「日本軍によるアンダマン・ニコバル諸島の占領」の版間の差分

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[[File:Andaman and Nicobar Islands in India (disputed hatched).svg|thumb|right|[[アンダマン・ニコバル諸島]]の位置]]
'''日本軍によるアンダマン・ニコバル諸島の占領'''(にほんぐんによるアンダマン・ニコバルしょとうのせんりょう)は、1942年3月の日本軍による[[アンダマン諸島]]の占領に始まり、1945年8月に日本が[[連合軍]]に無条件降伏し、同年9月に[[イギリス]]が両諸島を再占領するまで続いた<ref>岩川(1976) 165-248頁、長崎(1991) 247-249頁、岩川(1995) 181-182,199頁、木村(2001)</ref>。
[[File:Map of Nicobar and Andaman Islands-en.svg|thumb|right|上部がアンダマン諸島、下部がニコバル諸島。中央の拡大図はポートブレア周辺]]
'''日本軍によるアンダマン・ニコバル諸島の占領'''(にほんぐんによるアンダマン・ニコバルしょとうのせんりょう)は、[[1942年]](昭和17年)3下旬[[日本軍]]による[[アンダマン諸島]]の占領に始まり{{Sfn|写真太平洋戦争2巻|1995|p=221|ps=「インド洋作戦/アンダマン諸島無血占領」}}[[1945年]]8月に[[大日本帝国]]が[[連合軍]]に無条件降伏し、同年9月に[[イギリス]]が両諸島を再占領するまで続いた<ref>岩川(1976) 165-248頁、長崎(1991) 247-249頁、岩川(1995) 181-182,199頁、木村(2001)</ref>。


== 日本軍の諸島占領 ==
== 日本軍の諸島占領 ==
=== 占領 ===
=== 背景 ===
[[1942年]](昭和17年)1月中旬、日本軍は[[ビルマの戦い|ビルマ攻略作戦]]を実施しようとしていた<ref>[[#叢書26|戦史叢書26巻]]、585-586頁「ビルマ」</ref>([[1月22日]]、大陸命第590号)<ref>[[#叢書三五|戦史叢書35巻]]、325-327頁「ビルマ作戦の再検討」</ref><ref name="叢書三五327">[[#叢書三五|戦史叢書35巻]]、327-329頁「ビルマ作戦の発動」</ref>。ビルマに投入予定の日本陸軍のうち一部は[[輸送艦|輸送船]]で移動することに決定し(あるいは予定変更され)<ref>[[#叢書三五|戦史叢書35巻]]、430-431頁「第五十六師団の海路輸送への変更」</ref>、陸軍・海軍中央協定により[[連合艦隊]](司令長官[[山本五十六]]大将)と[[南遣艦隊#第一南遣艦隊|第一南遣艦隊]](司令長官[[小沢治三郎]]中将<!-- 艦隊の長は「司令長官」。陸軍師団の長は「司令官」 -->、馬来部隊指揮官)が輸送に協力することになった<ref name="叢書三五327" /><ref name="叢書三五449">[[#叢書三五|戦史叢書35巻]]、449-451頁「印度洋機動作戦の登場」</ref>。日本海軍もビルマ作戦支援の観点から、南雲機動部隊(司令長官[[南雲忠一]]第一航空艦隊司令長官)を[[インド洋]]に投入することを検討した<ref name="叢書三五449" /><ref name="叢書八十198">[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、198-200頁「アンダマン諸島攻略、ベンガル湾奇襲作戦の下令」</ref>。
日本軍は、太平洋戦争初期のフィリピン・マレー・スマトラ攻略作戦の後、「第二段作戦」としてニューギニア東部、オーストラリア方面とともにビルマとスマトラを結ぶ南北の線上にある英領インド帝国の[[アンダマン・ニコバル諸島]]を攻略目標とした。1942年3月5日、[[南遣艦隊#第一南遣艦隊|第一南遣艦隊]](司令官・[[小澤治三郎]]中将)はアンダマン諸島攻略作戦(D作戦)を発令し、同月10日に[[海軍根拠地隊#特別根拠地隊|海軍第12特別根拠地隊]]分遣隊、陸軍歩兵第56連隊第2大隊等からなる部隊が[[ペナン]]から出撃した。アンダマン諸島の英軍の主力部隊は日本軍の作戦より前に撤退していたため、日本軍はほとんど抵抗なくアンダマン諸島に上陸し、英国人23人、インド兵300名を捕虜として、3月30日にほぼ作戦を終えた。また同年6月13-14日に日本軍はニコバル諸島を無血占領した<ref>井上ほか(2010) 129頁、木村(2001) 47-53,100-103頁。</ref>。


アンダマン諸島の占領は開戦前の計画には正式にとりあげられておらず、日本陸軍の一部に「[[マレー作戦]]の側面掩護という意味合いで、アンダマン諸島を攻略すべき」との意見があった<ref name="叢書二六587">[[#叢書26|戦史叢書26巻]]、587頁「アンダマン」</ref><ref name="叢書三五392">[[#叢書三五|戦史叢書35巻]]、392-394頁「アンダマン諸島方面攻略発令」</ref>。また連合艦隊の第二段作戦計画<ref group="注釈">機密聯合艦隊命令作第一号(昭和16年11月5日)</ref>においてインド洋通商破壊作戦実施の関係上「作戦状況許す限り速かに占領または破壊せんとする地域の一つ」にあげられている程度だった<ref name="叢書二六587" /><ref name="叢書三五392" />。だがビルマ海上輸送を行うにあたり、海上交通保護・護衛の観点から、[[マラッカ海峡]]の啓開・北部[[スマトラ島]]の攻略・ビルマとスマトラを結ぶ南北の線上にあった[[イギリス領インド帝国|英領インド帝国]][[アンダマン・ニコバル諸島]]の占領が重要視されるに至った<ref name="叢書三五392" /><ref name="叢書八十198" />。[[南アンダマン島]]南東部の[[ポートブレア]]には、[[飛行場]]と[[港湾|港湾施設]]があった<ref name="叢書三五545">[[#叢書三五|戦史叢書35巻]]、545頁「アンダマン攻略作戦」</ref>。[[イギリス軍]]の守備隊は一個中隊ほどで、[[1942年]]1月に[[グルカ旅団|グルカ大隊]]と交代していた<ref name="叢書三五545" />。なお[[ヤンゴン|ラングーン]]陥落後の[[3月12日]]、イギリス軍はアンダマン島守備隊の撤退を決定した<ref name="叢書三五545" />。
=== B作戦の中止 ===

日本軍は更に、独・伊と連携してインド洋方面の英国艦船を攻撃し[[セイロン島]]を攻略する作戦('''B作戦''')を計画した。しかし、1942年6月に日本軍は[[ミッドウェー海戦]]に敗北して多くの艦載機を失い、同年7月に太平洋の米軍が[[ソロモン諸島]]に来攻したため、同年8月8日、B作戦は中止された。南西方面の航空兵力は、[[ガダルカナル島]]奪回作戦に転用するため、半減されることとなった<ref>木村(2001) 51-53頁。</ref>。
[[2月4日]]、軍令部は連合艦隊にアンダマン諸島の攻略を内報した<ref name="叢書三五392" />。[[2月7日]]、大本営陸軍部は大陸命第598号<ref group="注釈">『大陸命第五百九十八号 命令 一 南方軍総司令官ハ海軍ト協同シ適時「アンダマン」群島方面ノ要地ヲ攻略スベシ/二 細項ニ関シテハ参謀総長ヲシテ指示セシム 昭和十七年二月七日』</ref>と大陸指第1102号<ref group="注釈">『大陸指第千百二号 指示 大陸命第五百九十八号ニ基キ左ノ如ク指示ス 「アンダマン」方面ニ対スル作戦要領ハ南方軍総司令官、聯合艦隊司令長官間ニ協議決定スルモノトス 昭和十七年二月七日』</ref>によりアンダマン諸島方面要域の攻略を命じた<ref name="叢書三五392" /><ref name="叢書三五431">[[#叢書三五|戦史叢書35巻]]、431-434頁「協定第八号と中、北部スマトラ作戦」</ref>。
同日、大本営海軍部は大海令第15号<ref group="注釈">『大海令第十五号 一 聯合艦隊司令長官ハ南方軍ト協力シ「アンダマン」群島方面ノ要地ヲ攻略スベシ(以下略)』</ref>と大海指第52号<ref group="注釈">『大海指第五十二号 大海令第十五号ニ依ル作戦実施ニ関シテハ 聯合艦隊司令長官南方軍総司令官ノ協定スル所ニ依ル』</ref>により、連合艦隊にアンダマン諸島の攻略を命じた<ref name="叢書三五392" /><ref name="叢書八十198" />。

[[2月19日]]、[[南方軍 (日本軍)|南方軍]](総司令官[[寺内寿一]]陸軍大将)は[[第25軍 (日本軍)|第25軍]](司令官[[山下奉文]]陸軍中将)と関連部隊に対し、中部・北部スマトラおよびアンダマン諸島の占領を命じる<ref name="叢書三五392" /><ref name="叢書三五431" />。
またビルマ作戦およびアンダマン作戦に関する陸海軍協定(協定第七号、協定八号)が結ばれた<ref name="叢書三五431" />。スマトラ作戦は「T作戦」<ref name="木俣軽巡215">[[#木俣軽巡|日本軽巡戦史]]、215-217頁「ビルマ上陸、輸送作戦(三月)」</ref>、アンダマン作戦は「'''D作戦'''」、ビルマ作戦は「U作戦」(集合点は[[シンガポール]]および[[ペナン島|ペナン]]、上陸点はラングーン)と呼称された<ref name="叢書三五431" />。
第25軍と第一南遣艦隊の協議により、アンダマン作戦<ref group="注釈">『「アンダマン」付近ノ要地ヲ占領シテ速カニ海軍基地及飛行場ヲ確保スルニ在リ』(第25軍と第一南遣艦隊間の陸海軍協定覚書より)</ref>の上陸作戦は[[川崎晴実]]海軍大佐が指揮し<ref name="叢書二六603">[[#叢書26|戦史叢書26巻]]、603-604頁「作戦計画」</ref>、第18師団の歩兵一個大隊<ref name="叢書三五431" />(林礪三陸軍大尉、歩兵第56聯隊第二大隊)が協力することになった<ref>[[#S1702三水戦日誌(6)]]p.19「昭和十七年三月一日於昭南港 D作戰ニ關スル 第三水雷戰隊司令官/第十二特別根據地隊分遣隊指揮官/歩兵第五十五聯隊第二大隊長 間協定覺書 第三水雷戰隊司令官 海軍少将橋本信太郎/第十二特別根據地隊分遣隊指揮官 海軍大佐川崎晴實/歩兵第五十五聯隊第二大隊長 陸軍大尉林礪三」</ref><ref>[[#叢書26|戦史叢書26巻]]、602-603頁「四 アンダマンの攻略」</ref>。

