「サッダーム・フセイン」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
TXiKiBoT (会話 | 投稿記録)
m ロボットによる 追加: tl:Saddam Hussein
409行目: 409行目:
[[tg:Саддом Ҳусайн]]
[[tg:Саддом Ҳусайн]]
[[th:ซัดดัม ฮุสเซน]]
[[th:ซัดดัม ฮุสเซน]]
[[tl:Saddam Hussein]]
[[tr:Saddam Hüseyin]]
[[tr:Saddam Hüseyin]]
[[uk:Саддам Хусейн]]
[[uk:Саддам Хусейн]]

2010年1月14日 (木) 08:45時点における版

サッダーム・フセイン・アブドゥル=マジード・アッ=ティクリーティー
صدام حسين عبدالمجيد التكريتي


イラク共和国
5代 大統領
任期 1979年7月16日2003年4月9日

出生 1937年4月28日
イラク
ティクリート
アル=アウジャ村
死去 (2006-12-30) 2006年12月30日(69歳没)
バグダード
政党 バアス党
配偶者 下記参照

サッダーム・フセインアラビア語:صدام حسين 英語:Saddam Hussein 、1937年4月28日 - 2006年12月30日)は、イラク共和国政治家スンナ派アラブ人であり、イラク共和国の大統領、首相、革命指導評議会議長、バアス党地域指導部書記長、イラク軍最高司令官を務めた。軍階級は元帥。なお、日本語の慣例ではサダム・フセイン、または単にフセインとすることが多い(詳細はサッダーム・フセイン#フルネームを参照)。

生い立ち

出生

イラク北部のティクリート近郊のアル=アウジャ村で農家の子として生まれ、「直進する者」を意味するサッダームの名を受けた。父フセイン・アブドゥル=マジード(フセイン・アル=マジードとも)はサッダームが生まれた時には既に死んでおり、母スブハ・ティルファーは羊飼いのイブラーヒーム・ハサンと再婚して、サッダームの3人の異父弟を生んだ。

10歳の時から、母方の叔父ハイラッラー・ティルファーのもとで暮らした。8歳の時に、ハイラッラーの娘で従姉妹にあたるサージダ・ハイラッラーと婚約している。サッダームの敵に屈しない性格とイラク・ナショナリズム思想(ワタニーヤ)は、叔父ハイラッラーの影響から生まれたと言われている。小学生の時から銃を持ち歩き(当時、銃を持つのはティクリート一帯で普通のことであった)、素行の悪さから学校を退学させようとした校長を脅迫して、退校処分を取り消させている。1947年に叔父とその息子アドナーン・ハイラッラーと共にティクリートへ出て叔父が教師を勤める同地の中学を卒業した。

バアス党

1955年に当時、中央政府の教育庁長官になっていたハイラッラーの後を追ってバグダードに上京。1957年バアス党に入党する。このころのサッダームは、バグダードのストリートギャングを率いて、イラク共産党の集会を襲撃させていた。ハーシム王政崩壊後の1959年には叔父の教育庁長官の職を追放されるきっかけを作った(当時のイラクは親英派の王制であった)ティクリート出身の共産党員をハイラッラーの命で銃で殺害した。ハイラッラーとサッダームは殺人容疑で逮捕されたが、証拠不十分で釈放となった。

1950年代は、エジプトで革命が起こり、親英の王制が倒されてガマール・アブドゥン=ナーセル政権が樹立に向かっている時期にあたり、アラブ諸国ではアラブ民族主義が高まりを見せており、サッダームもナーセルの影響を受けた。1958年には、イラクでも軍部によるクーデターにより親英王制が打倒されている。

政治活動

亡命

バアス党は親英王制を打倒させ政権についていたアブドゥル=カリーム・カースィムがアラブ民族主義に懐疑的だったため、1959年にカースィム首相暗殺未遂事件を起こした。この事件に暗殺の実行犯として関与したサッダームは、カースィムの護衛から銃弾を受けて足を負傷するが、剃刀を使って自力で弾を取り除き、逮捕を逃れるためベドウィンに変装し、ティグリス川を泳ぎ継いで、シリアに亡命、ついでエジプトに逃れた。シリア滞在中にはバアス党の創始者ミシェル・アフラクの寵愛を受けた。亡命中の欠席裁判により、サッダームは死刑宣告を受けた。

サッダームは、エジプトで亡命生活を送りながら高等教育を受け、カイロ大学法学部に学んだ。帰国後の1968年には、法学で学位を取得したとされるが、カイロ大学に彼の在籍記録が存在しない。カイロでのサッダームは、何かと周囲に喧嘩を吹っかけるなど、トラブルメーカーであったと、当時サッダームが出入りしていたカフェのオーナーが証言している。

クーデター

ファイル:Saddam47.jpg
バアス党が政権を奪取した頃のサッダーム(右端の人物)(1963年

1963年アブドゥッ=サラーム・アーリフ将軍が率いたクーデターによりカースィム政権が崩壊すると、サッダームは帰国してバアス党の農民局長のポストに就いた。また、このころ党情報委員会のメンバーとして、共産党員に対する逮捕、投獄、拷問などを行なったと言われているが真偽は不明。1963年には党地域指導部(RC)メンバーに選出され、バアス党の民兵組織「国民防衛隊」の構築にも関与した。この年サージダと正式に結婚する。

しかし、この第一次バアス党政権は党内左右両派の権力争いにより政権を追われる。1964年、サッダームはアーリフ大統領の暗殺を企てたものの、事前に発覚し、逮捕投獄された。1965年に獄中でRC副書記長に選出された。1966年、看守を騙して脱獄し、地下活動を行なう。

1968年7月17日アフマド・ハサン・アル=バクル将軍の率いるバアス党主導の無血クーデターにより党は再び政権を握った。このクーデターでサッダームは、戦車で大統領宮殿に乗り付けて制圧するなど主要な役割を果たしている。

政権ナンバー2に

バクル政権では、入閣はしなかったものの、治安機関の再編成をまかされ、クーデターに協力したアブドゥッ=ラッザーク・ナーイフ首相の国外追放、イブラーヒーム・ダーウード国防相の逮捕など、バクル大統領の権力強化に協力し、その結果、1969年、革命指導評議会(RCC)副議長に任命された。また、この時期にサッダームはイラク・バアス党をシリア・バアス党の影響力から引き離す工作を始め、汎アラブ主義を唱えつつも、叔父ハイラッラーの唱えた「イラク・ナショナリズム」をイラクの新たなイデオロギーに据えることを目標にした。この思想においては「イラク人民とは文明の発祥の地、古代メソポタミアの民の子孫である」としている。

このころ、サッダームは新たな治安・情報機関を設置し、その長に側近や親族を充てて、国の治安機関を自らの支配下におき、イラクを警察国家に変貌させ、秘密警察による国民の監視が強化された。政府省庁やイラク軍内部にも通称「コミッサール」と呼ばれたバアス党員の密告者を送りこみ、逐一動向を報告させている。

また、政府の高位職に同郷であるティクリートやその周辺地域の出身者を多く登用している。そのため、恩恵に預かれない他地域の人間の間には不満が募っていった。

そんな中、1973年6月、シーア派のナジーム・カッザール国家内務治安長官が、バクルとサッダームの暗殺を企てるが、事前に露見し、サッダームの素早い決断によりクーデター計画を阻止している。カッザールとその一派は特別法廷により死刑を宣告され、処刑されたが、この際に事件と関わりの無い人物、主に、清廉な人物としてイラク国民からの人望も厚く、次期大統領との呼び声も高かったアブドゥル=ハーリク・アッ=サーマッラーイーのような、バアス党内におけるサッダームのライバル達も陰謀に加担した容疑で粛清された。

