写研
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本社(株式会社写研本社・ドーミー大塚ビル) | |
| 種類 | 株式会社 |
|---|---|
| 本社所在地 |
〒170-0005 東京都豊島区南大塚2丁目35番2号 北緯35度43分42.5秒 東経139度43分48.1秒 / 北緯35.728472度 東経139.730028度座標: 北緯35度43分42.5秒 東経139度43分48.1秒 / 北緯35.728472度 東経139.730028度 |
| 本店所在地 |
〒170-0005 東京都豊島区南大塚2丁目26番13号 北緯35度43分42.2秒 東経139度43分48.2秒 / 北緯35.728389度 東経139.730056度 |
| 設立 |
1926年(創業) 1950年(法人化) |
| 業種 | 情報・通信業 |
| 法人番号 | 4013301005935 |
| 事業内容 |
デジタルフォントの開発及び販売 不動産賃貸及び管理[1] |
| 代表者 |
代表取締役会長 南村員哉 代表取締役社長 笠原義隆[2][3][4] |
| 資本金 | 9720万円 |
| 関係する人物 | 石井茂吉(創業者) |
| 外部リンク | https://sha-ken.co.jp/ |
| 特記事項:1926年創業。1972年に現社名へ商号変更。 | |


株式会社写研(しゃけん)は、東京都豊島区南大塚に本社を置く、デジタルフォントの開発販売と不動産の賃貸管理業を行う企業である[1]。
かつては邦文写真植字機・専用組版システムの製造・開発を行い、そのパイオニアとして業界首位を誇ったが、1990年代以降普及したDTPには一切対応せず事業規模を大きく縮小した。2024年にモリサワとの協業でOpenTypeフォントの提供を開始した。
概要
[ソースを編集]星製薬を退職して邦文写真植字機の実用化を目指していた石井茂吉と森澤信夫が2台目の試作機を完成させた1926年11月3日、石井の自宅を所在地に設立した写真植字機研究所を由来とする。1929年には最初の実用機の販売を開始した。
特許公報における邦文写植の発明者で戦前にいったん石井と決別していた森澤が戦後、戦災で事業継続が不可能になった写真植字研究所の製造部門として製品を製造(1948年、「写真植字機製作株式会社」として法人化)し、写真植字機研究所(1950年、「株式会社写真植字機研究所」に法人化)が販売部門を担当する形で共同事業が再開されたが、写研側が独自で製品の製造を開始したため共同事業は再度解消された[注 1]。その後も写研は高度成長期の印刷需要急伸に伴う写真植字の急速な普及の波に乗り、写真植字のトップメーカーに成長した。
1963年の石井茂吉没後は半世紀以上にわたって三女の石井
以後、主な顧客は大都市圏の中堅及び中小の印刷会社や地方の印刷会社となったが、書体コンテストの開催など「書体の写研」をアピールする派手で巧妙なイメージ戦略を展開し続けたことで売り上げを伸ばし、写植全盛期の1980年代半ばには関東で8割、関西で6割の書体占有率を誇った[6]。年商は300億円を超え、従業員は1,200人を超える大手企業となった[6]。
しかし1990年代、写植にない操作性の良さと低コストで広く普及したMacintoshによるDTPには背を向け、印字1文字ごとにユーザーから使用料を徴収でき、高額な自社製機器販売による売上が見込める自社固有の電算写植システムに固執したため業績は急激に悪化。過去の利益を蓄えた数百億円に上る多額の内部留保金を温存したまま[7]、2003年以降、大きく事業規模を縮小した[7]。
かつては石井茂吉が手がけた「石井明朝」「石井ゴシック」などの書体のほか、1970年代に華々しく展開した自社のブランド戦略のもと、多くの書体デザイナーによって「ナール」「ゴナ」などの時代を代表する書体を数多く開発したが、裕子社長の独裁体制が強化された1980年代末から2000年代初頭にかけて、デザイナーが大量退社し社外に活躍の場を求めたことで、結果的に同時期から普及が進んだ日本語デジタルフォント環境の進展に大きく寄与することになった。
写研出身の書体デザイナーとしては、写研の文字制作責任者として茂吉時代から書体制作や監修を手掛け、退社後イワタエンジニアリング(現・イワタ)を国内有数のデジタルフォントベンダーに育てた橋本和夫(モトヤ出身、イワタ顧問)や、装飾書体「スーボ」を生み退社後に字游工房社長として「ヒラギノ明朝体」(1993年)などを送り出した鈴木勉(1998年没)のほか、鳥海修(字游工房)、小林章(ドイツ・モノタイプ)、今田欣一(欣喜堂)などが知られる。
沿革
[ソースを編集]- 1924年(大正13年) - 石井茂吉と森澤信夫が邦文写真植字機の特許を出願。(特許権者・石井茂吉、特許権者及び発明者・森澤信夫)
- 1926年(大正15年) - 共同事業として写真植字機研究所(東京府北豊島郡王子村堀船町)創業。
- 1933年(昭和8年) - 写真植字機研究所の共同事業から森澤信夫が離脱し大阪市西成区津守町西2丁目(現・北津守2丁目)で工場経営を開始。
- 1944年(昭和19年) - 写真植字機研究所が東京都豊島区巣鴨7丁目(現・南大塚2丁目)に移転。
- 1945年(昭和20年) - 空襲で石井の自宅や工場などが焼失し写真植字機研究所の事業停止。
- 1946年(昭和21年) - 石井茂吉の申し入れを受けて森澤信夫が写研製造部門として自身の工場でA型写植機の製造を開始し、写真植字機研究所が販売部門を担当する形で共同事業を再開。
- 1948年(昭和23年) - 森澤が写植機製造事業を写真植字機製作株式会社として法人化。
- 1950年(昭和25年) - 写真植字機研究所が株式会社写真植字機研究所に法人化。
- 1954年(昭和29年) - 写研が写製製品の販売に代わり自社での製造販売を開始したため、写製は株式会社モリサワ写真植字機製作所(現・株式会社モリサワ)に商号変更し自社での直接販売を開始。
- 1955年(昭和30年) - 石井茂吉と森澤信夫が共同事業を解消。
- 1963年(昭和38年) - 石井茂吉の三女・石井裕子が社長に就任。
- 1972年(昭和47年) - 株式会社写研に商号変更。
- 2000年(平成12年) - 最後の写植新機種(レイアウトターミナル)「Singis」と最後の写植用新書体「本蘭ゴシック」ファミリーを発表。
- 2018年(平成30年) - 石井裕子が社長在任のまま死去。後任として南村員哉が就任[2][3]。
- 2020年(令和2年) - 南村員哉が会長に就任、同時に笠原義隆が社長に就任[4]。
歴史
[ソースを編集]創業
[ソースを編集]星製薬が1923年、PR機関紙を発行するために活版輪転機を導入した際、その年の1月に同社に入社した兵庫県揖保郡太田村出身で高等小学校卒の森澤信夫が主任として同社の印刷部立ち上げを手がけた。同年10月には森澤より14歳年上の東京府北豊島郡王子村出身で東京帝国大学工科大学卒の石井茂吉が技師として同社に転職しており、2人は英国で開発された写真植字機の日本での実現に取り組んだ。
試行錯誤の末、1924年に「邦文写真植字機」の特許(特許権者に石井茂吉、特許権者及び発明者に森澤信夫)を出願し、翌1925年に試作第1号機を発表した。石井の提案で2人は共同事業の契約書を交わしたのち、実家が米穀店であった石井の資金をもとに1926年に「写真植字機研究所」を創業。主に石井が書体開発、森澤が機械開発を担当して1929年に「実用機」を完成させ、知人を通じた石井の働きかけで共同印刷、凸版印刷、秀英舎、日清印刷、精版印刷の当時の国内大手印刷会社5社に1台ずつ販売した。
しかしその後の受注はほとんどなく厳しい経営状況が続く中、石井による在庫写植機の無断売却や、石井が外部に自身の「助手」として森澤を紹介していたことを知ったことなどが重なり、年齢差と学歴差を前提にした度重なる石井の言動に共同事業者として不信感を抱いた森澤は1933年、共同事業を解消して石井と決別し、大阪市西成区津守町西2丁目(現・北津守2丁目)で工場を経営。自動車向けのねじ部品製造のほか、その製造機械や製缶機械の開発などを手がけ、さらに大阪螺子工業組合の副理事長などを務めた。
一方、写研の写植事業は石井単独で続けられ、書体変形レンズやルビ印字機構、ゴシック体や楷書体の文字盤整備などの改良を施した「石井式写真植字機」(1936年、A型)は日中戦争勃発後に満州や中国大陸向けの受注があった。太平洋戦争中には写植機の受注は皆無となったが、石井は縦送りと横送りの主ハンドル共用化などの改良を加えた「石井式二六〇四型写真植字機」(1942年、SK-1)を製作した。