日本す海軍の北部スマトラ・アンダマン・ビルマ攻略部隊は、3月初旬までにシンガポールに集結した<ref name="叢書二六590">[[#叢書26|戦史叢書26巻]]、590-591頁「ビルマ及付近要域攻略の発動」</ref><ref>[[#叢書26|戦史叢書26巻]]、595-596頁</ref>。
3月8日夕刻<ref name="木俣軽巡215" />、馬来部隊各部隊・各艦<ref>[[#叢書26|戦史叢書26巻]]、597-599頁「作戦計画」</ref>は[[近衛師団]]と海軍基地設営隊が乗船した輸送船団を護衛して、漸次シンガポールを出発した<ref>[[#S1702三水戦日誌(4)]]p.6「(ハ)作戰指導(一)T作戰 第一護衛隊ヲ以テ近衛師團歩兵團、海軍「サバン」基地部隊及同設營隊ノ輸送船六隻ヲ護衛三月八日昭南出撃十二日〇時過無事「サバン」「クタラジヤ」泊地ニ嚮導陸海軍部隊ヲ奇襲上陸ニ成功セシムルト共ニ引續キ揚陸掩護及泊地附近一帯ノ掃海竝ニ海上警戒ニ任ズ 十四日揚陸作業モ概ネ終了セルヲ以テ現地發彼南ニ囘航ス」</ref><ref name="叢書二六600">[[#叢書26|戦史叢書26巻]]、600-602頁「無血上陸」</ref>。
3月12日、作戦部隊は北部スマトラ島の二ヶ所に上陸して<ref name="木俣軽巡215" />、各地の要所を占領した<ref name="叢書三五431" /><ref>[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、200-201頁「北部スマトラ占領」</ref>。輸送船団の護衛に従事していた馬来部隊は、アンダマン作戦とビルマ輸送作戦に備えて[[川内 (軽巡洋艦)|川内]]・[[由良 (軽巡洋艦)|由良]]・[[香椎 (練習巡洋艦)|香椎]]などはペナンへ<ref>[[#S1702三水戦日誌(4)]]p.25(昭和17年3月14日項)</ref>、一部はシンガポールへ移動した<ref name="木俣軽巡215" /><ref name="叢書二六600" />。

=== 作戦 ===
[[File:Japanese running to Andaman Islands.jpg|thumb|right|250px|アンダマン諸島に上陸する日本軍(1942年3月)]]
馬来部隊がT作戦(北部スマトラ作戦)に続いて実施したのが<ref name="木俣軽巡217">[[#木俣軽巡|日本軽巡戦史]]、217-219頁「ビルマ輸送、アンダマン島(三月)」</ref>、D作戦(アンダマン攻略作戦)<ref name="叢書八十201a">[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、201頁「アンダマン諸島の攻略」</ref><ref name="S1702三水戦(4)6">[[#S1702三水戦日誌(4)]]pp.6-7「(ハ)作戰指導(二)D作戰 第一護衛隊ヲ以テ海陸軍「アンダマン」攻畧部隊及同設營隊ノ輸送船三隻ヲ護衛三月二十日彼南出撃 二十三日未明無事「ポートブレーヤ」沖着奇襲上陸ニ成功セシム 爾後護衛隊ハ揚陸掩護泊地警戒竝ニ「ブレーヤ」港口水路啓開及泊地掃海作業ニ從事スルト共ニ二十四、五、六ノ三日間ニ亘リ陸海軍攻略隊ノ「アンダマン」諸要地掃討作戰ニ協力ス/二十六日泊地水路ノ清掃ヲ終リ輸送船ヲ港内ニ轉錨セシム/二十四日以後連日「ブレーヤ」附近ニ敵大型機一来襲セルモ其ノ都度之ヲ砲撃々退ス」</ref>とU作戦(ビルマ輸送作戦)であった<ref name="叢書二六610">[[#叢書26|戦史叢書26巻]]、610-613頁「二コ師団以上を輸送」</ref><ref name="叢書八十201b">[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、201頁「ビルマ輸送」</ref>。

3月20日午前8時以降、アンダマン攻略部隊<ref name="S1702三水戦(4)6" />(輸送船〈宏川丸、[[衣笠丸 (特設水上機母艦)|衣笠丸]]、[[國川丸 (特設水上機母艦)|國川丸]]〉<ref>[[#S1702三水戦日誌(4)]]p.28「(昭和17年3月24日項)「(略)一.朝霧ch9ヲ北方隊ヨリ除キ南方隊ニ編入/二.宏川丸揚陸終了〇一〇〇出港」</ref><ref>[[#S1702三水戦日誌(4)]]pp.30-31「(昭和17年3月30日項)「(略)四.朝霧、國川丸、衣笠丸ノ回航護衛」</ref>、[[海軍根拠地隊#特別根拠地隊|海軍第12特別根拠地隊]]分遣隊、第9特根拠地隊の一部兵力、陸軍歩兵第56連隊第2大隊、[[大発動艇]]4隻、特設監視艇2隻)は<ref>[[#S1702三水戦日誌(4)]]p.27「(昭和17年3月20日項)一、1wg〇八〇〇 20dg(-朝) 1D/19dg、ch9一六一五 川内、由良一八四五 朝霧一九〇〇 夫々「ペナン」出撃|「アンダマン」攻畧部隊ノ輸送護衛」</ref>、馬来部隊第一護衛隊(指揮官[[橋本信太郎]]第三水雷戦隊司令官、旗艦「[[川内 (軽巡洋艦)|川内]]」)指揮下の各部隊・各艦(巡洋艦〈川内、[[由良 (軽巡洋艦)|由良]]〉<ref name="木俣軽巡217" /><ref name="S1702三水戦(4)19">[[#S1702三水戦日誌(4)]]pp.19-21「四参考(ロ)一時指揮下ニ編入サレタル艦船部隊ノ行動」</ref>、第19駆逐隊第1小隊〈[[浦波 (吹雪型駆逐艦)|浦波]]、[[磯波 (吹雪型駆逐艦)|磯波]]〉<ref>[[#S1702三水戦日誌(4)]]pp.17-19「四参考(イ)麾下艦船部隊ノ行動」</ref>、第20駆逐隊〈[[夕霧 (吹雪型駆逐艦)|夕霧]]、[[天霧 (駆逐艦)|天霧]]、[[朝霧 (吹雪型駆逐艦)|朝霧]]、[[白雲 (吹雪型駆逐艦)|白雲]]〉、[[駆潜艇]]<ref name="S1702三水戦(4)19" />)に護衛され<ref name="叢書二六603" /><ref>[[#S1702三水戦日誌(6)]]pp.1-2「二.兵力部署」</ref>、[[ペナン]]から出撃した<ref>[[#S1702三水戦日誌(4)]]pp.19-21「四参考(ロ)一時指揮下ニ編入サレタル艦船部隊ノ行動」</ref><ref name="叢書二六607">[[#叢書26|戦史叢書26巻]]、607-609頁「敵守備兵、無条件降伏す」</ref>。進撃中、第1掃海隊が合流した<ref name="S1702三水戦(4)19" /><ref>[[#S1702三水戦日誌(4)]]p.27「(昭和17年3月22日項)二〇三〇 D点ニ於テ1wgト合同|輸送船隊護衛」</ref>。
攻略部隊を小沢長官直率の馬来部隊主隊(旗艦〈[[鳥海 (重巡洋艦)|鳥海]]〉、[[第四航空戦隊]]〈[[龍驤 (空母)|龍驤]]〉、[[第七艦隊 (日本海軍)|第七戦隊]]〈[[熊野 (重巡洋艦)|熊野]]、[[鈴谷 (重巡洋艦)|鈴谷]]、[[三隈 (重巡洋艦)|三隈]]、[[最上 (重巡洋艦)|最上]]〉、第40航空隊、[[相良丸 (特設水上機母艦)|相良丸]]、[[山陽丸 (特設水上機母艦)|山陽丸]])が支援した<ref name="叢書二六603" />。

3月23日0630、アンダマン攻略部隊はポートブレア付近に上陸した<ref name="叢書三五545" /><ref name="叢書八十201a" />。アンダマン諸島の英軍の主力部隊は日本軍の作戦より前に撤退していたため、日本軍はほとんど抵抗なく、ポートブレア港周辺を占領した<ref name="叢書二六607" /><ref name="叢書八十201a" />。英国人23人、インド兵300名を捕虜とした<ref name="木俣軽巡217" /><ref name="叢書二六607" />。英軍機小数機が飛来したが、攻略部隊に被害はなかった<ref name="S1702三水戦(4)6" /><ref name="叢書二六607" />。
港湾の制圧とともに、東港航空隊の[[九七式飛行艇]]7機が、ただちにポートブレアへ進出する<ref name="木俣軽巡217" /><ref name="叢書二六607" />。またイギリス軍が敷設した[[機雷]]の処理がおこなわれ<ref name="S1702三水戦(4)6" />、アンダマン攻略は30日までに終了した<ref name="叢書二六590" />。

4月3日、アンダマン諸島の警備は日本海軍の担当となる<ref name="叢書三五545" />。第12特別根拠地隊がアンダマン諸島に駐留し<ref>[[#S1611一南遣日誌(1)]]pp.11-13「(三)軍隊區分 2.四月十日艦隊編制替以後」</ref>、海軍基地航空隊の拠点として機能した<ref>[[#S1611一南遣日誌(1)]]p.14「(四)作戰指導 (二)「ベンガル」湾北部機動作戰以後 蘭貢「アンダマン」「サバン」島ノ線ヲ第一線防備據点トシ航空兵力ヲ配備シ防備ヲ厳ニスルト共ニ担任海面ニ於ケル交通保護ニ重点ヲ置キ次期作戰ニ備ヘ極力教育訓練ヲ勵行セリ」</ref>。
4月15日、陸軍(林大隊)はポートブレアを出発し、17日にラングーンに到着した<ref name="叢書三五545" />。

