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「フォッケウルフ Fw190」の版間の差分

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一応詳細は後述、と。・・・・・・なんかスパゲッティな記事になってしまってすいません・・・。1年後には安定していたらいいな・・・。
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{{ Infobox 航空機
{{ Infobox 航空機
| 名称=フォッケウルフ Fw 190
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'''フォッケウルフ Fw190'''は、[[第二次世界大戦]]時の[[ドイツ空軍]]の[[戦闘機]]。[[メッサーシュミットBf109]]とともに主力を担った。愛称は「ヴュルガー」([[モズ|百舌]])。設計は[[クルト・タンク]]。強力な[[空冷エンジン]]を搭載し優れた飛行性能を見せたほか、頑丈で余裕の有る機体は[[戦闘爆撃機]]型や対[[爆撃機]]型、高速[[偵察機]]型など様々な派生型を産み、さながら「[[軍馬]]」のごとくよく過酷な戦場に耐え、大戦を戦い抜いた。1944年にはエンジンを液冷の[[ユンカース ユモ 213|Jumo213 A]]に換装したFw190-D9型が登場。大戦末期に開発された更なる改良型は設計者・タンクの名称を取って[[フォッケウルフ Ta152|Ta 152]]と命名された<ref group = *>フォッケウルフ社に在籍のまま、自分が開発した飛行機に、姓の略号であるTaを付けることができた。詳細は後述。</ref>。シリーズの総生産数は20,000機以上。
'''フォッケウルフ Fw190'''は、[[第二次世界大戦]]時の[[ドイツ空軍]]の[[戦闘機]]。[[メッサーシュミットBf109]]とともに主力を担った。


== 概要 ==
== 概要 ==
[[ナチス・ドイツ]]政権の大軍拡政策によって、ドイツ空軍は戦闘機の近代化を強力に推し進めた。ところが、主力戦闘機[[メッサーシュミットBf109]]は高性能ではあったものの、操縦が難しったため着陸事故が急増していた。また搭載エンジンである[[DB601]]は生産性に難があり供給数量に限界があった。その事故率の高さと生産性の問題に不安を感じたドイツ空軍上層部は、[[1938年]]って、[[フォッケウルフ]](フォッケ・ヴルフ)社に対し、バックアップ戦闘機の開発を依頼した。フォッケウルフ社ではこれを受けて、[[クルト・タンク]]技師を中心わずか12のチームで開発を進め、[[1939年]][[6月1日]]に初飛行に成功した。
[[ナチス・ドイツ]]政権の大軍拡政策によって、ドイツ空軍は戦闘機の近代化を強力に推し進めた。ところが、主力戦闘機[[メッサーシュミット Bf109]]は高性能ではあったものの、操縦が難しくまた主脚のスパンが短く構造も脆弱であったため着陸事故が多かっ{{sfn|長谷川|2007|p=53}}。また搭載エンジンである[[DB 601]]は生産性に難があり供給数量に限界があった。
その事故率の高さと生産性の問題に不安を感じたドイツ空軍上層部は、[[1938年]]{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=4}}{{sfn|野原|2006|p=66}}<ref>長谷川 (2007) 、ボーマン (2008)ど、[[1937年]]とする文献もある。</ref>、[[フォッケウルフ]](フォッケ・ヴルフ)社に対し、補助戦闘機の開発を依頼した。フォッケウルフ社ではこれを受けて、[[クルト・タンク]]技師およびブラーザー主任技師を中心としたわずか12のチームで開発を進め{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=6}}{{sfn|ボーマン|year=2008|p=16}}、[[1939年]][[6月1日]]に初飛行に成功した。


タンク技師は、[[第一次世界大戦]]に[[騎兵]]として出征、大学では第一志望の[[航空力学]]の講義が禁止されたため[[電気工学]]を専攻、在学中はグライダー研究会で[[グライダー]]の設計、製作、飛行までを行い、その後さらに、飛行機の操縦ライセンスまで取得するという異色の経歴を持っていた。
タンク技師は、[[第一次世界大戦]]に[[騎兵]]として出征、大学では第一志望の[[航空力学]]の講義が禁止されたため[[電気工学]]を専攻、在学中はグライダー研究会で[[グライダー]]の設計、製作、飛行までを行い、その後さらに、飛行機の操縦ライセンスまで取得するという異色の経歴を持っていた。


タンク技師はFw190開発に当たって、メッサーシュミットBf109のような「速いだけが取り柄のひ弱な[[サラブレッド]]」ではなく「[[軍馬|騎兵の馬]](ディーンストプフェーアト"Dienstpferd")」をコンセプトとして開発を進めた。完成したFw190は、空戦性能のみならず、パイロットには操縦しやすく、最前線でも容易に修理が可能、さらに[[大量生産]]しやすい構造という、まさに理想的な兵器であった。
タンク技師はFw190開発に当たって、メッサーシュミットBf109のような「速いだけが取り柄のひ弱な[[サラブレッド]]」ではなく、過酷な戦場での使用に耐える「[[軍馬|騎兵の馬]](ディーンストプフェーアト"Dienstpferd")」をコンセプトとして開発を進めた{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=4}}。完成したFw190は、強力な武装・良好な空戦性能を持ち操縦しやすく、最前線でも容易に修理が可能、さらに[[大量生産]]しやすい構造という、まさに理想的な兵器であった。


当時、戦闘機は前映投影面積が小さくその分空気抵抗が少ないため[[液冷エンジン]]が有利とされていたが{{sfn|長谷川|2007|p=54}}、Fw190は、当時使用可能だった唯一の1500馬力級空冷[[星形エンジン]]BMW 139(離昇出力1550馬力)を使って開発された。これはBf109その他の機体に採用されて生産が手一杯だったDB601系エンジン(離昇出力1075馬力)とは別のエンジンを使用する様に、空軍当局が指示したともされるが{{sfn|長谷川|2007|pp=53-54}}、エンジンの指定その他の要求はほとんど無かったともされ{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=19}}、タンク自身は後に、その馬力の大きさと被弾への強さから敢えて空冷エンジンを選んだとしている{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|pp=5-6, 19}}{{sfn|野原|2006|p=67}}。
フォッケウルフFw190は、当時使用可能だった唯一の1500馬力級空冷[[星形エンジン]]BMW 139を使って開発された。上述の通り、Bf109その他の機体に採用されて生産が手一杯だったDB601系エンジンとは別のエンジンを使用する様に、空軍当局が指示したからである。[[水冷エンジン|液冷]]王国ドイツにおける唯一の空冷エンジン単座戦闘機であり、量産型はのちに[[BMW]]社が開発に成功した、より高出力の[[BMW 801]]シリーズに換装された。Bf109がヨーロッパ最強を誇っていた緒戦ではあまり注目を浴びなかったが、[[スーパーマリン スピットファイア|スピットファイア Mk.V]]等、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の新型戦闘機に対抗する高性能機として[[1941年]]から実戦配備が始まった。しかしながら、空軍では能力不足を露呈しつつあったにも拘らずメッサーシュミットのBf109を主力として配備する方針であったため、Fw190は補助戦闘機という低い地位しか与えられなかった。それでも、最初の配備型Fw190Aは[[イギリス|英国]]のスピットファイア Mk.Vを実戦で圧倒し、強力な新型戦闘機の登場という混乱を連合国に与えた。本機の活躍により[[ドーバー海峡]]上の制空権はドイツ空軍の手中に収められ、この状況は半年後のイギリス空軍のスピットファイアMk.IXの出現まで継続した。A型は高度6000m以上でBMW 801の出力が落ち、高高度性能が不足していたが<!-- の不良からBf109に完全に替わることはできなかったが -->中低高度では高性能を遺憾なく発揮し、その後も改良が続けられBf109と共にドイツ空軍を支えた。