写研は1944年に東京都豊島区巣鴨7丁目(現・南大塚2丁目)へ移転。1945年には軍当局から写植機4台の無償徴用命令が下ったが[8]、4月13日の空襲で写研工場が被災し焼失したため納入できずに終わり、空襲に備えて地中に埋めていた石井式写植機と二六〇四型写植機の各1台のみが残り、自力での事業継続は困難となった[9]。
1945年〜1950年代
[ソースを編集]石井は終戦後の1946年、理研工業と提携して写植事業を再開しようとしたが、理研はすべての特許権や研究成果を理研側が取得した上で石井を従業員として雇うという厳しい待遇条件を示したため、石井は工場を経営していた大阪の森澤を呼んで共同事業の再開を申し入れ、森澤が大阪の自身の工場で写研製造部門を担う形で1946年に写真植字機研究所は事業を再開した。
森澤は石井式写植機を「A型」として本体を製造出荷。販売部門である東京の写研は平凡社が設立した写植専門の印刷会社・東京印書館(東京都板橋区成増町)の一角を間借りして写製から受け取った写植機本体にレンズや光源などを取り付けて販売した。森澤は1948年12月に新会社「写真植字機製作株式会社」を設立して写植機製造事業を法人化した。
このあと写研も1950年になって「株式会社写真植字機研究所」として法人化した。同年には従来機の低い組み精度の原因で特に横組みに難があった「レンズ・光源系」を移動する方式に代え、「暗箱系」を移動する方式に抜本的に見直した新型写植機「MC」(1950年、MC-1)を森澤が設計開発。大阪の写製が製造し東京の写研が販売する、A型と同様のスキームで発売を開始した。
しかしこの頃には、書体開発者の観点から「文字盤の面積を拡げ収容文字数を増やすべき」とする石井と、機械技術者の観点から「採字作業者の操作負担を考慮して収容文字数は制限すべき」とする森澤の議論がかみ合わなかったことを端緒に、石井が森澤に対し共同事業者ではなく自身の下請けになるよう持ちかけるなど、年齢差と学歴差を理由に上下関係を求める石井と、共同事業者として対等な関係を求める森澤の間で、かつてと同様の齟齬が再び拡大していた[10]。
1952年には森澤がMCの改良型「MC-2」を開発して写製で製造を開始したが、写製で製造された写植機の販売事業で収益を上げ巣鴨に工場や自宅の再建を果たした石井は、最終的に自身が戦時中にA型を改良したSK-1(二六〇四型)を元に写研で対抗機種「SK-2」(1954年)の製造販売を独自に開始し、森澤に圧力をかけた。
共同事業のスキーム通りに写研向けの製造事業に専念していた写製は売り上げ途絶の危機に瀕し、森澤は同年、写製の商号を「株式会社モリサワ写真植字機製作所」(1971年、株式会社モリサワに商号変更)に変更して販売部門を新設した。翌1955年、写研へのMC-2出荷を正式に取りやめて石井と再度袂を分かち、東京都中央区日本橋室町に東京における自主販売チャンネルとなる東京営業所を開設。以後MCシリーズはモリサワが販売を行った。
石井と森澤の決別は、平凡社が東京印書館でMC-2を用いて組版した『世界大百科事典』(1955年版)の1巻を刊行したばかりの時期であった。本文が横組みである百科事典の編集作業強化にあたって、SK-2よりも横組みの精度が高いMC-2の増備を計画していた平凡社は、両者の決別に対し2巻以降も書体を変えることなくMC-2で編集を継続したいと強く要求したことから、写研が折れる形で写研製文字盤を東京印書館に増備されたモリサワ製MC-2に提供し、1960年にかけて全33巻が刊行された。
もっともこのころの新聞社や印刷会社では、鑽孔テープ化した原稿データを元に、内蔵した母型を用いて1分間に85本から100本以上の速度で活字を自動鋳造し植字まで行う自動活字鋳植機(全自動モノタイプ)の中川機械(のち中川電機)製SC-R型(1950年)やRAC型(1955年)、日本タイプライター製MT-H高速自動モノタイプ(1954年)、東京機械製作所製FAM型(1957年)、池貝鉄工所製HAM型(1959年)などが既に広く普及しており、写植を上回る組版の省力化と効率化が実現していたため、石井と森澤の双方の努力にも関わらず、写植の普及は思うように進まなかった。
1960~1970年代
[ソースを編集]1963年、創業者の石井茂吉が急逝し、三女の石井裕子が第2代社長に就任した。
軽印刷や商印下請けでの写植普及
[ソースを編集]1960年、すべてを写研の写植で組んだ『大漢和辞典』(全13巻、大修館書店)が完結し、石井茂吉が菊池寛賞を受賞して注目されたが、写植は端物印刷における描き文字や活版印刷の代用として、広告文字やチラシの説明文などにもっぱら用いられていた[11]。
1962年にモリサワが「MD」を発表したのに続き、写研も翌1963年、「SPICA」を発表した[11]。それまで両社が製造販売していた写研SKシリーズとモリサワMCシリーズは、いずれも一般の商業印刷会社での使用を前提とした比較的大型の装置であったのに対し、この両機種はともに本文組専用機とすることで機体を事務机程度に小型化することに努めており、一般の家屋内にも導入できるようになった。価格も当時の価格で40万円程度と従来機種のおよそ半額に抑えられ、素人でも採字しやすい文字盤を取り入れていた[11]。
また和文タイピストが写植機を扱うことを想定し和文タイプライター配列の文字盤も別に用意したことで[11]、当時の軽印刷業界の代表格であった謄写版による「タイプ印刷」の業者がそのまま写植に移行できるようになり、軽印刷のほか、一般商業印刷におけるオフセット印刷の普及に伴って増加しつつあった、清刷り・版下製作の下請けを営む中小零細企業や個人事業者の間で写植の普及が一気に進み[11]、一般印刷物における写植の割合が増加した。
その結果、大阪を拠点とするモリサワに対し、写研は各種出版業界が集中する地元東京での書体占有率が向上し、1970年代から1980年代にかけて写研が大展開した同社のブランド戦略の基盤となった。茂吉没後の写研は裕子社長のもと、裕子の夫・石井喜代士常務が中心となって高額な電算写植機の開発に急速に傾斜していったが、「SPICA」シリーズは1970年代末までのロングセラーとなり、写研手動写植機の代表的な機種となった。
またこれを契機に以後、軽印刷と一般商業印刷の間の印刷工法の差は次第になくなっていき、SPICA、MDの両機種の登場は、軽印刷業界の地位向上につながった[11]。
電算写植機の普及と競合
[ソースを編集]一方、主に端物用として扱われた手動写植機の非効率性をコンピュータで自動化することで補い、一般印刷業界の全自動モノタイプから本文組を奪うことを目指した写真植字機「電算写植」は、米国においてフォトン社の「ZIP 200」(1951年)などが先鞭をつけた。国内では写研が1965年、国産初の実用的な電算写植機で新聞用の「SAPTON-N3110」を発表し、第1号機をそれまで機関紙「社会新報」の組版を写研SPICAで行っていた日本社会党機関紙印刷局に納入した。
以後、周辺機器を含めた新聞用SAPTON-Nシリーズの新聞各社への納入が1970年代にかけて続き、電算写植機の製造販売は同社の主力事業となって急速に売り上げを伸ばした。1972年には新本社ビルを建設し、「研究所のイメージを廃する」として商号を「株式会社写研」に変更した。
高額な設備投資がユーザーに可能であった高度経済成長の追い風のもと、写研のSAPTONは日本における電算写植の牽引役として、「FACOM」(富士通)、「DIC電算写植システム」(大日本インキ化学工業・米国フォトン・米国ユニパック)、「IBM電算写植システム」(日本IBM・モトヤ)、「JEM電算写植システム」(日本電子産業→日本電気漢字システム・モトヤ)などとともに新聞社や印刷会社に導入され、「写植」は登場から半世紀を経てようやく組版の主役となった。
しかしその初期に組版制御ミニコン内蔵の「スタンドアローン型」であるSAPTONで大きな成功を収めた写研は、外部のコンピュータからの組版指令で制御される「スレーブ型」方式と、旧来の文字盤に代わり文字をCRTに投影して印字することでさらなる印字高速化を実現したCRT投影方式の電算写植機(第3世代写植機)[12]の2つの技術への対応が1977年から(SAPTRONシリーズ)と他社よりも遅れ、SAPTON-Nでいったん獲得した新聞業界でのシェアを失った[13]。
またメーンフレームで全自動写植システムを構築し、富士通FACOM-PETYや、第3世代機の元祖で国内でも広く普及した西ドイツ・ヘルDigisetといったスレーブ型写植機を導入した凸版印刷や大日本印刷などの大手印刷会社にも採用されなかった[14][15]。