また同年6月13-14日、日本軍はニコバル諸島を無血占領した<ref>井上ほか(2010) 129頁、木村(2001) 47-53,100-103頁。</ref>。


=== 防衛拠点化 ===
=== 防衛拠点化 ===
{{main|セイロン沖海戦}}
一方、インドの米英空軍はこの頃から基地の拡大や新鋭機の投入によりインド洋における航空兵力を増強しつつあった。インド洋の防備強化を迫られた日本軍は、1942年6月下旬にアンダマン・ニコバル諸島を海軍の直接防衛担当地域とし、同年9月26日に第12特別根拠地隊司令部をビルマのラングーンからポート・ブレアに移した。同年12月12日には陸軍近衛第3連隊第3大隊がポート・ブレアに増派された<ref>木村(2001) 51-53頁。</ref>。

日本海軍は、1942年4月初旬に南雲機動部隊による[[セイロン島]]空襲及びイギリス[[東洋艦隊 (イギリス)|東洋艦隊]]攻撃を<ref>[[#叢書26|戦史叢書26巻]]、589-900頁「セイロン島奇襲作戦」</ref><ref>[[#叢書三五|戦史叢書35巻]]、458-459頁「セイロン島方面およびベンガル湾機動作戦発令」</ref>並びに馬来部隊によるベンガル湾機動作戦を実施し<ref>[[#叢書26|戦史叢書26巻]]、590頁「ベンガル湾機動作戦」</ref>、イギリス軍に打撃を与えた<ref name="叢書八十202">[[#叢書80|戦史叢書80巻]]、202-205頁「機動作戦」</ref>。イギリス東洋艦隊は東アフリカと[[マダガスカル]]に後退した。8月初旬にも巡洋艦と[[水雷戦隊]]による通商破壊作戦「B作戦」<!-- B作戦はインド洋通商破壊作戦であり、セイロン島占領を目的とした作戦ではない -->を実施予定だったが、連合国軍が[[ソロモン諸島]]([[ガダルカナル島]]、[[フロリダ諸島]])に来攻して[[ガダルカナル島の戦い]]がはじまり、水上戦力は南東方面に転用された<ref name="木俣軽巡228">[[#木俣軽巡|日本軽巡戦史]]、228-230頁「第二次インド洋作戦、中止」</ref>。南西方面の航空兵力も[[ガダルカナル島の戦い|ガダルカナル島奪還作戦]]に転用するため、半減されることとなった<ref>木村(2001) 51-53頁。</ref>。以後、日本海軍がインド洋で実施した作戦は潜水艦による通商破壊作戦にとどまった{{Sfn|写真太平洋戦争2巻|1995|pP=224-229|ps=「インド洋作戦方面の潜水艦作戦」}}。

一方、インドの米英空軍はこの頃から基地の拡大や新鋭機の投入によりインド洋における航空兵力を増強しつつあった。インド洋の防備強化を迫られた日本軍は、1942年6月下旬にアンダマン・ニコバル諸島を海軍の直接防衛担当地域とし、同年[[9月26日]]に第12特別根拠地隊司令部をビルマのラングーンからポート・ブレアに移した。同年12月12日には陸軍近衛第3連隊第3大隊がポート・ブレアに増派された<ref>木村(2001) 51-53頁。</ref>。


=== 兵力増強とカーニコバル島の飛行場建設 ===
=== 兵力増強とカーニコバル島の飛行場建設 ===
1943年5月にニコバル諸島方面の基地調査結果がまとまり、{{仮リンク|カーニコバル島|en|Car Nicobar}}、{{仮リンク|カモルタ諸島|en|Kamorta}}の{{仮リンク|トリンカット島|en|Trinket Island}}は飛行場建設、カモルタ諸島のナンコーリ(Nancowry)湾は水上機等の適地とされた。同年7月にカーニコバル島、{{仮リンク|ナンコーリ島|en|Nancowry Island}}に基地建設のための先遣隊が送られた。同じ7月に陸軍は防衛調査の結果として近衛師団からアンダマン・ニコバル諸島への兵力増強を決め、翌8月にアンダマン諸島に約3,200人、カーニコバル島に約1,200人の守備隊を増派した。カーニコバル島には海軍の設営隊約1千人も増派され、突貫工事で、島民も動員して滑走路が建設された。同年9月に第一飛行場第一滑走路が完成し、311空1個中隊(零戦9機)が配された<ref>岩川(1995) 199頁、木村(2001) 53-67,101-103頁、井上ほか(2010) 129頁。</ref>。
1943年5月にニコバル諸島方面の基地調査結果がまとまり、{{仮リンク|カーニコバル島|en|Car Nicobar}}、{{仮リンク|カモルタ諸島|en|Kamorta}}の{{仮リンク|トリンカット島|en|Trinket Island}}は飛行場建設、カモルタ諸島のナンコーリ(Nancowry)湾は水上機等の適地とされた。同年7月にカーニコバル島、{{仮リンク|ナンコーリ島|en|Nancowry Island}}に基地建設のための先遣隊が送られた。同じ7月に陸軍は防衛調査の結果として近衛師団からアンダマン・ニコバル諸島への兵力増強を決め、翌8月にアンダマン諸島に約3,200人、カーニコバル島に約1,200人の守備隊を増派した。カーニコバル島には海軍の設営隊約1千人も増派され、突貫工事で、島民も動員して滑走路が建設された。同年9月に第一飛行場第一滑走路が完成し、311空1個中隊([[式艦上闘機|零戦]]9機)が配された<ref>岩川(1995) 199頁、木村(2001) 53-67,101-103頁、井上ほか(2010) 129頁。</ref>。


== インド独立連盟とスパイ事件 ==
== インド独立連盟とスパイ事件 ==
アンダマン諸島では、1942年4月に{{仮リンク|インド独立連盟|en|Indian Independence League}}の支部が結成され、6月には島の青年を糾合して[[インド国民軍]]が組織された。インド独立連盟は反英独立の啓蒙活動を行い、島民に影響力を及ぼしていた。日本軍はこれらの活動を承認し、公式の集会に日本軍の関係者が出席し、インド国民軍の訓練に加わるなどしていた<ref>木村(2001) 89-90頁。</ref>。
アンダマン諸島では、1942年4月に{{仮リンク|インド独立連盟|en|Indian Independence League}}の支部が結成され、6月には島の青年を糾合して[[インド国民軍]]が組織された。インド独立連盟は反英独立の啓蒙活動を行い、島民に影響力を及ぼしていた。日本軍はこれらの活動を承認し、公式の集会に日本軍の関係者が出席し、インド国民軍の訓練に加わるなどしていた<ref>木村(2001) 89-90頁。</ref>。


1943年1月、英軍の[[デニス・マッカーシー]]<ref>日本軍が占領する以前のアンダマン島の軍事警察司令官で、英軍の特別作戦部隊・{{仮リンク|136部隊|en|Force 136}}の指揮下でバクシュ・シンらとともにアンダマン島のスパイ活動に携わった(木村(2001) 90,134-135頁)。</ref>は、潜水艦でアンダマン諸島に上陸し、かつての部下であり、日本軍の下で働いていたインド人軍事警官を通じて、島内で情報収集活動を行う一方で、「インド独立連盟の中に英軍のスパイがいる」という偽情報を流した<ref>この英軍によるスパイ活動は、'''ボールドヘッド作戦'''と呼ばれた。作戦は5回にわたって行われ、マッカーシーらは少なくとも1943年1月、同年12月、1944年1月、同年3月に潜水艦で中アンダマン島に上陸していた(木村(2001) 134-135,291頁)。</ref>。マッカーシーが収集した情報によって英軍機が日本軍の軍事施設や艦船を正確に攻撃するようになったこともあり、疑心暗鬼になった日本軍は、1943年1月22日に[[ナラヤン・ラオ]]をはじめ55人のインド独立連盟のメンバーを逮捕し、拷問により1人を殺害、7人を同年3月30日にアバルディン(Aberdeen)村の海岸で銃殺した<ref>木村(2001) 89-92頁。</ref>。
[[1943年]]1月、英軍の[[デニス・マッカーシー]]<ref group="注釈">日本軍が占領する以前のアンダマン島の軍事警察司令官で、英軍の特別作戦部隊・{{仮リンク|136部隊|en|Force 136}}の指揮下でバクシュ・シンらとともにアンダマン島のスパイ活動に携わった(木村(2001) 90,134-135頁)。</ref>は、[[潜水艦]]でアンダマン諸島に上陸し、かつての部下であり、日本軍の下で働いていたインド人軍事警官を通じて、島内で情報収集活動を行う一方で、「インド独立連盟の中に英軍のスパイがいる」という偽情報を流した<ref group="注釈">この英軍によるスパイ活動は、'''ボールドヘッド作戦'''と呼ばれた。作戦は5回にわたって行われ、マッカーシーらは少なくとも1943年1月、同年12月、1944年1月、同年3月に潜水艦で中アンダマン島に上陸していた(木村(2001) 134-135,291頁)。</ref>。マッカーシーが収集した情報によって英軍機が日本軍の軍事施設や艦船を正確に攻撃するようになったこともあり、疑心暗鬼になった日本軍は、1943年1月22日に[[ナラヤン・ラオ]]をはじめ55人のインド独立連盟のメンバーを逮捕し、拷問により1人を殺害、7人を同年3月30日にアバルディン(Aberdeen)村の海岸で銃殺した<ref>木村(2001) 89-92頁。</ref>。


