「北海帝国」の版間の差分

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{{基礎情報 過去の国
[[ファイル:Cnut 1014 1035.jpg|thumb|250px|北海帝国の領域]]
|略名 =
'''北海帝国'''(ほっかいていこく、{{lang-en|North Sea Empire}}、[[1016年]] - [[1042年]])は、[[クヌート1世 (イングランド王)|カヌート(クヌーズ)大王]]が[[イングランド王国|イングランド]]・[[デンマーク]](現在の[[スウェーデン]]南部の[[スコーネ]]地方も含む)・[[ノルウェー]]の3国の王に就いたため成立した[[国家連合]]([[同君連合]])。「北海帝国」の名は、領域が[[北海]]を囲むかたちで広がることに由来する。{{要出典範囲|デーン人の故地と考えられた[[スコーネ]]地方の[[ルンド]]に都を置いた。|date=2019年12月}}
|日本語国名 = 北海帝国
|公式国名 = '''Nordsøveldet''' / '''Nordsjøveldet'''
|建国時期 = [[1013年]]
|亡国時期 = [[1042年]]
|先代1 = イェリング朝
|先旗1 = Raven Banner.svg|22px
|次代1 = エストリズセン朝
|次旗1 = Raven Banner.svg|22px
|先代2 = :en:Kingdom of Norway (872–1397)|ノルウェー王国 (872-1397年)
|先旗2 = Raven Banner.svg|22px
|次代2 = :en:Kingdom of Norway (872–1397)|ノルウェー王国 (872-1397年)
|次旗2 = Raven Banner.svg|22px
|先代3 = イングランド王国
|先旗3 = Wessex dragon.svg|22px
|次代3 = イングランド王国
|次旗3 = Wessex dragon.svg|22px
|先代4 = デーンロウ
|先旗4 = Raven Banner.svg|22px
|国旗画像 = Raven Banner.svg
|国旗幅 = <!-- 初期値125px -->
|国旗縁 =
|国章画像 =
|国章幅 = <!-- 初期値85px -->
|位置画像 = Cnut 1014 1035.jpg|thumb|250px
|位置画像説明 = 北海帝国の版図
|位置画像幅 = <!-- 初期値250px -->
|公用語 = [[古ノルド語]]・[[古英語]]
|首都 = 不明
|宗教 = [[キリスト教]]・{{仮リンク|古ノルド宗教|en|Old Norse religion}}
|元首等肩書 = 君主
|元首等年代始1 = [[1028年]]
|元首等年代終1 = [[1035年]]
|元首等氏名1 = [[クヌート1世 (イングランド王)|クヌート1世]]
|面積測定時期1 =
|面積値1 =
|変遷1 = [[スヴェン1世 (デンマーク王)|スヴェン1世]]のイングランド征服
|変遷年月日1 = 1013年
|変遷2 = {{仮リンク|アッサンダンの戦い|en|Battle of Assandun}}<br>クヌートのイングランド王即位
|変遷年月日2 = 1016年
|変遷3 = クヌートのデンマーク王即位
|変遷年月日3 = 1018年
|変遷4 = クヌートのノルウェー王即位
|変遷年月日4 = 1028年
|変遷5 = クヌートの死
|変遷年月日5 = 1035年
|変遷6 = [[ハーデクヌーズ]]の死
|変遷年月日6 = 1042年
}}
'''北海帝国'''(ほっかいていこく、[[英語]]:North Sea Empire)とは、[[クヌート1世 (イングランド王)|クヌート(クヌーズ)大王]]が[[イングランド王国]]・[[イェリング朝|デンマーク王国]]<ref group="注">当時のデンマークは、現在の[[スウェーデン]]の一部[[スコーネ]]地方を含んでいた。</ref>・{{仮リンク|ノルウェー王国 (872-1397年)|en|Kingdom of Norway (872–1397)}}の3国の王に就いたことで[[11世紀]]前半に成立した[[国家連合]]([[同君連合]])である。


北海帝国という用語は、[[ヴァイキング時代]]末期の[[1013年]]から[[1042年]]のほとんどの期間における、その諸王国の連合を指すために[[歴史家]]によって用いられる<ref>Andreas D. Boldt, ''Historical Mechanisms: An Experimental Approach to Applying Scientific Theories to the Study of History'' (Routledge, 2017), pp. 125 and 196.</ref>{{#tag:ref|帝国の成立年については、クヌートがデンマーク王に即位した1018年<ref>百瀬ほか、1998年、付録p.27。 </ref>あるいはノルウェー征服後の1028年<ref>『世界史小辞典 改訂新版』山川出版社、2004、p.196。</ref>、崩壊年をクヌートの死亡した1035年<ref>熊野、1998年、p.47</ref>とみなす場合もある。|group="注"}}。この短命な[[ノース人]]支配の[[帝国]]は[[タラソクラシー]]でもあり、その構成要素たる領土は[[海]]によってのみ結ばれ、海に依存していた<ref>Terence R. Murphy, "Canute the Great", in F. N. Magill, ed., ''Dictionary of World Biography, Volume 2: The Middle Ages'' (Routledge, 1998), pp. 201–205.</ref>。 英語圏ではアングロ・スカンディナヴィア帝国(Anglo-Scandinavian Empire)とも呼ばれる<ref>{{Cite web|url= https://onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1002/9781118455074.wbeoe345 | title=North Sea (Anglo-Scandinavian) Empire |website=Wiley Online Library |language=en|accessdate=2020-03-09}}</ref>。
== 概要 ==
[[ファイル:Cnut.jpg|140px|right|thumb|カヌート(クヌーズ)大王]]
イングランドに侵攻したデンマークの王子クヌーズ([[スヴェン1世 (デンマーク王)|スヴェン1世]]の子)が[[1016年]]、[[アングロ・サクソン]]封建家臣団の会議で王に推挙され、イングランド王カヌートとして即位したことによって成立した。[[1018年]]には兄の[[ハーラル2世]]の死により[[デンマーク王]]位を継承、その後はノルウェーやスウェーデンに遠征して勢力を拡大し、[[1028年]]には[[ノルウェー王]]位も兼ねた。


3つの王国すべてを統合した最初の王は、[[986年]]に[[デンマーク君主一覧|デンマーク王]]、[[1000年]]に[[ノルウェー君主一覧|ノルウェー王]]となっており、 1013年にイングランド王国を征服した[[スヴェン1世 (デンマーク王)|スヴェン1世]]であった。[[1014年]]のスヴェン1世死後にその領土は分裂したが、息子のクヌート大王が[[1016年]]にイングランド、[[1018年]]にデンマーク、[[1028年]]にノルウェーを掌握した。[[1035年]]のクヌート死後に領土は再び分裂するも、デンマークの彼の息子[[ハーデクヌーズ]]が[[1040年]]に[[イングランド君主一覧|イングランド王位]]を継承した。クヌートが3つの王国すべてを支配していたその権力の最盛期(1028〜1035年)には、彼は[[西ヨーロッパ]]において[[神聖ローマ皇帝]]に次ぐ権力を有していた{{#tag:ref|歴史家のLarsonは次のように述べている。「11世紀の(最初の)40年間が始まったとき、唯一の例外である神聖ローマ皇帝を除いて、クヌートはラテン・キリスト教世界において最も印象的な統治者であった。...彼は4つの重要な領域の主、かつ他の諸王国の大君主であった。厳密にはクヌートは王の1人に数えられていたが、彼と同年代の君主らの間における彼の地位は、まさに絶大であった。彼は[[ブリテン諸島]]と[[スカンディナヴィア半島]]という2つの主要な地域の運命を握っていたようだ。彼の艦隊は北海とバルト海という重要な両海域をほぼ支配していた。彼は帝国を築いたのである。」 <ref>Laurence Marcellus Larson, ''Canute the Great: 995 – c. 1035 and the Rise of Danish Imperialism During the Viking Age'', New York: Putnam, 1912, {{OCLC|223097613}}, [https://books.google.com/books?id=xH-ZxCwCHt4C&pg=PA306&dq=Laurence+M.+Larson+%22Canute+the+Great%22&cd=6#v=onepage&q=built%20an%20empire&f=false p. 257].</ref>|group="注"}}。
しかし、[[1035年]]のクヌーズの死の数年後、イングランドでは[[アングロ・サクソン人|アングロ・サクソン]]系王朝が復位し、北海帝国は崩壊した。また、11世紀なかばすぎにはデンマークの[[ヴァイキング]]勢力は大きく後退した<ref>[[#武光|武光(2001)p.86]]</ref>。[[帝国]]支配の裁量はすべてカヌート大王によるものであったため、カヌートが死ぬと帝国は四分五裂し、死後7年目にはカヌート大王の王家(スキョル家)に残ったのはデンマーク一国のみとなった。