権力掌握

大統領就任

ファイル:Iraq 50 dinars Awers.JPG
サッダームの肖像が入った50ディナール紙幣

1979年7月17日、バクル大統領が病気を理由に辞任すると発表した為、イラク共和国第5代大統領に就任した。バクルの大統領としての権威は1977年に、サッダームが革命指導評議会メンバーと閣僚を自分の側近に入れ替えて以来、低下していた。国民も大統領宮殿を「かの名将の墓場」と呼び、サッダームもバクルを「あの軍人さまは、手の空いた時間を国政とは無関係なことに費やしている。彼は思い出に浸かって生きているだけだ」と蔑んでいた。バクルが、サッダームに引退を強要されたとの証言もある。イラク国内のバクルの銅像や肖像画もサッダーム像に改修されていった。

しかし、党内にはバクルの唐突な辞任に疑問を呈する者もいたが、7月22日にアル=フルド・ホールで開かれた党臨時会議により、党内部でシリアと共謀した背信行為が発覚したとして、サッダーム自ら一人ずつ「裏切り者」の名前を挙げていき、66人の人物が、会場に待機していた総合情報局の人間によって外へと連れ出され、その日のうちに革命指導評議会メンバーで構成される特別法廷により、55人の人間が有罪を宣告され、22人は「民主的処刑」と呼ばれた方法、仲間の党員の手によって銃殺となった。粛清された人間には、サッダームの大統領就任に反対した、ムヒー・アブドゥル=フセイン・マシュハダーニー革命指導評議会・中央書記局長、サッダームの側近の一人だったアドナーン・アル=ハムダーニー副首相、イラク石油国有化の舵取り役だったムルタダー・ハディーシー元石油相も含まれる。また、この時に党から除名された人物も後になって暗殺や投獄を受けて処刑され、党内の反サッダーム派はひとまず一掃された形となった。

1979年9月に、キューバの首都ハバナで開かれた非同盟諸国首脳会議に出席。反共主義者のサッダームであったが、この会議で、同国のフィデル・カストロ議長、ルーマニアニコラエ・チャウシェスク大統領と知り合い、この両者と親密な関係になったとされる。そのため、1989年12月のルーマニア革命により、チャウシェスク政権が崩壊、同大統領が処刑されたことに衝撃を受け、イラクの治安機関にルーマニア革命の映像を見せ、同政権崩壊の過程を研究させている。

イラン・イラク戦争

ラムズフェルトと握手するサッダーム

1979年イラン革命によってイランにシーア派のイスラーム共和国体制が成立し、イラン政府は極端な反欧米活動を展開した。しかし、革命の波及と政権転覆を恐れる周辺のトルコサウジアラビアなどの親米派アラブ国家やアメリカ合衆国の非難を浴びた。

実はイラン・イラク戦争では中東に石油利権を持つアメリカ、イギリス、フランスも、カフカス地方などに多くのイスラム教徒を抱えていたソビエト連邦もイランからの「イスラム革命」の波及を恐れイラクに武器援助をはじめとする支援を行っており、さらにイタリア、カナダ、ブラジル、南アフリカ、スイス、チェコ、中国からも武器を購入しており、これらのように戦争で儲けた死の商人がイラクの軍事力を増大したために湾岸戦争のクウェート侵攻に繋がったと批判する者もいる[1][2]

特にフランスは石油の利権目当てでアメリカよりも早く1979年のイラン革命の時からイラン・イラク戦争を経てそれ以降も長らくイラクに武器を売っていた国であり、更に核開発をするほどイラクとは密接だった。フランスがイラク戦争反対していたのはそのためである[3]

サッダーム政権は、イラン革命がイラク国内のシーア派にも波及することを恐れ、1980年にイランを先制攻撃し、イラン・イラク戦争が開戦した。元来、イランとはシャーの時代から国境を流れるシャット・ル=アラブ川の領有を巡って対立しており、歴史的なイラクの反イラン(反ペルシア)感情も戦争の背景にはあった。

開戦当初はアメリカの軍事援助があったイラクが優勢であったが、しだいに物量や兵力に勝るイランが反撃し、イラク領内にまで攻め込まれる。また、北部ではイランと同盟を組んだクルド人勢力が、中央政府に反旗を翻して武装闘争を開始した。

当時、イランのイスラーム革命が中東全域に波及することを恐れたアメリカのロナルド・レーガン政権は、イラクを支援するため、1983年12月19日に、ドナルド・ラムズフェルドを特使としてイラクに派遣し、サッダームと90分におよぶ会談を行った。

1984年にはイラクと国交を回復し、1988年に至るまでサッダーム政権に総額297億ドルにも及ぶ巨額の兵器供給やCIAによる情報提供を行った。アメリカとの蜜月時代である。この時期、欧州諸国もサッダーム政権に対して大規模な軍事援助を行い、これにより戦況はイラクに有利となり、1988年にイランは停戦を受諾。イラクは辛くも勝利した形となった。だが、後に亡命したワフィーク・アッ=サーマッラーイー元軍事情報局副局長によると、サッダームは完全にはアメリカを信用しておらず、『アメリカ人を信じるな』という言葉を繰り返し述べていたという。

イラクとアメリカの会談の際、話が化学兵器に及ぶと、ジョージ・シュルツ国務長官は「我々は、特に問題視していない」と答えた。そのため、1980年代後半にかけて、サッダームはクルド人勢力に対する容赦の無い軍事作戦を展開し、化学兵器が使用されたとされる(ハラブジャ事件)。また、イギリスメディアによるとこの時期、イラクに向けて化学兵器生物兵器の原料がアメリカ、イギリスフランスオランダの企業から輸出された。イラン・イラク戦争の特徴の一つにイラクの毒ガス使用をあげねばならない。この表では毒ガスの取り引きは分からない。イラクの毒ガス使用は、次の国々の援助で可能となった。

イラクは、1970年代にイギリス、イタリアから多量の化学剤と製造プラントを輸入して、マスタードガスをつくる工場をサマーワ市につくった。バグダッドの西にあるラマディの殺虫剤工場も、神経ガスをつくっていると推定されている。戦争中、毒ガス兵器の材料を売った国は、ソ連、東西ドイツ、そしてアメリカの一部企業であった。ソ連はSU624戦闘機やミグ23戦闘機から毒ガスや毒性液体を散布する特殊コンテナをイラクに売却し、東ドイツはイラク化学兵器部隊の教育のために数十人の専門家をイラクにおくり、80年代中期に化学戦争のための訓練施設をつくった。西ドイツ軍需産業の数十社は、神経細胞にかかわる先端技術をイラクにもたらし、さらにアメリカもボルチモアにある化学工業のアルラック社はマスタードガスをバグダッドに売却した。

一方、この戦争のさなかの1982年に、イラク中部ドゥジャイル村をサッダームが視察中、イランの支援を受けた反体制派組織ダアワ党の工作員によるサッダーム暗殺未遂が起き、報復としてドゥジャイルの住民180人以上が虐殺されている(ドゥジャイル事件)。

湾岸戦争

1988年に終結したイラン・イラク戦争は、イラクを中東の軍事大国へと押し上げる一方で1970年代の近代化政策がもたらした富をイラクから失わせ、サッダームの関心を、イランに代わって、豊かな石油資源を持ち、近代イラク成立以降からイラクのナショナリストらによってイラク領と主張されてきた隣国クウェートへと向けさせた。

アメリカは、中東の軍事バランスを抑制するためイラクへの支援を打ち切っている。

サッダーム政権は、1990年、クウェートに侵攻し、これを占領、併合を宣言し、国連安全保障理事会からの撤退要求を黙殺した。しかし、アメリカ合衆国をはじめとする国際社会の猛反発を受け、翌1991年湾岸戦争でアメリカ合衆国を主力とする多国籍軍に敗退した。イラク軍は負けた腹いせであるかのようにクウェートの米石油企業の油性を含む732本の油井を破壊しており、300人以上のクウェート人捕虜をイラク領内に連行し、撤退した。