1943年10月には、日本軍はスパイ容疑により更に大規模に住民を逮捕し始め、インド独立連盟アンダマン支部の議長[[デワン・シン]]博士をはじめ、総勢630人以上を逮捕した。住民の逮捕は翌1944年1月まで続けられた。逮捕された独立連盟の指導者らは、日本軍から拷問を受け、英軍のスパイであることを自白するよう迫られた。デワン・シンは1944年1月13日に獄中で死亡した。同月30日には被疑者44人がポートブレアから十数キロ離れた丘で銃殺され、遺体はホムフレイグンジ(Humferygunj,HomfraygunjないしHomfreyganj)村付近に埋められた<ref>木村(2001) 89-92頁。</ref>。
1943年10月には、日本軍はスパイ容疑により更に大規模に住民を逮捕し始め、インド独立連盟アンダマン支部の議長[[デワン・シン]]博士をはじめ、総勢630人以上を逮捕した。住民の逮捕は翌1944年1月まで続けられた。逮捕された独立連盟の指導者らは、日本軍から拷問を受け、英軍のスパイであることを自白するよう迫られた。デワン・シンは1944年1月13日に獄中で死亡した。同月30日には被疑者44人がポートブレアから十数キロ離れた丘で銃殺され、遺体はホムフレイグンジ(Humferygunj,HomfraygunjないしHomfreyganj)村付近に埋められた<ref>木村(2001) 89-92頁。</ref>。
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1943年10月にインド独立連盟によって創設された[[自由インド仮政府]]の主席となった[[スバス・チャンドラ・ボース]]は、翌11月6日に東京で開催された[[大東亜会議]]において日本の[[東条英機]]首相から「現在日本軍が占領しているインド領アンダマン・ニコバル諸島を近く自由インド政府に帰属させる用意がある」旨の言明を受け、同年12月29日にアンダマン島を訪れた<ref>木村(2001) 84-87頁。</ref>。
1943年10月にインド独立連盟によって創設された[[自由インド仮政府]]の主席となった[[スバス・チャンドラ・ボース]]は、翌11月6日に東京で開催された[[大東亜会議]]において日本の[[東条英機]]首相から「現在日本軍が占領しているインド領アンダマン・ニコバル諸島を近く自由インド政府に帰属させる用意がある」旨の言明を受け、同年12月29日にアンダマン島を訪れた<ref>木村(2001) 84-87頁。</ref>。


ボースは海軍第12特別根拠地隊の石川茂司令官と会談し、仮政府の代表団をアンダマン島に派遣駐在させることと、代表団の次席を海軍民政部の総務課長に就任させることを申し入れた。日本軍側は、前者には合意したが後者は軍事機密を扱うことを理由に反対し、結局民政部に新たに「文教課」を設け、仮政府の人士が文教課長とその他各課の分担勤務に就くことで合意した<ref>木村(2001) 87-89頁。</ref><ref>ボースはアンダマン島来訪時、前述のスパイ容疑でインド独立同盟のアンダマン支部のメンバーが収監されていたアンダマン刑務所を見学に訪れたが、来島中に特にそのことに言及したりすることはなかった。木村(2001) 89-92頁。</ref>。
ボースは海軍第12特別根拠地隊の石川茂司令官と会談し、仮政府の代表団をアンダマン島に派遣駐在させることと、代表団の次席を海軍民政部の総務課長に就任させることを申し入れた。日本軍側は、前者には合意したが後者は軍事機密を扱うことを理由に反対し、結局民政部に新たに「文教課」を設け、仮政府の人士が文教課長とその他各課の分担勤務に就くことで合意した<ref>木村(2001) 87-89頁。</ref><ref group="注釈">ボースはアンダマン島来訪時、前述のスパイ容疑でインド独立同盟のアンダマン支部のメンバーが収監されていたアンダマン刑務所を見学に訪れたが、来島中に特にそのことに言及したりすることはなかった。木村(2001) 89-92頁。</ref>。


翌1944年2月12日、合意に基づいて自由インド仮政府の{{仮リンク|A.D.ロガナダン|en|A. D. Loganathan}}軍医少尉以下5名がアンダマン島に来島し、駐在所を開設した<ref>前述のスパイ事件の被疑者44人は、ロガナダンらがアンダマン島に来島する2週間前に殺害された(木村(2001) 92頁)。</ref>。同年9月8日にロガナダン代表、翌1945年6月末に他の駐在員に帰還命令が出され、1945年8月2日に全員が英軍の攻撃の間隙を縫ってシンガポールへ帰還した<!-- 帰還することになった理由が不明。城地の資料には記載があるのかもしれない。 --><ref>木村(2001) 88頁。</ref>。
翌1944年2月12日、合意に基づいて自由インド仮政府の{{仮リンク|A.D.ロガナダン|en|A. D. Loganathan}}軍医少尉以下5名がアンダマン島に来島し、駐在所を開設した<ref group="注釈">前述のスパイ事件の被疑者44人は、ロガナダンらがアンダマン島に来島する2週間前に殺害された(木村(2001) 92頁)。</ref>。同年9月8日にロガナダン代表、翌1945年6月末に他の駐在員に帰還命令が出され、1945年8月2日に全員が英軍の攻撃の間隙を縫ってシンガポールへ帰還した<!-- 帰還することになった理由が不明。城地の資料には記載があるのかもしれない。 --><ref>木村(2001) 88頁。</ref>。


ボースがアンダマン・ニコバル諸島の自由インド仮政府への帰属を求めたのは、統治機構と統治対象となる領土、領民を得ることで、自由インド仮政府に国家としての合法性を持たせるためだったと考えられている<ref>長崎(1991) 247-249頁</ref>。自由インド仮政府によるアンダマン・ニコバル諸島の統治への関与は、日本軍の軍政に関与する形で実現をみたものの、1年余で解消されることとなった。日本の敗戦に至るまで、軍政を廃止し正式に統治を移管するには至らなかった<ref>長崎(1991) 247-249頁、木村(2001) 86頁。</ref>。
ボースがアンダマン・ニコバル諸島の自由インド仮政府への帰属を求めたのは、統治機構と統治対象となる領土、領民を得ることで、自由インド仮政府に国家としての合法性を持たせるためだったと考えられている<ref>長崎(1991) 247-249頁</ref>。自由インド仮政府によるアンダマン・ニコバル諸島の統治への関与は、日本軍の軍政に関与する形で実現をみたものの、1年余で解消されることとなった。日本の敗戦に至るまで、軍政を廃止し正式に統治を移管するには至らなかった<ref>長崎(1991) 247-249頁、木村(2001) 86頁。</ref>。
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== イギリス軍の反攻 ==
== イギリス軍の反攻 ==
=== イギリス軍機の来襲 ===
=== イギリス軍機の来襲 ===
1943年9月8日にイタリアが連合軍に無条件降伏した結果、イタリア軍やドイツ軍の[[地中海]]や[[中東]]、[[北アフリカ]]における戦力が削減されたため、余裕ができた連合軍はインド洋での攻勢を強めた。日本軍の輸送船がインドなどから飛来したイギリス軍機に襲撃され、アンダマン・ニコバル諸島にもイギリス軍機が来襲するようになった。同年8月23日、カーニコバル島へ陸軍の守備隊を輸送した貨物船屏東丸は、揚陸作業中にイギリス軍機B24の爆撃を受けて沈没し、船長以下36名が戦死、輸送してきた武器・弾薬等と食糧の大半を失った('''屏東丸事件''')。同年9月22日、30日にはカーニコバル島、10月1日には南アンダマン島ポート・ブレアとスマトラ島[[サバン]]にイギリス軍機が来襲した<ref>岩川(1995) 199頁、木村(2001) 50-67,105-107頁、井上ほか(2010) 129頁。</ref>。
1943年9月8日にイタリアが連合軍に無条件降伏した結果、イタリア軍やドイツ軍の[[地中海]]や[[中東]]、[[北アフリカ]]における戦力が削減されたため、余裕ができた連合軍はインド洋での攻勢を強めた。日本軍の輸送船がインドなどから飛来したイギリス軍機に襲撃され、アンダマン・ニコバル諸島にもイギリス軍機が来襲するようになった。同年8月23日、カーニコバル島へ陸軍の守備隊を輸送した貨物船屏東丸は、揚陸作業中にイギリス軍機[[B-24 (航空機)|B24]]の爆撃を受けて沈没し、船長以下36名が戦死、輸送してきた武器・弾薬等と食糧の大半を失った('''屏東丸事件''')。同年9月22日、30日にはカーニコバル島、10月1日には南アンダマン島ポート・ブレアとスマトラ島[[サバン]]にイギリス軍機が来襲した<ref>岩川(1995) 199頁、木村(2001) 50-67,105-107頁、井上ほか(2010) 129頁。</ref>。


=== 上陸作戦 ===
=== 上陸作戦 ===
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しかし1944年3月に、日本軍とインド国民軍による[[インパール作戦]]が始まると、英軍はビルマから陸路マレーへ進撃する作戦を有力視するようになった。他方で英軍は機動部隊による北スマトラへの攻撃を検討し、アンダマン・ニコバル諸島に対しては飛行機などの消耗を強いるための陽動作戦として機動部隊による攻撃が行われることになった<ref>木村(2001) 61-67,120-121頁。</ref>。
しかし1944年3月に、日本軍とインド国民軍による[[インパール作戦]]が始まると、英軍はビルマから陸路マレーへ進撃する作戦を有力視するようになった。他方で英軍は機動部隊による北スマトラへの攻撃を検討し、アンダマン・ニコバル諸島に対しては飛行機などの消耗を強いるための陽動作戦として機動部隊による攻撃が行われることになった<ref>木村(2001) 61-67,120-121頁。</ref>。


同じ頃日本軍は、ビルマではインパール作戦により日本軍が攻勢に出るため、英軍はアンダマン・ニコバル諸島を攻略して航空基地を設け、マレー半島に上陸しようとするとの見方を有力視していた<ref>木村(2001) 61,63頁。</ref>。1944年2月、アンダマン・ニコバル諸島への上陸作戦を想定して現地守備隊が独立混成旅団に増強編成されることになり、同年5月に第35-37旅団がそれぞれアンダマン島ポート・ブレア、カーニコバル島、ナンコーリ島に配されて、守備陣地の構築を行うなど迎撃戦の準備を進めた<ref>岩川(1995) 199頁、木村(2001) 61-67,105-107頁、井上ほか(2010) 129頁。</ref><ref>戦局と輸送事情の悪化を受けて、編成の完結に遅れが出たり、派遣予定だった兵力の一部がマレー半島に止め置かれたりした。木村(2001) 64-66,105頁。</ref>。
同じ頃日本軍は、ビルマではインパール作戦により日本軍が攻勢に出るため、英軍はアンダマン・ニコバル諸島を攻略して航空基地を設け、マレー半島に上陸しようとするとの見方を有力視していた<ref>木村(2001) 61,63頁。</ref>。1944年2月、アンダマン・ニコバル諸島への上陸作戦を想定して現地守備隊が独立混成旅団に増強編成されることになり、同年5月に第35-37旅団がそれぞれアンダマン島ポート・ブレア、カーニコバル島、ナンコーリ島に配されて、守備陣地の構築を行うなど迎撃戦の準備を進めた<ref>岩川(1995) 199頁、木村(2001) 61-67,105-107頁、井上ほか(2010) 129頁。</ref><ref group="注釈">戦局と輸送事情の悪化を受けて、編成の完結に遅れが出たり、派遣予定だった兵力の一部がマレー半島に止め置かれたりした。木村(2001) 64-66,105頁。</ref>。