これによりFw190は[[水冷エンジン|液冷]]王国ドイツにおける唯一の空冷エンジン単座戦闘機となったのであるが、エンジンの出力が高いほかタンクの先進的な設計もあり、試作段階より既にBf109Eを凌駕する速度を発揮していた{{sfn|長谷川|2007|p=56}}。量産型ではのちに[[BMW]]社が開発に成功した、より高出力の[[BMW 801]]シリーズに換装された。なお開発時および実戦配備初期には空冷エンジンの冷却不良・過熱や、エンジンの自動制御装置の不良などが問題視されていた{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|pp=7-8, 22-29, 36, 53}}。
Fw190は低高度での高性能に加えて、広く安定した車輪間隔や余裕ある設計や頑丈な機体という特長があったため、これを生かして戦闘機としてのA型のほかに[[戦闘爆撃機]]型のF、G型など多様な種類が作られた。爆撃任務を行うF・G型にはBf109の護衛がつく事があったが、 たとえ爆撃機型であってもFw190のほうが空戦性能に優れていたため、護衛する側にとっては馬鹿らしい任務だったそうである<ref>ドイツ第三帝国軍用機ガイド([[青木茂]]著 [[新紀元社]])224頁 </ref>。


Bf109がヨーロッパ最強を誇っていた緒戦ではあまり注目を浴びなかったが、[[スーパーマリン スピットファイア|スピットファイア Mk.V]]等、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]の新型戦闘機に対抗する高性能機として[[1941年]]から実戦配備が始まった。
また、大戦後半には本機の特徴であった空冷エンジンが性能的に限界となってきたため、また高高度性能を改善するため液冷エンジンに付け替えたふたつの改良型が設計された。その内A-7型から改修されたD-7型は、[[ユンカース]]社が開発した新しい液冷エンジンV12気筒[[ユンカース ユモ 213|ユモ 213]] ([[:en:Junkers Jumo 213]]) を搭載し、その改良型のD-9型が量産された。しかし、D-9型が配備され始めた[[1944年]]晩夏の頃にはすでにドイツ軍全体が燃料欠乏に悩まされており、さらにベテランの喪失によるパイロット全体の質の低下、さらに数的劣勢が加わってドイツ空軍にはD-9型を有効に駆使する能力は残っていなかった。D-9型は約700機が生産された。もうひとつはタンク技師の本命であり最終開発タイプとなった[[フォッケウルフ Ta152|Ta 152]](1944年から機体名は設計者名に変更された)であったが、こちらは60機強の生産に過ぎず本格的な配備には到らなかった。Fw190シリーズは、最終的には20000機あまり(修理再生も含む)が生産された。


しかしながら、空軍では能力不足を露呈しつつあったにも拘らずメッサーシュミットのBf109を主力として配備する方針であったため、Fw190は補助戦闘機という低い地位しか与えられなかった。それでも、最初の配備型Fw190Aは[[イギリス|英国]]のスピットファイア Mk.Vを実戦で圧倒し、強力な新型戦闘機の登場という混乱を連合国に与えた。本機の活躍により[[ドーバー海峡]]上の制空権はドイツ空軍の手中に収められ{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|pp=53-54}}、この状況は半年後のイギリス空軍のスピットファイアMk.IXの出現まで継続した。A型は高度6000m以上でBMW 801の出力が落ち、高高度性能が不足していたが中低高度では高性能を遺憾なく発揮し、その後も改良が続けられBf109と共にドイツ空軍を支えた。
[[枢軸国]]各国及び一部の[[中立国]]や連合国でも多く使用されたBf109と違い、Fw190は主としてドイツ空軍で運用された。例外は[[ハンガリー]]空軍と[[トルコ]]空軍で、枢軸国であった前者にはF型の部隊配備がなされ、[[中立国]]であった後者には枢軸国側への引き込みを目的に、[[ハインケル He111|He 111 F]]などと共にA型が提供された。また、[[日本]]は参考のためにA-5型をドイツより有償供与され、[[1943年]]に海軍の[[潜水艦]]で[[遣独潜水艦作戦|輸送]]された。この機は[[陸軍航空総監部]]で、技術的な分析ののち飛行テストがなされた。<!--[[キ-44]][[鍾馗]]から[[キ-100]][[五式戦闘機]]に至る一連-->その結果はメーカーの技術者も参照でき、[[五式戦闘機]]のエンジン排気の空力処理などの参考にされた。<!--「五式戦闘機の誕生」に多大な影響を与えた。との記述は三式戦のエンジン換装型が五式戦なので飛燕の記述が不可欠ですし[[二式戦]][[鍾馗]]の重戦思想はフォッケウルフの影響ですので加筆しました。以上参考はドイツ版ウィキペディア当該ページ他より。papamaruchan22付記//二式単戦は一式戦の軽戦思想への技術的反発であり、そのもとはソ連戦闘機や爆撃機への邀撃機としての速度不足への懸念が根底です。そして1式と2式との混合型が4式であるようです。飛燕の設計者はBF109とはエンジン以外は全くの別物と強く主張してますし、5式も排気管の集合は参考にしたとはいっていますが、そもそも別物です。これは昔から言われていることです。-->また、日本陸軍が本機に行った有名なテストとして、鹵獲した[[P-51 (航空機)|P-51C]]、[[P-40 (航空機)|P-40E]]、及び[[四式戦闘機|疾風]]、[[三式戦闘機|飛燕]]との全力飛行テストが知られている。高度5000mで行われたこの競走では、加速に優れる本機はスタートで他機種を引き離すが3分後にはP-51Cに追い抜かれ、5分後にストップをかけた時点ではP-51Cの遥か彼方に、次いで本機と疾風が大体同じ位置に、少し後れて飛燕、さらに後方にP-40Eという結果であった。


Fw190は低高度での高性能に加えて、広く安定した車輪間隔や余裕ある設計や頑丈な機体という特長があったため、これを生かして戦闘機としてのA型のほかに[[戦闘爆撃機]]型のF型、長距離戦闘爆撃機型のG型など多様な種類が作られた。爆撃任務を行うF・G型にはBf109の護衛がつく事があったが、 爆弾さえ投棄すればFw190のほうが空戦性能に優れていたため、護衛する側にとっては馬鹿らしい任務だったと言ったエピソードが紹介された文献もある{{sfn|青木|1995|p=224}}
第2次大戦後、Fw190の性能を調査したアメリカ軍は、「第2次世界大戦におけるドイツ最良の戦闘機」という評価を与えている。

Fw190は高々度より進入する連合軍の重爆撃機やそれを護衛する戦闘機との戦いに要する高々度性能が不足しており、またBWM 801エンジンでは高々度性能の向上が難しかったため、これを液冷エンジン[[Jumo 213]]に換装した改良型、Fw190 D-9型が設計され、配備された(詳しくは後述)。だがD-9型が配備され始めた[[1944年]]晩夏の頃にはすでにドイツ軍全体が燃料欠乏に悩まされており{{sfn|野原|2006|81}}
{{refnest|group = *|[[石油]]をほとんど産出しないドイツは豊富な[[石炭]]を原料にした[[人造石油]]の開発・生産が盛んで、一般用途の57%以上、航空機燃料については92%に用いられていた(1944年初頭時点)。連合国は人造石油プラントを爆撃目標とし、人造石油は1943年には日産124000[[バレル]]であったものが、1944年9月には5000バレルに低下。中でも特に航空燃料の不足は深刻であった{{sfn|野木|2007|pp=160-161}}}}、さらにベテランの喪失によるパイロット全体の質の低下、さらに数的劣勢が加わってドイツ空軍にはD-9型を有効に駆使する能力は残っていなかった。D-9型は約700機が生産された。もうひとつはタンク技師の本命であり最終開発タイプとなった[[フォッケウルフ Ta152|Ta 152]](機体に個人のイニシャルを冠する栄誉を得た<!--<ref group = *>ちなみに[[ゴータ車両製造]]の[[アルベルト・カルケルト]]に続き、二人目である。</ref>-->{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=454}})であったが、こちらは60機強の生産に過ぎず本格的な配備には到らなかった。Fw190シリーズは、最終的には20000機あまり(修理再生も含む)が生産された。

[[枢軸国]]各国及び一部の[[中立国]]や連合国でも多く使用されたBf109と違い、Fw190は主としてドイツ空軍で運用された。例外は[[ハンガリー]]空軍と[[トルコ]]空軍で、枢軸国であった前者にはF型の部隊配備がなされ、[[中立国]]であった後者には枢軸国側への引き込みを目的に、[[ハインケル He111|He 111 F]]などと共にA型が提供された{{要出典|date=2012-11}}。また、[[日本]]は参考のためにA-5型をドイツより有償供与され、[[1943年]]に海軍の[[潜水艦]]で[[遣独潜水艦作戦|輸送]]された。この機は[[陸軍航空総監部]]で、技術的な分析ののち飛行テストがなされた。その結果はメーカーの技術者も参照でき、[[五式戦闘機]]のエンジン排気の空力処理などの参考にされた{{sfn|渡辺|2006|pp=343-344}}{{sfn|古峰|2007|p=154}}。その他の飛行テストなどについては[[#エピソード]]で詳述する。