敗戦による政権の隙をついて、国内のシーア派住民とクルド人が政権への反乱を起こした(1991年イラク民衆蜂起)。しかし、シーア派が期待したアメリカや多国籍軍の支援はなく、サッダーム政権は弾圧に成功する。この際、反政府蜂起参加者に対して、非常に苛烈な報復が行われ、シーア派市民に対する大量虐殺が発生した。

これ以降、政権と良好な関係にあったスンナ派有力部族の反乱やイラク軍の一派によるクーデター未遂などが起こるも、情報・治安機関に依存したさらなる強権政治により、反対勢力を押さえ込むことで、サッダーム政権はかえって安定化した。国内では秘密警察による反対派への弾圧、拷問、不当逮捕などが繰り返された。

湾岸戦争終結以降、イラクにはアメリカ合衆国を主導とする国際世界から経済制裁が科せられ、経済的に窮乏に追い込まれた。イラク側の主張によれば、この時期に化学兵器などの大量破壊兵器は廃棄したという。しかし相変わらず独裁体制だけは行っており、クウェートにまともに補償もしなかった。

クリントン政権時代はイラクを仮想敵国とみなしていたために米英軍は空爆を行っており、イラクと友好関係のロシア、中国、フランスが空爆に反対していた。

しかしサッダームは中国・ロシアとは貿易をしていたものの、北朝鮮の金正日と違い後ろ盾として味方にはつけなかっため、のちにアメリカに攻撃を受けた。

政権崩壊

2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が発生。同時テロ以降の合衆国は、アルカーイダを支援しているとしてサッダーム政権のイラクに強硬姿勢を取るようになった。もっともイラク攻撃自体はアメリカ同時多発テロ事件以前から、湾岸戦争時の国防長官であった副大統領ディック・チェイニーや国防長官ドナルド・ラムズフェルドを中心とする政権内部の対イラク強硬派、いわゆるネオコンらによって既に議論されていたようである。ただし、サッダーム政権転覆計画については、前のクリントン民主党政権から計画として存在していた。

2002年1月、アメリカ合衆国のジョージ・W・ブッシュ政権は、イラクをイラン北朝鮮と並ぶ「悪の枢軸」と名指しで批判した。2002年から2003年3月まで、イラクは国連監視検証査察委員会の兵器査察を受けつつ、アメリカによる武力攻撃の危機にあった。そんな中でも、サッダーム政権は強気の姿勢を崩さず、9・11テロについてもサッダームは演説で「アメリカが自ら招いた種だ」と、テロを非難せず、逆に過去のアメリカの中東政策に原因があると批判した。

2003年3月17日、ブッシュは48時間以内にサッダーム大統領とその家族がイラク国外に退去するよう命じ、全面攻撃の最後通牒を行った。サウジアラビア、アラブ首長国連邦、バーレーンは戦争回避のために亡命をするように要請したがサッダームは黙殺したために、これが命取りになってしまい、後にリビアのカッザーフィー大佐は核放棄をして命拾いをした[4]

2003年3月20日、アメリカ合衆国大統領ブッシュは予告どおりイラクが大量破壊兵器を廃棄せず保有し続けているという大義名分をかかげて、国連安保理決議1441を根拠としてイラク戦争を開始。攻撃はアメリカ軍が主力であり、イギリス軍もこれに加わった。

開戦初日の20日に、サッダームは長男ウダイが経営する「シャハーブ・テレビ」を通じて録画放送ではあったが国民向けの演説を行い、自身の健在をアピールした。この時のサッダームは普段の演説スタイルとは違い、場所不明の部屋の椅子に座り、老眼鏡を掛けて演説原稿を何度も折り返しながら読んでおり、欧米メディアやアメリカ政府当局者などが「演説しているのは影武者」「最初の空爆で死亡もしくは重傷を負った」などと憶測報道・会見を行なった。その後、開戦初日の攻撃はサッダームの誤った所在情報を下にして行なわれた作戦であったことが明かされた。

4月9日、バグダードは陥落したが、サッダームは既に逃亡していた。アラブ首長国連邦の衛星チャンネル「アブダビ・テレビ」は、サッダームが次男のクサイと共にバグダード北部のアーザミーヤ地区を訪れ、サッダームを支持する群集の前に姿を現した映像が放送された。

AP通信が2007年12月に、当時その場にいた元教師Abu Rimaの証言を元に報じた取材記事によると、この時サッダームはアーザミーヤ地区にあるアブー・ハニーファモスクの前に現れ、小型トラックの上に立って200人の群集を前に「我々がアメリカ人を撃ち破るなら、私はアーザミーヤに黄金の記念碑を建てることを人々に約束する」と語ったという。丁度その時、同じバグダードのフィルドゥース広場では米軍と市民によりサッダーム像が引き倒されていた。 Abu Rimaによるとサッダームは、4月9日の昼過ぎにアブー・ハニーファモスクに現れ、次男のクサイ、大統領秘書官のアービド・ハーミド・マフムードを伴っていたという。サッダームは軍服、クサイは紫のスーツを着ており、小型トラックの上に立っていた。ある女性がサッダームに「疲れているのでは」と声を掛けると、「私は疲れていません。インシャッラー、イラクに勝利を」と話したが、明らかに疲労の様子が伺えたという。その日の夜サッダームは同地区にあるアブー・ビシャール・アル=ハアフィーモスクに一晩泊まった後、翌10日の午前6時ごろ、川を船で渡って対岸のカーズィミーヤ地区に向かって姿を消したという[5]

また、同じ9日に撮られたと思われる最後の国民向け演説の録画テープが、バグダード陥落後に発見され、メディアに公開された。未編集だったのか、テープには演説途中に咳き込んで演説を途中で止めたり、カメラマンにうまく撮れたか確認するサッダームの様子が写っていた。

英紙「サンデータイムズ」の報道によれば、4月11日までサッダーム父子と行動を共にしていた共和国防衛隊参謀総長のサイフッディーン・ターハー・アッ=ラーウィーの証言として、4月11日に車でバグダードを離れる際に車中で『もう終わりだ』と述べて敗北を認めた様子だったという。サッダームに取り乱れた様子は無かったが、次男クサイは『一緒に逃げよう』と泣いて懇願した。サッダームはそれを拒否し、『生き延びるためには別々に行動した方がよい』と聞き入れなかったという。また、4月7日にバグダードのある地区で、サッダーム父子も参加する会議が開かれたが、父子が帰った10分後に彼らがいた建物が米軍に爆撃されたとも証言した[6]

後にFBIの取調官に対しても、自分は4月11日までバグダードに潜伏しており、前日の10日に数人の側近と会合を持ち、アメリカ軍に対する地下闘争を行うよう指示したとされる。

5月2日、ブッシュ大統領はペルシア湾上に浮かぶ空母にて演説、「戦闘終結宣言」を出した。

逮捕

逮捕直後のサッダーム。

サッダームは、戦闘終結宣言以降も行方不明であった。時折、音声テープを使ってイラク国民や支持者に対してアメリカ軍に抵抗するよう呼びかけた。米軍も度重なるサッダーム捕捉作戦を行い、この間サッダームの息子ウダイとクサイを殺害したが、サッダームの拘束には失敗している。