以後の写研の顧客層は、大都市圏の中堅および中小の印刷会社や地方の印刷会社が中心となり、コンピュータメーカーとの直接対決を避けながらスタンドアローン型第2世代機「MORSET」(1974年)で写研より9年遅れで電算写植機事業に本格参入したモリサワがターゲットとする顧客層と、結果的に大差がなくなった。さらに写研機はその高額さが特徴だったことから、より高性能なDigisetや、より価格が手頃な国内外の各社機に年々シェアを浸食され続けた[16]。
しかし急速な社会の経済成長を背景に印刷業界全体の規模が年々膨張していたため、「石井賞創作タイプフェイスコンテスト」の創設(1969年)[17]など、「書体の写研」として自らをブランド化し、自社の直接の顧客である印刷会社ではなく、印刷を発注するクライアント側に訴求する巧妙なイメージ戦略を大きく展開することで、写研の売り上げはなお伸び続けた。
もっとも電算写植は多額の費用を写植機メーカーに支払う必要があり、地方の印刷会社においては経営規模に比べ投資負担があまりにも過大であったため、1971年の長野県を皮切りに、複数社が共同で資金を出し合って電算写植システムを共有する「電算写植協同組合」が設立されるほどであった[18]。
第3世代化の遅れと新聞業界でのシェア喪失
[ソースを編集]国産初の実用電算写植機となった新聞用第2世代写植機「SAPTON-N」は、写研常務で裕子社長の夫であった石井喜代士が中心となって開発し、1967年の朝日新聞北海道支社を皮切りに、1970年代初頭にかけて大手紙や地方紙の多くの新聞社が一斉に導入した。活字を用いた全自動モノタイプはSAPTON-Nに置き換えられ、写研は各新聞社のコールドタイプ化の立役者となった[19]。
SAPTON-Nは当初、オリジナルの記事データと組版および赤字訂正データの2種類の鑽孔テープをテープ編集機「SAPTEDITOR-N」でデータ統合して別の鑽孔テープ(ファイナルテープ)を作成し、それを本機で読み込む形で制御を行っていたが[20]、まもなく組版処理データを内蔵の制御用ミニコンに持たせて制御する「スタンドアローン型」写植機に進化し[12]、写研は周辺機器を含む新聞社向けの新機種を次々と発表して、瞬く間に国内新聞業界に盤石のシェアを築いたかに見えた。
その最中の1971年末、IBMのメーンフレーム「IBM System/360」で構築され、第3世代写植機であるデジタルCRT投影方式(ディジセット方式)電算写植機・米国オートロジックAPS-3にメーンフレームとの通信機能を持たせた「スレーブ型」写植機「IBM 2680」を用いた国内新聞社初の「電算紙面編集システム」が朝日新聞「NELSON」(ネルソン)と日本経済新聞「ANNECS」(アネックス)の両システム名でそれぞれ導入され[12][13]、翌1972年には、ディジセット方式の元祖である西ドイツのヘルが後継新機種の第3世代機「Digiset 40T1」「Digiset 40T2」を発表した[13]。
これに合わせて先に米国RCAのデジタルCRT機「ビデオコンプシステム」輸入を扱っていた大倉商事(大倉エレクトロニクス)が、Digisetの日本における輸入代理店になったことで[13]、新聞業界は印字が低速で手作業で大貼りを行わなくてはならない第2世代機・写研SAPTON-Nの時代から、印字が高速なスレーブ型第3世代機を出力機としフルページで統合的な編集を行える電算紙面編集システムの導入を目指す新時代に一気に転換した[13]。
SAPTON-Nユーザーだった大手やブロック紙、県紙の各社は、1974年ごろからDigisetを組み込んだ富士通や日本IBM、東芝などの紙面編集システムを次々に導入した[12][13]。一方、スレーブ方式に対応せず第2世代機しか持たない写研は、SAPTON開発を率いていた石井喜代士が1974年に44歳で急逝しており、わずか数年で新聞業界での出力機シェアを喪失していった。
国産の第3世代機は、秩父セメントが設立した日本電子産業(JEM)が開発した「JEM 3800 漢字プリンター」(1968年)をベースに1970年に発表したアナログCRT機「JEM 3850」が最初であった[13]。JEM 3850は日経ANNECS向けオートロジックAPS-3(IBM 2680)にデジタルフォントを供給したばかりであった老舗活字メーカー・モトヤの各種フォントを搭載し、JEMはモトヤと合弁会社「株式会社デンショク」を設立して第3世代機の普及環境を整備した。
JEMは日本電気傘下に入り日本電気漢字システム(NEAC、1975年)に改組したあとの1976年、日本語アウトラインフォントをビットマップ画像に変換してCRTに投影する方式のスレーブ型デジタルCRT機「JEM NEAC PT 220」を組み込んだ「JEM NEAC 7500」編集システムを発表した[12]。同年には西独ヘルも全15段フルページ出力可能な新型デジタルCRT機「Digiset 40T3」を発表し[13]、ともに新聞業界に限らず、国内の一般商業印刷業界にも導入された。
写研はJEM 3850の発表から7年が経った1977年になってようやく、既存のSAPTON-NS26にCRT印字文字出力部を付け加えて作ったアナログCRT機「SAPTRON-G1」と、同機の製作に並行して朝日NELSON・日経ANNECSで使われたオートロジックAPS-3の後継機APS-5を買い入れフォントを日本語ビットマップに積み替えたデジタルCRT機「SAPTRON-APS5」の、ともにスレーブ型の第3世代機「SAPTRON」シリーズの発表にこぎ着けた[12][13]。しかし「オートロジック製品のフォント積み替え版」を脱した自社のデジタルCRT機を発表するには、ここからさらに6年後の「SAPTRON-Gelli S3225」(1983年)まで待たなくてはならなかった。
SAPTRONシリーズで写研は、新聞用をうたった機種を繰り返し発表し新聞業界でのシェア回復を目指したが、写植出力機がシステム組込のスレーブマシン中心となった時代に、写研機を進んで導入する意義はもはやなくなっていた[13]。JEM NEAC 7500システムや東京機械製作所の「CAPPS-72S」(1988年)などの他社製国産第3世代機が1990年にかけて複数の新聞社に導入される中[13]、写研SAPTRONの新聞社導入例は1979年の高知新聞(SAPTRON-G8N)に留まった[13]。SAPTRON-G8NはアナログCRT機で全15段フルページ出力はできたものの画像は扱えず、高知新聞では印画紙が出力されたのち手作業で線画や写真を貼り込んで紙面を完成させていた[13]。
一方、スタンドアローン型第2世代機のSAPTON-N[12]が引き続き市場としていた小規模地方紙でも、性能に比べ高額なSAPTON-Nは各社から避けられるようになった。1970年代後半にはイメージスキャナメーカー・米国PDIの関連会社である日本PDIのスタンドアローン型第2世代機「CAT-N1132」(1974年)や「CAT-N2372 MARK-II」(CAT MARK-II、1977年)がシェアを急速に拡大し[12][19]、山陰中央新報のように当初SAPTON-NS11を導入したものの、高額であることを理由に追加増備機をSAPTONからCAT MARK-IIに変更したのち、一度導入したSAPTON-NS11までもCATに置き換えて排除したケースもあった[19]。
さらに国内新聞業界では1980年ごろから、既存の新聞ファクシミリ受信機の技術を応用してレーザーやLEDを光源にフルページ印字するDigisetや日本電気、松下電送製の「新聞紙面プロッター」の導入が徐々に始まり、写植機そのものが次第に使われなくなった[13]。写研はSAPTON-Nシリーズでいったん掴んだ新聞業界でのシェアを最後まで取り戻せないまま終わった。
1980〜1990年代
[ソースを編集]写研は1981年を最後にスタンドアローン型第2世代機SAPTONの新規開発を取りやめ、その代替機種として1983年、オートロジックAPS Micro 5(1979年)のフォントを積み替えた「SAPTRON-APSμ5」(1981年)に、さらに組版用ミニコンを搭載することでスタンドアローン化したデジタルCRT機「SAPTRON-APSμ5S」を発表した。また計測器機用の5インチCRTを使った自社開発のスタンドアローン型デジタルCRT機「SAPTRON-Gelli S3225」も発表し、懸案だった自社製デジタルCRT機をようやく実現させた。
1985年にはフォントをアウトライン化した「Cフォント」に置き換えたスタンドアローンタイプとスレーブタイプの「SAPTRON-Gimmy S1040/SS1040」を発表し、1970年代の電算写植界で各コンピュータメーカーに対して喫した技術的な立ち遅れの挽回を図ったが、既にこれら第3世代機に代わって電子的に制御されたレーザーやLEDで直接感材を露光する、これまでの写真植字の概念を超えた新方式の出力機「イメージセッター」が台頭しており、写研はこれを最後にSAPTRONの開発も取りやめた。
