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== 評価についての論争 ==
== 評価についての論争 ==
東京帝国大学名誉教師となった日本研究者[[バジル・ホール・チェンバレン]]は、ハーンは幻想の日本を描き、最後は日本に幻滅したとした。ハーン研究者でもある比較文学者の[[平川祐弘]]はこれに反対して、チェンバレンはハーンとの友情を破り、冷たい頭で日本を描いたが、ハーンは日本を愛し暖かい心で日本を描いたとした。しかしやはり比較文学者の[[太田雄三]]はこれに反論し、『B・H・チェンバレン』(リブロポート)や『ラフカディオ・ハーン』(岩波新書)で、ハーンは日本の過去を美化しすぎており、チェンバレンは学者として正確な日本像を描こうとしたのだと反論した。また、ハーン礼讃はナショナリズムの現われではないかとしてハーンの[[オリエンタリズム]]を批判する論者、あるいは「神々の国の首都」を書いたハーンが、明治期天皇制を日本古来のものと勘違いしたと指摘する者もいる(福間良明『辺境に写る日本』)。平川も『ラフカディオ・ハーン』(ミネルヴァ書房)で、ハーンの筆致に誇張があったことを認めているが、上記のごとく、一部([[左派|左派系]])文化人のハーンの「脱神話化」の試みにもかかわらず、現代の日本人の間での支持には確固としたものがある。[[三島由紀夫]]等も、[[川端康成]]との書簡のなかでしばしば、引用している。
東京帝国大学名誉教師となった日本研究者でハーンとも交友があった[[バジル・ホール・チェンバレン]]は、ハーンは幻想の日本を描き、最後は日本に幻滅したとした。また、ハーンが英語で発表した作品は同時代の日本では知られず、本格的に日本語に翻訳・紹介されたのは大正末期からであり([[第一書房 (第1期)|第一書房]]『小泉八雲全集』など)、「天皇制を肯定、日本人独自論を提唱」しているハーンの著作は、戦前の日本ナショナリズムを補完するものとして受け止められた。
ハーン研究者でもある比較文学者の[[平川祐弘]]はチャンバレンの説に反対して、チェンバレンはハーンとの友情を破り、冷たい頭で日本を描いたが、ハーンは日本を愛し暖かい心で日本を描いたとした。しかしやはり比較文学者の[[太田雄三]]はこれに反論し、『B・H・チェンバレン』(リブロポート)や『ラフカディオ・ハーン』(岩波新書)で、ハーンは日本の過去を美化しすぎており、チェンバレンは学者として正確な日本像を描こうとしたのだと反論した。また、ハーン礼讃はナショナリズムの現われではないかとしてハーンの[[オリエンタリズム]]を批判する論者、あるいは「神々の国の首都」を書いたハーンが、明治期天皇制を日本古来のものと勘違いしたと指摘する者もいる(福間良明『辺境に写る日本』)。
また、平川・太田と同じ研究室(東大大学院・比較文学比較文化)出身の[[小谷野敦]]は著書『東大駒場学派物語』において、近年のハーン肯定論者の多くが同研究室の関係者であることを指摘し、「比較におけるナショナリズムがハーン賛歌の根底にある」としている。
平川も『ラフカディオ・ハーン』(ミネルヴァ書房)で、ハーンの筆致に誇張があったことを認めているが、上記のごとく、一部([[左派|左派系]])文化人のハーンの「脱神話化」の試みにもかかわらず、現代の日本人の間での支持には確固としたものがある。[[三島由紀夫]]等も、[[川端康成]]との書簡のなかでしばしば、引用している。


== エピソード ==
== エピソード ==

2009年6月9日 (火) 08:09時点における版

小泉 八雲
小泉八雲(1889年頃)
誕生 パトリック・ラフカディオ・ハーン
1850年6月27日
ギリシャの旗 ギリシャ王国レフカダ島
死没 1904年9月26日
東京都新宿区西大久保
職業 小説家随筆家ほか
国籍 日本の旗 日本
活動期間 1894年 - 1904年
代表作骨董
怪談
配偶者 マティ・フォリー(1875年 - 1877年
小泉節子(1891年 - 1904年
子供 小泉一雄(長男)
稲垣巌(次男)
小泉清(三男)
親族 小泉凡(曾孫)
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小泉 八雲(こいずみ やくも、1850年6月27日 - 1904年9月26日)は、新聞記者(探訪記者)・紀行文作家随筆家小説家・日本研究家。