== 帝国の形成 ==
=== イングランド ===
{{See also|{{仮リンク|アングロ・サクソンイングランドの歴史|en|History of Anglo-Saxon England}}}}
クヌートはデンマーク王スヴェン1世の次男であった。イングランド侵攻中の1014年[[2月3日]]にイングランド南部でスヴェン1世が死亡した際、[[トレント川]]にて[[艦隊]]指揮を委任されていたクヌートは[[デーン人]]らに王として認められたが、侵攻作戦は崩壊した。戦術的奇襲のために[[馬]]を供給することを約束していた[[リンジー王国]]の人々は、イングランド貴族らが以前に追放していた[[エゼルレッド2世 (イングランド王)|エゼルレッド2世]]を、厳正さを緩和した統治に同意させた後に再即位させるまでの準備が整っていなかった<ref>Frank Stenton, ''Anglo-Saxon England'', 3rd ed. Oxford: Clarendon, 1971, {{ISBN|978-0-19-821716-9}}, p. 386.</ref>。

クヌートの兄[[ハーラル2世 (デンマーク王)|ハーラル2世]]はデンマーク王となったが、ノルウェーの[[エイリーク・ハーコナルソン]]の助力を得たクヌートは彼自身の新たな侵攻艦隊を創設し、[[1015年]]の夏にイングランドへ戻った。イングランド人は王とその息子たち、その他の[[貴族]]の間の陰謀によって分断された。4ヵ月以内にエゼルレッドの息子の1人はクヌートに忠誠を誓い、王国の歴史的中心であるウェセックスを支配した。エゼルレッドは[[ロンドン]]をめぐる決戦前の1016年[[4月23日]]に死亡した。ロンドン市民はエゼルレッドの息子[[エドマンド2世 (イングランド王)|エドマンド2世]]を王に選んだ一方、ほとんどの貴族は[[サウサンプトン]]に集まりクヌートに忠誠を誓った。クヌートはロンドンを封鎖したが、補給のために撤退を余儀なくされ、オットフォードの戦い(Battle of Otford)にてエドマンド2世に敗れた。しかし、デーン人が[[エセックス]]に侵攻した後、エドマンドも{{仮リンク|アッサンダンの戦い|en|Battle of Assandun}}にて同様に敗れた。彼とクヌートは、エドマンドがウェセックスを保持し、クヌートが[[テムズ川]]以北のイングランド全土を支配下に置くことで合意に達した。しかし、1016年[[11月30日]]にエドマンドが死亡したことで、クヌートはイングランド王となった<ref>Stenton, pp. 388–93.</ref>{{#tag:ref|クヌートがイングランド王に即位した1016年からハーデクヌーズが死ぬ1042年の間に成立した王朝は'''デーン朝'''と呼ばれる<ref>木下康彦・木村靖二・吉田寅編著『詳説世界史研究』山川出版社、1995、p.183。 </ref>。|group="注"}}。

クヌートは以前、イングランド貴族の{{仮リンク|エルギフ・オブ・ノーサンプトン|en|Ælfgifu of Northampton}}と結婚していたが、[[1017年]]の夏にエゼルレッドの[[未亡人]][[エマ・オブ・ノーマンディー]]と結婚することで権力を固めた<ref>Stenton, p. 397.</ref>。1018年、彼は(特にロンドン市民からの金銭により)艦隊に給与を渡して解散させ<ref>熊野ほか、1998年、p.33。</ref>、イングランド王として完全に認められた<ref>Stenton, p. 399: "It is with the departure of the Danish fleet and the meeting at Oxford which followed it that Cnut's effective reign begins". </ref>。しかし、およそ3000人の親衛兵のみは残し、彼らを養うために現地民から{{仮リンク|デーンゲルド|en|Danegeld}}を徴収した<ref>熊野ほか、p.33。</ref>。
=== デンマーク ===
[[ファイル:Cnut.jpg|140px|left|thumb|クヌート1世]]
1018年または[[1019年]]、ハーラル2世は子を残さずに死去しデンマークを空位にした。死んだ兄の後継者であったクヌートは1019年にデンマークへ向かい、その王位継承を主張した。彼がデンマークにいた際は、不特定の危険を避けるために国外にいるという手簡をイングランドの臣下へ送り<ref>Stenton, p. 401.</ref>、イングランドへは初期の反乱鎮圧のために戻ったのみであった<ref>Palle Lauring, tr. David Hohnen, ''A History of the Kingdom of Denmark'', Copenhagen: Høst, 1960, {{OCLC|5954675}}, p. 56.</ref>。デンマークの年代記によると、デーン人は以前ハーラルを追放してクヌートを支持するも、クヌートが頻繁に不在になったためハーラルを連れ戻し、ついには兄の死後にクヌートが恒久的に国王となったという<ref>Edward A. Freeman, ''The History of the Norman Conquest of England: Its Causes and its Results'', Volume 1 Oxford: Clarendon, 1867, [https://books.google.com/books?id=PtE9AAAAcAAJ&pg=PA479&dq=Cnut+letter+1027&hl=en&ei=PAK8S5H0NYzStgOfnuiFBQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=6&ved=0CE0Q6AEwBQ#v=onepage&q=Danes%20deposed%20Harold%20and%20elected&f=false p. 404, note 1].</ref>。

ノルウェー王[[オーラヴ2世 (ノルウェー王)|オーラヴ2世]]と[[スウェーデン君主一覧|スウェーデン王]]{{仮リンク|アーヌンド・ヤーコブ|en|Anund Jacob}}は、[[アングロ・サクソン人]]とデーン人の連合王国を脅威とみなしており(クヌートの父スヴェンは両国に対し支配権を行使していた)、クヌートがイングランドにいたことを利用して[[1025年]]または[[1026年]]にデンマークを攻撃し、クヌートのデンマーク[[摂政]]であった{{仮リンク|ウルフ伯爵|en|Ulf the Earl}}と彼の兄弟もこれに加担した。クヌートはノルウェー艦隊に不意打ちをかけ、{{仮リンク|ヘルゲアの海戦|en|Battle of Helgeå}}にてスウェーデン艦隊と交戦した<ref>Stenton, pp. 402–04.</ref>。正確な結果は論争中だが、クヌートが勝利したとされる。オーラヴは退却しデンマークへの脅威は消失した<ref>Jim Bradbury, ''The Routledge Companion to Medieval Warfare'', London: Routledge, 2004, {{ISBN|0-415-22126-9}}, [https://books.google.com/books?id=1C54r8GgrUIC&pg=PA125&dq=Holy+River+natural+allies&hl=en&ei=yPS7S7j3EY3usQOEvpx-&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=2&ved=0CD4 p. 125].</ref><ref>Philip J. Potter, ''Gothic Kings of Britain: The Lives of 31 Medieval Rulers, 1016–1399'', Jefferson, North Carolina: McFarland, 2009, {{ISBN|978-0-7864-4038-2}}, [https://books.google.com/books?id=h_zW8TBBVQkC&pg=PA12&dq=Holy+River+natural+allies+Cnut&hl=en&ei=8fa7S4DFMIyIswPq97l-&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CDcQ6AEwAA#v=onepage&q&f=false p. 12].</ref>。

[[1027年]]、ウルフが以前の[[クリスマス]]を台無しにした罪を償うため、そして皇帝としての[[コンラート2世 (神聖ローマ皇帝)|コンラート2世]]の[[戴冠式]]に出席し彼の支配者としての重要性を示すため、クヌートは[[神聖ローマ帝国]]に向かった。彼は[[北ヨーロッパ]]から[[ローマ]]へ旅する[[巡礼者]]に課される通行料の緩和と、彼らの[[パリウム]]を受け取るイングランドの[[大司教]]のための[[教皇]]の料金を確保した。彼はまた、コンラート2世との関係を持ち始めたことで、皇帝の息子[[ハインリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ3世]]とクヌートの娘{{仮リンク|グンヒルダ|en|Gunhilda of Denmark}}の結婚や、それに先立つ皇帝への[[シュレースヴィヒ公国]]および[[ゲルマン人]]がデーン人に対する[[緩衝地帯]]として占領した[[ヘーゼビュー]]と[[アイダー川]]の間にあった古代デンマークの商業地の[[割譲]]につながった<ref>Stenton, pp. 407–08.</ref><ref>Viggo Starcke, ''Denmark in World History'', Philadelphia: University of Pennsylvania, 1962, p. 282.</ref>。
=== ノルウェー ===
{{See also|{{仮リンク|ノルウェー王国 (872-1397年)|en|Kingdom of Norway (872–1397)}}}}
オーラヴ2世がノルウェー全土に勢力を拡大していたころ、Jarl Erikはイングランドのクヌート陣営にいた<ref>Stenton, pp. 402–03.</ref>。オーラヴへのクヌートの敵意は古く、エゼルレッドがオーラヴの提供した艦隊にてイングランドへ戻っていたことに遡る<ref>Herbert A. Grueber and Charles Francis Keary, ''A Catalogue of English Coins in the British Museum: Anglo-Saxon Series'', Volume 2, London: Trustees [of the British Museum], 1893, [https://books.google.com/books?id=JERmAAAAMAAJ&pg=PR77&dq=Olaf+Haraldsson+fleet+Cnut+beginning+of+long+enmity&cd=1#v=onepage&q=Olaf%20Haraldsson%20fleet%20Cnut%20beginning%20of%20long%20enmity&f=false p. lxxvii].</ref>。[[1024年]]、クヌートは彼の家臣としてオーラヴにノルウェーを支配させることを提案した<ref name="Starcke, p. 284">Starcke, p. 284.</ref>。しかしヘルゲアの海戦後、彼は評判の良くない自身の統治を[[賄賂]]で台無しにし始めており、1028年には50隻の艦船にてノルウェーを征服した。デンマーク船の大艦隊が彼に加わってオーラヴは[[オスロ・フィヨルド]]へ撤退した一方、クヌートは[[海岸]]沿いに航海して各地に上陸し、地元の首長から忠誠の宣誓を受けた。最終的に{{仮リンク|ニダロス|en|Nidaros}}(現在の[[トロンハイム]])の[[ディング]]にて彼は王として認められ、オーラヴは数ヵ月後にスウェーデンへと逃れた<ref>Stenton, p. 404.</ref><ref>Starcke, p. 289.</ref><ref>Karen Larsen, ''A History of Norway'', The American-Scandinavian Foundation, Princeton, New Jersey: Princeton University, 1948, repr. 1950, {{OCLC|221615697}}, p. 104.</ref>。