転機は、7月に拘束されたサッダームの警護官で、従兄弟のムハンマド・イブラーヒーム・ウマル・アル=ムサリト(Muhammad Ibrahim Umar al-Musalit)の供述であった。 2003年12月14日、サッダームはアメリカ合衆国陸軍第4歩兵師団と特殊部隊により、イラク中部アッ=ドゥールにある隠れ家の庭にある地下穴に隠れているところを見つかり、身の周りの世話をしていた旧政権支持者の子息2人と共に逮捕された。拳銃を所持していたが抵抗や自決などは行わなかった。アメリカ軍兵士によって穴から引きずり出されて取り押さえられ、「お前は誰だ?」という問いに対し、「サッダーム・フセイン。イラク共和国大統領である。交渉がしたい。」と答えた。この時、米軍通訳の亡命シーア派イラク人であるサミール(仮名)の姿を見るなり「裏切り者」と叫んで唾を吐きかけた為、サミールに殴打されている。[7] サミールも含めて現場にいたアメリカ兵は憎しみから今すぐにでもサッダームを射殺したい気分であったが、生きて捕らえることによってサッダームの「その惨めな姿」を世界に晒すことによってこの男が英雄などでは無いことを証明したかった、と後にサッダーム拘束作戦に携わった兵士が述べている。

ただし、後にサッダーム自身が弁護士を通じて語ったところによれば、「穴倉に潜んでいたのでは無く、朝の礼拝中に襲われた。米兵に足を叩かれて、麻酔で眠らされた」と米軍発表を否定しており、「銃は持っていなかった。持っていれば戦って自分は殉教者になったはずだ」と語ったとされる。

また、サッダームが隠れていた民家は、1958年にカースィム首相暗殺未遂事件を起こしたサッダームが、潜伏の際に使用した隠れ家と同じ民家であったと、後にサッダームがFBIの尋問で明らかにした。

獄中下での生活

サッダームは、拘束後に米軍の収容施設「キャンプ・クロッパー」に拘置された。ここでのサッダームの生活は、主に詩の創作、庭仕事、読書、コーランの朗読に占められた。独房は窓のない縦3メートル、横5メートルの部屋で、エアコンが完備され、プラスチックの椅子が二つ、礼拝用の絨毯が一枚、洗面器が2個、テレビ・ラジオは無く、赤十字から送られた小説145冊が置かれていた。庭には小さなヤシの木を囲むように白い石を並べていたいう。他人に自分の服を洗われることを拒否し、自分で洗濯を行っていたという。また、米国製のマフィンやクッキー、スナックなどの菓子も楽しんでいたとされ、2004年に高血圧やヘルニア、前立腺炎を患った以外は病気はせず、逆に体重が増えてダイエットに励むなど健康的な生活を送っていた。自殺を恐れてか、口ひげや顎ひげを手入れするハサミは支給されなかったという。獄中で、サッダームは、赤十字を介して、ヨルダンに滞在する長女のラガドや孫のアリー・サッダーム・フセインに手紙を送っている。04年8月2日に孫アリーへ届いた手紙では「強い男になれ。私の一族を頼む。一族の名声をいつまでも保ってほしい」と記した。

2005年5月、英大衆紙「ザ・サン」が、サッダームの獄中での生活を撮った写真を掲載。独房で睡眠中の写真やサッダームのブリーフ姿の写真が掲載され、波紋を呼んだ。これに関しては、イラク国民の間からも「いくら独裁者でも、元大統領に対して非礼」と反発する意見が噴出した。

2005年10月と12月に行われたイラク新憲法を決める国民投票と議会選挙について、サッダームは獄中からイラク国民に投票ボイコットを呼びかける声明を出した。

ジャーナリストのロナルド・ケスラーの本『The Terrorist Watch 』によると、レバノン系米国人でFBI・対テロ部門主任のジョージ・ピロの回想として、サッダームは異常な潔癖症で、手や足を隅々まで拭くために、乳幼児用のウェットティッシュを差し入れたところ、ピロはサッダームの信頼を得たという。 拘留中も1日5回の礼拝を欠かさない敬虔なムスリムではあったが、一方で、高級ワインやスコッチウイスキーの 「ジョニーウォーカーブルーラベル」とキューバ葉巻を好んだ。また、女性にはよく色目を使い「アメリカ人の女性看護婦が採血に現れたとき、『君は可愛いらしい』と英語で伝えるよう頼まれたとされ、大統領在任時とほとんど変わらない生活を送っていたようだ。また、影武者存在説については『誰も自分を演じることはできないだろう』『映画の中の話だ』と否定したとされる。2人はよく歴史や政治、芸術やスポーツなどについても語り合った。ある日サッダームはFBIから支給されたノートを使って愛についての詩作を始めるなど、意外な一面も見せた。

また、歴代のアメリカ大統領について、ブッシュ父子には嫌悪しながらも、アメリカ人には親近感を抱いており、ビル・クリントンロナルド・レーガンについては尊敬の念すら示したという。また、湾岸戦争については、アメリカ軍の戦力を過小評価していたと語り、イラク戦争では「ブッシュ政権が本気でイラクを攻撃してくるとは思わなかった」とし、二つの戦争における自らの対応は戦術的誤りであったとした。

一方、1980年代に政権によってクルド人に対する化学兵器を使用した大量虐殺について「必要だった」と正当性を主張。1990年のクウェート侵攻については、侵攻前に行われた両国外相会議の際、クウェート側代表が、「すべてのイラク人女性を売春婦として差し出せ」と侮辱されたといい、「罰を下したかった」と述べたという。

サッダームは、イラクが大量破壊兵器を開発済であり、WMDを完成させて密かに国内のどこかに隠し持っているかのように振舞い続けたが、ピロ氏から「なぜ、かかる愚かな行為をしたのか」と問われた際、サッダームは「大量破壊兵器を持っていないことが明らかになると、核を保有しているイランに攻め込まれ、国家がなくなってしまうのではないかとの恐怖があったから」と答えている。また、国連による制裁がいずれ解除されれば、核兵器計画を再開できるとも考えていた。

2009年7月1日に新たに公表されたピロの尋問記録にも、同様の趣旨のことを話しており、国連査察を拒んだ場合の制裁よりも、イラクのWMDが存在しないことが明らかになり、イランに弱みを見せることの方を恐れたという[8]。またサッダームは、獄中記でイランをアラブ諸国にとってイスラエル以上の脅威であると評しており、イランのイスラーム体制の指導部を「過激派」と呼び、嫌悪していたという。一方で、北朝鮮については「最も信頼できる友好国」と好意的に評価していたいう。

アル=カーイダとの関係についても否定し、ウサーマ・ビン=ラーディンを「狂信者」と呼び、『交流することも、仲間と見られることも望んでいなかった』とし、逆にアル=カーイダを政権にとっての脅威と捉えていたという。

ピロによれば、尋問日程がすべて終了すると、サッダームは感情的になったという。「私達は外に座り、キューバ葉巻を2、3本吸った。コーヒーを飲み、他愛ない話をした。別れの挨拶をすると彼の目から涙があふれた」という。 またピロは「彼は魅力的で、カリスマ性があり、上品で、ユーモア豊かな人物だった。そう、好感の持てる人物だった」と回想している。同様の感想をサッダームが収監された米軍収容所の所長だったジェニス・カーピンスキー准将も述べており、よく若い監視役の米憲兵の話相手となり、ある時はアメリカ兵の職場結婚の相談などにも応じていたという。カーピンスキーによるとサッダームは『お前は本当に司令官なのか?』とアメリカ軍に女性の将校がいることに関心を示し、『新イラク軍には、女性の司令官を新たに任命する』と語ったという。

サッダーム自身も弁護士に対し、『アメリカの兵士が私にサインをよく頼みに来る』『私は、イラクが(自分の手で)解放されたら、私の国に来るように彼らを招待した。彼らは承諾してくれた』と米兵との交流の様子を明かしている。