第2次大戦後、Fw190の性能を調査したアメリカ軍は、「第2次世界大戦におけるドイツ最良の戦闘機」という評価を与えている{{要出典|date=2012-11}}。


== メカニズム ==
== メカニズム ==
フォッケウルフFw190の技術的長として、以下の点があげられる。
フォッケウルフ Fw190の特徴を以下に述べる。
[[Image:FockeWulf_Fw190.jpg|300px|thumb|Fw 190 A]]
[[file:FockeWulf_Fw190.jpg|300px|thumb|Fw190 A]]
[[File:FW190 A3 3Seiten.jpg|300px|thumb|Fw190 A-3]]


; 飛行特性
; 飛行特性
: Fw190は、空冷式であったものの当時ドイツで最大パワーを誇っていたBMW 801エンジンを搭載していた。これは二重[[星型エンジン|星型]]14気筒で<ref group = *>開発初期にはBMW139(1550馬力)が用いられていた。BMW 801エンジンはこれの発展型である。</ref>、A-2型まで搭載されていたBMW 801C型で離昇出力1600馬力、A-3型以降のBMW 801D-2型で1700馬力であり、Bf109 E型の[[DB 601]]A(離昇出力1100馬力)やBf109 F型のDB 601E(1350馬力)と比較して明らかに強力である。空冷星形エンジンは液冷エンジンに比べ前方投影面積が広い点が不利であるが、カウル内に空気抵抗の大きい突起物を全て納めるなどの設計で、十分な性能を確保した{{sfn|野原|塩飽|1993|p=51}}。水平面での旋回半径こそ大きいものの{{sfn|ウィール|2001|p=10}}、軽快で扱いやすく操縦は容易、[[補助翼]]の効きは非常に優れており{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=181}}、連合軍の一線級戦闘機と渡り合うことができ{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=181}}{{sfn|野原|2006|p=70}}、初期にはこれを圧倒したほどである。特に上昇力を生かした降下&ズーム上昇での[[一撃離脱戦法]]に適性を示した{{sfn|ウィール|2001|p=11}}。
: Fw190では、空冷式であったものの当時ドイツで最大パワーを誇っていたBMW801(二重[[星型エンジン|星型]]14気筒・1600馬力)を搭載していた。[[翼面荷重]]に頼った水平面での[[ドッグファイト|空中戦]]ではなく、馬力荷重を使った垂直面での空中戦が重視されたためである。これによって、急上昇と急降下を繰り返すズーム&ダイブ戦法を取った場合には、[[スーパーマリン スピットファイア|スピットファイアMk.V]]の追随を許さなかった。
: ただしBMW 801は、高度6000-7000mを超えると出力が急激に低下する{{sfn|野原|塩飽|1993|p=79}}{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=399}}。このため1942年以降、特に高空において2段2速[[過給機|過給器]]や[[ターボチャージャー]]を装備した連合軍の新型戦闘機に苦戦することとなり、液冷エンジンに換装するなどして性能の改善がはかられた(後述)。
: Fw190ではロールレイト能力が追求されていた。これは、戦闘機の操縦性で一番大切なのは[[ローリング|ロール]]レイト(横転性能)であるというパイロットの視点に基づくものであった。
: またFw190には、脚や[[高揚力装置|フラップ]]を降ろさない状態で速度が175km/h程度に低下した時に振動などの前触れ無く突如失速状態に陥り、左翼が下がり自転から錐揉みに至ると言う弱点があり、[[ドッグファイト|格闘戦]]が不向きな要因の一つであった。これは急激なロールの切り返しで、より高速度でも意図的に発生させることもでき、敵機に追尾されている状態からの離脱に用いることができたと言う{{sfn|ウィール|2001|pp=11, 42}}。ウィール (2001)によればこれはA-3型での話であるが、後の型で改良されているのかについては定かではない。
; 操縦への配慮
:Fw190ではダイレクトな操縦感覚を求めて伸び縮みしないロッドを使い、速度差による違和感については、[[リンク機構]]を工夫することで解消していた(高速時に舵面にかかる風圧が大きくなると、それに応じてリンク機構の支点位置も移動するので、操縦桿と舵面の動きが非直線となり、違和感が解消できる)。また、燃料タンクや機関砲など、使用することによって重量が変化するものは重心付近に集中して設置し、トリム調整も最小限に済むようにされていた。
: Fw190は、やや前のめりの感じで飛行するため、飛行機の外形上の印象より空中での前方視界は良好であった。しかし、地上では[[誘導路]]を移動する際や[[滑走路]]で水平になるまでは、前方が見えず事故の原因にもなった。なお、日本への輸入機を操縦した大日本帝国陸軍パイロットは、「接地の寸前まで良好な着陸視界を得ることができる(「Fw190にのる」荒蒔義次・丸メカニック1981.1月号)」と評価している。


; 操縦への配慮
: Fw190ではダイレクトな操縦感覚を求めて伸び縮みしないロッドを使い、速度差による違和感については、[[リンク機構]]を工夫することで解消していた{{sfn|「丸」編集部|2000|p=58}}{{sfn|村上|2000|p=147}}(高速時に舵面にかかる風圧が大きくなると、それに応じてリンク機構の支点位置も移動するので、操縦桿と舵面の動きが非直線となり、違和感が解消できる)。
: 操縦に要する力もできるだけ少なく抑え、コックピットの設計にも気を配るなど、パイロットが疲労しないように配慮がなされた{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|pp=7,180}}。また、燃料タンクや機関砲など、使用することによって重量が変化するものは重心付近に集中して設置し、トリム調整も最小限に済むようにされていた{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=7}}。
: その他、誤操作をなくすため、スイッチの配置に[[人間工学]]的な配慮がされていたり、作動状態の確認はランプではなくメカ方式が使われるなど、パイロットが短期間で習熟できるように配慮がなされていた。
: その他、誤操作をなくすため、スイッチの配置に[[人間工学]]的な配慮がされていたり、作動状態の確認はランプではなくメカ方式が使われるなど、パイロットが短期間で習熟できるように配慮がなされていた。
: また、BMW801エンジンには、「コマンドゲレート"Kommandogerät"」と呼ばれる自動制御装置、後年でいう所のアナログコンピュータが組み込まれていた。当時の他の航空機用エンジンは、速度や高度に応じてエンジンを細かく調整する必要があったこの自動制御装置は、パイロットが[[スロットル]]レバーを操作するだけで、プロペラピッチ、2段[[スーパーチャージャー]]の切り替え、点火時期調整、混合気濃度などが自動調整されるようになっており、余分な負担が減った分だけ、パイロットは戦闘に集中することができた。
: また、BMW 801エンジンには、「コマンドゲレート"Kommandogerat"」と呼ばれる自動制御装置、後年でいう所のアナログコンピュータが組み込まれていた。当時の他の航空機用エンジンは、速度や高度に応じてエンジンを細かく調整する必要があったのだが、この自動制御装置は、パイロットが[[スロットル]]レバーを操作するだけで、プロペラピッチ、2段[[スーパーチャージャー]]の切り替え、点火時期調整、混合気濃度などが自動調整されるようになっており、余分な負担が減った分だけ、パイロットは戦闘に集中することができ、未熟なパイロットでも十分に扱うことができた{{sfn|「丸」編集部|2000|pp=83-84}}{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=179}}<ref group = *>もっともこれは同時に、パイロットの手による微妙な調整ができないことも意味していた。Fw190のコックピットにはエンジンの燃焼をコントロールするインタフェイスは用意されていない。</ref>