オーラヴは[[1030年]]にノルウェーへの帰還を図るもトロンハイム地域の人々に反発され、{{仮リンク|スティクレスタドの戦い|en|Battle of Stiklestad}}にてクヌートと手を結んだノルウェー豪族に敗れ討ち死にした<ref>熊野、p.48。</ref>。
=== スウェーデン南部 ===
{{See also|{{仮リンク|中世スウェーデンの歴史|en|History of Sweden (800–1521)}}}}
ヘルゲアの海戦後、クヌートはイングランドやデンマーク、ノルウェーとともにスウェーデンの一部も支配することを主張した<ref>In the probably later heading to a 1027 letter sent to his English subjects: ''Rex totius Angliæ et Denemarciæ et Norreganorum et partis Suanorum'', "King of all England and Denmark and Norway and part of Sweden". Freeman, [https://books.google.com/books?id=PtE9AAAAcAAJ&pg=PA479&dq=Cnut+letter+1027&hl=en&ei=PAK8S5H0NYzStgOfnuiFBQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=6&ved=0CE0Q6AEwBQ#v=onepage&q=Cnut%20letter%201027&f=false p. 479, note 2].</ref>。彼は、産業の中心地{{仮リンク|シグトゥーナ|en|Sigtuna}}、あるいは当時デンマークの一部であった[[ルンド]]のいずれかにおいて、CNVT REX SW(Cnut King of the Swedes スウェーデン王クヌート)の銘が入った[[硬貨]]を鋳造させた。場所については西方の[[イェータランド]]か[[ブレーキンゲ地方]]ともされている<ref>Brita Malmer, "The 1954 Rone Hoard and Some Comments on Styles and Inscriptions of Certain Scandinavian Coins from the Early Eleventh Century", in ''Coinage and History in the North Sea World, c. AD 500–1200: Essays in Honour of Marion Archibald'', ed. Barrie Cook and Gareth Williams, Leiden: Brill, 2006, {{ISBN|90-04-14777-2}}, pp. 435–48, [https://books.google.com/books?id=X-qvyzsUkRsC&pg=PA443&dq=Cnut+Sweden+province+of+Jonsson&hl=en&ei=WP27S-XxK4LwsgPr27DmBA&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=5&ved=0CEoQ6AEwBA#v=onepage&q=Cnut%20Lund%20Sigtuna&f=false p. 443].</ref>。{{仮リンク|イングランドのルーン石碑|en|England runestones}}の多くは[[ウップランド地方]]に位置している。{{訳語疑問点範囲| それはおそらく、大君主の地位か論争中の規則のどちらかとされる |date=2020年3月}}<!-- It was probably either overlordship or disputed rule; -->。硬貨の鋳造を命じるためにクヌートがスウェーデンに居る必要はなく、彼が[[アイルランド島]]を支配したことを示す硬貨も鋳造されており<ref>Henry Noel Humphreys, ''The Coinage of the British Empire: An Outline of the Progress of the Coinage in Great Britain and her Dependencies, From the Earliest Period to the Present Time'', London: Bogue, 1855, {{OCLC|475661618}}, [https://books.google.com/books?id=rFxLAAAAcAAJ&pg=PA54&lpg=PA54&dq=Canute+Ireland+coins&source=bl&ots=bloPj9TwDQ&sig=BkjyGmspgyZ7vpkLRBb3NB5R33Y&hl=en&sa=X&ei=lbehVI3nB9XhoASpm4GYDA&ved=0CDMQ6AEwAw#v=onepage&q=Canute%20Ireland%20coins&f=false p.&nbsp;54].</ref><ref>[http://www.irishcoinage.com/HIBERNO.HTM "The Hiberno–Norse Coinage of Ireland, ~995 to ~1150"], Irish Coinage.</ref>、この時期の[[スウェーデンの歴史]]についてはきわめて不正確である<ref>Franklin D. Scott, ''Sweden: The Nation's History'', 2nd ed. Carbondale: Southern Illinois University, 1988, {{ISBN|0-8093-1489-4}}, [https://books.google.com/books?id=Qv8zxie3A18C&printsec=frontcover&dq=Franklin+Scott+%22Sweden+The+Nation%27s+History%22&cd=1#v=onepage&q=Canute&f=false pp. 25–26], listing Cnut's claim.</ref>。
=== その他の属領 ===
クヌートあるいは彼の文書の見出しを書いた人物がスウェーデンの一部地域の王であると主張したことに加えて、彼はウェンド人から貢物を受け取り[[ポーランド人]]と同盟を結んだ。[[1022年]]、クヌートは{{仮リンク|ウェセックス伯ゴドウィン|en|Godwin, Earl of Wessex}}やウルフと共に、[[ヨムスボルグ]]から支配した沿岸地域における自らの地位を確認するため、艦隊を率いて[[バルト海]]を東進した<ref>Starcke, pp. 281–82.</ref>。

ローマの戴冠式から帰朝したころ、クヌートは間もなく軍を率いて[[スコットランド王国]]に向かい、[[上級王]]の[[マルカム2世 (スコットランド王)|マルカム2世]]とその他2人の王を家臣とした<ref name="Stenton, p. 419">Stenton, p. 419.</ref>。そのうちの1人[[:en:Echmarcach mac Ragnaill|Echmarcach mac Ragnaill]]は{{仮リンク|ギャロウェイ|en|Galloway}}と[[マン島]]を含む支配者であり、[[1036年]]に[[ダブリン王国]]の君主となった。彼ら全員そしておそらくは[[ウェールズ人]]も<ref>M.K. Lawson, ''Cnut: England's Viking King'', Stroud: Tempus, 2004, {{ISBN|0-7524-2964-7}}, p. 103: "Cnut's power would seem in some sense to have extended into Wales".</ref>、エゼルレッドがデーン人へ贈賄するために制定したデーンゲルドを模範としてクヌートへ貢納した。こうしてクヌートは、当時のイングランド王らが主権を認めねばならなかった[[ケルト人]]の諸王国に対する支配を取り戻し、敵対するオーラヴを支持していた者らを処罰した<ref name="Starcke, p. 284" />。アイスランドの[[スカルド詩|スカルド詩人]][[:en:Óttarr svarti|Óttarr svarti]]による[[詩]]では、クヌートを「デーン人、アイルランド人、イングランド人そして諸島民の王」としているが、おそらくその当時のクヌートはまだノルウェーでの統治権を有していなかったため、そこは含まれていない<ref>Benjamin T. Hudson, ''Viking Pirates and Christian Princes: Dynasty, Religion, and Empire in the North Atlantic'', New York: Oxford University, 2005, {{ISBN|978-0-19-516237-0}}, [https://books.google.com/books?id=fH0mL0m95fsC&pg=PA120&lpg=PA120&dq=Cnut+Ireland+coins&source=bl&ots=t6TgCznShf&sig=jTQZ04BN2R6pz5gylyANiSdmJG4&hl=en&sa=X&ei=sLuhVJTtD8yrogTM2oDABA&ved=0CDIQ6AEwBTgK#v=onepage&q=Ottar%20the%20Black&f=false p.&nbsp;119].</ref>。

== 宗教 ==
{{See also|スカンディナヴィアのキリスト教化}}
11世紀初頭までに、イングランド人は数世紀にわたり[[キリスト教徒]]となっていった。[[デーンロウ]]は異教から[[キリスト教]]への移行期にあったものの<ref>Lauring, p. 56: "the Danes in England very quickly became Christians".</ref>、スカンディナヴィア諸国は依然として大半が異教徒であった<ref>Starcke, p. 283.</ref>。クヌートの父スヴェン1世は当初異教徒であったが、晩年は概ねキリスト教徒であった<ref>Stenton, pp. 396–97: "Swein ... first appears in history as the leader of a heathen reaction . . . [but] behaved as at least a nominal Christian in later life. ... Swein's tepid patronage of Christianity ..."</ref>。クヌートはイングランドにおいて[[教会 (キリスト教)|教会]]の御利益を熱心に宣伝し、この活動はスカンディナヴィアの王がそれまで認めなかった、ヨーロッパのキリスト教徒の君主らからの支持を彼にもたらした<ref>Stenton, p. 397: "the first viking leader to be admitted into the civilised fraternity of Christian kings".</ref>。一方ノルウェーでは、彼は教会を建てさせ[[聖職者]]に寛大かつ敬意を表していたが、異教徒の首長とは同盟も結んだ。そしてオーラヴとは異なり、彼の権力が盤石になるまでは教会に利益をもたらす法律を制定しなかった<ref name="Starcke, p. 284" />。