また、サッダームの世話を担当したロバート・エリス米陸軍曹長が、2007年12月31日付きの米紙「セントルイス・ポスト・ディスパッチ」のインタビューで証言したところによると、看守の米兵達はサッダームを勝利者を意味する「victor」(ヴィクター)というニックネームで呼んでいたという[9]。エリス曹長は、2日に一回独房を見回っていた。ある時、サッダームが自作の詩を読む声が聞こえ、それから互いに言葉を交わすようになったという。自分が農民の子で、その出自を一度も忘れたことはないこと、自分の子に本を読み聞かせして寝かせたこと、娘がお腹が痛いと言ったときにあやしたことなどを語ったという。また、葉巻とコーヒーは血圧に良いとして、エリスに葉巻を勧めたこともあったいう。エリスによれば、不平を言わない模範囚であり、米兵に敵対的な態度は見せなかった。一度だけ、不平を訴えてハンストを起こした。食事をドアの下の隙間から差し入れたからである。その後、ドアを開けて食事を直接届けるようになると、すぐにハンストをやめたとされる。ある時、サッダームが食事のパンをとっておき、庭で小鳥に食べさせていたのをエリスは見ている。

また、サッダームがエリスに米兵がマシンガンを撃つ姿をジェスチャーで示しながら、『米軍はなぜ、イラクに侵攻したのだ』と質問したという。『国連の査察官は何も見つけなかっただろう』とも述べた。ある日、米本国にいるエリスの兄弟が死亡したため、米国に帰国しなくてはならなかったとき、サッダームは「お前はもう、オレの兄弟だ」と言ってエリスを抱きしめ、別れを惜しんだという。

脱獄計画

サッダームの個人弁護人だったハリール・アッ=ドゥライミーは、2009年10月にアラブ圏で出版された回顧録『Saddam Hussein Out of US Prison』の中で、2006年夏にサッダームは米軍拘置施設からの脱走を計画していたことを明かした[10]。計画では、旧政権支持者とサッダームの元警護官で構成する武装集団が、バグダードのグリーンゾーンと国際空港にある米海兵隊基地を襲撃し、その隙に空港近くにある拘置施設「キャンプ・クロッパー」からサッダームを脱獄させ、イラクの武装勢力をまとめてイラク政府や駐留米軍を攻撃するために、西部アンバール県まで逃亡させる計画だったという。サッダームは、自分以外にも、同じく収監されているかつての自分の部下である、旧政権高官も脱獄させることを望んでいた。しかし、計画は別の武装勢力がキャンプ・クロッパー郊外で米軍と銃撃戦を行なう事件が起き、その結果、施設の警備が強化されたため未遂に終わったという。その6ヵ月後、サッダームは処刑された。

ハリールの本によれば、サッダームはキャンプ・クロッパーに収監されている収容者にその計画を話したとされ、『イラクが解放されれば、私はこの国を誰からの援助も無しで、7年で発展させる』『イラクをスイスのようにする』と語ったという。

裁判

2004年7月1日、大量虐殺などの罪で訴追され、予備審問のためイラク特別法廷に出廷した。予審判事に「あなたの職業は?」との質問に「イラク共和国大統領だ」と答え、判事に「"元"大統領ですね」と聞かれると、「今も大統領だ」と反駁した。また、容疑に1990年のクウェート侵攻が加えられていることに「共和国防衛隊がイラクの権利を行使しただけだ」「公的行為が犯罪なのか?」と声を荒らげる一幕もあった。また起訴状に署名するよう促されたが「弁護士が来るまで署名はしない」と拒否した。この審問の様子は映像で公開されたが「ブッシュこそ犯罪者」と語った場面は放送されず、却ってイラクのスンナ派地域やアラブ世界にサッダームの威信を高めるだけとなり、以後予審は2回ほど行なわれたが、音声無しの映像公開となった。 

サーリム・チャラビー・イラク特別法廷長官(当時)によると、予審前の6月30日にサッダームと3、4分面会した。主権移譲によりサッダームの身柄が米軍からイラク暫定政府に移ったことを説明するためだが、「私はサッダーム・フセイン。イラク共和国大統領だ」と居丈高に告げたという。サッダームは拘束時に伸びていたあごひげをそり落とし、トレードマークの口ひげを生やしてアラブの伝統衣装を身にまとっていた。健康そうだったが拘束当時よりも痩せており「とても神経質そうだった」という。この間、サッダームはずっと座ったままで、周りに立っているサーリム・チャラビーらに質問しようとしたが、チャラビーが「明日まで待ってほしい」とさえぎったという。

サッダーム弁護団のスポークスマンであるヨルダン人のズィヤード・ハサウネ弁護士によると、2004年12月16日にサッダームの私選弁護人であるハリール・アッ=ドゥライミー弁護士と接見した際、自身の裁判について「恐れていない。始まれば多数の当事者を巻き込む過去の情報を公にする」と述べ、欧米諸国との過去を裁判において暴露すると語った。ハリール弁護士との4時間にわたる面会でサッダームは、弁護団の名称を「サッダーム・フセイン・イラク大統領弁護支援委員会」と改名するよう指示、メディアや人権団体などを活用するよう求めた。また、自身の士気について7月の予審段階では90%だったが、「今は120%だ」と意気軒高ぶりを強調した。政権崩壊後のイラクで反米ゲリラ活動については、「称賛する。以前から練られていた計画によるものだ」と戦争前から外国軍に対するゲリラ戦を想定していたかのように発言した。

2005年7月21日、UAEのテレビ局「アル=アラビーヤ」が、予審の際に「弁護士と面会出来ないのか?」と不満を口にする映像を放送した。クルド人の財産没収に関する予審で、サッダームは白いシャツにグレーの上着姿で登場。かすれ気味の声ながら、挑発的な発言を繰り返した。弁護士との面会が制限されていることについて「これで公正なのか」と反発を示し、判事が「イラク政府による拘束」に言及すると「どの政府だ」と聞き返し、「私はアメリカが任命したイラク政府に拘束されている。これは策略だ」などと主張した。度重なる発言を、予審判事が声を荒らげて制止する場面もみられた。

8月28日には、1991年に起こったシーア住民に対する大量虐殺についての予審の最中、席を立とうとしたサッダームに対して何者かが法廷に乱入し、素手で殴りあうという事件が発生した。襲撃した人物や両者の負傷の有無は不明。弁護団の発表によれば予審判事も法廷の警備員もこれを止めようとしなかったと非難した。

10月19日の初公判の前に、ドゥライミー弁護士との面会でサッダームは「自分は無実だ」「(罪状には)気にとめていない」などと語ったという。

2005年10月19日にバグダードの高等法廷で1983年にイラク中部の村ドゥジャイルにおいて、住民140人以上を殺害した事件の初公判が開かれた。だが、初公判の時にリズカル・アミン裁判長(当時)の人定質問に答えずにコーランを法廷中に唱えたり、名前を聞かれても名乗ることはなく、裁判そのものに対する拒否の意思をはっきりと示した。また、裁判長がサッダームの経歴を朗読した際には「元ではない。今も共和国大統領だ」と発言し、自身こそがイラクの合法的な大統領であると発言した。サッダームは法廷を「裁判のような”もの”」と表現し、一貫して法定の不当性を訴えった。一方で、裁判長を持ち上げるような発言も行った。

12月6日の公判では、『サッダーム・フセインを弁護するためではなく、イラクが気高くあり続けるための率直な発言を許してほしい』と延べ、裁判長に対しても『あなたに圧力がかかっているのは分かっている。わたしの息子(裁判長)の一人と対峙しなければならないのは残念だ』と裁判長の職務に理解を示すような発言をしたかと思えば、『こんなゲームが続いてはいけない。サッダーム・フセインの首が欲しければくれてやる』『私は死刑を恐れない』などと発言し、アミン裁判長を挑発した。この日の公判では、事件の被害者が検察側証人として出廷。サッダームは、証人に対しても『小僧、私の話のこしを折るな』と延べ、挑発的な態度を崩さなかったが、一方で、拷問の様子や強制収容所での実態を涙ながらに語る女性証人の証言の最中には、動揺した様子で顔をうつむいて静かに話に聞き入るなど、他の男性証人に対しては違う態度を見せた。