経歴

日本国籍を取得する前の旧名は、パトリック・ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn)である。一般的に知られているラフカディオは、彼のミドルネームである。ファーストネームはアイルランドの守護聖人・聖パトリックに因んでいるが、ハーン自身キリスト教の教義に懐疑的であったため、この名をあえて使用しなかったといわれる。ファミリーネームは来日当初「ヘルン」とも呼ばれていたが、これは松江の島根県立中学校への赴任を命ずる辞令に、「Hearn」をローマ字読みして「ヘルン」と表記したのが広まり、当人も「ヘルン」と呼ばれることを非常に気に入っていたことから定着したもの。ただ、妻の節子には「ハーン」と読むことを教えたことがある。なお名前の「八雲」は、一時期当人が島根県松江市に在住していたことから、そこの旧国名(令制国)である出雲国にかかる枕詞の「八雲立つ」にちなむとされる。

16歳のときに怪我で左眼を失明して隻眼となって以降、晩年に到るまで、写真を撮られるときには必ず顔の右側のみをカメラに向けるか、あるいはうつむくかして、決して失明した左眼が写らないポーズをとっている。

なお、彼が松江時代に居住していた住居は、1940年に国の史跡に指定されている。

イザベラ・バードアーネスト・フェノロサモラエスブルーノ・タウトローレンス・ヴァン・デル・ポスト( 『 戦場のメリークリスマス 』参照 )、アンドレ・マルロー等とならび、著名な「日本紹介者」の一人であり、日本人にとっても、祖国の文化を顧る(かえりみる)際の、重要なよすがとなっている。

年譜

評価についての論争

東京帝国大学名誉教師となった日本研究者でハーンとも交友があったバジル・ホール・チェンバレンは、ハーンは幻想の日本を描き、最後は日本に幻滅したとした。また、ハーンが英語で発表した作品は同時代の日本では知られず、本格的に日本語に翻訳・紹介されたのは大正末期からであり(第一書房『小泉八雲全集』など)、「天皇制を肯定、日本人独自論を提唱」しているハーンの著作は、戦前の日本ナショナリズムを補完するものとして受け止められた。

ハーン研究者でもある比較文学者の平川祐弘はチャンバレンの説に反対して、チェンバレンはハーンとの友情を破り、冷たい頭で日本を描いたが、ハーンは日本を愛し暖かい心で日本を描いたとした。しかしやはり比較文学者の太田雄三はこれに反論し、『B・H・チェンバレン』(リブロポート)や『ラフカディオ・ハーン』(岩波新書)で、ハーンは日本の過去を美化しすぎており、チェンバレンは学者として正確な日本像を描こうとしたのだと反論した。また、ハーン礼讃はナショナリズムの現われではないかとしてハーンのオリエンタリズムを批判する論者、あるいは「神々の国の首都」を書いたハーンが、明治期天皇制を日本古来のものと勘違いしたと指摘する者もいる(福間良明『辺境に写る日本』)。

また、平川・太田と同じ研究室(東大大学院・比較文学比較文化)出身の小谷野敦は著書『東大駒場学派物語』において、近年のハーン肯定論者の多くが同研究室の関係者であることを指摘し、「比較におけるナショナリズムがハーン賛歌の根底にある」としている。

平川も『ラフカディオ・ハーン』(ミネルヴァ書房)で、ハーンの筆致に誇張があったことを認めているが、上記のごとく、一部(左派系)文化人のハーンの「脱神話化」の試みにもかかわらず、現代の日本人の間での支持には確固としたものがある。三島由紀夫等も、川端康成との書簡のなかでしばしば、引用している。

エピソード

  • アメリカで新聞記者をしていたとき、「オールド・セミコロン(古風な句読点)」というニックネームをつけられたことがある。句読点一つであっても一切手を加えさせないというほど自分の文章にこだわりを持っていたことを指している。
  • 英語教師としては、よく学生に作文をさせた。優秀な学生には賞品として、自腹で用意した英語の本をプレゼントしていた。
  • 日本名「八雲」については「音読みにするとハウンになる」こととの関連を指摘されることが多い。この説は古くからあったようで、教え子の田部隆次は早稲田大学の委嘱で書いた伝記「小泉八雲〜ラフカディオ・ヘルン〜」の中でわざわざ「八雲はハウンに通じるという考えは少しもなかった」と明記している。
  • 東京帝国大学では学生の信望が厚く、解任のときは激しい留任運動が起きた。川田順は「ヘルン先生のいない文科で学ぶことはない」といって法科に転科した。後年この話の真偽を尋ねられた川田はそれが事実であると答え、後任の夏目漱石についても「夏目なんて、あんなもん問題になりゃしない」と言った。
  • 八雲生誕の、ギリシャレフカダ島の詩人公園には、日本の松江と新宿から贈られた八雲の像がある。
  • コオロギの一種クサヒバリの鳴き声の美しさを讃えた。