== クヌートの統治 ==
{{See also|ディング|賢人会議}}
1017年初頭、おそらく通常の手段ではなく征服権によって王となったため、クヌートはイングランドを[[スカンディナヴィア]]のモデルにて4つの国に分割した。ウェセックスはクヌートが直接統治し、協力者であった[[のっぽのトルケル]]は{{仮リンク|イースト・アングリア伯爵|en|Earl of East Anglia}}に、エイリーク・ハーコナルソンはクヌートがすでに与えていた{{仮リンク|ノーサンブリア伯爵|en|Earl of Northumbria}}の地位を保持し、{{仮リンク|エアドリック・ストレオナ|en|Eadric Streona}}はマーシア伯爵となった。しかし、ストレオナについては1年以内に処刑された。1018年、クヌートはウェセックスにて少なくとも2つの伯爵領を復活させ、[[オックスフォード]]での会合において彼の部下やイングランドの代表者らは[[エドガー (イングランド王)|エドガー王]]の法律に基づいてクヌートが統治することに同意した<ref>Stenton, pp. 398–99.</ref>。

アングロ・サクソン史家の{{仮リンク|フランク・ステントン|en|Frank Stenton}}は、[[アングロ・サクソン年代記]]では、国外への頻繁な移動に言及していたことを除くとクヌートの治世に関してはあまり語られておらず、クヌートがイングランドを強く支配していたことを示していると指摘する。クヌートの不在中、トルケルはおそらく彼の摂政を務めていたとされるが<ref>Stenton, pp. 399–401.</ref>、[[1021年]]に失脚し追放された。[[1023年]]のデンマークでの調停の際には、里子に出すため息子たちを交換し、トルケルはデンマークにおけるクヌートの摂政となったが、これはトルケルが武力にて彼らに勝ったことを示唆している<ref>Stenton, pp. 401–02.</ref>。

しかし、スコットランドにてイングランドの勢力を強化することによりノーサンブリア伯爵の位を守ることは、クヌートのもうひとりの伯爵、{{仮リンク|ノーサンブリア伯シワード|en|Siward, Earl of Northumbria}}に託された。[[1055年]]の彼の死亡時点には、彼は王ではなく、前世紀初頭に{{仮リンク|ストラスクライド王国|en|Kingdom of Strathclyde}}が併合した全領土の大君主であった<ref name="Stenton, p. 419" />。

デーン人がクヌートの不在について不平を述べることには、イングランド人よりも多くの理由があった<ref>Jón Stefánsson, ''Denmark and Sweden: with Iceland and Finland'', London: Unwin, 1916, {{OCLC|181662877}}, [https://books.google.com/books?id=EZ5MAAAAMAAJ&pg=PA25&dq=Cnut+crowned+Denmark&hl=en&ei=4fS0S-2cG4eglAej8b1x&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=2&ved=0CDcQ6AEwATgU#v=onepage&q=Anglo-Scandinavian%20Empire&f=false p. 11]: "Cnut's ideal seems to have been an Anglo-Scandinavian Empire, of which England was to be the head and centre".</ref><ref>Lauring, p. 56: "He was fond of England and regarded it as his principle {{sic}} kingdom.... Canute actually became an Englishman".</ref><ref>Grueber and Keary, [https://books.google.com/books?id=JERmAAAAMAAJ&pg=PR77&dq=Olaf+Haraldsson+fleet+Cnut+beginning+of+long+enmity&cd=1#v=onepage&q=Though%20England%20had%20been%20conquered%20by%20the%20Dane&f=false p. 6]: "Though England had been conquered by the Dane she was really the centre of his Danish empire".</ref>。彼は主にイングランドを支配しており、デンマークには摂政を置いていた。彼はイングランドでの主任顧問としてのトルケルに代わってイングランド人のゴドウィンを置き<ref name=Jon11>Jón Stefánsson, p. 11.</ref>、和解してから3年以内にデンマークの摂政をクヌートの妹の夫であるウルフに交代させた。ウルフはクヌートとエマとの間の息子ハーデクヌートの後見人となった<ref>Stenton, p. 402.</ref>。しかしウルフは忠誠心を欠いており、まずスウェーデンやノルウェーの王らとともにクヌートに対する陰謀を企て、貴族らにハーデクヌート(事実上ウルフ)への忠誠を誓わせ権力闘争を仕掛けた。クヌートは1026年のクリスマスにデンマークに戻ってウルフを殺すよう一族に命じ、彼は[[ロスキレ]]のトリニティ教会にて殺された<ref name=Jon11 />。彼はその死を迎えるまでに、イングランド人に助言したスカンディナヴィア人の派閥を完全に置き換えた<ref>Stenton, p. 416.</ref>。

クヌートはノルウェーにて越年し、Jarl Erikの息子{{仮リンク|ハーコン・エリクソン|en|Haakon Ericsson}}(彼はスヴェン王にも同じように仕えていた)を摂政に据えたが、エリクソンは翌年の冬に溺死した<ref name="Stenton, p. 405">Stenton, p. 405.</ref>。クヌートはその後任として、エルギフとの間にもうけた2人息子のうちの次男{{仮リンク|スヴェイン・クヌートソン|en|Svein Knutsson}}(ノルウェーではスヴェイン・アルフィフソンとして知られていた)を、エルギフとともに派遣した。オーラヴの帰国が拒絶された際、スヴェインらはノルウェー南部にて手間を取らされたが、オーラヴの治世時よりも人気を失っていった。 独立性を重んじ、新たな貢物がデンマーク式であることに特に憤慨していた人々に対して、エルギフはより厳しい規制と新たな税を課すことを試みた<ref name="Stenton, p. 405" /><ref>Larsen, pp. 104–05.</ref><ref>T. D. Kendrick, ''A History of the Vikings'', New York: Scribner, 1930, repr. Mineola, New York: Dover, 2004, {{ISBN|0-486-43396-X}}, [https://books.google.com/books?id=3Z8NgXgRytUC&pg=PA125&dq=Svein+%C3%86lfgifu+unpopular&lr=&cd=2#v=onepage&q&f=false p. 125]: "Danish taxes were introduced, Danish laws imposed, and preference was everywhere given to Danish interests".</ref>。

クヌートはまた、彼の長男ハーデクヌーズにデンマークを引き渡す準備をしていた。ノルウェーで実権を握ったハーデクヌーズはニダロスで大法廷を開きデンマーク王を宣言した<ref>Stenton, pp. 404–05.</ref>。ステントンが指摘するように、別々の国で別々の息子が後継者に任命されたことで、クヌートには「彼の死後も連合したままである北方の帝国を創設するという熟慮された意図」がなかったことを示した<ref name="Stenton, p. 406">Stenton, p. 406.</ref>。それは単にその民族らの慣習であったのかもしれない<ref>Grueber and Keary, [https://books.google.com/books?id=JERmAAAAMAAJ&pg=PR77&dq=Olaf+Haraldsson+fleet+Cnut+beginning+of+long+enmity&cd=1#v=onepage&q=which%20obtained%20among%20the%20northern%20nations&f=false p. 6]: "But what more than anything else ruined these hopes, as they almost always ruined the hopes of extended Scandinavian rule, were the customs of inheritance which obtained among the northern nations".</ref>。いずれにせよ、彼の不在時に忠実かつ有能な摂政を見つけられなかった点が、クヌートの治世下を通じた帝国の弱点ということは明らかだった<ref>Lauring, p. 57: "Now that a single king had assumed power after the pattern of Western Europe, the moment that king went away and omitted to leave strong men in charge behind him, or left a weak one, [the viking threat] became fatally weakened".</ref>。彼の息子らも、協力して統治を維持することはできなかった。