しかし、公判の最後では、弁護側の要求を無視して翌7日の公判開始を決めたアミン裁判長に対し、『不公正な裁判にはもう出ないぞ。地獄へ落ちろ!』と罵る一幕もあった。 7日の公判では、同日に弁護側と接見出来なかったことに抗議してサッダームは出廷せず、他の被告は出廷したものの、開廷が4時間近く遅れ、サッダーム不在のまま裁判は続けられた。


2006年11月5日、サッダームはイラク中部ドゥジャイルのイスラーム教シーア派住民148人を殺害した「人道に対する罪」により、死刑判決を言い渡された。サッダームは判決を言い渡されると、「イラク万歳」と叫び、裁判を「戦勝国による茶番劇」だとして非難した。

12月26日に開かれた第2審でも、第1審の判決を支持し、弁護側の控訴を棄却したため死刑が確定。翌27日、サッダームはイラク国民向けの声明を弁護士を通じて発表し、『神が望むなら、私は殉教者に列せられるだろう』と死刑を受け入れる姿勢を見せると共に、イラクで当時激化していた宗派対立に言及し、『イラクの敵である侵略者、ペルシア人があなたたちに憎悪をくさびを打ち込んだ』とアメリカとイランを非難。そして、『信仰深き国民よ、私は別れを告げる。私の魂は神のもとへ向かう。イラク万歳。イラク万歳。パレスチナ万歳。聖戦に万歳。神は偉大なり」と結んでいる。弁護士に対しては、『イラク国民が私を忘れないことを願う』と述べたという。

死刑執行

2006年12月30日、サッダームは、米軍拘置施設「キャンプ・ジャスティス」から、バグダードのアーザミーヤ地区にある刑務所にて、絞首刑による死刑が執行された。(サッダーム・フセインの死刑執行)アメリカは処刑を来年まで遅らせるようイラクに要請したが、ヌーリー・マーリキー政権は国内の「サッダーミスト」(サッダーム支持者)が本人の奪還を目的にテロを起こしかねないとの懸念から受け入れず関係者共々執行した。サッダームの死刑にシーア派勢力・市民は歓喜し、一方スンナ派勢力・市民は現政権を非難した。

死後

刑執行後、サッダームの遺体は故郷であるアウジャ村のモスクに埋葬された。埋葬後は、住民らによって葬儀が執り行われた。その後もサッダームの誕生日と命日には地元児童らが「課外授業」の一環として、サッダームの墓前に花を捧げ、彼を讃える歌などを合唱していたが、2009年7月、イラク政府はサラーフッディーン県当局に対して集団での墓参りを止めるよう命じた[11]

サッダーム政権

政治スタイル

反対派への粛清、それによる恐怖政治、弾圧から諸外国から典型的な独裁者として恐れられた。

特にサッダームはヨシフ・スターリンの政治スタイルを手本にしたとされる。事実、サッダーム体制にはスターリン主義の特徴が見受けられる。スターリンの出身地であるグルジアはイラクを含む西アジアにあり、民族的感情の影響もあったと言われる。世界大戦で反共十字軍を掲げて侵攻するナチス・ドイツに勝ったスターリンをかつてのサラーフッディーン、その戦いがあったスターリングラードを、「サッダーム・シティ」に見立てた[12]。サッダームはスターリンを共産主義者というより国粋主義者と見ているとクルド人の政治家メフムド・オスマンは推察している。オスマンによると、大統領宮殿のサッダームのオフィスにはスターリンに関する本が揃えてあり、オスマンが「スターリンがお好きなようで」と言うと、「そうです。彼の統治の仕方が気に入っているので」と答えた。オスマンは、あなたは共産主義者のなのかと質問すると、サッダームは「スターリンが共産主義者とでも言うのかね」と反論したという。しかし、サッダームの主治医アラ・バシール医師によるとサッダームは一度もスターリンについて語らなかったとし、サッダームが尊敬していたのはスターリンではなくフランスシャルル・ド・ゴール元大統領であったという。とりわけド・ゴールを「世界でもっとも偉大な政治家」と絶賛し、「彼は戦争の英雄、愛国者、立派なナショナリスト、フランス文明の真の産物」と評し、話をすると決まって最後はド・ゴールの話になったという。ちなみにアドルフ・ヒトラーについては「奴はアラブ人を見下していた」と嫌っていたという。ただし、ナチスからは社会全体の組織化について手本にしたとされる。

警察国家

また、サッダーム政権下のイラクでは、幾つもの治安機関が存在し、市民の監視や反体制的言動の摘発に当たっていた。主な物では、総合諜報局、総合治安局といった組織で、相互連携することなく、別個に行動している。治安機関は、あらゆる市民社会に侵入し、タクシーの運転手、レストランの店員などが治安機関の人間である場合もあった。こうした秘密警察による監視網は、国民を恐怖という心理で支配するだけでなく、隣人、家族、友人同士が互いに互いを監視し、密告し会う社会が形成された。子供が家で親が言ったことを学校で喋ってしまい、教師が治安機関に通報したというケースもあったと言われる。このため、サッダーム体制のイラクを、亡命イラク人であるカナアーン・マキーヤは「恐怖の共和国」と名付けた。1980年ごろ核兵器開発の作業を拒否した科学者のフセイン・シャフリスターニー氏(現石油大臣)の体験は凄惨を極め、22日間にわたり電気ショックなどの拷問を受けたうえ、逃亡までの11年間を獄中で過ごしたという。アメリカのテレビで告白し、恐怖政治の実態が明らかになった[13]

監視だけでなく、市民に対する恣意的逮捕や拷問も日常的に行われた。アムネスティによるとサッダーム時代には107種類の拷問がイラク各地の刑務所で行われていたとしている。その拷問はわざと苦痛を感じさせて、障害を残すような極めて残忍な拷問である。ヒューマン・ライツ・ウォッチの報告によるとサッダーム政権下で約29万人が失踪あるいは殺害されたと報告している。またフセインの元側近は裁判で元議員がフセイン政権が行っていた拷問等に関して証言しており、また「サダム・フセイン時代の恐怖」展、拷問道具や遺品を展示するなど[14]、この拷問の証言はアメリカの反イラク感情のためにでっち上げたプロパガンダではない事は間違いないようである。

個人崇拝

サッダームが大統領に就任すると、自身への崇拝が強化され、イラク国内には彼の巨大な彫刻、銅像、肖像画やポスターが飾られるようになった。それらを制作する専門の職人がいたほどであり、国民の人口よりサッダームの銅像やポスターの方が多いという笑い話が作られたほどである。サッダームに対する個人崇拝は、中東でも異例であり、突出していた。国営テレビは、毎日のようにサッダームを称える歌・詩を放送しており、歌の数は200種類あるとされていた。イラクのテレビ・ラジオの監督部門の長を務めた人物の証言によると、サッダームもこれらの放送を見ており、一時、テレビで歌を流す回数を減らしてエジプトのドラマを放送していた(実際、素人臭い作品ばかりで、出来の悪い歌が多かったためである)。これに気づいたサッダームは、担当者を呼びつけて放送を元に戻すよう指示したとされる。 

また、アラブや古代メソポタミアの過去の英雄たちも引き合いに出され、即ち、サッダームはネブカドネザル2世ハンムラビマンスールハールーン・アッ=ラシードにならぶ偉大な指導者であるとされ、あげくの果てに預言者ムハンマドの子孫と喧伝された。また、アラブ世界の英雄サラーフッディーンを同じティクリート出身のために尊敬・意識していたという説もあるが、皮肉にもサラーフッディーンはサッダームが苛烈な弾圧を行ったクルド人の出身である。