; 頑丈な機体
; 頑丈な機体
: 前述の通り本機は戦場での過酷な使用に耐えることをコンセプトの一つとして開発された{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=4}}。
: 当時、着陸事故が多発していた主力戦闘機[[メッサーシュミットBf109]]に対して、Fw190では、[[降着装置|引き込み脚]]の強度が要求値の2倍に設計され、パイロットが最も神経を使う[[着陸]]時に、多少ラフな操作をしても壊れない強度がもたせられていた。
: 当時、[[降着装置|引き込み脚]](主脚)の間隔の短さや強度不足などから着陸事故が多発していた主力戦闘機[[メッサーシュミット Bf109]]に対して、Fw190では主脚の間隔を3.5mと十分広く取り{{sfn|野原|塩飽|1993|p=73}}{{sfn|村上|2000|p=146}}、さらに通常求められる数値の2倍となる秒速5.0mでの着地に耐えるように設計され{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=6}}、パイロットが最も神経を使う[[着陸]]時に、多少ラフな操作をしても壊れない強度が持たせられていた。その他の部分にも十分な余裕を見込んだ設計がなされ、これらが後に戦闘爆撃機型、突撃型などの様々な発展型の実現に寄与した{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=6}}。
: また、主要部分に防弾鋼板が張られているほか、オイル系統も2重の[[冗長性]]を持たされ、被弾時の生残性を高められていた。[[軍用機のコックピット|コックピット]]正面キャノピーの[[防弾ガラス]]の厚さは50mmもあった。
: 主要部分には防弾鋼板が張られている(A-8型で総計136-166kg){{sfn|「丸」編集部|2000|pp=61, 79}}ほか、キャノピー正面の[[防弾ガラス]]の厚さは50mmにも及ぶ{{sfn|「丸」編集部|2000|pp=61}}。オイル系統も装甲の上で2重の[[冗長性]]を持たされ、被弾時の生残性を高められていた{{sfn|「丸」編集部|2000|p=86}}。
; 前線での整備
: また、空冷エンジンは液冷エンジンと比較して耐弾性に優れ、液冷エンジンであれば冷却水漏れを起こす様なケースにおいても無事に帰還ができる場合があり{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=6}}、さらにパイロットにとっては前方からの射撃に対する装甲としても機能した{{sfn|ウィール|2001|p=10}}。ただし万が一エンジンが停止した時には、滑空性能は良好とは言えず<ref group = *>合理的な一撃離脱戦法を重視し、ロール性能を向上させた結果として翼面加重が高いため。</ref>、主脚を用いての着陸は比較的困難<ref group = *>主脚を出すことで空気抵抗が増し、低速域における揚力不足による失速を招くと思われる。</ref>であり、脱出または胴体着陸が推奨されていた{{sfn|ウィール|2001|p=10}}。
: Fw190は、各部がコンポーネント化されていたため、壊れた部品はユニットごと交換するだけで簡単に修理することができるようになっていた。また、機体各部の作動機構は、車輪の油圧[[ドラムブレーキ]]以外すべて電動式を採用した。その理由として、タンク技師は、米軍機程に[[油圧]]機構に信頼がもてなかったことと、[[戦線|前線]]での[[メンテナンス|整備]]のメリットとをあげている。電動式にすることで、前線での点検整備・交換が簡単に行えるようになった。なお、電線を接続する[[コネクター]]はすべて形状が異なるようにされており、目的通りの接続でなければコネクターが接続できないというように、整備面に対する人間工学的な配慮もなされていた。
: なおFw190は、開発段階では全長8.85m、全幅9.5mと、小型と言われるBf109と大差のない機体サイズでありまた、武装もそう強力なものではなかった(後述){{sfn|野原|2006|p.67}}。
: その他、コックピット後部に小さな穴が開けられているが、ここに鋼管を差し込めば簡単にジャッキアップできるといったように、最前線での過酷な状況下でも整備や修理が容易に行えるように配慮してあった。また、整備仕様としては欧米での主流であった定時部品交換方式(一定飛行時間毎に決められた部品を強制交換してゆく方式、日本陸軍でいう「時間整備」)を更に進め、部品交換時の調整工数を極限まで減らした設計とされていた。(飛行時間あたりの整備に掛かるマンアワーは同時代米軍機の約70%とも言われる)

; 大量生産への配慮
; 大量生産への配慮
: フォッケウルフ社は会社の規模が小さく、部品製作を[[下請け]]メーカーに依存していたため、大量生産しやすいように機体をいくつかのコンポーネントに分割する一方、その構成部品も円筒のような単純な2次元曲面を多用し、球形のような複雑な3次元曲面の部品は最小限にしていた。例えば、エンジン・カウリングは板を曲げただけの単純な形状であり、カウリング前面の3次元曲面を構成する部品は、オイルタンクとオイルクーラーが一体化した部品を兼ねている、というように、複雑な形状を持つ部品が機能を融合化することによって部品数が減らされていた。このような設計は、後に本機を捕獲した英軍や輸入した日本軍にも影響を与えた。
: フォッケウルフ社は会社の規模が小さく、部品製作を[[下請け]]メーカーに依存していたため、大量生産しやすいように機体をいくつかのコンポーネントに分割する一方、その構成部品も円筒のような単純な2次元曲面を多用し、球形のような複雑な3次元曲面の部品は最小限にしていた{{sfn|村上|2000|pp=141-145, 147}}。例えば、エンジン・カウリングは板を曲げただけの単純な形状であり、カウリング前面の3次元曲面を構成する部品は、オイルタンクとオイルクーラーが一体化した部品を兼ねている、というように、複雑な形状を持つ部品が機能を融合化することによって部品数が減らされていた。{{要出典範囲|このような設計は、後に本機を捕獲した英軍や輸入した日本軍にも影響を与えた。|date=2012-11}}ある簡素な製造ラインでは、ベルリンが占領される直前までFw 190を生産し続けていたと言う{{sfn|村上|2000|p=147}}

; 前線での整備
: 上述の様にFw190は、各部がコンポーネント化されていたため、壊れた部品はユニットごと交換するだけで簡単に修理することができるようになっていた{{sfn|村上|2000|p=147}}{{sfn|長谷川|2007|p=60}}。また、機体各部の作動機構は、車輪の油圧[[ドラムブレーキ]]以外すべて電動式を採用した{{sfn|村上|2000|p=147}}。その理由として、タンク技師は、米軍機程に[[油圧]]機構に信頼がもてなかったことと、[[戦線|前線]]での[[メンテナンス|整備]]のメリットとをあげている{{要出典|date=2012-11}}。電動式にすることで、前線での点検整備・交換が簡単に行えるようになった{{sfn|村上|2000|p=147}}。なお、電線を接続する[[コネクター]]はすべて形状が異なるようにされており、目的通りの接続でなければコネクターが接続できないというように、整備面に対する人間工学的な配慮もなされていた{{sfn|村上|2000|p=147}}。その他、胴体後部に機体を左右に貫通する小さな穴が開けられており、ここに鋼管を差し込みジャッキアップできるといったようなメカニズムもあった{{sfn|野原|塩飽|1993|pp=36, 58}}。{{要出典範囲|最前線での過酷な状況下でも整備や修理が容易に行えるように配慮してあった。また、整備仕様としては欧米での主流であった定時部品交換方式(一定飛行時間毎に決められた部品を強制交換してゆく方式、日本陸軍でいう「時間整備」)を更に進め、部品交換時の調整工数を極限まで減らした設計とされていた。(飛行時間あたりの整備に掛かるマンアワーは同時代米軍機の約70%とも言われる)|date=2012-11}}

;キャノピー
: Bf109やスピットファイアなどにみられた、キャノピー後部が胴体と一体化したファストバック型は空力的には有利であるが、いかんせん後方視界が良くない。Fw190では視界の良いスライド型のものが用いられた{{sfn|「丸」編集部|2000|p=62}}{{sfn|ボーマン|year=2008|p=16}}。
: Fw190は一見前方視界が悪いように見え、またやはり良好であるとも言い難いものであったようだが、通常時は幾分機首を下げた状態で飛行するため、飛行時については劣悪と言う訳ではなかった{{sfn|村上|2000|pp=143}}。また地上滑走時においてはやはり前方視界に問題はあったものの{{sfn|ウィール|2001|pp=10,41}}、尾輪式の単発レシプロ戦闘機であれば、もとより正面などは見えないものであり、前下方の視界がキャノピー側面の胴体への食い込みで確保されているFw190はむしろ視界良好な部類であったと見る向きも有る{{sfn|「丸」編集部|2000|p=62}}。また日本への輸入機を操縦した大日本帝国陸軍パイロットは、機体への切れ込みがあり前下方の視界は良好で、接地の寸前まで良好な着陸視界を得ることができると評価しており<ref>「Fw190にのる」荒蒔義次・丸メカニック1981.1月号、または「丸」編集部編、2000年、『図解・軍用機シリーズ 10 メッサーシュミットBf109/フォッケ・ウルフFw190』p.171</ref><ref group = *>なおこの機体はA-5型。荒蒔義次は上昇力と操縦性を絶賛し、格闘戦でなら[[四式戦闘機|疾風]]に勝るであろうとしている。</ref>、鹵獲機体を試験飛行させたイギリス空軍パイロットは、前方視界はBf109、スピットファイア、マスタングよりも良好であったとしている{{sfn|ボーマン|year=2008|p=29}}。
: なおキャノピーは後方にスライドさせ開く形式であったが、飛行時に人力で開く事が非常に困難でありパイロットの脱出に支障を来したため、20mm機関砲の薬莢の火薬を用いてキャノピーを脱落させる機能が持たされた{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|pp=25-26}}{{sfn|「丸」編集部|2000|p=63}}{{sfn|鈴木|2006|p=59}}<!-- 1979では51-->。また、後期の型には高さを増し視界を向上させた「ガーラント・ハウペ」と呼ばれる形状のものを装備している{{sfn|「丸」編集部|2000|p=63}}。