このころはバブル景気が始まって全国的に経済が過熱化しており、地方の中小印刷会社でも電算写植の導入需要が高まっていた。写研は新たに、自社製品のみで構築できる小規模編集組版システムの売り込みに転換し、WYSIWYGで組版編集を行い出力機に組版指令を出して制御するコンピュータ「レイアウトターミナル」の「SAIVERT」シリーズと、Cフォントをソフトウエアで処理するとともに画像データもラスタライズして直接レーザーで出力する「イメージ・タイプセッター」の「SAPLS」シリーズ各機種を1980年代半ばにかけて次々と発表した。
1987年には、文字盤でフォントを販売する創業以来の手動写植機の開発を「PAVO-KY」で打ち切るとともに、電電公社民営化(1985年)に伴う電話回線のデータ通信端末機器開放を受けて、SAIVERTやSAPLSで構築された編集組版システムを電話回線で写研のサーバと結び、印字1文字ごとにフォントレンタル料を徴収する従量課金制度を開始した。この課金徴収システムの整備と高額な編集組版システムの製造販売で、1991年には年間売上が過去最高の350億円に達した[5]。
しかし同時期に米国のアドビシステムズ(現・アドビ)によって進められた日本語PostScriptフォントの制作プロジェクトは、アドビへの協力を拒否した写研に代わってモリサワがこれを引き受けたことで、1990年代のDTPの爆発的な普及がもたらされた。
戦後の印刷業界の拡大を支えてきた国内景気が1990年代に入って後退に転じる中、裕子が1980年代末から始めたワンマン経営体制の強化によって既に社外への人材流出が始まっていた写研は、それまで毎年のように新機種を発表していた出力機やレイアウトターミナル、それに書体などの新規開発が停滞。1990年代後半には日立製作所のワークステーションや市販パソコンをハードウェアに使った、従来より低価格なレイアウトターミナルのリリースを試みるなどしたが、写植そのものの大きな衰退の流れに抗うことはできず、写研の売り上げは急激に落ち込んだ。
写植の急速な衰退
[ソースを編集]1980年代、米国のベンチャー企業アドビシステムズ(現・アドビ)は、パーソナルコンピュータで日本語組版を行うDTP環境構築に不可欠な日本語PostScriptフォントの制作を目指していた。アドビは1986年、国内トップメーカーであった写研に提携を持ち掛けたが、絶頂期にあった写研はこれを拒否した。
最終的にアドビは業界2位で電算写植では後発となったモリサワと提携し、1989年、モリサワの「リュウミンL-KL」および「中ゴシックBBB」をPostScriptフォント化して搭載したプリンター「LaserWriter II NTX-J」がアップルコンピュータジャパンから発売された[6]。
これを皮切りに、バブル崩壊の中、導入に安くても数千万円から億単位の投資が避けられない電算写植よりも圧倒的に低コストで設備を整えることができ、機器操作専門のオペレーターを介することなくデザイナー自身の手による効率的な作業が可能で[6]、フォントを買い切るためランニングコストも低いという数々の利点を持つDTPは、その標準プラットフォームとなったApple製パーソナルコンピュータ「Macintosh」とともに急速に普及した。
写研の売り上げは1992年から急速に悪化し、同年から架空の売り上げを計上する粉飾決算で黒字を装い続けた[5]。写研はフォントレンタル料徴収に加え、組版データをPDF出力する新機能にも従量制の高額な使用料を課すなどして売上維持を図ったが、ユーザーの写植離れとMacintoshへの移行の流れはとどまるところを知らず、1998年には売上175億円の写研に対し、PostScriptフォント事業に注力するモリサワが売上187億円となり、モリサワが年商ベースで写研を抜いた[5]。
この時期には、電算写植の急速な普及で活版業界が衰退する以前の主要活字メーカーで、IBM 2680向けに世界で初めて日本語デジタルフォントを開発(1969年)して写研に先んじて第3世代写植機の日本語フォント環境を支えるとともに、活字技術を活用した「タイプレス」やその発展型となる電子組版機のメーカーとして生き残っていたモトヤ(旧・モトヤ商店)と、1968年の倒産分社を経て1970年代から電子機器向けのデジタルフォント開発を始めていたイワタ(旧・岩田母型製造所)も、ともにDTP向けフォントの開発販売を主力事業に選び復活していた。
書体制作部門の混乱と壊滅
[ソースを編集]創業者石井茂吉の三女でワンマン社長として知られた[5]裕子は、就任(1963年)から25年を迎えた1988年3月、予告なく総務担当専務や部長など幹部を大量に更迭して、自身が本部長のみならず大半の部長職までも兼務して各部の現場を直接自身の支配下に置く異様な人事異動を突如実施した[21]。それまで総務部が所管していた社員研修も直接指揮し、参加社員に自身への「お布施」を支払わせるなど裕子個人への忠誠心を問うスピリチュアルで洗脳的な内容に変え[22]、企業の「私物化」とも評された[5]独裁的で強固なワンマン経営体制を確立した。
文字部については、デザイナーが所管する書体制作業務を「文字開発部」として分割させ、裕子自身が部長を兼務して直接管理を始めたため[21]、翌1989年3月以降、鈴木勉や小林章など文字開発部の主力デザイナーたちが一斉退社した[23][24]。同年9月には鈴木ら退社組の一部が書体デザイン会社「字游工房」を設立し、退社したほかの写研デザイナーも同社に合流した[24]。
裕子は没するまで書体制作の実作業に携わったことはなかったものの、開発環境のデジタル化の進展に伴ってワークステーション上での原字修整作業を可能にしたいとする文字開発部内の要望を拒否し、デジタル化した原字データを再度アナログ出力し手作業で修整する従来の工程厳守を命じた[23]。自社広告で創業70周年の1995年に発売を予告していた本蘭ゴシックファミリーは、裕子の要求でデザインコンセプトの大変更を余儀なくされたことも重なり[25]、70周年には間に合わなかった[23]。
この時期には「本蘭アンチック」として開発され、「本蘭A明朝U」の名で広告された書体など、開発が進められていた複数の書体が発売に至らなかったほか[26]、裕子は社内で提案された写研書体の自社システム以外での使用開放案も却下した[23]。その後も2000年代初頭にかけてデザイナーの流出が続き、わずか10年余で写研の書体制作部門は壊滅に追い込まれた[27]。
巨額の所得隠しと粉飾
[ソースを編集]1999年1月、写研は所得隠しと粉飾決算の疑いで国税庁の査察を前年(1998年)に受け、社内の地下金庫から同庁の査察史上前例のない現金約85億円と割引金融債約25億円が一度に見つかっていたことが明らかになった[28]。
写研は高額な電算写植機の販売が急伸していた1975年ごろから1988年にかけて、自社の取引のほとんどを現金や小切手で行っていたことを利用し、営業部門の売上から取り除いた現金を毎年10億円前後、経理担当幹部が地下倉庫の金庫に運び込み、裏金として蓄財していた[28]。さらに急速な業績悪化が始まった1992年からは、赤字決算を避けようと、裏金を年間5、6億円程度経理に戻し、高いもので一式の価格が1億5000万円の機器などを販売したことを装い、架空の利益を計上して決算を粉飾していた[28]。
発覚時点で脱税に関しては時効が成立していたため、国税庁は発見された現金等を会社資産として繰り入れるよう指導するとともに、割引金融債の時効内の利息分に対してのみ追徴処分をとった[28]。
2000年~2018年
[ソースを編集]写研は2000年、電算写植システム専用の新書体として本蘭ゴシックファミリーを当初の予定から5年遅れで発表したが、結果としてこれが写研最後の写植用新書体となった。毎年の売上は対前年比で約10〜30%減と急激な落ち込みに歯止めがかからず[7]、2003年には早期退職募集を行った結果[7]、組版システム開発にあたるソフト開発部門は56人から3人、製品販売を手掛ける営業部門は46人から1人にそれぞれ激減[7]。事業体制は零細・小企業並みの規模に転落した。
2006年の売上は機械販売5500万円、手動写植機文字盤などの機械付属品販売1億4800万円、売上全体の7割を占めるフォントレンタル収入も9億1700万円にとどまり[7]、年商規模は数年前のおよそ10分の1となった。しかし最盛期に蓄えた400億円を超す内部留保だけは取り崩さず[7]、企業としての目立った事業展開や投資を止めたまま、社外から写研の本来の事業とは無関係なアルバイト程度の内職仕事を集め従業員に従事させる[7]という異様な経営を続けた。