== クヌートの死後 ==
[[ファイル:England-878ad.jpg|160px|right|thumb|デーンロウ(黄色の領域)]]
[[ファイル:England-878ad.jpg|160px|right|thumb|デーンロウ(黄色の領域)]]
1035年にクヌートが死ぬと北海帝国は間もなく崩壊したが、実際にはノルウェーにおいてはすでに崩壊しつつあった。[[1033年]]の冬までにスヴェインとエルギフは人望を失っており、トロンハイムを離れることを余儀なくされた。[[1034年]]、スティクレスタドの戦いにてオーラヴを撃退し殺害した軍の指揮官は、王の忠実な支持者の1人と協力して幼い息子[[マグヌス1世 (ノルウェー王)|マグヌス1世]]を{{仮リンク|ガルダリキ|en|Garðaríki}}から支配下に戻し<ref>Larsen, p. 110.</ref>、クヌートが死ぬ数週間前の1035年秋には、スヴェインとエルギフは国外へ脱しデンマークへ向かわねばならなかった<ref name="Stenton, p. 406" />。スヴェインはその後間もなく死亡した。
このように、同君連合としての北海帝国はヨーロッパ史において短期間に終わったが、[[デーン人]]はイングランドにおいて、東部の「[[デーンロウ]]」と呼ばれる地域に対し[[慣習法]]や[[方言]]などの面で後世に及ぶ大きな影響を残した。イングランド語([[英語]])にも、デーン人の[[言語]]である[[古ノルド語]]の語彙が多数残ったといわれる<ref group="注釈">''law''(法)も古ノルド語といわれる。</ref>。

デンマークではハーデクヌーズがすでに王として統治していたが、ノルウェーのマグナスによる復讐を遂げるための侵攻の脅威があったため、彼は3年間自国から出れなかった。その間イングランド貴族らは、ハーデクヌーズ派とその腹違いの兄[[ハロルド1世 (イングランド王)|ハロルド1世]]派に分裂してハロルドを摂政にすることでの妥協を決意した。1037年末までにエルギフは要人らにハロルドへの忠誠を誓うよう説得し、彼はイングランド王ハロルド1世として囲われた。ハーデクヌーズの母エマ女王は[[フランドル]]への避難を余儀なくされてた<ref>Stenton, p. 420.</ref>。
ハーデクヌーズは、彼の異母兄からイングランドを奪取するための侵攻艦隊を準備したが、それが使用される前の1040年にハロルドは死亡した。その後ハーデクヌーズはデンマークと再統合してイングランド王となったが、この統合は王としての悪印象を広くもたらした。アングロ・サクソン年代記は彼について、在位中は国王らしいことは一切しなかったと記している<ref>Joseph Stevenson, ed. and tr., ''The Church Historians of England'', volume 2 part 1, London: Heeleys, 1853, [https://books.google.com/books?id=658MM0EmmwEC&pg=PA97&dq=Harthacnut+Anglo-Saxon+Chronicle&cd=7#v=onepage&q=moreover%20he%20did%20nothing%20royal%20during%20his%20whole%20reign&f=false p. 96, entry for 1040].</ref><ref>Stenton, p. 422.</ref><ref>Lauring, p. 57: "Canute's sons, despite the fact that they were both completely incompetent, were both proclaimed Kings of England".</ref>。1042年6月、クヌートの宮廷にいたデンマーク貴族の1人、トヴィ([[:en:Tovi the Proud|Tovi the Proud]])の[[結婚披露宴]]にて、ハーデクヌーズは「酒を飲んで立ったまま」突然死した。一見、彼の死は北海帝国の終焉をもたらしたように見えるが<ref>Lauring, p. 57.</ref>、ノルウェー王となっていたマグヌスはハーデクヌーズと結んだ1040年の合意{{#tag:ref|マグヌスとハーデクヌーズのどちらかが男子を残さずに死亡した場合、生存した方がデンマーク・ノルウェー両国の王を兼ねる、というもの<ref>熊野、p.59。</ref>。|group="注"}}を利用してデンマークを掌握し、イングランドへ侵攻して諸王国と帝国を再統一する計画を立てていた。デンマークにおける権力強化において、彼は[[ヨムスヴァイキング]]の中心地を破壊した直後に始まった、{{仮リンク|リュルスコフ・ヒースの戦い|en|Battle of Lyrskov Heath}}にて[[ヴェンド人]]の侵攻を防いだ。それにより、スヴェン1世やクヌート大王の支配権を強めた重要な政治的および軍事的要素の1つを破壊したため、これは事実上自らの首を絞める行為であった可能性もある。マグヌスは[[1046年]]に{{仮リンク|スヴェン2世|en|Sweyn II of Denmark}}をデンマークから追放したが、[[1047年]]にはスヴェン2世とトヴィ伯爵がデンマークから逆にマグヌスを追い出したことを、[[ブレーメンのアダム]]が簡潔に言及している。これについては、1047年にマグヌスとの戦闘を支援するために50隻の船の増援をスヴェン2世がイングランドに依頼したと記述している、同時代のアングロ・サクソン年代記によって確認されている。スヴェン2世の母親はスヴェン1世の娘であることから、彼はスコーネにてデンマーク王に選ばれ<ref>熊野、p.59。</ref>、[[エストリズセン朝]]を開いた。スヴェン2世はマグヌスをデンマークから追放して大虐殺によってデンマーク入りし、デーン人らは多額の金銭を支払い国王として認めた。マグヌスは同じ1047年に死亡した<ref>{{Cite web|url=http://denstoredanske.dk/Danmarkshistorien/Da_Danmark_blev_Danmark/Det_genskabte_rige/Sammenbrud/Magnus,_danernes_norske_konge|title=Den Store Dansk (Great Danish Encyclopedia)|last=|first=|date=|website=|archive-url=|archive-date=|accessdate=2020-03-25}}</ref>。

同君連合としての北海帝国はヨーロッパ史において短期間に終わったが、デーン人はイングランドにおいて、東部のデーンロウと呼ばれる地域に対し[[慣習法]]や[[方言]]などの面で後世に及ぶ大きな影響を残した。イングランド語(英語)にも、デーン人の[[言語]]である[[古ノルド語]]の語彙が多数残ったといわれる<ref group="注">''law''(法)も古ノルド語といわれる。</ref>。


=== 歴代王 ===
== 歴代王 ==
*[[デンマーク君主一覧|デンマーク王]]
*[[デンマーク君主一覧|デンマーク王]]
**クヌー大王、[[1018年]] - [[1035年]]
**クヌー大王、1018年 - 1035年
**[[ハーデクヌーズ]]、1035年 - 1042年
**[[ハーデクヌーズ]]、1035年 - 1042年
**マグヌス1世が継承。
**マグヌス1世が継承。
*[[ノルウェー君主一覧|ノルウェー王]]
*[[ノルウェー君主一覧|ノルウェー王]]
**クヌー大王、[[1028年]] - 1035年
**クヌー大王、1028年 - 1035年
**[[マグヌス1世 (ノルウェー王)|マグヌス1世]]、1035年 - [[1047年]]
**[[マグヌス1世 (ノルウェー王)|マグヌス1世]]、1035年 - 1047年
*[[イギリス君主一覧|イングランド王]]
*[[イギリス君主一覧|イングランド王]]
**クヌー大王(カヌート)[[1016年]] - 1035年
**クヌー大王、1016年 - 1035年
**ハーデクヌーズ(ハーディカヌート)、1035年 - 1042年
**ハーデクヌーズ(ハーディカヌート)、1035年 - 1042年
**[[エドワード懺悔王]]が継承。
**[[エドワード懺悔王]]が継承。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* [[百瀬宏]]・[[熊野聰]]・村井誠人『北欧史』[[山川出版社]]〈新版世界各国史21〉、1998年、ISBN 978-4-634-41510-2。
**熊野聰「ヴァイキング時代」
**同「内乱と王権の成長」
* {{Cite book|和書|author=[[武光誠]]|year=2001|month=4|title=世界地図から歴史を読む方法|publisher=[[河出書房新社]]|series=KAWADE夢新書|isbn=4-309-50217-2|ref=武光}}
* {{Cite book|和書|author=[[武光誠]]|year=2001|month=4|title=世界地図から歴史を読む方法|publisher=[[河出書房新社]]|series=KAWADE夢新書|isbn=4-309-50217-2|ref=武光}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[覇権主義]]
* [[北欧史]]
* {{仮リンク|ブリテン諸島におけるヴァイキングの活動|en|Viking activity in the British Isles}}
* [[スヴェン1世 (デンマーク王)]]
* {{仮リンク|ヴァイキングの拡大|en|Viking expansion}}
* [[カルマル同盟]]
* [[カルマル同盟]]
* [[ジュー帝国]]
* [[ク海上帝国]]


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[[Category:ルンドの歴史]]
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2020年3月27日 (金) 10:56時点における版

北海帝国
Nordsøveldet / Nordsjøveldet
イェリング朝
:en:Kingdom of Norway (872–1397)
イングランド王国
デーンロウ
1013年 - 1042年 エストリズセン朝
:en:Kingdom of Norway (872–1397)
イングランド王国
北海帝国の国旗
(国旗)
北海帝国の位置
北海帝国の版図
公用語 古ノルド語古英語
宗教 キリスト教古ノルド宗教英語版
首都 不明
君主
1028年 - 1035年 クヌート1世
変遷
スヴェン1世のイングランド征服 1013年
アッサンダンの戦い英語版
クヌートのイングランド王即位
1016年
クヌートのデンマーク王即位1018年
クヌートのノルウェー王即位1028年
クヌートの死1035年
ハーデクヌーズの死1042年