イラク近代化

独裁者として、イラクを恐怖で統治していたサッダームであるが、1970年代から80年代に掛けて、イラクをアラブで随一の社会の世俗化を図り、近代国家にしたという功績がある。その一つがイラク石油国有化である。

バアス党政権はソ連と共同で南部最大のルメイラ油田を開発させた後、1972年に国家的悲願だった石油事業の国有化を断行した。長年イラクは外資系のイラク石油会社に権益を独占され、石油利益が国家に還元されていなかった。一般に、石油国有化はサッダームの功績の一つにあげられているが、実際に計画を立てて指揮を執ったのは、当時の石油大臣であるムルタダー・アル=ハディーシーであり、政治決断をしたのがサッダームである。

バアス党政権は、国富の公平な配分を掲げていたが、原油収入が限られていたため国有化後も、思うような成果が上がらなかった。事態が好転したのは1973年。石油輸出国機構の原油価格が4倍に急騰した時だった。このころを境にイラクの石油収益は伸び続け1980年には、1968年から比較して50%の260億ドルに達した。

この石油収入を背景にバアス党政権は第3次五ヵ年計画を立て、上中流階級の解体、社会主義経済と国有化推進、イラクの経済的自立を目指した。石油産業、軍装備、原発はソ連、その一部をフランス、鉄道建設はブラジル、リン酸塩生産施設はベルギー、旧ユーゴスラヴィア、東西ドイツ日本にはハイテク技術分野の専門家や外国人労働者、専門技師の派遣を要請した。

これにより、バアス党政権は約400億ドルを懸けて第4次五ヵ年計画を進め、全国に通信網・電気網を整備し、僻地にも電気が届くようになった。貧困家庭には無料で家電が配布された。また農地解放により、農業の機械化、農地の分配を推進し、最新式の農機具まで配られ、国有地の70%が自営農家に与えられた。また、ソ連の協力によりイラク最大級のモースル・ダム(旧サッダーム・ダム)やハディーサー・ダムも完成させた。こうした政策により、1970年代後半にはイラクの人口は35%増加した。

国内総生産における国営部門の比率も72年には35.9%だったのに対し、77年には80.4%と増加。事実上、バアス党政権が、国民に富を分配する唯一の存在となり、最大の「雇用主」であった。

これらは石油生産性がピークに達するバクル政権と、それが連続するサッダーム政権初期の功績である。がしかし、後のサッダームはイラン・イラク戦争湾岸戦争での二度に渡る戦争、その後の国連制裁によってこれらの成果を無に帰してしまい、また経済運営も政権崩壊まで、計画経済の方針を採り続けて失敗を重ねる。

他にもサッダームはイラク全国に学校を作り、学校教育を強化した。教育振興により児童就学率倍増した。イラクの低識字率の改善のため、1977年から大規模なキャンペーンを展開し、全国規模で読み書き教室を開講し、参加を拒否すれば投獄という脅迫手段を用いたものの、イラクの識字率は向上し、80年代に大統領となったサッダームにユネスコ賞を授与する。

また、女性解放運動も積極的に行なわれ性別による賃金差別や雇用差別を法律で禁止し、家族法改正で一夫多妻制度を規制、女性の婚約の自由と離婚の権利も認められた。女性の社会進出も推奨し、当時湾岸アラブ諸国では女性が働くことも禁じていた中で、イラクでは女性の公務員が増え、イラク軍に入隊することも出来た。男尊女卑の強い中東において「名誉の殺人」が数多く行われていた中、この「名誉の殺人」を非難した人物であることは、あまり知られていない。(この点だけはイスラーム世界の女性解放運動家に支持されている。ソマリア出身のオランダ下院議員であるアヤーン・ヒルシ・アリもサッダームのこの一連の女性政策を支持している)。もっとも、91年の湾岸戦争以後は、イスラーム回帰路線を推し進め、この「名誉殺人」も合法化している。

フセイン政権崩壊後のイラク

サダム・フセインは恐怖政治でシーア派・スンニ派・クルド人の対立を抑え込んでいた。しかしアメリカのサダム・フセイン政権崩壊により、イラクは民主主義になるどころか、宗派対立で内戦状態になっており、自爆テロの後が絶えなくなった。トルコのギュル首相はユーゴスラビア解体が紛争につながった様にイラクを『パンドラの箱』と揶揄していた。

家族・親族

両親

実父フセイン・アル=マジードは、サッダームの妹シハーム・フセイン・アル=マジード出世後に行方不明となった。盗賊に襲われたとも、家を捨てたとも言われるが定かでは無い。後にサッダームは、父の名前を模した「フセイン・アル=マジード・モスク」を故郷ティクリートに建設している。母のスブハ・ティルファーは農家出身で、占い師として生計を立てていた。いつごろフセイン・アル=マジードと別れたのかは不明で、イブラーヒーム・ハサンと再婚し、サブアーウィー、バルザーン、ワトバーン、ナワールの3男1女を生んだ。サッダームの継父にあたるハサンは周囲から「ホラ吹きハサン」と呼ばれており、決して周囲から尊敬されるような人物では無かったとされる。

叔父

叔父のハイラッラー・ティルファーは、サッダームの母スブハの兄でありイラク軍の将校であった。サッダームの養父として学校への入学や読み書きを援助している。ハイラッラーは反英国のイラク国家主義者でもあり、1941年に起きたラシード・アリー・アル=ガイラーニー将軍が起こした親枢軸国クーデターにも参加しており、熱心なヒトラー支持者でもあった。これらの経緯が祟ってハイラッラーは軍を解雇され、拘留される。その後、釈放され、1968年にバグダード市長となったが、市長という地位を利用して汚職に手を染め、ハイラッラーはバグダードで一番裕福な人物になった。あまりの悪名のため、1972年に解任されたが、今度は「ロビイスト」として官庁に口利きを行い、賄賂を受け取った。晩年は壊症になり、片足を切断したが、死去するまでサッダームの庇護を受け続けた。

兄弟

妻子

サージダ・ハイラッラーは、ハイラッラー・ティルファーの娘でサッダームの従姉妹に当たり、長男ウダイ1964年6月18日 - 2003年7月22日)、次男クサイ1966年5月17日 - 2003年7月22日)、長女ラガド(1967年)、次女ラナー(1969年)、三女 ハラー(1972年)を生んだ。

一方、サッダームはその他にも数人の妻がいたとされる。サミーラ・アッ=シャフバンダル、ニダール・アル=ハムダーニー、ワファー・ムッラー・アル=フワイシュの三人がサッダームと結婚したとされるが、サミーラ以外は真偽不明である。このうちサミーラとの間には、アリーなる息子が生まれたとされるが諸説ある[15]

年譜

フルネーム

サッダーム・フセインの全名は、サッダーム・フセイン・アブドゥル=マジード・アッ=ティクリーティー (アラビア語:صدام حسين عبد المجيد التكريتي、英語:Saddam Husayn Abd al-Majid al-Tikriti) であり、これは「ティクリート出身のアブドゥル=マジードの子フセインの子サッダーム」と解される。彼を含め多くのイラク人の名前には、欧米や日本の人名慣習でいう「姓」にあたるものは存在しない。日本語の文脈で彼の名を縮めて呼ぶ場合、「フセイン」「フセイン大統領」といった形をとることが多いが、「フセイン」は彼の全名の中に含まれる父の名の部分であって、本来ならば適切ではない。アラブ諸国では、縮めて呼ぶ際には「サッダーム」とするのが一般的である(詳細はイスラム圏の名前を参照)。なお、フセインのアラビア文字表記をそのまま読むと「フサイン」であるが、実際には「フセイン」の表記の方がより原音に近い。