逆に短所としては以下の点が挙げられる。
; 航続距離
; 航続距離
: 航続距離は、Bf109より多少は長いものの、相変わず短いものでしかなかった。
: 航続距離は、Bf109より多少は長いものの、前部胴体タンクが232リットル、後部胴体タンクが292リットル、予備タンク115リットル(出力増強装置などに用いれる場合もある){{sfn|「丸」編集部|2000|p=86}}で通常800km程度、さらに300リットルの[[増槽]]を付けて1400km程度{{sfn|野原|塩飽|1993|p=51}}と、そう長いものでなかった。
;安定性
:卓越したロールレイトは、同時に横方向の安定性不良という弊害を生み出し、飛行中、何の前触れも無く横転に入る「補助翼の蹴り」という現象が多発した。
:ベテランパイロットの中には、このトリッキーな動きを、回避行動に応用した者もいた。
;高高度性能
:Fw190Aの性能は、高度6000mを超えるあたりから急激に低下する。改良型のFw190Dでも、A型ほどではないが同様の傾向が見られた。このため、1942年後半頃から続々登場する連合軍の新型戦闘機と高高度域で戦闘になった場合にはFw190は大いに苦戦した。これらの連合軍の新型戦闘機は、2段2速過給器やターボチャージャーを装備していた。


== エピソード ==
== エピソード ==
; エアシーフ(空の泥棒)作戦
; エアシーフ(空の泥棒)作戦
:1942年、Fw190の出現により劣勢に立ったイギリス空軍は、Fw190の秘密解明のため特殊部隊を使ってドイツ占領下のフランスからFw190を盗み出す、というエアシーフ(空の泥棒)作戦を立案した。この作戦は、決行直前の6月23日、1機のFw190が霧の中で方角を見失い、誤って英空軍基地に着陸したことで中止された。この時、[[鹵獲|捕獲]]されたFw190を調査した英空軍は、そのコンセプトを採用するため、開発中の新型戦闘機[[ホーカー シーフューリー]]に対していくつかの設計変更を行った。小規模飛行機メーカーのわずか12人のエンジニアが作り出した戦闘機は、敵国の戦闘機開発にまで影響を与えたのである。
:1942年、Fw190の出現により劣勢に立ったイギリス空軍は、Fw190の秘密解明のため特殊部隊を使ってドイツ占領下のフランスからFw190を盗み出す、というエアシーフ(空の泥棒)作戦を立案した。この作戦は、決行直前の6月23日、1機のFw190が霧の中で方角を見失い、誤って英空軍基地に着陸したことで中止された。この時、[[鹵獲]]されたFw190を調査した英空軍は、そのコンセプトを採用するため、開発中の新型戦闘機[[ホーカー シーフューリー]]に対していくつかの設計変更を行った。小規模飛行機メーカーのわずか12人のエンジニアが作り出した戦闘機は、敵国の戦闘機開発にまで影響を与えたのである。
=== 日本に輸入されたFw190A-5 ===
;[[黒江保彦]]少佐の「私の見たFW190(A-5)」
: 『航空ファン』へ寄稿された文によれば{{sfn|黒江|1962|p=74}}、日本陸軍[[黒江保彦]]少佐は、[[福生]]([[横田基地]])において、輸入されたFw190A-5の試験に携わった。曰くFw190は旋回性能は大したことはないが快速を誇り、また安定性もよく、出足(加速力)と突っ込み(降下時の初期の加速力)の早さは他に比肩するものはなし、との所見であった。なお実際に[[三式戦闘機|飛燕]]、[[四式戦闘機|疾風]]と模擬空戦を行なってみたところ、急旋回しようとするとすぐに振動が発生し高速失速を起こす様なもので、格闘戦においてはやはりそれを重視した日本機とは勝負にならなかったようだ。また黒江は整備が容易で油漏れも故障もまったくと言って良いほどなかったことにも言及している。
:旋回(水平面)性能では日本のものに及ぶものではなく「急旋回しようと[[操縦桿]]で引き回すと、すぐにガタガタと高速[[失速]]を起こした。」しかし、一旦急降下に入るとか、直線でスロットル全開にすると「何のケレン味もなくすごい加速」で[[三式戦闘機|キ61]]や[[四式戦闘機|キ84]]を引き離した。と回想している<ref>『[[航空ファン (雑誌)|航空ファン]]』昭和37年2月号</ref>。
: 終戦(1945年8月)直前、Fw190A-5, Bf109, [[P-51]]C, [[P-40]], 疾風の5機を用いて、高度6000mで速度競争が行なわれた。競争開始直後は黒江の乗ったFw190とBf109がリードしたものの、1分後にはP-51が迫ってきて、3分後には抜き去っていったと言う。黒江は、Fw190は水平最高速度ではP-51には適わないものの、出足の速さはどの機種にも負けなかったと結んでいる。