北海帝国(ほっかいていこく、英語:North Sea Empire)とは、クヌート(クヌーズ)大王イングランド王国デンマーク王国[注 1]ノルウェー王国 (872-1397年)英語版の3国の王に就いたことで11世紀前半に成立した国家連合同君連合)である。

北海帝国という用語は、ヴァイキング時代末期の1013年から1042年のほとんどの期間における、その諸王国の連合を指すために歴史家によって用いられる[1][注 2]。この短命なノース人支配の帝国タラソクラシーでもあり、その構成要素たる領土はによってのみ結ばれ、海に依存していた[5]。 英語圏ではアングロ・スカンディナヴィア帝国(Anglo-Scandinavian Empire)とも呼ばれる[6]

3つの王国すべてを統合した最初の王は、986年デンマーク王1000年ノルウェー王となっており、 1013年にイングランド王国を征服したスヴェン1世であった。1014年のスヴェン1世死後にその領土は分裂したが、息子のクヌート大王が1016年にイングランド、1018年にデンマーク、1028年にノルウェーを掌握した。1035年のクヌート死後に領土は再び分裂するも、デンマークの彼の息子ハーデクヌーズ1040年イングランド王位を継承した。クヌートが3つの王国すべてを支配していたその権力の最盛期(1028〜1035年)には、彼は西ヨーロッパにおいて神聖ローマ皇帝に次ぐ権力を有していた[注 3]

帝国の形成

イングランド

クヌートはデンマーク王スヴェン1世の次男であった。イングランド侵攻中の1014年2月3日にイングランド南部でスヴェン1世が死亡した際、トレント川にて艦隊指揮を委任されていたクヌートはデーン人らに王として認められたが、侵攻作戦は崩壊した。戦術的奇襲のためにを供給することを約束していたリンジー王国の人々は、イングランド貴族らが以前に追放していたエゼルレッド2世を、厳正さを緩和した統治に同意させた後に再即位させるまでの準備が整っていなかった[8]

クヌートの兄ハーラル2世はデンマーク王となったが、ノルウェーのエイリーク・ハーコナルソンの助力を得たクヌートは彼自身の新たな侵攻艦隊を創設し、1015年の夏にイングランドへ戻った。イングランド人は王とその息子たち、その他の貴族の間の陰謀によって分断された。4ヵ月以内にエゼルレッドの息子の1人はクヌートに忠誠を誓い、王国の歴史的中心であるウェセックスを支配した。エゼルレッドはロンドンをめぐる決戦前の1016年4月23日に死亡した。ロンドン市民はエゼルレッドの息子エドマンド2世を王に選んだ一方、ほとんどの貴族はサウサンプトンに集まりクヌートに忠誠を誓った。クヌートはロンドンを封鎖したが、補給のために撤退を余儀なくされ、オットフォードの戦い(Battle of Otford)にてエドマンド2世に敗れた。しかし、デーン人がエセックスに侵攻した後、エドマンドもアッサンダンの戦い英語版にて同様に敗れた。彼とクヌートは、エドマンドがウェセックスを保持し、クヌートがテムズ川以北のイングランド全土を支配下に置くことで合意に達した。しかし、1016年11月30日にエドマンドが死亡したことで、クヌートはイングランド王となった[9][注 4]

クヌートは以前、イングランド貴族のエルギフ・オブ・ノーサンプトンと結婚していたが、1017年の夏にエゼルレッドの未亡人エマ・オブ・ノーマンディーと結婚することで権力を固めた[11]。1018年、彼は(特にロンドン市民からの金銭により)艦隊に給与を渡して解散させ[12]、イングランド王として完全に認められた[13]。しかし、およそ3000人の親衛兵のみは残し、彼らを養うために現地民からデーンゲルド英語版を徴収した[14]

デンマーク

クヌート1世

1018年または1019年、ハーラル2世は子を残さずに死去しデンマークを空位にした。死んだ兄の後継者であったクヌートは1019年にデンマークへ向かい、その王位継承を主張した。彼がデンマークにいた際は、不特定の危険を避けるために国外にいるという手簡をイングランドの臣下へ送り[15]、イングランドへは初期の反乱鎮圧のために戻ったのみであった[16]。デンマークの年代記によると、デーン人は以前ハーラルを追放してクヌートを支持するも、クヌートが頻繁に不在になったためハーラルを連れ戻し、ついには兄の死後にクヌートが恒久的に国王となったという[17]

ノルウェー王オーラヴ2世スウェーデン王アーヌンド・ヤーコブは、アングロ・サクソン人とデーン人の連合王国を脅威とみなしており(クヌートの父スヴェンは両国に対し支配権を行使していた)、クヌートがイングランドにいたことを利用して1025年または1026年にデンマークを攻撃し、クヌートのデンマーク摂政であったウルフ伯爵英語版と彼の兄弟もこれに加担した。クヌートはノルウェー艦隊に不意打ちをかけ、ヘルゲアの海戦英語版にてスウェーデン艦隊と交戦した[18]。正確な結果は論争中だが、クヌートが勝利したとされる。オーラヴは退却しデンマークへの脅威は消失した[19][20]

1027年、ウルフが以前のクリスマスを台無しにした罪を償うため、そして皇帝としてのコンラート2世戴冠式に出席し彼の支配者としての重要性を示すため、クヌートは神聖ローマ帝国に向かった。彼は北ヨーロッパからローマへ旅する巡礼者に課される通行料の緩和と、彼らのパリウムを受け取るイングランドの大司教のための教皇の料金を確保した。彼はまた、コンラート2世との関係を持ち始めたことで、皇帝の息子ハインリヒ3世とクヌートの娘グンヒルダ英語版の結婚や、それに先立つ皇帝へのシュレースヴィヒ公国およびゲルマン人がデーン人に対する緩衝地帯として占領したヘーゼビューアイダー川の間にあった古代デンマークの商業地の割譲につながった[21][22]

ノルウェー

オーラヴ2世がノルウェー全土に勢力を拡大していたころ、Jarl Erikはイングランドのクヌート陣営にいた[23]。オーラヴへのクヌートの敵意は古く、エゼルレッドがオーラヴの提供した艦隊にてイングランドへ戻っていたことに遡る[24]1024年、クヌートは彼の家臣としてオーラヴにノルウェーを支配させることを提案した[25]。しかしヘルゲアの海戦後、彼は評判の良くない自身の統治を賄賂で台無しにし始めており、1028年には50隻の艦船にてノルウェーを征服した。デンマーク船の大艦隊が彼に加わってオーラヴはオスロ・フィヨルドへ撤退した一方、クヌートは海岸沿いに航海して各地に上陸し、地元の首長から忠誠の宣誓を受けた。最終的にニダロス英語版(現在のトロンハイム)のディングにて彼は王として認められ、オーラヴは数ヵ月後にスウェーデンへと逃れた[26][27][28]

オーラヴは1030年にノルウェーへの帰還を図るもトロンハイム地域の人々に反発され、スティクレスタドの戦い英語版にてクヌートと手を結んだノルウェー豪族に敗れ討ち死にした[29]

スウェーデン南部

ヘルゲアの海戦後、クヌートはイングランドやデンマーク、ノルウェーとともにスウェーデンの一部も支配することを主張した[30]。彼は、産業の中心地シグトゥーナ英語版、あるいは当時デンマークの一部であったルンドのいずれかにおいて、CNVT REX SW(Cnut King of the Swedes スウェーデン王クヌート)の銘が入った硬貨を鋳造させた。場所については西方のイェータランドブレーキンゲ地方ともされている[31]イングランドのルーン石碑英語版の多くはウップランド地方に位置している。それはおそらく、大君主の地位か論争中の規則のどちらかとされる[訳語疑問点]。硬貨の鋳造を命じるためにクヌートがスウェーデンに居る必要はなく、彼がアイルランド島を支配したことを示す硬貨も鋳造されており[32][33]、この時期のスウェーデンの歴史についてはきわめて不正確である[34]

その他の属領

クヌートあるいは彼の文書の見出しを書いた人物がスウェーデンの一部地域の王であると主張したことに加えて、彼はウェンド人から貢物を受け取りポーランド人と同盟を結んだ。1022年、クヌートはウェセックス伯ゴドウィン英語版やウルフと共に、ヨムスボルグから支配した沿岸地域における自らの地位を確認するため、艦隊を率いてバルト海を東進した[35]

ローマの戴冠式から帰朝したころ、クヌートは間もなく軍を率いてスコットランド王国に向かい、上級王マルカム2世とその他2人の王を家臣とした[36]。そのうちの1人Echmarcach mac Ragnaillギャロウェイマン島を含む支配者であり、1036年ダブリン王国の君主となった。彼ら全員そしておそらくはウェールズ人[37]、エゼルレッドがデーン人へ贈賄するために制定したデーンゲルドを模範としてクヌートへ貢納した。こうしてクヌートは、当時のイングランド王らが主権を認めねばならなかったケルト人の諸王国に対する支配を取り戻し、敵対するオーラヴを支持していた者らを処罰した[25]。アイスランドのスカルド詩人Óttarr svartiによるでは、クヌートを「デーン人、アイルランド人、イングランド人そして諸島民の王」としているが、おそらくその当時のクヌートはまだノルウェーでの統治権を有していなかったため、そこは含まれていない[38]