2007年7月時点の従業員数は109人で、うち工場所属は40人(埼玉工場30人、川越工場10人)、地方営業所所属は9人[7]と、最盛期の10分の1以下となり、まもなく100人を割り込んだ[6]。高齢化も進んでおり、同年5月現在で従業員全体の7割以上が50歳以上であった[7]。
以後、パーソナルコンピュータによる各種出力が一般化し、機器老朽化や写植用印画紙の供給終了(2013年10月)などによる既存写植機との置き換えが進んだことで、一般商業印刷、放送業界におけるテレビ番組のテロップ、各種屋外掲示物などで広く使われてきた写研書体のほとんどは姿を消した。この間、2011年には石井裕子社長名で写研書体のOpenTypeフォント「写研フォント」の発売を告知したものの実現しなかった。
2018年以降
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2018年、半世紀以上にわたり代表取締役社長を務めて支配した石井裕子が在任のまま92歳で死去した[2][3]。後任社長には資産管理を行っている顧問税理士で取締役の南村員哉が就任し、閉鎖状態となっていた旧工場などの遊休地処分をただちに開始した。
同年には旧川越工場(埼玉県川越市)の施設を解体して鶴ヶ島市内の所有地と合わせて住友商事に売却し[29]、同社運営の物流施設「SOSiLA川越」(2019年2月竣工)が進出。2020年には旧埼玉工場(埼玉県和光市)も写研が発注者となって解体工事を開始した。跡地は食品スーパーのヤオコーへ賃貸され[4]、2021年10月にヤオコーが管理・運営する商業施設「the marketplace 和光」となった[30]。2020年8月には南村に加え、前年7月に取締役に加わったばかりの笠原義隆が代表権を取得し[2]社長に就任した。
2021年、モリサワとの共同事業として、かつて頓挫した写研書体のOpenTypeフォント開発に着手し、2024年10月15日にモリサワのクラウド型フォントサービス「Morisawa Fonts」に写研製フォントの提供を開始した(後述)[31]。
本社は戦時中の1944年に移転した東京都豊島区巣鴨7丁目1808番地(のち南大塚2丁目26-13)にあり、1972年には地上6階建ての本社ビルを建設したが、2022年1月14日、閉鎖状態が続いていた隣接地の「写研トライアルセンター」(旧印字部)跡地に、学生寮「ドーミー」を運営する共立メンテナンス設計による「株式会社写研本社・ドーミー大塚」ビル(鉄筋コンクリート造、10階建)を着工[32][33]。2、3階を本社事務所とし、4階以上を学生寮「ドーミー大塚」として共立メンテナンスに賃貸する形で2023年4月12日に本社を移転[34]。旧本社跡には2026年3月に賃貸マンションが建設された。
写研書体の「OpenTypeフォント化」
[ソースを編集]写研は2011年7月、東京ビッグサイトで開かれた「第15回国際電子出版EXPO2011」に出展。従来の方針を大きく転換し、OpenType化した「写研フォント」を年内をめどにリリースすると石井裕子社長名で発表した[35]。写研はこの時点でOpenType化作業は終了しているとして[35]、会場ではどの書体からリリースするべきかのアンケートを行うとともに[35]、印刷業界におけるプロユースを念頭に、Adobe InDesign CS5上での組版やiPadでの電子書籍閲覧などで写研フォントを用いるデモンストレーションを行い[35]、大きく注目された。価格は未定で、電算写植機用デジタルアウトラインフォント(Cフォント、タショニムフォント)で存在する全書体を予定していた[36]。
しかしOpenType化の元データとなった写研のCフォントやタショニムフォントは、アウトラインががたついて滑らかな曲線を描いていないなど、現代のデジタルフォントに比べて原字に対する精度が低いため[37][38]、そのままでは商品化ができず2011年末を過ぎても販売時期未定の状態が続いた[39]。
さらに写植時代の既存文字だけではAdobe-Japan1-3(OpenType Std / StdN、9354グリフ)程度にしかならない問題があり[40]、写研が印刷業界の自社ユーザーに聞き取りを行ったところ、最低でもAdobe-Japan1-4(OpenType Pro / ProN、1万5444グリフ、2000年3月発表)以上を要し、一般的にはAdobe-Japan1-6(OpenType Pr6 / Pr6N、2万3058グリフ、2004年6月発表)が常用される現代の商業印刷におけるプロユースには耐えられない[注 2][40]との指摘がなされた。
印刷業界が求めるAJ1-4以上にするには、写植時代にはなかった不足分の文字を各書体ごとに新しく制作する作業が避けられなかったが、1990年代のデザイナー大量退職と2003年の早期退職募集以後の写研には手がけることのできる人材がおらず、結局2016年ごろを最後に「写研フォント」を提供しようとする動きはいったん途絶えた。
モリサワとの共同事業へ
[ソースを編集]石井裕子没後の2021年1月18日、モリサワは写研社長・笠原義隆およびモリサワ社長・森澤彰彦の双方のコメントとともに、両社共同事業として写研書体のOpenTypeフォント開発を進めることに合意し[41]、手動写植機試作1号機開発中の1924年に石井茂吉と森澤信夫が行った邦字写植機特許申請100周年に当たる2024年から順次提供すると発表した[41]。
書体開発はモリサワと同社子会社の字游工房(2025年11月、モリサワに吸収合併)が共同で行い、全体監修を字游工房の書体設計士で写研出身の鳥海修が務める体制で実施[42]。本文書体としてデジタル環境で常用されることを前提とした「改刻フォント」として「石井明朝」ファミリー(「ニュースタイル」および「オールドスタイル」、ウェイト各4種)と「石井ゴシック」ファミリー(ウェイト5種)の計13書体をAJ1-3(OpenType StdN)相当で[42][43]、写植時代のデザインを踏襲した「写研クラシックス」として「石井中明朝」など30書体を見出し用文字セット(4833文字)で[43]、それぞれクラウド型フォントサービス「Morisawa Fonts」において2024年10月15日より提供を開始した[31]。
自社公式サイトの開設
[ソースを編集]写研は1990年代初頭に一時自社ドメイン"SHA-KEN.CO.JP"を取得したものの、更新手続きを行わず1993年に日本ネットワークインフォメーションセンター(JPNIC)によって削除された[44]。その後21世紀に入っても長く公式サイトが存在しない状態が続いていたが、石井裕子没後の2019年7月19日に"SHA-KEN.CO.JP"を再取得。同ドメインによる自社公式サイトを2021年3月8日に初めて開設し、同年5月26日には過去に発表した自社書体や歴史を紹介する「写研アーカイブ」を公開した。
代表的な製品
[ソースを編集]特徴
[ソースを編集]写研は自社をブランド化した大規模なイメージ戦略の一環として、「美しい組版のために文字(書体)と組版機器・ソフトウェアを切り離すことはできない」とうたい、両者の抱き合わせ販売しか行わなかった。手動写植機の文字盤は戦後の共同事業解消直後は写研機・モリサワ機間の互換性があったが、その後は互換性はなかった。ただし欧文活字メーカーの晃文堂を前身とするリョービ印刷機販売(のちリョービイマジクス)の手動写植機は写研機からの入れ替え需要を見越し、写研文字盤の取り付けが可能であったほか、モリサワ機にもサードパーティ製による器具を使用するなどして取り付ける手法もあった。
- タショニムコード
- 写研システムでは書体を「MMAOKL」「MNAG」などの、アルファベット数文字の記号「タショニムコード」で管理した。「多書体をニモニック化してコードで分類したもの」の意であった。基本的に明朝=Mやゴシック=Gなどの略語表記と、それぞれのフォントファミリーにおけるウェイト(文字の太さ)、仮名のスタイル(NKS=ニュースタイルかなスモール、OKL=オールドスタイル[築地体ベース]かなラージ)などで構成されるため、規則性を理解すれば直感的に把握しやすかった。
- デジタルフォント