こうして諸島の防御体制は強化されたが、この頃海軍の戦力を太平洋戦域に取られていたインド洋全体の日本軍は、制海・制空権を失う最終段階を迎えつつあった<ref>木村(2001) 66-67頁</ref><ref>1944年3月にカーニコバル島の第二飛行場が完成したが、同年6月にインド方面からイギリス軍機が来襲した際には、迎撃する機体を陸海軍とも失くしていた。木村(2001) 103頁。</ref><ref>1944年6月中旬までに、ペナンの航空兵力は[[マリアナ・パラオ諸島の戦い#パラオ諸島の戦い|パラオ作戦]]支援のためほとんど失われて零戦・艦攻30数機中1機を残すのみとなり、さらにインド洋の潜水艦は太平洋戦線と南シナ海方面に取られていたため、1943年末の11隻から1944年4月に4隻、同年8月中旬には1隻を残すのみとなっていた。木村(2001) 66-67頁。</ref>。
こうして諸島の防御体制は強化されたが、この頃海軍の戦力を太平洋戦域に取られていたインド洋全体の日本軍は、制海・制空権を失う最終段階を迎えつつあった<ref>木村(2001) 66-67頁</ref><ref group="注釈">1944年3月にカーニコバル島の第二飛行場が完成したが、同年6月にインド方面からイギリス軍機が来襲した際には、迎撃する機体を陸海軍とも失くしていた。木村(2001) 103頁。</ref><ref group="注釈">1944年6月中旬までに、ペナンの航空兵力は[[マリアナ・パラオ諸島の戦い#パラオ諸島の戦い|パラオ作戦]]支援のためほとんど失われて零戦・艦攻30数機中1機を残すのみとなり、さらにインド洋の潜水艦は太平洋戦線と南シナ海方面に取られていたため、1943年末の11隻から1944年4月に4隻、同年8月中旬には1隻を残すのみとなっていた。木村(2001) 66-67頁。</ref>。


=== 英軍機動部隊の攻撃 ===
=== 英軍機動部隊の攻撃 ===
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== 飢餓と戦犯事件 ==
== 飢餓と戦犯事件 ==
[[File:The Allied Reoccupation of the Andaman Islands, 1945 SE5213.jpg|thumb|地元住民に歓迎を受けながら再占領の為にポート・ブレアに上陸する、連合国軍の第一陣(1945年)]]
[[File:The Allied Reoccupation of the Andaman Islands, 1945 SE5221.jpg|thumb|アンダマン諸島での降伏文書の調印式に臨む日本軍の代表団。写真左から海軍第12特別根拠地隊・島崎海軍大佐、同隊・[[原鼎三]]司令官、陸軍独立混成第35旅団・[[佐藤為徳]]旅団長、同旅団参謀・田沢中佐。調印式は午前10時からポート・ブレアの[[ジムカーナ]]運動場で行われた。]]
[[File:The Allied Reoccupation of the Andaman Islands, 1945 SE5221.jpg|thumb|アンダマン諸島での降伏文書の調印式に臨む日本軍の代表団。写真左から海軍第12特別根拠地隊・島崎海軍大佐、同隊・[[原鼎三]]司令官、陸軍独立混成第35旅団・[[佐藤為徳]]旅団長、同旅団参謀・田沢中佐。調印式は午前10時からポート・ブレアの[[ジムカーナ]]運動場で行われた。]]
=== 孤立 ===
=== 孤立 ===
1945年5月に日本軍がラングーンを撤退すると、日本軍の内部でも連合軍がアンダマン・ニコバル諸島を攻略せず、直接マレー半島・シンガポールに向かう可能性が高いと考えられるようになった。同月、マレー半島の防衛兵力を増強するため、アンダマン島とナンコーリ島の歩兵約2個大隊半をマレー半島に移送することが計画された<ref>この作戦は、目的を秘すために'''"に"号演習'''と呼ばれた(木村(2001) 72頁)。</ref>。しかし兵員の輸送のため諸島へ派遣された艦隊が2度にわたり英軍艦隊に攻撃され損傷・撃沈された。
1945年5月に日本軍がラングーンを撤退すると、日本軍の内部でも連合軍がアンダマン・ニコバル諸島を攻略せず、直接マレー半島・シンガポールに向かう可能性が高いと考えられるようになった。同月、マレー半島の防衛兵力を増強するため、アンダマン島とナンコーリ島の歩兵約2個大隊半をマレー半島に移送することが計画された<ref group="注釈">この作戦は、目的を秘すために'''"に"号演習'''と呼ばれた(木村(2001) 72頁)。</ref>。しかし兵員の輸送のため諸島へ派遣された艦隊が2度にわたり英軍艦隊に攻撃され損傷・撃沈された。

{{main|オンボード作戦}}
{{main|オンボード作戦}}
{{main|ペナン沖海戦}}
{{main|ペナン沖海戦}}

同年6月14日に作戦は中止された。アンダマン・ニコバル諸島の日本軍は遊軍化し、完全に孤立することとなった<ref>木村(2001) 71-72頁。</ref>。
同年6月14日に作戦は中止された。アンダマン・ニコバル諸島の日本軍は遊軍化し、完全に孤立することとなった<ref>木村(2001) 71-72頁。</ref>。


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== 補遺 ==
== 補遺 ==
=== 熱帯病 ===
=== 熱帯病 ===
アンダマン・ニコバル諸島には密林・湿地が多く、同諸島を占領した日本軍の間ではマラリア蚊を媒介とする[[マラリア]]が流行し、また[[アメーバ赤痢]]も蔓延した<ref>岩川(1976)は、化学肥料がないので人糞を使用した結果、アメーバ赤痢が流行したとしている(岩川(1976) 173頁)。</ref>。マラリアの予防薬として[[キニーネ]]が支給されていたが、アメーバ赤痢による強度の下痢でキニーネが吸収されなくなり死亡する例が多かったとされる。ナンコーリ島ではほぼ全員がマラリアに罹っていたところにアメーバ赤痢が流行して千余人のうち百余人が死亡した。カーニコバル島では兵員の8-9割がマラリヤに罹患していた。またアンダマン島では現地住民が軍票の受け取りを拒むようになったため、かわりにキニーネを貨幣の代わりにしていたとされる<ref>木村(2001) 78-80頁。</ref>。
アンダマン・ニコバル諸島には密林・湿地が多く、同諸島を占領した日本軍の間ではマラリア蚊を媒介とする[[マラリア]]が流行し、また[[アメーバ赤痢]]も蔓延した<ref group="注釈">岩川(1976)は、化学肥料がないので人糞を使用した結果、アメーバ赤痢が流行したとしている(岩川(1976) 173頁)。</ref>。マラリアの予防薬として[[キニーネ]]が支給されていたが、アメーバ赤痢による強度の下痢でキニーネが吸収されなくなり死亡する例が多かったとされる。ナンコーリ島ではほぼ全員がマラリアに罹っていたところにアメーバ赤痢が流行して千余人のうち百余人が死亡した。カーニコバル島では兵員の8-9割がマラリヤに罹患していた。またアンダマン島では現地住民が軍票の受け取りを拒むようになったため、かわりにキニーネを貨幣の代わりにしていたとされる<ref>木村(2001) 78-80頁。</ref>。

==脚注==
=== 「慰安所」の設置 ===
<references/>
[[File:The Allied Reoccupation of the Andaman Islands, 1945 SE5226.jpg|thumb|イギリス兵によって撮影された、慰安婦とされる女性たち]]
アンダマン・ニコバル諸島には「[[慰安所]]」が設置され、性労働をする「[[慰安婦]]」(いわゆる従軍慰安婦)が送られた。アンダマン島には慰安所が軍直営であったことを示す第12特別根拠地隊司令部「海軍慰安所利用内規」が残っているほか、カーニコバル島には陸軍の慰安所がチュチュッチャとパーカの2ヵ所にあり、インドネシア人女性10余名がいたこと、海軍の慰安所がムースにあり、日本人女性約10名がいたことが兵士の回顧録に記されている<ref>木村(2001) 81-84頁。</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.awf.or.jp/4/15407230058017c%5B1%5D.html|title=参議院会議録情報 第154回国会 内閣委員会 第17号|accessdate=2018-08-29|website=www.awf.or.jp}}</ref>。

== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈}}
===出典===
{{Reflist|2}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
<!-- ウィキペディア推奨スタイル、著者五十音順-->
* 井上ほか(2010): [[半藤一利]]・[[秦郁彦]]・[[保坂正康]]・[[井上亮 (ジャーナリスト)|井上亮]]『「BC級裁判」を読む』[[日本経済新聞出版社]]、2010年。 :ISBN 9784532167523
* 井上ほか(2010): [[半藤一利]]・[[秦郁彦]]・[[保坂正康]]・[[井上亮 (ジャーナリスト)|井上亮]]『「BC級裁判」を読む』[[日本経済新聞出版社]]、2010年。 :ISBN 9784532167523
* (2005): [[林博史]]『BC級戦犯裁判[[岩波店]] 2005 (岩波新書) :ISBN 4-00-430952-2
* 岩川(1976): [[岩川隆]]『神を信ぜず_BC級戦犯の墓碑銘立風房、1976年。
* 木村(2001): 木村宏一郎『忘れられた戦争責任 カーニコバル島事件と台湾人軍属』青木書店、2001。
<!-- * 森瀬(1999): 森瀬晃吉「第二次世界大戦とスバス・チャンドラ・ボース」『大垣女子短期大学研究紀要』第40号、1999年、57-70頁。 -->
* 林(1998): [[林博史]]『裁かれた戦争犯罪 イギリスの対日戦犯裁判』[[岩波書店]] 1998年。
* 岩川(1995): [[岩川隆]]『孤島の土となるとも-BC級戦犯裁判』講談社、1995年。
* 岩川(1995): [[岩川隆]]『孤島の土となるとも-BC級戦犯裁判』講談社、1995年。
* 木村(2001): 木村宏一郎『忘れられた戦争責任 カーニコバル島事件と台湾人軍属』青木書店、2001。
*<!-- キマタ1977-->{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|year=1977|month=7|title=日本空母戦史|publisher=図書出版社|ref=木俣空母}}
*<!-- キマタ1989-->{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|year=1989|month=3|title=日本軽巡戦史|publisher=図書出版社|ref=木俣軽巡}}
* 木村(2001): 木村宏一郎『忘れられた戦争責任 カーニコバル島事件と台湾人軍属』青木書店、2001。
* 長崎(1991): 長崎暢子「自由インド仮政府をめぐって:第二次世界大戦におけるインド民族運動と日本」『東洋史研究』第50巻第2号、1991年、231-255頁。
* 長崎(1991): 長崎暢子「自由インド仮政府をめぐって:第二次世界大戦におけるインド民族運動と日本」『東洋史研究』第50巻第2号、1991年、231-255頁。
* 岩川(1976): [[岩川隆]]『神を信ぜず_BC級戦犯の墓碑銘立風房、1976年。
* (1998): [[林博史]]『裁かれた罪 イギリス対日戦犯裁判[[岩波店]] 1998年。
* 林(2005): [[林博史]]『BC級戦犯裁判』[[岩波書店]] 2005 (岩波新書) :ISBN 4-00-430952-2
*<!--ホウエイチョウ26 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 {{small|蘭印・ベンガル湾方面}} 海軍進攻作戦|volume=第26巻|year=1969|month=5|publisher=朝雲新聞社|ref=叢書26}}
*<!--ホウエイチョウ35 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 大本營陸軍部<3> {{small|昭和十七年四月まで}}|volume=第35巻|year=1970|month=6|publisher=朝雲新聞社|ref=叢書35}}
*<!--ホウエイチョウ80 -->{{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<2> {{small|―昭和17年6月まで―}}|volume=第80巻|year=1975|month=2|publisher=朝雲新聞社|ref=叢書80}}
<!-- * 森瀬(1999): 森瀬晃吉「第二次世界大戦とスバス・チャンドラ・ボース」『大垣女子短期大学研究紀要』第40号、1999年、57-70頁。 -->
<!--* 法務省(1963-67): 法務大臣官房司法法制調査部『戦争犯罪裁判関係資料』全3巻、国立公文書館所蔵、1963-1967年。-->
<!--* 法務省(1963-67): 法務大臣官房司法法制調査部『戦争犯罪裁判関係資料』全3巻、国立公文書館所蔵、1963-1967年。-->
*<!--マル1995-1-->{{Cite book|和書|editor=雑誌「丸」編集部|year=1995|month=1|title=写真 太平洋戦争<第二巻> {{small|中部・南部太平洋方面攻略作戦 蘭印攻略作戦/インド洋作戦}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=4-6798-2071-2|ref={{SfnRef|写真太平洋戦争2巻|1995}}}}
* [http://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)]
**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030105200|title=昭和17年2月1日〜昭和17年5月31日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)|ref=S1702三水戦日誌(4)}}
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**{{Cite book|和書|id=Ref.C08030026500|title=昭和16年11月1日〜昭和19年5月28日 第1南遣艦隊戦時日誌戦闘詳報(1)|ref=S1611一南遣日誌(1)}}

== 関連項目 ==
*[[インパール作戦]]
*[[戦争犯罪]]
*[[戦犯]]


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2018年8月30日 (木) 08:08時点における版

第二次世界大戦 > インド洋の戦い (第二次世界大戦) > 日本軍によるアンダマン・ニコバル諸島の占領
アンダマン・ニコバル諸島の位置
上部がアンダマン諸島、下部がニコバル諸島。中央の拡大図はポートブレア周辺

日本軍によるアンダマン・ニコバル諸島の占領(にほんぐんによるアンダマン・ニコバルしょとうのせんりょう)は、1942年(昭和17年)3月下旬の日本軍によるアンダマン諸島の占領に始まり[1]1945年8月に大日本帝国連合軍に無条件降伏し、同年9月にイギリスが両諸島を再占領するまで続いた[2]

日本軍の諸島占領

背景

1942年(昭和17年)1月中旬、日本軍はビルマ攻略作戦を実施しようとしていた[3]1月22日、大陸命第590号)[4][5]。ビルマに投入予定の日本陸軍のうち一部は輸送船で移動することに決定し(あるいは予定変更され)[6]、陸軍・海軍中央協定により連合艦隊(司令長官山本五十六大将)と第一南遣艦隊(司令長官小沢治三郎中将、馬来部隊指揮官)が輸送に協力することになった[5][7]。日本海軍もビルマ作戦支援の観点から、南雲機動部隊(司令長官南雲忠一第一航空艦隊司令長官)をインド洋に投入することを検討した[7][8]

アンダマン諸島の占領は開戦前の計画には正式にとりあげられておらず、日本陸軍の一部に「マレー作戦の側面掩護という意味合いで、アンダマン諸島を攻略すべき」との意見があった[9][10]。また連合艦隊の第二段作戦計画[注釈 1]においてインド洋通商破壊作戦実施の関係上「作戦状況許す限り速かに占領または破壊せんとする地域の一つ」にあげられている程度だった[9][10]。だがビルマ海上輸送を行うにあたり、海上交通保護・護衛の観点から、マラッカ海峡の啓開・北部スマトラ島の攻略・ビルマとスマトラを結ぶ南北の線上にあった英領インド帝国アンダマン・ニコバル諸島の占領が重要視されるに至った[10][8]南アンダマン島南東部のポートブレアには、飛行場港湾施設があった[11]イギリス軍の守備隊は一個中隊ほどで、1942年1月にグルカ大隊と交代していた[11]。なおラングーン陥落後の3月12日、イギリス軍はアンダマン島守備隊の撤退を決定した[11]

2月4日、軍令部は連合艦隊にアンダマン諸島の攻略を内報した[10]2月7日、大本営陸軍部は大陸命第598号[注釈 2]と大陸指第1102号[注釈 3]によりアンダマン諸島方面要域の攻略を命じた[10][12]。 同日、大本営海軍部は大海令第15号[注釈 4]と大海指第52号[注釈 5]により、連合艦隊にアンダマン諸島の攻略を命じた[10][8]

2月19日南方軍(総司令官寺内寿一陸軍大将)は第25軍(司令官山下奉文陸軍中将)と関連部隊に対し、中部・北部スマトラおよびアンダマン諸島の占領を命じる[10][12]。 またビルマ作戦およびアンダマン作戦に関する陸海軍協定(協定第七号、協定八号)が結ばれた[12]。スマトラ作戦は「T作戦」[13]、アンダマン作戦は「D作戦」、ビルマ作戦は「U作戦」(集合点はシンガポールおよびペナン、上陸点はラングーン)と呼称された[12]。 第25軍と第一南遣艦隊の協議により、アンダマン作戦[注釈 6]の上陸作戦は川崎晴実海軍大佐が指揮し[14]、第18師団の歩兵一個大隊[12](林礪三陸軍大尉、歩兵第56聯隊第二大隊)が協力することになった[15][16]

日本す海軍の北部スマトラ・アンダマン・ビルマ攻略部隊は、3月初旬までにシンガポールに集結した[17][18]。 3月8日夕刻[13]、馬来部隊各部隊・各艦[19]近衛師団と海軍基地設営隊が乗船した輸送船団を護衛して、漸次シンガポールを出発した[20][21]。 3月12日、作戦部隊は北部スマトラ島の二ヶ所に上陸して[13]、各地の要所を占領した[12][22]。輸送船団の護衛に従事していた馬来部隊は、アンダマン作戦とビルマ輸送作戦に備えて川内由良香椎などはペナンへ[23]、一部はシンガポールへ移動した[13][21]

D作戦

アンダマン諸島に上陸する日本軍(1942年3月)

馬来部隊がT作戦(北部スマトラ作戦)に続いて実施したのが[24]、D作戦(アンダマン攻略作戦)[25][26]とU作戦(ビルマ輸送作戦)であった[27][28]

3月20日午前8時以降、アンダマン攻略部隊[26](輸送船〈宏川丸、衣笠丸國川丸[29][30]海軍第12特別根拠地隊分遣隊、第9特根拠地隊の一部兵力、陸軍歩兵第56連隊第2大隊、大発動艇4隻、特設監視艇2隻)は[31]、馬来部隊第一護衛隊(指揮官橋本信太郎第三水雷戦隊司令官、旗艦「川内」)指揮下の各部隊・各艦(巡洋艦〈川内、由良[24][32]、第19駆逐隊第1小隊〈浦波磯波[33]、第20駆逐隊〈夕霧天霧朝霧白雲〉、駆潜艇[32])に護衛され[14][34]ペナンから出撃した[35][36]。進撃中、第1掃海隊が合流した[32][37]。 攻略部隊を小沢長官直率の馬来部隊主隊(旗艦〈鳥海〉、第四航空戦隊龍驤〉、第七戦隊熊野鈴谷三隈最上〉、第40航空隊、相良丸山陽丸)が支援した[14]

3月23日0630、アンダマン攻略部隊はポートブレア付近に上陸した[11][25]。アンダマン諸島の英軍の主力部隊は日本軍の作戦より前に撤退していたため、日本軍はほとんど抵抗なく、ポートブレア港周辺を占領した[36][25]。英国人23人、インド兵300名を捕虜とした[24][36]。英軍機小数機が飛来したが、攻略部隊に被害はなかった[26][36]。 港湾の制圧とともに、東港航空隊の九七式飛行艇7機が、ただちにポートブレアへ進出する[24][36]。またイギリス軍が敷設した機雷の処理がおこなわれ[26]、アンダマン攻略は30日までに終了した[17]

4月3日、アンダマン諸島の警備は日本海軍の担当となる[11]。第12特別根拠地隊がアンダマン諸島に駐留し[38]、海軍基地航空隊の拠点として機能した[39]。 4月15日、陸軍(林大隊)はポートブレアを出発し、17日にラングーンに到着した[11]

また同年6月13-14日、日本軍はニコバル諸島を無血占領した[40]