宗教

11世紀初頭までに、イングランド人は数世紀にわたりキリスト教徒となっていった。デーンロウは異教からキリスト教への移行期にあったものの[39]、スカンディナヴィア諸国は依然として大半が異教徒であった[40]。クヌートの父スヴェン1世は当初異教徒であったが、晩年は概ねキリスト教徒であった[41]。クヌートはイングランドにおいて教会の御利益を熱心に宣伝し、この活動はスカンディナヴィアの王がそれまで認めなかった、ヨーロッパのキリスト教徒の君主らからの支持を彼にもたらした[42]。一方ノルウェーでは、彼は教会を建てさせ聖職者に寛大かつ敬意を表していたが、異教徒の首長とは同盟も結んだ。そしてオーラヴとは異なり、彼の権力が盤石になるまでは教会に利益をもたらす法律を制定しなかった[25]

クヌートの統治

1017年初頭、おそらく通常の手段ではなく征服権によって王となったため、クヌートはイングランドをスカンディナヴィアのモデルにて4つの国に分割した。ウェセックスはクヌートが直接統治し、協力者であったのっぽのトルケルイースト・アングリア伯爵英語版に、エイリーク・ハーコナルソンはクヌートがすでに与えていたノーサンブリア伯爵英語版の地位を保持し、エアドリック・ストレオナ英語版はマーシア伯爵となった。しかし、ストレオナについては1年以内に処刑された。1018年、クヌートはウェセックスにて少なくとも2つの伯爵領を復活させ、オックスフォードでの会合において彼の部下やイングランドの代表者らはエドガー王の法律に基づいてクヌートが統治することに同意した[43]

アングロ・サクソン史家のフランク・ステントン英語版は、アングロ・サクソン年代記では、国外への頻繁な移動に言及していたことを除くとクヌートの治世に関してはあまり語られておらず、クヌートがイングランドを強く支配していたことを示していると指摘する。クヌートの不在中、トルケルはおそらく彼の摂政を務めていたとされるが[44]1021年に失脚し追放された。1023年のデンマークでの調停の際には、里子に出すため息子たちを交換し、トルケルはデンマークにおけるクヌートの摂政となったが、これはトルケルが武力にて彼らに勝ったことを示唆している[45]

しかし、スコットランドにてイングランドの勢力を強化することによりノーサンブリア伯爵の位を守ることは、クヌートのもうひとりの伯爵、ノーサンブリア伯シワード英語版に託された。1055年の彼の死亡時点には、彼は王ではなく、前世紀初頭にストラスクライド王国英語版が併合した全領土の大君主であった[36]

デーン人がクヌートの不在について不平を述べることには、イングランド人よりも多くの理由があった[46][47][48]。彼は主にイングランドを支配しており、デンマークには摂政を置いていた。彼はイングランドでの主任顧問としてのトルケルに代わってイングランド人のゴドウィンを置き[49]、和解してから3年以内にデンマークの摂政をクヌートの妹の夫であるウルフに交代させた。ウルフはクヌートとエマとの間の息子ハーデクヌートの後見人となった[50]。しかしウルフは忠誠心を欠いており、まずスウェーデンやノルウェーの王らとともにクヌートに対する陰謀を企て、貴族らにハーデクヌート(事実上ウルフ)への忠誠を誓わせ権力闘争を仕掛けた。クヌートは1026年のクリスマスにデンマークに戻ってウルフを殺すよう一族に命じ、彼はロスキレのトリニティ教会にて殺された[49]。彼はその死を迎えるまでに、イングランド人に助言したスカンディナヴィア人の派閥を完全に置き換えた[51]

クヌートはノルウェーにて越年し、Jarl Erikの息子ハーコン・エリクソン(彼はスヴェン王にも同じように仕えていた)を摂政に据えたが、エリクソンは翌年の冬に溺死した[52]。クヌートはその後任として、エルギフとの間にもうけた2人息子のうちの次男スヴェイン・クヌートソン(ノルウェーではスヴェイン・アルフィフソンとして知られていた)を、エルギフとともに派遣した。オーラヴの帰国が拒絶された際、スヴェインらはノルウェー南部にて手間を取らされたが、オーラヴの治世時よりも人気を失っていった。 独立性を重んじ、新たな貢物がデンマーク式であることに特に憤慨していた人々に対して、エルギフはより厳しい規制と新たな税を課すことを試みた[52][53][54]

クヌートはまた、彼の長男ハーデクヌーズにデンマークを引き渡す準備をしていた。ノルウェーで実権を握ったハーデクヌーズはニダロスで大法廷を開きデンマーク王を宣言した[55]。ステントンが指摘するように、別々の国で別々の息子が後継者に任命されたことで、クヌートには「彼の死後も連合したままである北方の帝国を創設するという熟慮された意図」がなかったことを示した[56]。それは単にその民族らの慣習であったのかもしれない[57]。いずれにせよ、彼の不在時に忠実かつ有能な摂政を見つけられなかった点が、クヌートの治世下を通じた帝国の弱点ということは明らかだった[58]。彼の息子らも、協力して統治を維持することはできなかった。

クヌートの死後

デーンロウ(黄色の領域)

1035年にクヌートが死ぬと北海帝国は間もなく崩壊したが、実際にはノルウェーにおいてはすでに崩壊しつつあった。1033年の冬までにスヴェインとエルギフは人望を失っており、トロンハイムを離れることを余儀なくされた。1034年、スティクレスタドの戦いにてオーラヴを撃退し殺害した軍の指揮官は、王の忠実な支持者の1人と協力して幼い息子マグヌス1世ガルダリキから支配下に戻し[59]、クヌートが死ぬ数週間前の1035年秋には、スヴェインとエルギフは国外へ脱しデンマークへ向かわねばならなかった[56]。スヴェインはその後間もなく死亡した。

デンマークではハーデクヌーズがすでに王として統治していたが、ノルウェーのマグナスによる復讐を遂げるための侵攻の脅威があったため、彼は3年間自国から出れなかった。その間イングランド貴族らは、ハーデクヌーズ派とその腹違いの兄ハロルド1世派に分裂してハロルドを摂政にすることでの妥協を決意した。1037年末までにエルギフは要人らにハロルドへの忠誠を誓うよう説得し、彼はイングランド王ハロルド1世として囲われた。ハーデクヌーズの母エマ女王はフランドルへの避難を余儀なくされてた[60]

ハーデクヌーズは、彼の異母兄からイングランドを奪取するための侵攻艦隊を準備したが、それが使用される前の1040年にハロルドは死亡した。その後ハーデクヌーズはデンマークと再統合してイングランド王となったが、この統合は王としての悪印象を広くもたらした。アングロ・サクソン年代記は彼について、在位中は国王らしいことは一切しなかったと記している[61][62][63]。1042年6月、クヌートの宮廷にいたデンマーク貴族の1人、トヴィ(Tovi the Proud)の結婚披露宴にて、ハーデクヌーズは「酒を飲んで立ったまま」突然死した。一見、彼の死は北海帝国の終焉をもたらしたように見えるが[64]、ノルウェー王となっていたマグヌスはハーデクヌーズと結んだ1040年の合意[注 5]を利用してデンマークを掌握し、イングランドへ侵攻して諸王国と帝国を再統一する計画を立てていた。デンマークにおける権力強化において、彼はヨムスヴァイキングの中心地を破壊した直後に始まった、リュルスコフ・ヒースの戦い英語版にてヴェンド人の侵攻を防いだ。それにより、スヴェン1世やクヌート大王の支配権を強めた重要な政治的および軍事的要素の1つを破壊したため、これは事実上自らの首を絞める行為であった可能性もある。マグヌスは1046年スヴェン2世英語版をデンマークから追放したが、1047年にはスヴェン2世とトヴィ伯爵がデンマークから逆にマグヌスを追い出したことを、ブレーメンのアダムが簡潔に言及している。これについては、1047年にマグヌスとの戦闘を支援するために50隻の船の増援をスヴェン2世がイングランドに依頼したと記述している、同時代のアングロ・サクソン年代記によって確認されている。スヴェン2世の母親はスヴェン1世の娘であることから、彼はスコーネにてデンマーク王に選ばれ[66]エストリズセン朝を開いた。スヴェン2世はマグヌスをデンマークから追放して大虐殺によってデンマーク入りし、デーン人らは多額の金銭を支払い国王として認めた。マグヌスは同じ1047年に死亡した[67]

同君連合としての北海帝国はヨーロッパ史において短期間に終わったが、デーン人はイングランドにおいて、東部のデーンロウと呼ばれる地域に対し慣習法方言などの面で後世に及ぶ大きな影響を残した。イングランド語(英語)にも、デーン人の言語である古ノルド語の語彙が多数残ったといわれる[注 6]