- 第3世代写植機で出遅れた写研が、朝日新聞NELSON・日本経済新聞ANNECSの両電算紙面編集システム(1971年)で使われた米国オートロジックAPS-3(IBM 2680)の後継機「APS-5」を買い入れて1977年に発表したデジタルCRT機「SAPTRON-APS5」は、装置内部に組み込んだ印字用小型CRTにカートリッジ式ハードディスクから読み出したビットマップフォントを表示して印画紙を感光する方式であった。紙面編集システム導入に向けて1969年に日本語ビットマップフォントを自社で作成した朝日や活字メーカーのモトヤが作成した日経と同様の手法で、写研は自社書体の日本語ビットマップフォントを作成してデータをハードディスクに収めた状態で販売した。
- 1983年の「SAPLS-N」で、文字の輪郭情報を利用した独自形式のアウトラインフォントが導入され、のちにCフォントと命名された。文字コードは独自のSKコードで管理され、約2万字を包括した。体裁制御コマンドによるテーブルを介した書体指定を行う関係上、同一画面上で使用できる書体数に制約があったが、1993年にはタショニムコードで直接書体を指定することで同一画面上で100書体まで使用可能にした「タショニムシステム」が登場し、同システムに対応するアウトラインフォントを「タショニムフォント」と呼称した。
- Windows NT上で動作した写研最後の写植機(専用組版システム)の「Singis」にはIllustratorやPhotoshopもインストールされていたが、写研のアプリケーション以外からCフォント・タショニムフォントを使用することはできなかった。
- SAPCOL
- 写研の電算写植機では SAPCOL(サプコル)と呼ばれるページ記述言語を用いた。日本語組版に最適化されたもので、出版社ごとに異なる複雑な組版規則(ハウスルール)にも対応できた。1969年にミニコン上で編集処理をするために作られたソフトウェアを30年にわたって更新して構築したプログラムで、「究極の組版プログラム」とも呼ばれた。DTPで主流を占めるPostScriptはデータの後に命令を記述する形式だが、SAPCOLは「ファンクションコード」というコマンド文字で組版情報を設定しテキストデータと混在させるマークアップ方式となっている。ただしPostScriptと異なり、プログラム言語に不可欠な繰り返し処理や変数/関数定義などの機能は持っておらず、任意の値を相対的に変化することはできない。この点ではSAPCOLは柔軟性に欠け、手作業に代わってパーソナルコンピュータなどでファンクションコードを自動挿入するプログラムを組む例がよく見られた。
- システムの独自性
- 写研の電算写植システムは、そのほとんどが独自仕様であり、DTPシステムとはデータの互換性がほとんどなかった。1990年代からしばらくの間は、まだ写研書体に対する需要が高かったため、他社の電算写植やDTPで組版したデータを写研の出力機で印字できる形式に変換する他社製のコンバータソフトウェアが用いられた。当時のDTPにおいて多用されていたQuarkXPressにも、XTensionとして組み込めるコンバータが存在した。
手動写植機
[ソースを編集]- 試作1号機(1925年)
- 試作2号機(1926年)
- 実用機(1929年)
- タイトル専用機(1931年)
- 石井式写真植字機(A型、1936年)
- 石井式二六〇四年型(SK-1型、1943年)
MC型
[ソースを編集]- MC-1(1950年)
- MC-2(1952年、のちモリサワMC-2)
SK型
[ソースを編集]- SK-2(1954年)
- SK-3(1955年)
- SK-3R(1957年)
- SK-4(1957年)
- SK-4E(1958年)
- SK-T1(1959年)
- SK-3RY(1960年)
- SK-16TV(1961年)
SPICA型
[ソースを編集]- SPICA-S(1963年)
- スピカテロップ(1964年)
- SPICA-L(1965年)
- SPICA-Q(1966年)
- SPICA-AD(1968年)
- SPICA-QD(1969年)
- SPICA-A(1973年)
- SPICA-AP(1975年)
- SPICA-APU(1976年)
- SPICA-AH(1979年)
PAVO型
[ソースを編集]- PAVO-8(1969年)
- PAVO-9(1981年)
- PAVO-10(1981年)
Jシリーズ
[ソースを編集]中級機種。
- PAVO-J(1969年)
- PAVO-JP(1977年)
- PAVO-JL(1979年)
- PAVO-JV(1979年)
Kシリーズ
[ソースを編集]多機能上位機種。
- PAVO-K(1973年)
- PAVO-K2(1977年)
- PAVO-K6(1977年)
- PAVO-K3(1978年)
- PAVO-KL(1979年)
- PAVO-KS(1981年)
- PAVO-KV(1983年)
- PAVO-KVB(1983年)
- PAVO-KY(1987年)
Bシリーズ
[ソースを編集]ビジネスフォーム用。
- PAVO-B(1975年)
- PAVO-B2(1978年)
- PAVO-BL(1981年)
Uシリーズ
[ソースを編集]新聞組版用。
- PAVO-U(1971年)
- PAVO-KU(1975年)
- PAVO-UP(1979年)
電算写植機
[ソースを編集]SAPTONシリーズ
[ソースを編集]内蔵の文字円盤で感材を露光する電算写植機(第2世代写植機)。まもなく組版制御を行うミニコンピュータを内蔵したスタンドアローン型写植機となり、1981年まで開発が続いた。
- SAPTON試作機(1960年)
- SAPTON-F(1962年) - 防衛庁向け乱数表作製用数字専用機。
- SAPTON-N3110(1965年) - 初の実用機。新聞棒組用。共同通信統一文字コードCO-59を採用。第1号機は日本社会党機関紙印刷局に納入し、1967年には朝日新聞北海道支社と佐賀新聞社に納入。佐賀新聞は1968年3月5日付紙面で日本初の日刊紙全面写植化と活字全廃を達成した。
- SAPTEDITOR-N(1966年) - SAPTON-N用新聞用さん孔テープ編集機。記事オリジナルテープと赤字訂正指令テープを読み取り、編集組版処理済みの紙テープを出力。
- SAPTON-P(1968年) - 一般印刷用棒組全自動写植機。1号機は出版社ダイヤモンド社に納入。
- SAPTEDITOR-P(1968年) - SAPTON-P用さん孔テープ編集機。
- SAPTON-H - 新聞見出し作成用。
- SAPTON-A5260/A5440(1969年) - 一般印刷用棒組専用機。従来のさん孔テープの代わりにDEC社製ミニコンピュータPDP-8を使用した編集組版用ソフトウェアSAPCOL-D1と組み合わせるスタンドアローン型写植機に進化。
- SAPCOL-D1 - 一般印刷用組処理ソフト。
- SAPTON-N5265(1970年) - 新聞棒組用。新聞用組処理ソフトSAPCOL-D3と組み合わせて使用。
- SAPCOL-D3 - 新聞用組処理ソフト。
- SAPCOL-D5 - 一般印刷用組処理ソフト。
- SAPCOL-H6 - 一般印刷用組処理ソフト。
- SAPCOL-H3 - 新聞用組処理ソフト。
- SAPTON-N12110(1972年) - 新聞棒組専用。ハードウェアを標準化し、ミニコンピュータSAILACで顧客毎のカスタマイズを行う方式を採用。小型化・低価格化目指す。
- SAPTON-N7765(1972年) - 新聞用スタンドアローン型。
- SAPTON-Spitsシステム(1972年) - 一般印刷用スタンドアローン型。全自動写植機で初めてページ組版に対応。
- SAPTON-Spits7790 - 感材のロールバック機構を搭載し任意の位置への印字、スポット罫引きが可能に。
- SAPCOL-HS - ページ組処理ソフト。HITAC-10を使用。日本語組版のJIS規格化の基本となった。
- SABEBE-S3001 - Spitsシステム用漢字さん孔機。「一寸ノ巾式左手見出しキー」を採用。
- SAPTON-NS11(1975年) - 新聞用。赤字訂正処理機能付。搭載ミニコンをHITAC-10Ⅱに変更。導入した山陰中央新報はその高額さを理由に予定していた追加増備を日本PDIのCAT-N2372 MARK-II(1977年)に変更したのち、一度導入したSAPTON-NS11もCAT MARK-IIに置き換えて排除した。
- SAPTON時刻表組版システム(STC、1976年) - 日本交通公社向け。
- SAPTON-NS26D(1977年) - 新聞用。共同通信文字コードCO-77に対応。
- SAPTON-Somanechi6812(1977年) - 一般印刷用。
- SAPNETS-N(1977年) - 新聞用編集・校正・レイアウトシステム。校正用のVDT表示用文字発生装置搭載。