== 主な型式 ==
== 地上攻撃 ==
本機はBf109より積載能力に優れ耐弾性にも勝り、さらに不整地での運用も優れており[[戦闘爆撃機]](ヤーボ)として地上攻撃にも活躍{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=198}}{{sfn|ジョン|2004|pp=45-46}}、ドーバー海峡を挟んだイギリスを相手に、神出鬼没の活躍を見せた{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|pp=196-203}}。1943年以降イギリス軍の防空体制が整うとその活躍は封じ込められるが{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=207}}、本機はその余裕有る設計を生かし、旧式化した[[急降下爆撃機]][[Ju 87 (航空機)|Ju 87]]の穴を埋めるため、引き続き地上攻撃機としての運用が続けられた。
* '''Fw 190V''':原型機、エンジンはBMW801C。
* '''Fw 190A-0''':先行量産型、28機生産。
* '''Fw 190A-1''':最初の本格的量産型、武装は7.92mm[[MG 17 機関銃]]×4(弾数各900発)、20mm[[MG FF 機関砲|MGFF]][[機関砲]]×2 (弾数各55発)。102機生産。
* '''Fw 190A-2''':主翼付け根のMG17を20mm[[MG151|MG151/20]][[機関砲]](弾数各250発)へ変更。武装はMG17×2、[[MG 151 機関砲|MG 151/20]]×2、[[MG FF 機関砲|MGFF]]×2。426機生産。
* '''Fw 190A-3''':エンジンを[[BMW 801]]Dへ変更。509機生産。
* '''Fw 190A-4''':エンジンに[[水メタノール噴射装置]]MW50を追加した型と言われているが、量産型には水メタノールタンクが装備されておらず、実情は不明。その他、無線機が変更されている。906機生産。
* '''Fw 190A-5''':エンジンの取付架を前方に152.5mm延長し重心位置を修正。723機生産。
* '''Fw 190A-6''':主翼外翼の20mm[[MG FF 機関砲|MGFF]]を20mm[[MG151|MG151/20]][[機関砲]](弾数各125発)へ変更。武装はMG17×2、[[MG 151 機関砲|MG 151/20]]×4。569機生産。
* '''Fw 190A-7''':機首のMG17を13mm[[MG 131 機関銃|MG 131]][[機関銃]]×2(弾数各475発)へ変更。武装は[[MG 131 機関銃|MG 131]]×2、[[MG151|MG151/20]]×4。80機生産。
* '''Fw 190A-8''':コクピット直後に115ℓのタンク(燃料・[[ナイトラス・オキサイド・システム|亜酸化窒素]]・水メタノールのいずれか)を増設。武装は主翼外翼[[MG151|MG151/20]]を30mm[[MK 108 機関砲|MK 108]][[機関砲]](弾数各55発)へ変更したR2、R8仕様の場合[[MG 131 機関銃|MG 131]]×2、[[MG151|MG151/20]]×2、[[MK 108 機関砲|MK 108]]×2。キャノピーを視界が向上した「ガーラント・ハウベ」へ変更した機体も生産された。約8,300機生産。
* '''Fw 190A-9''':エンジンをBMW801TSへ変更。キャノピーを「ガーラント・ハウベ」へ変更。エンジンに14枚タイプの強制冷却ファンと幅の広いDVM9-12157H3木製プロペラを装備。少数生産されたもよう。
* '''Fw 190D-9''':液冷エンジンのユンカース社Jumo213Aへ換装することにより、高々度性能・最高速度・上昇力・旋回性能が向上した。エンジン換装により機首が長くなったため、後部胴体の50cm延長と垂直安定板を増積して重心位置を修正している。キャノピーは通常型と「ガーラント・ハウベ」がある。武装は機首に13mm[[MG 131 機関銃|MG 131]][[機関銃]]×2(弾数各475発)、主翼付け根に20mm[[MG151|MG151/20]][[機関砲]]×2(弾数各250発)。1944年8月より約700機生産された。
* '''Fw 190F-1''':A-4を基にした[[戦闘爆撃機]]型。対空砲火に備え胴体下面、燃料タンクなどの装甲強化、外翼の20mm[[MG151|MG151/20]][[機関砲]]の撤去、胴体下に爆弾架を装備。
* '''Fw 190F-2''':A-5を基にした戦闘爆撃機型。Aシリーズの生産ラインがA-5に変わったため。
* '''Fw 190F-3''':F-2の改良型。両主翼下にも爆弾架を装備。
* '''Fw 190F-8''':A-8を基にした戦闘爆撃機型。Aシリーズの生産ラインがA-8に変わったため。後期生産型はキャノピーを「ガーラント・ハウベ」に変更している。
* '''Fw 190F-9''':A-9を基にした戦闘爆撃機型。A-9と同様エンジンは[[BMW 801]]TS、キャノピーは「ガーラント・ハウベ」へ変更されている。少数生産されたもよう。
* '''Fw 190G-1''':A-4を基にした長距離戦闘爆撃機型。主翼付け根の20mm[[MG151|MG151/20]][[機関砲]]×2、胴体下に爆弾架、両主翼下に300ℓ入り増槽が標準装備。
* '''Fw 190G-2''':A-5を基にした長距離戦闘爆撃機型。Aシリーズの生産ラインがA-5に変わったため。
* '''Fw 190G-3''':A-6・A-7を基にした長距離戦闘爆撃機型。PKS11自動操縦装置を追加。
* '''Fw 190G-8''':A-8を基にした長距離戦闘爆撃機型。Aシリーズの生産ラインがA-8に変わったため。両主翼下にも爆弾架を装備。
* '''Fw 190S-5''':A-5を基にした複座の[[練習機]]型。後席は教官席で簡単な操縦装置追加されている。武装は全廃され、キャノピーは前・後席とも右上方へ開く。
* '''Fw 190S-8''':A-8を基にした複座の練習機型。教官席のキャノピー側面が改修され視界が向上している。
* '''Ta 152''':詳細は[[フォッケウルフ Ta152]]を参照。


東部戦線でも[[ソビエト連邦軍|ソビエト軍]]と善く闘った。東部戦線には1942年9月以降に本格的に配備されはじめ、次第に主力を担いだした{{sfn|秋本|2000|p=164}}{{sfn|ジョン|2004|p=51}}、Fw190は1943年9月-10月頃には戦闘機型200機、戦闘爆撃機型41機が展開。1944年12月には戦闘機型が79機、戦闘爆撃機型が502機と、戦闘爆撃機型が大多数を占める様になった{{sfn|秋本|2000|p=164}}。
== スペック(A-3型) ==

[[Image:Fw190A-3 JG2 Gr.Ko.Hahn42 kl96.jpg|thumb|250px|Fw 190 A-3]]
これらは初期には戦闘機型の改修型{{refnest|group = *|改修型のU仕様、戦地改修キットのR仕様として。「Fw190 A-3/U2 などと表記。A-6以降は改修はR仕様として統一。それに伴い試験型などはV型として統一された。{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=153}}{{sfn|野原|塩飽|1993|p=82}}}}として運用されていたが、1943年8月以降{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|pp=167-166}}には地上攻撃機型をF型、長距離戦闘爆撃機型をG型と命名した{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=167-168}}。またこれらの型は機関銃/機関砲と言った固定装備が減らされたものもあった{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=164}}。なお爆弾もしくは増槽を装備すると、例えば500kg爆弾搭載時には最高速度は500km/h程度に落ちるなど、相応に飛行性能は低下する{{sfn|野原|塩飽|1993|pp=53, 68}}。
<!-- ちょっとまだ盛り込めませんので一旦コメントアウト。必要に応じてご活用頂けましたら幸い。
F型/G型には戦果確認のためロボット・カメラが搭載されていた{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=181}}。-->

== 対爆撃機戦闘・突撃飛行隊 ==
1943年夏頃より、連合軍の爆撃機を迎撃するため、21cm空対空[[ロケット弾]](WGr.21)の運用が開始された(A-4/R6)。だがこれを積載したフォッケウルフは性能が低下し、敵戦闘機との空戦は困難となった{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|pp=156-157}}。そのほか主翼下に20mmまたは30mm機関砲を内蔵するゴンドラを装備するなどの改修型も見られた{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=161}}。

1943年、ドイツ空軍は[[:en:Combat box|コンバット・ボックス]](密集防御編隊)を組んだアメリカ[[第8空軍 (アメリカ軍)|第8航空軍]]重爆撃機、[[B-17 (航空機)|B-17]]および[[B-24 (航空機)]]の重防御・高火力に対抗する術を必要とした。コンバット・ボックスは6機を3グループ束ねた15-18機で構成され、どの方向にも30-40門の機銃による防御射撃が可能なものであった{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=302}}。またこれを上下3段に重ねた、45-54機による「コンバット・ウイング」を構築、これを連ね数百機の大編隊による攻撃が行われていた{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=302}}{{sfn|白石|2009b|p=53}}。

参謀本部で戦闘機隊総監[[アドルフ・ガーランド]]を補佐していたハンス=ギュンター・フォン=コルナツキ(KORNATZKI コルナルツキ、コルナッキー)少佐はこれを迎撃するための'''「突撃飛行隊」'''(Sturmgruppen)<ref group = *>「強襲飛行隊」との訳もあるが、本稿では便宜上「突撃」に統一する。</ref>の設立を提案{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=340}}。1個飛行隊(3個飛行中隊)が敵重爆撃機の防御火力の比較的弱い正面から編隊攻撃を行い、大打撃と共に敵重爆撃機搭乗員に精神的圧迫を与え、作戦的にはコンバットボックスの防御を機能不全に陥らせ、戦術的には米軍に対して継続して打撃を与え許容し得ない大出血を強いる言う作戦であった{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=340}}{{sfn|ウィール|2006|p=9}}。1943年10月19日に第1突撃飛行中隊(シュトルムタッフェル)が創設された<ref group = *>フラッペ&ローラン (1999)p.340では1944年2月開設とされているが、白石 (2009) 、ウィール (2006)p.9によれば、1943年10月19日。ボーマン (2008) p.72でも1943年10月から。</ref>{{sfn|白石|2009a|p=74}}<ref group = *>ドイツ空軍の場合、中隊は12機編成。</ref>。パイロットは可能な限り肉薄し、必要とあらば[[体当たり攻撃]]も辞さずに敵重爆撃機を撃墜することを宣誓した{{sfn|ウィール|2006|pp=6, 15}}{{refnest|group = *|ただし多分に儀式的な意味合いが含まれており、宣誓書に署名させられるようなことはほとんど無かった{{sfn|白石|2009a|p=75}}か、または署名せずとも特に咎められることもなかった{{sfn|ウィール|2006|p=37}}。IV./JG3飛行隊長ヴィルヘルム・モリッツ大尉は、国防軍の将兵は入隊時既に国家への忠誠と献身を宣誓しており、重ねてのこの様な宣誓など無用と、署名済みの宣誓書を焼き捨てたと言う{{sfn|ウィール|2006|p=37}}。}}約15名<ref group = *>フラッペ&ローラン 1999 pp.340-341 による。白石 2009 p.74によれば18名。ウィール (2006) p.10によれば16または18名。</ref>。彼らは1944年2月末までに訓練を終え、1944年1月{{sfn|ウィール|2006|p=15}}または3月{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=341}}より本格的な作戦を開始した。