家族・親族

  • 妻 節子(島根県、小泉湊の娘)
  • 長男 一雄
  • 次男 (教師、母セツの養家であった稲垣家を継ぐ)
  • 三男 清(画家)
  • 長女 寿々子
  • 小泉時(エッセイスト)、小泉閏、稲垣明男、種市八重子、佐々木京子
  • 曾孫 小泉凡(学者、島根県立島根女子短期大学准教授)

小泉家について

『列士録』によれば、初代の小泉弥右衛門は本国近江、生国因幡だった。はじめ、讃岐丸亀藩四万五千石の藩主である山崎治頼に仕えて家老を務めていた。しかし明暦三年(1657年山崎治頼が嗣子なくして没して除封となり、代わってかつての松江城の主京極忠高の甥にして養子の高和が入封するに及んで、弥右衛門は丸亀を去って江戸に出た。翌年の万治元年、弥右衛門は江戸で出雲松平家の祖である松平直政に召抱えられ、初めは使番(つかいばん)後に二十名の徒(足軽)を統率する者頭を務めた。その後、小泉家は二代目弥右衛門が五十人の士分のを統率する番頭(ばんがしら)を務めて以来、代々セツの父八代目弥右衛門に至るまで、一定期間者頭ないしそれに準じた役職を務めた後、番頭(ばんがしら)に進んでおり、また嫡子には家督相続と同時に組外(くみはずれ)という格式が与えられている。この格式は上士に限って与えられた待遇だった。

記念館

作品

著作集

  • 平井呈一訳による『小泉八雲作品集』全12巻、恒文社、1964-67年。新装版が数冊刊行している。
  • 西脇順三郎/森亮監修「ラフカディオ・ハーン著作集」全15巻、恒文社、1980-88年。
    • 西川盛雄/アラン・ローゼン共編(平井呈一訳・小泉凡挿し絵)『対訳小泉八雲作品抄』、恒文社、1998年9月。ISBN 4-7704-0984-2
    • 平井呈一訳/写真ジョニー・ハイマス『面影の日本』恒文社、1999年3月。ISBN 4-7704-0989-8
    • 佐藤春夫訳『尖塔登攀記 小泉八雲初期文集 外四篇』恒文社、1996年6月 ISBN 4-7704-0878-1

参考文献

  • 太田雄三『ラフカディオ・ハーン―虚像と実像』(『岩波新書』新赤版336)、岩波書店、1994年5月。ISBN 4-00-430336-2
  • 牧野陽子『ラフカディオ・ハーン 異文化体験の果てに』(『中公新書』1056)1992年
  • 小泉時・小泉凡編『文学アルバム小泉八雲』、恒文社、2000年4月。ISBN 4-7704-1016-6
  • ジョナサン・コット(真崎義博訳)『さまよう魂―ラフカディオ・ハーンの遍歴』、文藝春秋、1994年3月。ISBN 4-16-348890-1
  • 西川盛雄/アラン・ローゼン共編(平井呈一訳・小泉凡挿し絵)『対訳小泉八雲作品抄』、恒文社、1998年9月。ISBN 4-7704-0984-2
  • 小泉節子/小泉一雄 『小泉八雲 思い出の記・父「八雲」を憶う』、恒文社、1976年2月。
  • 平川祐弘『ラフカディオ・ハーン 植民地化・キリスト教化・文明開化』(<MINERVA歴史・文化ライブラリー3> ミネルヴァ書房ISBN 4-623-04044-5、2004年3月
  • 梅本順子監修・解説『西洋人たちの語ったラフカディオ・ハーン: 初期英文伝記集成』復刻集成全4巻+別冊解説

http://www.aplink.co.jp/synapse/4-86166-102-0.html

関連項目

外部リンク