- SAPTON-NS26DF(1981年) - 新聞用。SAPTON-NS26Dにデータ入出力用フロッピーディスクを使用できるようにした。
- SAPTON-Somanechi6812S(1981年) - 一般印刷用。SAPTON-Somanechi6812にデータ入出力用フロッピーディスクを使用できるようにした。
SAPTRONシリーズ
[ソースを編集]高解像度のCRT上に文字を出力して感材に露光する方式(第3世代写植機)で印字を高速化するとともに、外部編集システムからの組版指令で出力するスレーブ型の電算写植機。のち新規開発を打ち切ったSAPTONの代替機種としてスタンドアローン機も製造した。
- SAPTRON-G1(1977年) - 第3世代機の開発で立ち後れた写研が第2世代機のSAPTON-NS26にCRT印字機構を加えて作ったアナログフォント方式CRT写植機。新聞用とされたが新聞社での導入事例はなかった。
- SAPTRON-APS5(1977年) - SAPTRON-G1の製作と同時進行でビットマップ投影のデジタルフォント方式CRT写植機米オートロジック(旧アルファニューメリック)APS-5を買い入れフォントを積み替えたもの。オートロジックAPS-5は6年前の1971年に朝日新聞と日本経済新聞の電算紙面編集システムに採用され実績を挙げていた「IBM 2680」のベース機「APS-3」の後継機。
- SAPTRON-G8N/G8S(1979年) - 8書体搭載アナログフォント方式CRT写植機。SAPTRON-G8Nは新聞用をうたったSAPTRONシリーズ各機種のうち唯一実際に新聞社(高知新聞)に導入された。
- SAPTRON-APS5H(1981年) - 文字記憶方式を改良して印字速度毎分1万3200字を実現した超高速CRT写植機。価格1億300万円。
- SAPTRON-APSμ5(1981年) - インテルの8085プロセッサを採用したコントローラーを搭載して米国での価格を5万ドル(フロッピーディスクのみ仕様の場合。当時の為替レート換算で約1200万円)以下に抑えた[45]オートロジック「APS-Micro 5」(1979年)のフォントを積み替えたもの。写研では「印字速度を毎分3000字にスペックダウンして価格を下げた」機種とうたった。写研での価格は棒組仕様が6000万円、台ページ組仕様が7000万円。
- SAPTRON-Gelli S3225(1983年) - 計測機器用5インチCRTを使用した写研独自方式のスタンドアローン型デジタルCRT写植機。
- SAPTRON-APSμ5S(1983年) - 編集組版用ミニコンピュータとAPSμ5を一体にしたスタンドアローン型CRT写真植字機。
- SAPGRAPH-L(1983年) - APS5/APSμ5/APSμ5S用図形入力サブシステム。
- SAPTRON-Gimmy S1040/SS1040(1985年) - SAPTRON-Gelliをベースに投影フォントをビットマップからCフォントに変更。一般印刷用。Sはスタンドアローン型、SSはスレーブ型。
- SAPTRON-Gimmy N1440/N1425(1985年) - Gimmy S1040の新聞用Cフォント出力機。新聞社での導入事例はなかった。
- SAPGRAPH-L61(1985年) - CCDスキャナ実装などSAPGRAPH-L改良の図形入力サブシステム。
- SAPGRAPH-G(1987年) - 写真画像を扱えるようにした図形入力サブシステム。
SAIVERT・SAPLSシリーズ
[ソースを編集]特に中小の印刷会社における小規模編集組版システムの構築を可能にした製品群で、開発を打ち切ったSAPTRONに代わる1980年代後半の主力商品となった。ほかに周辺装置として文字データの入力校正を行いSAIVERTに引き渡す「SAZANNA」と校正刷り出力専用プリンター「SAGOMES」も用意された。
- SAIVERTシリーズ - 編集組版を行うとともに出力機に対して組版指令を行い制御するレイアウトターミナル。SAPNET-NをベースにほぼWYSIWYGを実現した。印画紙出力に近いイメージを画面表示することができた。ページ物向きとされたSAIVERT-SとSAIVERT-P、端物を主に扱う単ページ用のSAIVERT-Hがあった。
- SAIVERT-N(1983年) - 表示用20インチCRTを搭載した新聞用校正編集レイアウトターミナル。
- SAIVERT-S(1984年) - 表示用15インチCRTを搭載した一般印刷用レイアウトターミナル。
- SAIVERT-H101(1985年) - 出力用Cフォントを使用し,出力時と同じ体裁をCRT画面上に表示する端物用レイアウトターミナル。
- SAIVERT-H202(1987年) - レンタルの30書体フォントパックを搭載し初めて印字の従量課金制を導入したレイアウトワークステーション。
- SAIVERT-P(1989年) - 作図機能や画像入力編集機能などを追加し表示組版可能文字サイズを拡張。
- SAPLSシリーズ - アウトラインフォント(1985年、Cフォントと命名)をRIPで処理するとともに、画像データもラスタライズしてともにレーザーで感材に露光するイメージ・タイプセッター。
- SAPLS-N(1983年)
- SAPLS-Laura/Michi(1987年)- スタンドアローン型のS、スレーブ型のSSの2タイプを発表。
SAMPRAS
[ソースを編集]- SAMPRAS-C(1997年) - SAIVERTに代わるWYSIWYGレイアウトアプリケーション。価格780万円。ハードディスクドライブ全体のファイル検索といった基本操作ができないなどの制約があった。日立製ワークステーションで稼働。
Singis
[ソースを編集]- Singis(2000年) - 写研写植機製品の最後となったレイアウトターミナル。カラー対応、多ページ対応。メイン21インチCRTディスプレイのほかに、パレット類表示用15インチ液晶ディスプレイを標準装備する。写研機ではじめて一般的なPC/AT互換機(日立FLORA)をベースマシンとして採用し、Windows NT上で動作するソフトウェアとなった。価格500万円。PC用の画像データ取り込み用にAdobe Illustrator9.0とAdobe Photoshop5.5も搭載。
TELOMAIYER
[ソースを編集]放送用電子テロップ送出装置。
- TELOMAIYER-T(1983年) - 初代テロメイヤ。ディスプレイを用いてレイアウトを行い、画像メモリに蓄積したデータを黒地に白文字の感熱紙に出力。
- TELOMAIYER-TG(1985年) - テロップカード出力のほか、ビデオ出力(NTSC)にも対応。1985年9月28日に稼働を開始したテレビ朝日アーク放送センターの生放送に対応した電子画システムの作画装置の一部として4台採用され[注 3][46]、1997年まで使用された。
- TELOMAIYER-C(1989年) - PC-9800シリーズ上で稼動し、感熱紙プリンタ・スキャナが接続可能。Cフォント搭載。フォントデータは1書体35万円。
- TELOMAIYER-C1 - 日立製ワークステーションで稼動。使用フォントに制約があるCフォントに代わりタショニムフォント搭載。
- TELOMAIYER-C1 HD - C1のSD画質をアップコンバートすることでHD出力に擬似的に対応したもの。
書体
[ソースを編集]写植は活字に比べ写植文字盤は1書体あたりの専有面積が少なく、字数が多い日本語でも多くの書体を扱うことが可能となった。写研では自社製品対応書体のほとんどを社内で設計・開発し、積極的に新書体を発表した。これらの書体は高額賞金を掲げた「石井賞創作タイプフェイスコンテスト」(1969年 - 1998年)の主催など、同社が1970年代から1980年代を中心に大きく宣伝展開した自社ブランド化戦略の看板となった。
写研の主な和文書体の発表年は次の通りである[47]。
- 1932年 - 石井太ゴシック、石井楷書
- 1933年 - 石井中明朝
- 1937年 - 石井ファンテール
- 1951年 - 石井細明朝
- 1954年 - 石井中ゴシック
- 1956年 - 石井中丸ゴシック
- 1958年 - 石井細丸ゴシック、石井太丸ゴシック、石井中教科書
- 1959年 - 石井太明朝、石井横太明朝、石井太教科書
- 1960年 - 石井特太明朝、石井細教科書
- 1961年 - 石井特太ゴシック
- 1964年 - 新聞特太明朝、新聞特太ゴシック
- 1967年 - 岩田新聞明朝(岩田母型製造所原字提供)
- 1968年 - 岩田細明朝、岩田太ゴシック(岩田母型原字提供)