防衛拠点化

日本海軍は、1942年4月初旬に南雲機動部隊によるセイロン島空襲及びイギリス東洋艦隊攻撃を[41][42]並びに馬来部隊によるベンガル湾機動作戦を実施し[43]、イギリス軍に打撃を与えた[44]。イギリス東洋艦隊は東アフリカとマダガスカルに後退した。8月初旬にも巡洋艦と水雷戦隊による通商破壊作戦「B作戦」を実施予定だったが、連合国軍がソロモン諸島ガダルカナル島フロリダ諸島)に来攻してガダルカナル島の戦いがはじまり、水上戦力は南東方面に転用された[45]。南西方面の航空兵力もガダルカナル島奪還作戦に転用するため、半減されることとなった[46]。以後、日本海軍がインド洋で実施した作戦は潜水艦による通商破壊作戦にとどまった[47]

一方、インドの米英空軍はこの頃から基地の拡大や新鋭機の投入によりインド洋における航空兵力を増強しつつあった。インド洋の防備強化を迫られた日本軍は、1942年6月下旬にアンダマン・ニコバル諸島を海軍の直接防衛担当地域とし、同年9月26日に第12特別根拠地隊司令部をビルマのラングーンからポート・ブレアに移した。同年12月12日には陸軍近衛第3連隊第3大隊がポート・ブレアに増派された[48]

兵力増強とカーニコバル島の飛行場建設

1943年5月にニコバル諸島方面の基地調査結果がまとまり、カーニコバル島英語版カモルタ諸島英語版トリンカット島英語版は飛行場建設、カモルタ諸島のナンコーリ(Nancowry)湾は水上機等の適地とされた。同年7月にカーニコバル島、ナンコーリ島英語版に基地建設のための先遣隊が送られた。同じ7月に陸軍は防衛調査の結果として近衛師団からアンダマン・ニコバル諸島への兵力増強を決め、翌8月にアンダマン諸島に約3,200人、カーニコバル島に約1,200人の守備隊を増派した。カーニコバル島には海軍の設営隊約1千人も増派され、突貫工事で、島民も動員して滑走路が建設された。同年9月に第一飛行場第一滑走路が完成し、311空1個中隊(零戦9機)が配された[49]

インド独立連盟とスパイ事件

アンダマン諸島では、1942年4月にインド独立連盟英語版の支部が結成され、6月には島の青年を糾合してインド国民軍が組織された。インド独立連盟は反英独立の啓蒙活動を行い、島民に影響力を及ぼしていた。日本軍はこれらの活動を承認し、公式の集会に日本軍の関係者が出席し、インド国民軍の訓練に加わるなどしていた[50]

1943年1月、英軍のデニス・マッカーシー[注釈 7]は、潜水艦でアンダマン諸島に上陸し、かつての部下であり、日本軍の下で働いていたインド人軍事警官を通じて、島内で情報収集活動を行う一方で、「インド独立連盟の中に英軍のスパイがいる」という偽情報を流した[注釈 8]。マッカーシーが収集した情報によって英軍機が日本軍の軍事施設や艦船を正確に攻撃するようになったこともあり、疑心暗鬼になった日本軍は、1943年1月22日にナラヤン・ラオをはじめ55人のインド独立連盟のメンバーを逮捕し、拷問により1人を殺害、7人を同年3月30日にアバルディン(Aberdeen)村の海岸で銃殺した[51]

1943年10月には、日本軍はスパイ容疑により更に大規模に住民を逮捕し始め、インド独立連盟アンダマン支部の議長デワン・シン博士をはじめ、総勢630人以上を逮捕した。住民の逮捕は翌1944年1月まで続けられた。逮捕された独立連盟の指導者らは、日本軍から拷問を受け、英軍のスパイであることを自白するよう迫られた。デワン・シンは1944年1月13日に獄中で死亡した。同月30日には被疑者44人がポートブレアから十数キロ離れた丘で銃殺され、遺体はホムフレイグンジ(Humferygunj,HomfraygunjないしHomfreyganj)村付近に埋められた[52]

スバス・チャンドラ・ボースの来訪と自由インド仮政府

1943年10月にインド独立連盟によって創設された自由インド仮政府の主席となったスバス・チャンドラ・ボースは、翌11月6日に東京で開催された大東亜会議において日本の東条英機首相から「現在日本軍が占領しているインド領アンダマン・ニコバル諸島を近く自由インド政府に帰属させる用意がある」旨の言明を受け、同年12月29日にアンダマン島を訪れた[53]

ボースは海軍第12特別根拠地隊の石川茂司令官と会談し、仮政府の代表団をアンダマン島に派遣駐在させることと、代表団の次席を海軍民政部の総務課長に就任させることを申し入れた。日本軍側は、前者には合意したが後者は軍事機密を扱うことを理由に反対し、結局民政部に新たに「文教課」を設け、仮政府の人士が文教課長とその他各課の分担勤務に就くことで合意した[54][注釈 9]

翌1944年2月12日、合意に基づいて自由インド仮政府のA.D.ロガナダン英語版軍医少尉以下5名がアンダマン島に来島し、駐在所を開設した[注釈 10]。同年9月8日にロガナダン代表、翌1945年6月末に他の駐在員に帰還命令が出され、1945年8月2日に全員が英軍の攻撃の間隙を縫ってシンガポールへ帰還した[55]

ボースがアンダマン・ニコバル諸島の自由インド仮政府への帰属を求めたのは、統治機構と統治対象となる領土、領民を得ることで、自由インド仮政府に国家としての合法性を持たせるためだったと考えられている[56]。自由インド仮政府によるアンダマン・ニコバル諸島の統治への関与は、日本軍の軍政に関与する形で実現をみたものの、1年余で解消されることとなった。日本の敗戦に至るまで、軍政を廃止し正式に統治を移管するには至らなかった[57]

イギリス軍の反攻

イギリス軍機の来襲

1943年9月8日にイタリアが連合軍に無条件降伏した結果、イタリア軍やドイツ軍の地中海中東北アフリカにおける戦力が削減されたため、余裕ができた連合軍はインド洋での攻勢を強めた。日本軍の輸送船がインドなどから飛来したイギリス軍機に襲撃され、アンダマン・ニコバル諸島にもイギリス軍機が来襲するようになった。同年8月23日、カーニコバル島へ陸軍の守備隊を輸送した貨物船屏東丸は、揚陸作業中にイギリス軍機B24の爆撃を受けて沈没し、船長以下36名が戦死、輸送してきた武器・弾薬等と食糧の大半を失った(屏東丸事件)。同年9月22日、30日にはカーニコバル島、10月1日には南アンダマン島ポート・ブレアとスマトラ島サバンにイギリス軍機が来襲した[58]

上陸作戦

イギリス軍は、1943年の後半にアンダマン・ニコバル諸島への上陸・占領作戦(バッカニア(Buccaneer)作戦)を検討していたが、同年末のカイロ会談テヘラン会談によりソ連の対日参戦が決まって対中支援の意義が薄れ、ノルマンディー上陸作戦に舟艇を集中させることになったため、1944年1月にインド洋での上陸作戦中止を決定した[59]

しかし1944年3月に、日本軍とインド国民軍によるインパール作戦が始まると、英軍はビルマから陸路マレーへ進撃する作戦を有力視するようになった。他方で英軍は機動部隊による北スマトラへの攻撃を検討し、アンダマン・ニコバル諸島に対しては飛行機などの消耗を強いるための陽動作戦として機動部隊による攻撃が行われることになった[60]

同じ頃日本軍は、ビルマではインパール作戦により日本軍が攻勢に出るため、英軍はアンダマン・ニコバル諸島を攻略して航空基地を設け、マレー半島に上陸しようとするとの見方を有力視していた[61]。1944年2月、アンダマン・ニコバル諸島への上陸作戦を想定して現地守備隊が独立混成旅団に増強編成されることになり、同年5月に第35-37旅団がそれぞれアンダマン島ポート・ブレア、カーニコバル島、ナンコーリ島に配されて、守備陣地の構築を行うなど迎撃戦の準備を進めた[62][注釈 11]

こうして諸島の防御体制は強化されたが、この頃海軍の戦力を太平洋戦域に取られていたインド洋全体の日本軍は、制海・制空権を失う最終段階を迎えつつあった[63][注釈 12][注釈 13]

英軍機動部隊の攻撃

1944年4月16日にツリンコマリを出撃した連合軍は、スマトラ島北端のサバンを攻撃し、以後英国東洋艦隊はインド洋で機動部隊による日本軍への攻撃を強めた[64]。アンダマン島には1944年6月21日に大規模な空襲があり、英潜水艦が補給を遮断し、またポート・ブレアを砲撃した[65]

アンダマン諸島では、英軍の輸送船襲撃により同年9月を最後に大型船による輸送が途絶し、同年11月のスマトラからの給糧船を最後に食糧の輸送が途絶えた。カーニコバル島は1944年10月に初めてイギリス機動部隊による本格的な攻撃(第一次攻撃)を受け、以後はアンダマン島との連絡が途絶えがちになった。翌1945年4月30日から5月4日にかけて再びイギリス機動部隊の大規模な攻撃(第二次攻撃)があり、イギリス軍の上陸作戦に備えてゲリラ戦の準備が進められた[66]

飢餓と戦犯事件

地元住民に歓迎を受けながら再占領の為にポート・ブレアに上陸する、連合国軍の第一陣(1945年)
アンダマン諸島での降伏文書の調印式に臨む日本軍の代表団。写真左から海軍第12特別根拠地隊・島崎海軍大佐、同隊・原鼎三司令官、陸軍独立混成第35旅団・佐藤為徳旅団長、同旅団参謀・田沢中佐。調印式は午前10時からポート・ブレアのジムカーナ運動場で行われた。

孤立

1945年5月に日本軍がラングーンを撤退すると、日本軍の内部でも連合軍がアンダマン・ニコバル諸島を攻略せず、直接マレー半島・シンガポールに向かう可能性が高いと考えられるようになった。同月、マレー半島の防衛兵力を増強するため、アンダマン島とナンコーリ島の歩兵約2個大隊半をマレー半島に移送することが計画された[注釈 14]。しかし兵員の輸送のため諸島へ派遣された艦隊が2度にわたり英軍艦隊に攻撃され損傷・撃沈された。

同年6月14日に作戦は中止された。アンダマン・ニコバル諸島の日本軍は遊軍化し、完全に孤立することとなった[67]

食糧難

アンダマン諸島

アンダマン諸島では、1944年1月には既に、食糧の支給は所要量の60%しかなされず、所要量の40%は島外からの補給によるもので自給量は20-25%程度しかない状況だった。このため兵員による自給が促され、日課の中に農耕の時間が設けられていた。その後、1944年5月に独立混成旅団の兵員の増強があり、1944年11月には島外からの補給船が途絶えたため、食料事情はより深刻になった[68]

