでは扱うのが面倒な日本語の大規模自動組版向けのソリューション(モリサワの「MC-Smart」など)も存在している。

写研はDTPへの対応を全く行っていない。そもそも写研は情報公開に消極的で、2000年に写植用フォントを発表して以降の発表が無く、公式ウェブサイトすら存在しないため、DTP時代への対処を検討しているのかしていないのかすらよく解っていない。2011年の「第15回電子出版EXPO」に写研が出展し、写研の名作フォントである「ゴナ」や「ナール」をデジタルフォント化する予定があるとのアナウンスを行ったが、2018年現在でもデジタル化されていない。

鉄道のサインシステムは旧国鉄の「すみ丸ゴシック」を使うJR東海を除いて写研のフォントが使われていたが、電算写植の技術を持つオペレーターが少なくなっているため、DTPを使用せざるをえなくなり、看板が古くなって交換する2010年代以後に「写研のフォントとよく似たデジタルフォント」に次第に置き換えられている。

メリットとデメリット[編集]

手動機に対する電算の利点は、以下のようなものが挙げられる。

  • 手動写植は基本的に1文字ずつ文字を打っていく必要があるが、電算写植では文字入力と組版を分業化できる。
  • 誤植や変更があった場合、手動写植の場合は版下を1文字単位で切り貼りする必要があり、大変な労力を要していたが、電算写植では保存しておいた組版データ上で修正を行うようになり、大幅な修正も簡単になった。
  • また、組版データを保存しておくことができるということは、版下と校正紙が切り離されることを意味し、校正紙を複数出力することなども可能になった。
  • 歯車の動作に依存する手動機では不可能なような、複雑なデザインがこなせるようになった。
  • 写研のSAPCOL(サプコル)に代表される組版プログラムの開発は、日本語組版のルールに基づくページレイアウトを可能にし、“美しい”組版が発達した。

「早く組める」「大幅に直せる」ということにつながる利点は、「あとで直せるから」という意識につながり、原稿を組版工程に回す前段階で綿密に行われるべき編集者の原稿整理や校正、レイアウトなどがおろそかになった(誤植誤報につながる)という指摘も多い。暗算による字数計算に基づく紙面レイアウトなどの、活字時代には編集者の基本とされた技能が、組版技術の進化と反比例するように衰退したとも言われる。それはDTP時代になると、かつてならばあり得なかったであろう「仮組み」(とりあえず組んでみて、レイアウトを調節する)などが行われることにつながる。

WindowsMacintosh上で動作するDTPが電算写植に比べて安価であることから、現在では全体的な傾向としてはDTPが電算写植に取って代わりつつある。しかしDTPでは希望する書体が使えない、和文の組版ルールへの対応が甘い、あるいは数式と和文の混在したページを満足に組めないなどの理由から、現在も相当の需要・使用状況がある。

なお、当初は写真植字の機構を電算機で管理・制御していた「電算写植」であるが、PostScriptへの対応やWYSIWYGを実現したシステムも登場してきており、「DTP」との境目はかなり曖昧になってきてもいる。

関連用語[編集]