陰謀説

ジャーナリストの西谷文和はイラン・イラク戦争はアメリカのささやきによってサッダームが行い、湾岸戦争はサッダームにアメリカのゴーサインに乗せられ勃発し、またサッダームの処刑はアメリカとの蜜月であった時代の口封じ(ハラブジャ事件を黙殺するような人権無視な行為)だというブッシュ親子による陰謀説を主張しているが、この説が全て現実である可能性は薄いと思われる[16]

例えばイラン・イラク戦争でアメリカ以外にも旧ソ連とフランスや他の欧州諸国や親米の中東諸国もイラクに武器を支援して、むしろフランスがアメリカ以上にイラクへの最大の友好国であり、当のサッダームは経済制裁中にロシアとフランスと中国と友好を深めていたにも関わらず、友好国がサッダームの口封じをする様子は見られなかった[17]。ジョージ・H・W・ブッシュ(父ブッシュ)がサッダームを口封じのために処刑をするとしたら湾岸戦争で勝利してすぐにやるのが最善であるにも関わらず、2001年に当選した息子(子ブッシュ)がサッダームを裁判にかけたために、父ブッシュが退任後に息子が当選してサッダームを口封じさせる事を予測するのは間違いなく不可能であり、またサッダームの死刑執行を早く行ったのはアメリカでなくマリキ首相の要請であり、サッダームの死刑執行は湾岸戦争から15年後で拘束後からすでに3年も経過している。たとえアメリカがサッダームを罠にかけたとしてもサッダームをイラク戦争で追い詰めればにその陰謀を口外する危険性も十分にある[18]にも関わらず、死刑宣告から4日間の間までに口にする事はなく(『本当の犯罪者はブッシュだ』という発言はしていた)、かえって戦争をしない方が口外する危険性がなく都合がよいと思われる。またサッダームは孤立化している際にベネズエラウゴ・チャベス大統領と会談しており、イラク戦争直前にサッダームは追いつめられてもチャベスに一度も陰謀を書簡で送るような事はしなかった。

またハラブジャ事件の黙殺行為はアメリカにとって人権を無視するような知られたくない過去である事は間違いないが、当初イラクに武器を売っていた欧米諸国も黙認していた事実であり、アメリカは第二次世界大戦でもこれと似たようにアメリカを主体とする連合国はナチスドイツを打倒する為に国際社会から追放を受けたソビエト連邦を連合国に加えた[19]前例があるために、アメリカや欧米は『は味方』という理由でイラクを支援していただけであり、決してただの人権無視という理由ではないと思われる。

さらに湾岸戦争の時にはイラク軍は先制攻撃としてクウェート兵600人とジャービル首長の弟ファハドも殺害し、サウジアラビアとクウェートの油田を破壊して重油が流出し、他の親米国のサウジアラビアとイスラエルにもスカッドミサイル発射して死傷者を出しており、『アメリカの宗主国』と揶揄されるイスラエルを危険な目にさらしてまでも戦争を起こさせようとするのかも疑問である。またこの時のクウェート人の少女と医師の狂言は恐らくアメリカ国民を反イラク感情にさせるための狂言である可能性が高い。

実際のイラク戦争でサッダーム政権の打倒の目的は石油の利権目当てである事は確実であるが、他の説はイスラエル防衛のための親米政権樹立を樹立する説が有力であり、周辺のアラブ諸国はイスラエルの脅威のフセインを打倒する事を目的と見なしている。ブッシュは2兆円近くの大規模なイラク復興金を出したのは親米政権樹立のためである可能性がある[20]

また、サッダームがマヌエル・ノリエガなどと同様、イラクを支配するため米国CIAが送り込んだ人物ではないかとする主張が存在する。ブッシュ一族とサッダームの関係が根拠にあげられているが、こちらも陰謀説の俗域を出る物では無い[21]

ウサマ・ビンラディンはサッダームと同様に『敵の敵は味方』の理屈でソビエト軍によるアフガン侵攻に対抗するためにアメリカにより武器をもららっていたが、後に反米になるというサッダームとの共通点を持っている。アメリカが軍事産業のためにアルカイダを泳がせて自作自演でテロを起こしたとされるアメリカ同時多発テロ事件陰謀説があるが、拘束されたアルカイダのメンバーもサッダーム同様にアメリカとの関係を口外した形跡が見られない。

結論で言えばこれらの陰謀説は、アメリカが軍事産業のために戦争の口実を作らせるために、アメリカが飼い犬(サッダームとウサマ)に手を噛まれた(湾岸戦争、アメリカ同時多発テロ)フリをしている自作自演説である。いずれにしろ湾岸戦争と同時多発テロも多くの民間人や政府要人が犠牲になっている。

参考・関連書籍

日本

  • サンケイスポーツ特別版 「堕ちたフセイン」2003年発行 - 逮捕時発行
  • 幻冬舎 「サダム その秘められた人生」コン・コクリン著 伊藤真訳-ISBN:344-00320-9
  • NHK出版「裸の独裁者サダム 主治医回想録」アラ・バシール ラーシュ・スンナノー著 山下丈訳-ISBN:978-4-14-081006-4
  • 緑風出版「灰の中から サダム・フセインのイラク」パトリック・コバーン・アンドリュー・コバーン著 神尾賢二訳-ISBN:978-4-8461-0806-9
  • 岩波書店「フセイン・イラク政権の支配構造」酒井啓子著-ISBN:4-00-024617-8
  • 岩波新書「イラクとアメリカ」酒井啓子著-ISBN:4-00-430796-1

映像作品

脚注

  1. ^ [1]
  2. ^ [2]
  3. ^ 1981年の戦争開始後も1984年までに約50億ドルに相当する武器をイラクに供給し、1982年から1983年、フランスの武器輸出の40%はイラクがしめていた。
  4. ^ [3]
  5. ^ http://www.iraqupdates.com/p_articles.php/article/25589
  6. ^ http://www.47news.jp/CN2/200306/CN2003062901000041.html
  7. ^ ディスカバリーチャンネル 「ZERO HOUR:サダム・フセイン拘束」(DVD)
  8. ^ [4]
  9. ^ http://www.guardian.co.uk/world/2007/jan/02/iraq.brianwhitaker
  10. ^ http://www.inform.com/article/Saddam%20planned%202006%20prison%20escape:%20lawyer's%20memoirs
  11. ^ http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20090714_093034.html
  12. ^ Saddam Hussein: Stalin on the Tigris 2007年2月
  13. ^ [5]
  14. ^ [6][7]
  15. ^ サッダーム・フセインの主治医、アラ・バシール医師は自著『裸の独裁者サダム 主治医回想録』の中で、アリー・サッダーム・フセインになる息子は存在しないと、三男の存在を否定している。恐らくヨルダンに住んでいるサッダームの孫アリー・サッダーム・フセイン・マジードと混同された可能性がある。
  16. ^ ちなみにオリバー・ストーンジョンソン大統領がケネディ大統領暗殺事件の真犯人であると力説していたが、ブッシュ親子に対しては陰謀説を主張していない。
  17. ^ [8]
  18. ^ トンキン湾事件がアメリカ人記者によりが暴露された例またロシアのFSB元将校がジャーナリスト暗殺にFSBが関わっているという内部告発した例がある
  19. ^ 連合国側はソ連の犯罪であるホロドモール、大粛清、冬戦争、満州国侵攻、シベリア抑留バルト三国の武力併合をナチスドイツを倒すまでは黙認していた
  20. ^ [9]
  21. ^ 『世界石油戦争―燃えあがる歴史のパイプライン』広瀬隆 ISBN 978-4140807026

外部リンク


Template:Link FA