突撃飛行隊の有効性は高く評価され、1944年4月始めには[[第11戦闘航空団]](JG11)<!-- 2.I. -->と第1戦闘航空団(JG1)「エーザウ」<!-- 5./II. -->に新たに突撃中隊が置かれた{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|pp=344-345}}。さらに4月末または5月始めには第3戦闘航空団(JG3)「ウーデット」に'''第IV飛行隊(突撃)'''(第10,第11(旧第1突撃飛行中隊が編入){{sfn|白石|2009a|p=76}},第12中隊、計36機)「モーリツ」突撃飛行隊が{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=351}}{{sfn|ウィール|2006|p=35}}、1944年7月頃には第300戦闘航空団(JG300)第II飛行隊、第4戦闘航空団(JG4)第II飛行隊も突撃飛行隊とされ、後者については1944年春に中佐となった突撃飛行隊創案者・コルナツキが指揮官となった{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|pp=358-359, 370}}{{sfn|ウィール|2006|pp=76, 84}}{{sfn|白石|2009a|p=77}}。なおコルナツキは1944年9月13日、敵護衛戦闘機に撃墜され、不時着を試みるも高圧電線に接触、戦死している{{sfn|ウィール|2006|p=89}}{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|pp=378-379}}。

突撃飛行隊は当初は正面攻撃が用いられていたものの、相対速度が高いため射撃を行える時間が少なく、パイロットにも高い技量が求められると言った面もあり、敵重爆撃機の防御火力は強力であるが、後方からの攻撃が行われることが一般的になった{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=349}}<ref group = *>秋本 (2000) によれば、後方攻撃への方針変換は1944年4月または5月、第3戦闘航空団第III飛行隊長のダール少佐の発案であるとのことである。また白石 (2009)では、コルナツキの発案により当初から後方攻撃が用いられたとされている。</ref>{{sfn|秋本|2000|p=165}}。この攻撃は全機が火力を発揮するため一列横隊または鏃型の編隊を組み、敵コンバット・ボックスの後方に肉薄し攻撃を加えるものであった{{sfn|白石|2009a|p=73}}。ただし後方からの攻撃が最初から行なわれていたとする文献もある。

また体当たり攻撃も実際に行われ、敵の主翼に軟着陸しそれを切断する方法や、尾翼にプロペラやエンジン部を衝突させ破壊する方法が推奨された{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=349}}。これは重装甲を誇る突撃型Fw190であればパイロットの生還は十分に期待できるものであり、献身的行動ではあるが、自殺的作戦ではない{{sfn|ウィール|2006|p=9}}。

訓練中に用いられた機体は20mm [[MG151]]20mm機関砲4門、[[MG 17]] 7.92mm 機関銃2門を装備するA-6型に[[防弾ガラス]]を装備するなど装甲を強化しアメリカ軍重爆撃機の装備する[[ブローニングM2重機関銃|ブローニング 12.7 mm M2 機関銃]]に対抗できるようにしたもので、シュトルムイェーガー(突撃戦闘機)と呼ばれた<ref group = *>ただし7.92mm MG 17 機関銃は、重爆撃機に対して効果が薄いと言うことで取り払われる例も多かった。また側面の防弾ガラスは視界が狭くなる上に、高々度に上がると従来のガラスと増設したガラスの間に氷が張ってしまうと言う弱点があり「目隠し」と呼ばれ、パイロットにより外されてしまうことが多かった。</ref>{{sfn|ウィール|2006|p=9}}{{sfn|白石|2009a|p=74}}。その後A-7/R2(外翼の20mm機関砲を30mm機関砲に換装したタイプ)を経て{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=341}}、A-8/R2、およびA-8/R8、「シュトルムボック」([[破城槌]]または破壊槌)が開発・配備されるに至った{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=351}}。これは武装は13mm機関銃2門、20mm機関砲2門、30mm機関砲2門を備え、キャノピー前面には50mm、側面に30mmの防弾ガラス、コックピット周辺の5mm鋼板、両翼の機関砲前面に20mm鋼板を装備{{sfn|「丸」編集部|2000|p=79}}したもので、機体の重量は250キログラム以上増加していた{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=351}}。30mm機関砲は敵重爆撃機には効果的であったが、これらの機体は重量の増加から敵戦闘機との空戦は相当に困難となっており、通常の戦闘機仕様のFw190、またはBf109による護衛を必要とした{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=351}}{{sfn|ウィール|2006|p=39}}{{sfn|白石|2009a|p=77}}。なおR-8型はR-2型の防弾ガラスなど装甲を強化するなどし、その代償として機首の13mm機関銃を撤去したもの{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|pp=183-184}}。後期には敵護衛戦闘機の厚い壁に阻まれ、あまり戦果はあがらなかった{{sfn|白石|2009a|p=77}}。


== 各型の変遷 ==
=== 試作機からA-2型 ===
開発初期の試作機は'''Fw190V'''と称される。V1はBMW139(1550馬力)を装備し1939年5月中旬頃に完成、6月1日に初飛行を行った{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|pp=22-23}}。機首は短いカウルに、プロペラ基部を丸ごと覆う巨大な[[スピナー]]と言った出で立ちで、先端のダクトより吸気しエンジンの冷却を行う構造である{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=22}}{{sfn|田中|飯田|佐藤|2006|p=23}}。この形は空力的には洗練されていたものの、冷却力は不足していた{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|pp=22-29}}。1939年12月31日には両翼にMG17 7.92mm機関銃とMG131 13mm機関銃を1丁ずつ装備したV2が空軍に引き渡された{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=29}}。この機体も若干の改良の上でV1と同じ機首形状を採っていたが、やはり冷却力が不足しており、1940年1月には両機とも通常の機首形状に変更された{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=29}}{{refnest|group = *|なお、3号機・V3は交換部品のストック用とされ、4号機・V4は破壊・強度試験に使われた{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=26}}}}。1939年の秋にBMW139の開発中止が決定したため、5号機となるV5にはBMW 801C-0(離昇出力1600馬力)が搭載された{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=31}}。だが重量増から翼面荷重が増加し飛行性能は低下した。このため従来の全幅9.515m、翼面積が14.90m<sup>2</sup>の主翼を装備したV5k<ref group = *>これは後にV6と改称。</ref>の他に、全幅10.5m、翼面積が18.30m<sup>2</sup>の大型翼を採用したV5gが生産され、試験の結果、最高速度は695km/hから685km/hとやや低下したものの、運動性については格段の改善が見られたため、こちらの主翼が採用された{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|pp=31-33}}。

V5の試験開始とともに空軍はFw190に強い関心を示し、新型エンジンの量産体制が整っていないにも拘わらず、40機もの増加試作が仮発注された{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=32}}。これは結局1940年11月から1941年9月までに28機が生産され'''Fw190A-0'''とされたが、初期の8機は主翼の改修が間に合わず、従来型の小さいもののままであった{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=35}}<ref group = *>飯沼 (2000) によれば、9機が小型翼。</ref>{{sfn|飯沼|2000|p=148}}。その後エンジンは新型のBMW 801C-1とされ、それを装備した'''Fw190A-1'''が、1941年秋までに102機生産された{{sfn|野原|塩飽|1993|p=71}}。これは当初、武装は[[MG 17 機関銃|MG 17 7.92mm 機関銃]]×4(弾数各850発)と貧弱なものであったが、主翼外翼に[[MG FF 機関砲|MG/FF 20mm機関砲]](弾数各60発)が増設された{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=35}}。しかしA-0型を使用しての実用実験中、Fw190は多くのエンジントラブルに見舞われる。従来よりの加熱・発火と言った問題の他に、BMW 801に装備されていた自動制御装置「コマンドゲレート」にも不具合が発生、一時期はFw190の実用化さえ危ぶまれる事態となった{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|pp=36-37}}。多くの改修を経て多くの問題をクリアし開発は継続されたものの、エンジンの冷却不足については実戦投入後1年くらいは問題視されていた{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=37}}。