歴代王

脚注

注釈

  1. ^ 当時のデンマークは、現在のスウェーデンの一部スコーネ地方を含んでいた。
  2. ^ 帝国の成立年については、クヌートがデンマーク王に即位した1018年[2]あるいはノルウェー征服後の1028年[3]、崩壊年をクヌートの死亡した1035年[4]とみなす場合もある。
  3. ^ 歴史家のLarsonは次のように述べている。「11世紀の(最初の)40年間が始まったとき、唯一の例外である神聖ローマ皇帝を除いて、クヌートはラテン・キリスト教世界において最も印象的な統治者であった。...彼は4つの重要な領域の主、かつ他の諸王国の大君主であった。厳密にはクヌートは王の1人に数えられていたが、彼と同年代の君主らの間における彼の地位は、まさに絶大であった。彼はブリテン諸島スカンディナヴィア半島という2つの主要な地域の運命を握っていたようだ。彼の艦隊は北海とバルト海という重要な両海域をほぼ支配していた。彼は帝国を築いたのである。」 [7]
  4. ^ クヌートがイングランド王に即位した1016年からハーデクヌーズが死ぬ1042年の間に成立した王朝はデーン朝と呼ばれる[10]
  5. ^ マグヌスとハーデクヌーズのどちらかが男子を残さずに死亡した場合、生存した方がデンマーク・ノルウェー両国の王を兼ねる、というもの[65]
  6. ^ law(法)も古ノルド語といわれる。

出典

  1. ^ Andreas D. Boldt, Historical Mechanisms: An Experimental Approach to Applying Scientific Theories to the Study of History (Routledge, 2017), pp. 125 and 196.
  2. ^ 百瀬ほか、1998年、付録p.27。
  3. ^ 『世界史小辞典 改訂新版』山川出版社、2004、p.196。
  4. ^ 熊野、1998年、p.47
  5. ^ Terence R. Murphy, "Canute the Great", in F. N. Magill, ed., Dictionary of World Biography, Volume 2: The Middle Ages (Routledge, 1998), pp. 201–205.
  6. ^ North Sea (Anglo-Scandinavian) Empire” (英語). Wiley Online Library. 2020年3月9日閲覧。
  7. ^ Laurence Marcellus Larson, Canute the Great: 995 – c. 1035 and the Rise of Danish Imperialism During the Viking Age, New York: Putnam, 1912, OCLC 223097613, p. 257.
  8. ^ Frank Stenton, Anglo-Saxon England, 3rd ed. Oxford: Clarendon, 1971, ISBN 978-0-19-821716-9, p. 386.
  9. ^ Stenton, pp. 388–93.
  10. ^ 木下康彦・木村靖二・吉田寅編著『詳説世界史研究』山川出版社、1995、p.183。
  11. ^ Stenton, p. 397.
  12. ^ 熊野ほか、1998年、p.33。
  13. ^ Stenton, p. 399: "It is with the departure of the Danish fleet and the meeting at Oxford which followed it that Cnut's effective reign begins".
  14. ^ 熊野ほか、p.33。
  15. ^ Stenton, p. 401.
  16. ^ Palle Lauring, tr. David Hohnen, A History of the Kingdom of Denmark, Copenhagen: Høst, 1960, OCLC 5954675, p. 56.
  17. ^ Edward A. Freeman, The History of the Norman Conquest of England: Its Causes and its Results, Volume 1 Oxford: Clarendon, 1867, p. 404, note 1.
  18. ^ Stenton, pp. 402–04.
  19. ^ Jim Bradbury, The Routledge Companion to Medieval Warfare, London: Routledge, 2004, ISBN 0-415-22126-9, p. 125.
  20. ^ Philip J. Potter, Gothic Kings of Britain: The Lives of 31 Medieval Rulers, 1016–1399, Jefferson, North Carolina: McFarland, 2009, ISBN 978-0-7864-4038-2, p. 12.
  21. ^ Stenton, pp. 407–08.
  22. ^ Viggo Starcke, Denmark in World History, Philadelphia: University of Pennsylvania, 1962, p. 282.
  23. ^ Stenton, pp. 402–03.
  24. ^ Herbert A. Grueber and Charles Francis Keary, A Catalogue of English Coins in the British Museum: Anglo-Saxon Series, Volume 2, London: Trustees [of the British Museum], 1893, p. lxxvii.
  25. ^ a b c Starcke, p. 284.
  26. ^ Stenton, p. 404.
  27. ^ Starcke, p. 289.
  28. ^ Karen Larsen, A History of Norway, The American-Scandinavian Foundation, Princeton, New Jersey: Princeton University, 1948, repr. 1950, OCLC 221615697, p. 104.
  29. ^ 熊野、p.48。
  30. ^ In the probably later heading to a 1027 letter sent to his English subjects: Rex totius Angliæ et Denemarciæ et Norreganorum et partis Suanorum, "King of all England and Denmark and Norway and part of Sweden". Freeman, p. 479, note 2.
  31. ^ Brita Malmer, "The 1954 Rone Hoard and Some Comments on Styles and Inscriptions of Certain Scandinavian Coins from the Early Eleventh Century", in Coinage and History in the North Sea World, c. AD 500–1200: Essays in Honour of Marion Archibald, ed. Barrie Cook and Gareth Williams, Leiden: Brill, 2006, ISBN 90-04-14777-2, pp. 435–48, p. 443.
  32. ^ Henry Noel Humphreys, The Coinage of the British Empire: An Outline of the Progress of the Coinage in Great Britain and her Dependencies, From the Earliest Period to the Present Time, London: Bogue, 1855, OCLC 475661618, p. 54.
  33. ^ "The Hiberno–Norse Coinage of Ireland, ~995 to ~1150", Irish Coinage.
  34. ^ Franklin D. Scott, Sweden: The Nation's History, 2nd ed. Carbondale: Southern Illinois University, 1988, ISBN 0-8093-1489-4, pp. 25–26, listing Cnut's claim.
  35. ^ Starcke, pp. 281–82.
  36. ^ a b Stenton, p. 419.
  37. ^ M.K. Lawson, Cnut: England's Viking King, Stroud: Tempus, 2004, ISBN 0-7524-2964-7, p. 103: "Cnut's power would seem in some sense to have extended into Wales".
  38. ^ Benjamin T. Hudson, Viking Pirates and Christian Princes: Dynasty, Religion, and Empire in the North Atlantic, New York: Oxford University, 2005, ISBN 978-0-19-516237-0, p. 119.
  39. ^ Lauring, p. 56: "the Danes in England very quickly became Christians".
  40. ^ Starcke, p. 283.
  41. ^ Stenton, pp. 396–97: "Swein ... first appears in history as the leader of a heathen reaction . . . [but] behaved as at least a nominal Christian in later life. ... Swein's tepid patronage of Christianity ..."
  42. ^ Stenton, p. 397: "the first viking leader to be admitted into the civilised fraternity of Christian kings".
  43. ^ Stenton, pp. 398–99.
  44. ^ Stenton, pp. 399–401.
  45. ^ Stenton, pp. 401–02.
  46. ^ Jón Stefánsson, Denmark and Sweden: with Iceland and Finland, London: Unwin, 1916, OCLC 181662877, p. 11: "Cnut's ideal seems to have been an Anglo-Scandinavian Empire, of which England was to be the head and centre".
  47. ^ Lauring, p. 56: "He was fond of England and regarded it as his principle 〔ママ〕 kingdom.... Canute actually became an Englishman".
  48. ^ Grueber and Keary, p. 6: "Though England had been conquered by the Dane she was really the centre of his Danish empire".
  49. ^ a b Jón Stefánsson, p. 11.
  50. ^ Stenton, p. 402.
  51. ^ Stenton, p. 416.
  52. ^ a b Stenton, p. 405.
  53. ^ Larsen, pp. 104–05.
  54. ^ T. D. Kendrick, A History of the Vikings, New York: Scribner, 1930, repr. Mineola, New York: Dover, 2004, ISBN 0-486-43396-X, p. 125: "Danish taxes were introduced, Danish laws imposed, and preference was everywhere given to Danish interests".
  55. ^ Stenton, pp. 404–05.
  56. ^ a b Stenton, p. 406.
  57. ^ Grueber and Keary, p. 6: "But what more than anything else ruined these hopes, as they almost always ruined the hopes of extended Scandinavian rule, were the customs of inheritance which obtained among the northern nations".
  58. ^ Lauring, p. 57: "Now that a single king had assumed power after the pattern of Western Europe, the moment that king went away and omitted to leave strong men in charge behind him, or left a weak one, [the viking threat] became fatally weakened".
  59. ^ Larsen, p. 110.
  60. ^ Stenton, p. 420.
  61. ^ Joseph Stevenson, ed. and tr., The Church Historians of England, volume 2 part 1, London: Heeleys, 1853, p. 96, entry for 1040.
  62. ^ Stenton, p. 422.
  63. ^ Lauring, p. 57: "Canute's sons, despite the fact that they were both completely incompetent, were both proclaimed Kings of England".
  64. ^ Lauring, p. 57.
  65. ^ 熊野、p.59。
  66. ^ 熊野、p.59。
  67. ^ Den Store Dansk (Great Danish Encyclopedia)”. 2020年3月25日閲覧。

参考文献

関連項目