- 1970年 - 石井中太ゴシック、岩田新聞ゴシック(岩田母型原字提供)
- 1972年 - 曽蘭隷書、ファニー
- 1973年 - ナール
- 1974年 - スーボ、ナールD
- 1975年 - 本蘭明朝L、大蘭明朝、石井新細ゴシック、ゴナU、ナールL、ナールM、ナールO、岩蔭行書
- 1976年 - スーボO
- 1977年 - ナールE
- 1979年 - ゴナE、ゴナO、スーシャL、スーシャB、淡古印
- 1981年 - 秀英明朝(大日本印刷原字提供)、石井中太ゴシックL、ゴナOS、ゴーシャE、ファン蘭B、けんじ勘亭
- 1982年 - ゴーシャO、ゴーシャOS、ファン蘭O、ファン蘭OS、イナブラシュ
- 1983年 - ゴナL、ゴナM、ゴナD、ゴナDB、ゴナB、ファン蘭E、ボカッシィG、岩陰太行書、ナカフリーL、ナカフリーB、イノフリー
- 1984年 - スーボOS、織田特太楷書、イダシェ
- 1985年 - 本蘭明朝M、本蘭明朝D、本蘭明朝DB、本蘭明朝B、本蘭明朝E、本蘭明朝H、ゴナH、ゴナIN、ミンカール、カソゴL、紅蘭細楷書、紅蘭中楷書、茅楷書、茅行書、織田勘亭流、鈴江戸、イナひげ、イボテ、ナミン
- 1987年 - ナールDB、創挙蘭E、ナーカン
- 1989年 - ゴーシャU、曽蘭太隷書、イナクズレ、イナミンE、いまりゅうD
- 1991年 - キッラミン、けんじ隷書、ナカゴしゃれ、ナカミンダB-S、ナカミンダB-I
- 1993年 - 爽蘭明朝、創挙蘭L、創挙蘭M、創挙蘭B、今宋M、イナピエロM、イナピエロB、イナピエロU-S
- 1995年 - ナールH、ナールU、いまぎょうD
- 1996年 - 石井中少太教科書、石井中太教科書
- 1997年 - ゴカールE、ゴカールH、ゴカールU、スーシャH、横太スーシャU、ゴーシャM、はせフリーミンB、はせフリーミンE、はせフリーミンH、紅蘭太楷書、紅蘭特太楷書、田行書、けんじ特太隷書、ナカミンダM-S、ゴナラインU
- 2000年 - 本蘭ゴシックL、本蘭ゴシックM、本蘭ゴシックD、本蘭ゴシックDB、本蘭ゴシックB、本蘭ゴシックE、本蘭ゴシックH、本蘭ゴシックU、イダサインM
※書体名は2001年時点の呼称。当初、本蘭明朝Lは「本蘭細明朝」ファミリー展開前は、ゴナUはゴナ、創挙蘭(現在の創挙蘭E)などはウェイト表示のないものとしてリリースされた。
脚注
[ソースを編集]注釈
[ソースを編集]- ↑ 森澤は1933年に開発方針の違いから離れたが、戦災復旧のため一時的に復帰していた。その後も茂吉は、事業や開発方針での意見の相違とは切り離して森澤との個人的な交友関係を継続していたが、裕子が事業を相続して以降、裕子のワンマン経営が災いし、石井家や写研は森澤家やモリサワとの関係に齟齬を生んでいた。
- ↑ AJ1-4は、主に商業印刷で必要と考えられる漢字、異体字、記号類、ルビ専用文字、プロポーショナルかな文字をAJ1-3に追加したもの(「OpenTypeフォントの種類」『フォント用語集』、株式会社モリサワ)で、現代日本における商業印刷用フォントの事実上の最低ラインとなっている。
- ↑ ただし、『テレビ朝日 アーク放送センターの設備報告』には、「TELOMAIYER-TG」の記載はなく、「光電変換式採字機〔写植機)」の記載のみ。
出典
[ソースを編集]- 1 2 「写研について」、株式会社写研(2025年10月13日閲覧)
- 1 2 3 4 株式会社写研登記簿、2020年09月10日現在、法務省
- 1 2 3 写研 新社長に南村員哉氏が就任(印刷業界ニュースNEWPRINET 2018年12月3日付記事) - ウェイバックマシン(2018年12月4日アーカイブ分)
- 1 2 3 写研について、2021年3月8日、株式会社写研
- 1 2 3 4 5 6 「[隠蔽]写研=下 私物化で〝斜陽〟加速」読売新聞 1999年1月4日付朝刊 30面.
- 1 2 3 4 5 鳥海修, フォントベンダーの近況(<特集>タイポグラフィ研究の現在)」『デザイン学研究特集号』 2010年 17巻 2号 p.16-20, 日本デザイン学会, doi:10.11247/jssds.17.2_16
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 「東京都労委平成18年(不)第81号」『中央労働委員会命令・裁判例データベース』、2008年2月5日、厚生労働省
- ↑ “写植機誕生物語 〈石井茂吉と森澤信夫〉(78) 【茂吉】敗戦――焦土のなかで | マイナビニュース”. news.mynavi.jp (2026年2月3日). 2026年3月25日閲覧。
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- ↑ 馬渡力 編『写真植字機五十年』, pp.160-163, 株式会社モリサワ,1974.
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- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 「新聞製作技術の軌跡 その16 第3世代写植機と初期の電算紙面編集システム」 『日本新聞製作技術懇話会会報』 (248), 日本新聞製作技術懇話会, 2018-03.
- ↑ 印刷時報社 [編]『月刊印刷時報』(323), pp.16-19, 印刷時報社,1971-04.
- ↑ 印刷時報社 [編]『月刊印刷時報』(409), pp.31-39, 印刷時報社,1978-06.
- ↑ 『'84組版・製版・印刷機器市場の現状と将来』,矢野経済研究所, p.4, 1984.10.
- ↑ “活字・写植・フォントのデザインの歴史 - 書体設計士・橋本和夫に聞く(19) 石井賞タイプフェイスコンテストのはじまり | マイナビニュース”. news.mynavi.jp (2018年12月18日). 2026年3月25日閲覧。
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- ↑ 新旗艦店のヤオコー和光丸山台店オープン 「おやつ」を強化した周到なねらいは?(ダイヤモンド社 2021年10月25日 2021年11月21日閲覧)
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- ↑ 「株式会社写研新社屋・(仮称)ドーミー大塚新築工事」 『建築計画のお知らせ看板情報 首都圏』、株式会社建設データバンク
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- ↑ モリサワnote編集部 新書体なのに懐かしい!2024年リリース予定 写研フォントのご紹介, モリサワ, 2024-04-10.
- ↑ 桂光亮月「写研が動いた日2024 よみがえる名作書体」『亮月写植室』、2024年4月16日
- ↑ 「読みやすいと言われる「写研フォント」を電子書籍の本文書体に」『出版関連ニュース』、2012年6月8日、株式会社タイプアンドたいぽ
- 1 2 「写研のOpenTypeフォントは今?」『文字のある仕事場/COLUMN』、2016年9月26日、株式会社タイプアンドたいぽ
- 1 2 「モリサワ OpenTypeフォントの共同開発で株式会社写研と合意」 『ニュース&プレスリリース』、2021年1月18日、株式会社モリサワ
- 1 2 「モリサワ 写研書体を字游工房と共同開発 2024年に『石井明朝』『石井ゴシック』の改刻フォントをリリース」『ニュース&プレスリリース』、2022年11月24日、株式会社モリサワ
- 1 2 「モリサワ 写研書体のOpenTypeフォント開発で今後100フォントをリリースすることを発表 邦文写真植字機発明100周年を皮切りに」『ニュース&プレスリリース』、2024年2月13日、株式会社モリサワ
- ↑ 「DNS管理グループ(国内向け)作業報告」 『第3回JPNIC運営委員会』、1993年9月17日、日本ネットワークインフォメーションセンター
- ↑ “News briefs - Digital typesetting gets more affordable” Electronics, Vol. 53, No. 2 January 17, 1980: 48.
- ↑ 尾形賢士 (1986-09-26). “テレビ朝日 アーク放送センターの設備報告”. テレビジョン学会技術報告 (映像情報メディア学会): 4-5. doi:10.11485/tvtr.10.20_1. ISSN 0386-4227.
- ↑ 「写研書体見本帳」2001年、株式会社写研