1945年に入ると兵士への主食の支給量は通常の1/3の量に減らされ、漁撈・農耕に兵力を動員して魚・野菜の採取増をはかったり、野生の鳥獣を捕えて食べたりするようになった。現地住民への主食配給の制限も厳格化されたため、島民に餓死者・栄養失調の者が増加した。軍用米が尽きてきたため、日本軍は、軍で使役していた現地住民約6千人を解雇して自給をはかるよう命じた[69]

1945年7月末に海軍民政部は島民に対して「8月以降米の配給を停止する」との声明を出し、混乱を阻止するため、「食糧庫を荒らす者、軍民を問わず農場に侵入する者は射殺してよい」と公示したが、実際に食糧を盗もうとして殺される者が相次いだ。このような状況下で、住民の離反も進み、中には禁を犯して島外への脱出を試みる者も出るようになった[70]

ニコバル諸島

カーニコバル島では、1944年末に糧秣の重点補給作戦が決行されて成功していたため、アンダマン諸島に比べて軍糧に余裕があったが、1945年1月にカーニコバル島での決戦を想定してアンダマン諸島から兵員が増強されたこともあり、1945年4月頃には食糧不足が深刻化した。食糧の支給量が極端に減らされ、主食の米飯のかわりにサツマイモが支給され、島内の蛇やトカゲまで捕えて食べるようになった。日本軍は終戦まで食いつなぐことができたが、島民は主食としていた椰子の林が飛行場などの開発のために伐採されていたため、食糧事情はより深刻だった。1945年4月頃から、住民による軍糧米の盗難事件が多発するようになった。 [71]

ナンコーリ島でも英連合軍による空爆の激化により食糧難をきたし、日本軍は食糧の支給量の引下げを行っていた。同島では原住民が主食としていた椰子やバナナの採取を禁じるなどしていたため、他島に比して島民に犠牲を強いることは少なかったとされる[72]

戦犯事件

日本軍がその統治時代にアンダマン・ニコバル諸島で起こした戦犯諸事件は30有余件、被告人数は延べ100余人にのぼる[73]。同諸島での戦争犯罪は発生時期が1944年-1945年の戦争末期に集中しており、終戦で諸島にやってきたイギリス軍が島に残っていた日本軍の戦犯容疑者をまとめて逮捕できたことから起訴件数が多くなったとされる[74]

アンダマン諸島

1945年7月23日夜、上陸用の舟艇を盗んで島外へ逃亡しようとしたビルマ人の現地住民34人(女性や子供を含む)が日本軍に発見・逮捕され、独立混成第35旅団司令部(旅団長・佐藤為徳少将)の命令により、同月25日にポート・ブレアから所要4,5時間の無人島・タマグリ島に連行され全員が射殺された(第一タマグリ島事件)[75]。また1945年8月初旬には、中アンダマン島で、海軍の舟艇と食糧を盗みラングーンへ逃亡しようとしたビルマ人9人が日本軍に逮捕され、海軍第12特別根拠地隊司令部(司令官・原鼎三中将)の命令により、全員がスチュワードサウンド(Stewart Sound)という場所へ連行され、殺害された(スチュワードサウンド事件)[76]

1945年8月初旬、海軍第12特別根拠地隊司令部は、南アンダマン島の約400人の住民を強制的に耕地のない無人島・ヘブロック島へ移住させた。終戦後の1945年9月21日にこの措置が戦争犯罪として問題視されることをおそれて救助に行ったところ、住民の餓死体が折り重なっているのを発見し、救助された生存者は11名のみだった(ヘブロック島事件)[77]

ニコバル諸島

1945年7月、カーニコバル島が3回目の英軍機動部隊による攻撃を受けた際に、日本軍は、英軍が上陸してきた場合に住民が英軍に通じることを警戒して現地住民の指導者ら約200人を島の中央部に軟禁した。ちょうどそのとき軍需米を盗もうとした現地住民をスパイ容疑で拷問して「日本軍が軟禁している島の指導者らに指示されてスパイ行為を行った」旨を自白させ、自白に基づいて同年7月から8月にかけて80余人の現地住民を逮捕・拷問し、拷問により4人を死亡させた上、スパイ容疑者として81人を処刑した(カーニコバル島事件)[78]

ナンコーリ島では食糧の面で現地住民に犠牲を強いることが少なかったため、戦後に戦争犯罪として問題になった事件はアンダマン島に比べてかなり少なく、3件に止まった[79]

補遺

熱帯病

アンダマン・ニコバル諸島には密林・湿地が多く、同諸島を占領した日本軍の間ではマラリア蚊を媒介とするマラリアが流行し、またアメーバ赤痢も蔓延した[注釈 15]。マラリアの予防薬としてキニーネが支給されていたが、アメーバ赤痢による強度の下痢でキニーネが吸収されなくなり死亡する例が多かったとされる。ナンコーリ島ではほぼ全員がマラリアに罹っていたところにアメーバ赤痢が流行して千余人のうち百余人が死亡した。カーニコバル島では兵員の8-9割がマラリヤに罹患していた。またアンダマン島では現地住民が軍票の受け取りを拒むようになったため、かわりにキニーネを貨幣の代わりにしていたとされる[80]

「慰安所」の設置

イギリス兵によって撮影された、慰安婦とされる女性たち

アンダマン・ニコバル諸島には「慰安所」が設置され、性労働をする「慰安婦」(いわゆる従軍慰安婦)が送られた。アンダマン島には慰安所が軍直営であったことを示す第12特別根拠地隊司令部「海軍慰安所利用内規」が残っているほか、カーニコバル島には陸軍の慰安所がチュチュッチャとパーカの2ヵ所にあり、インドネシア人女性10余名がいたこと、海軍の慰安所がムースにあり、日本人女性約10名がいたことが兵士の回顧録に記されている[81][82]

脚注

注釈

  1. ^ 機密聯合艦隊命令作第一号(昭和16年11月5日)
  2. ^ 『大陸命第五百九十八号 命令 一 南方軍総司令官ハ海軍ト協同シ適時「アンダマン」群島方面ノ要地ヲ攻略スベシ/二 細項ニ関シテハ参謀総長ヲシテ指示セシム 昭和十七年二月七日』
  3. ^ 『大陸指第千百二号 指示 大陸命第五百九十八号ニ基キ左ノ如ク指示ス 「アンダマン」方面ニ対スル作戦要領ハ南方軍総司令官、聯合艦隊司令長官間ニ協議決定スルモノトス 昭和十七年二月七日』
  4. ^ 『大海令第十五号 一 聯合艦隊司令長官ハ南方軍ト協力シ「アンダマン」群島方面ノ要地ヲ攻略スベシ(以下略)』
  5. ^ 『大海指第五十二号 大海令第十五号ニ依ル作戦実施ニ関シテハ 聯合艦隊司令長官南方軍総司令官ノ協定スル所ニ依ル』
  6. ^ 『「アンダマン」付近ノ要地ヲ占領シテ速カニ海軍基地及飛行場ヲ確保スルニ在リ』(第25軍と第一南遣艦隊間の陸海軍協定覚書より)
  7. ^ 日本軍が占領する以前のアンダマン島の軍事警察司令官で、英軍の特別作戦部隊・136部隊英語版の指揮下でバクシュ・シンらとともにアンダマン島のスパイ活動に携わった(木村(2001) 90,134-135頁)。
  8. ^ この英軍によるスパイ活動は、ボールドヘッド作戦と呼ばれた。作戦は5回にわたって行われ、マッカーシーらは少なくとも1943年1月、同年12月、1944年1月、同年3月に潜水艦で中アンダマン島に上陸していた(木村(2001) 134-135,291頁)。
  9. ^ ボースはアンダマン島来訪時、前述のスパイ容疑でインド独立同盟のアンダマン支部のメンバーが収監されていたアンダマン刑務所を見学に訪れたが、来島中に特にそのことに言及したりすることはなかった。木村(2001) 89-92頁。
  10. ^ 前述のスパイ事件の被疑者44人は、ロガナダンらがアンダマン島に来島する2週間前に殺害された(木村(2001) 92頁)。
  11. ^ 戦局と輸送事情の悪化を受けて、編成の完結に遅れが出たり、派遣予定だった兵力の一部がマレー半島に止め置かれたりした。木村(2001) 64-66,105頁。
  12. ^ 1944年3月にカーニコバル島の第二飛行場が完成したが、同年6月にインド方面からイギリス軍機が来襲した際には、迎撃する機体を陸海軍とも失くしていた。木村(2001) 103頁。
  13. ^ 1944年6月中旬までに、ペナンの航空兵力はパラオ作戦支援のためほとんど失われて零戦・艦攻30数機中1機を残すのみとなり、さらにインド洋の潜水艦は太平洋戦線と南シナ海方面に取られていたため、1943年末の11隻から1944年4月に4隻、同年8月中旬には1隻を残すのみとなっていた。木村(2001) 66-67頁。
  14. ^ この作戦は、目的を秘すために"に"号演習と呼ばれた(木村(2001) 72頁)。
  15. ^ 岩川(1976)は、化学肥料がないので人糞を使用した結果、アメーバ赤痢が流行したとしている(岩川(1976) 173頁)。

出典

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参考文献

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  • 林(2005): 林博史『BC級戦犯裁判』岩波書店 2005年 (岩波新書)。 :ISBN 4-00-430952-2
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 蘭印・ベンガル湾方面 海軍進攻作戦』 第26巻、朝雲新聞社、1969年5月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營陸軍部<3> 昭和十七年四月まで』 第35巻、朝雲新聞社、1970年6月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<2> ―昭和17年6月まで―』 第80巻、朝雲新聞社、1975年2月。 
  • 雑誌「丸」編集部 編『写真 太平洋戦争<第二巻> 中部・南部太平洋方面攻略作戦 蘭印攻略作戦/インド洋作戦』光人社〈光人社NF文庫〉、1995年1月。ISBN 4-6798-2071-2{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 
  • アジア歴史資料センター(公式)
    • 『昭和17年2月1日〜昭和17年5月31日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030105200。 
    • 『昭和17年2月1日〜昭和17年5月31日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。Ref.C08030105300。 
    • 『昭和17年2月1日〜昭和17年5月31日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)』。Ref.C08030105400。 
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関連項目