1941年10月頃からはBMW 801C-2エンジンを装備した'''Fw190A-2'''の量産が開始される。このモデルは降着装置を強化し{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=37}}内翼の7.92mm機関銃を[[MG 151 機関砲|MG 151 20mm機関砲]](弾数各250発・ベルト給弾)に変更{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=42}}し、MG17 7.92mm機関銃×2、MG 151 20mm機関砲×2、MG FF 20mm機関砲×2となり、これは以降の標準装備となる。426機{{sfn|野原|塩飽|1993|p=71}}{{sfn|飯沼|2000|p=149}}または952機{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=42}}製造。

1941年7月末、[[西部戦線]][[英仏海峡]]方面に在る第26戦闘航空団(JG26)に Fw190A-1が配備、実戦投入される{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=47}}。故障が頻発するなど苦戦したものの{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|pp=51-53}}、英軍の[[スーパーマリン スピットファイア | スーパーマリン スピットファイア Mk.V]]を相手に有利に戦闘を進め、制空権を確保した{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|pp=53-54}}。1942年の春には[[北フランス]]方面の第2戦闘航空団(JG2)と[[オランダ]]西海岸方面の第1戦闘航空団(JG1)にもFw190A-2が配備されるなど{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|pp=61-63}}、以後Fw190は多方面に配備されていく。

=== A-3からA-7型 ===
1942年の3月-4月頃にはBMW 801D-2エンジン(離昇出力1700馬力)を搭載し最高速度660km/h{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=150}}を発揮する'''Fw190A-3'''の量産が開始。胴体下面に爆弾架(ETC-501)を装備し、戦闘爆撃機としての運用も可能となった{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=151}}。7月中旬頃からはエンジンに[[水メタノール噴射装置]]MW50を追加し、短時間ながら最大で2100馬力を発揮{{sfn|飯沼|2000|p=150}}{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=154}}し、無線機を変更するなどした'''Fw190A-4'''に移行する。これらのタイプは[[R4M|空対空ロケット弾]]を装備するR6型など多くの改修型が作られ、一部は後にFw190F型・G型として制式化される。1942年9月頃からは[[第51戦闘航空団]](JG51)を皮切りに、東部戦線にもFw190が配備されはじめた{{sfn|ウィール|2001|p=13}}。A-3は509機{{sfn|野原|塩飽|1993|p=73}}、A-4は906機{{sfn|野原|塩飽|1993|p=77}}または894機{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=157}}が生産された。

続く1942年末の'''Fw190A-5'''ではエンジンの取付架を前方に152.5mm延長し重心位置を修正{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=157}}{{sfn|野原|塩飽|1993|p=79}}。ほとんどがなんらかの改修型とされ、ノーマルの機体は少なかった{{sfn|野原|塩飽|1993|p=79}}。723機生産{{sfn|野原|塩飽|1993|p=79}}。やはり多くの改修型が作られている。そのうちA-5/U10は1943年5月以降'''Fw190A-6'''として量産され、主翼外翼のMG/FF 20mm機関砲をより強力なMG151 20mm機関砲(弾数各140発)へ変更{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|pp=161, 164}}<ref group = *>内翼の機関砲は従来通り各250発を装備。</ref>。武装はMG 17 7.92mm機関銃×2、MG 151 20mm機関砲×4となる。これは当初は東部戦線で地上攻撃機として運用されたもので、コックピット周辺に防弾装甲が付されている{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=164}}。突撃型・[[夜間戦闘機]]型も作られた{{sfn|野原|塩飽|1993|p=82}}。569機生産{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=164}}{{sfn|野原|塩飽|1993|p=82}}。また1943年末頃からは機首のMG17 7.92mm機関銃を[[MG 131 機関銃|MG 131 13mm機関銃]]へ変更したA-5/U9を制式化した'''Fw190A-7'''が、アラド社により80機生産される{{sfn|野原|塩飽|1993|p=84}}{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=168}}。

=== A-8およびA-9型 ===
'''Fw190A-8'''はA-7に若干の改良を加えたものであり、1944年2月から生産が開始され{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=169}}、8300機が生産された{{sfn|野原|塩飽|1993|p=86}}{{sfn|飯沼|2000|p=151}}。MW50((水メタノール、10分間以上)またはGM-1([[亜酸化窒素]]、8分間のみ)出力増強装置を装備{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=180}}。武装は装甲を強化し主翼外翼[[MG151|MG151/20]]を30mm[[MK 108 機関砲|MK 108]][[機関砲]](弾数各55発)へ変更したR2、R8仕様の場合[[MG 131 13mm機関銃×2、MG 151 20mm機関砲×4、MK 108 30mm機関砲×2。度重なる改修による重量増により、最高速度をはじめとした飛行性能は低下している{{sfn|野原|塩飽|1993|p=86}}。一部の機体には新型のBMW 801TU(離昇出力1810馬力)を搭載した。
1944年10月からは離昇出力2000馬力のBMW 801TS/THを装備した'''Fw190A-9'''が量産開始。主翼前縁の装甲が取り外され軽量化がなされており、WM50またはGM-1出力増強装置を使えば10分程度の間、2270馬力、710km/hを発揮できた{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|pp=189-191}}<ref group = *>野原&塩飽 (1993) p.89では「2200馬力」、700km/h</ref>。高々度性能も向上し、P-51 マスタングら連合軍の戦闘機とも対等に戦えるものとも思われたが、戦局はそれを許さず、ほとんどが東部戦線に備え、対地攻撃用のF-9型に改修されてしまった{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|pp=189-191}}。A-10型はターボ過給器を備えたBMW 801エンジンの搭載および翼巾の延長を行った高々度戦闘機型として計画されたが、既にD型やTa 152が存在していたため、計画のみで終わった{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=191}}。なおこの機体はのちにFw190D-10の試作に流用されている{{sfn|野原|塩飽|1990|p=69}}。なお、A-1からA-9までの合計生産数は約13200機である{{sfn|野原|2006|p=72}}。

=== D型 ===
[[File:FW190-D9.jpg|thumb|250px|Fw190D-9]]
Fw190A型は優れた戦闘機であった。だがその心臓部である空冷星形エンジンBMW 801は1段2速の遠心式過給器を装備し高度 5600m-5700mで1440馬力を発揮するものの{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=190}}{{sfn|「丸」編集部|2000|p=66}}、高度6000-7000mを超えると出力が急激に低下する{{sfn|野原|塩飽|1993|p=79}}{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=399}}{{sfn|「丸」編集部|2000|p=66}}。このため1942年以降、2段2速過給器やターボチャージャーを装備した連合軍の新型戦闘機に苦戦することとなった。もとより高々度性能改善の必要性については予想されていたことであり、タンクはFw190の実戦配備以前に既に性能向上策を検討していたのであるが空軍との折り合いがつかず{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=9}}、計画が動き出したのは1942年初め頃となる。出力強化型のBMW 801を搭載した'''B型'''、液冷の[[DB 603|DB 603A]]を搭載した'''C型'''、液冷の[[ユンカース ユモ 213|Jumo 213A]]を搭載した'''D型'''が計画された{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=399}}{{sfn|野原|塩飽|1990|p=63}}。

B型はBMW 801にGM-1出力強化装置を装備し与圧キャビンも装備した機体であり、V12(A-0)改造機を含めた数機のB型が製作されテストされたが期待された性能は発揮できず、またBMW 801の高空性能向上に必要な空冷星形エンジン用の[[ターボチャージャー|排気タービン過給器]]の早期開発の目算が立たないことから1943年5月末に開発は中断された{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|pp=402-404}}。

C型は機首を延長し液冷12気筒エンジン DB 603A(離昇出力1750馬力)を搭載し、主翼位置を前進させるなどしたもの。空軍技術局はDB 603Aエンジンの使用に難色を示しており、未承認の中、開発が開始された{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=404}}。C-0型、与圧キャビンの無いC-1型、与圧キャビンを装備したC-2型が合計9機生産されテストされた{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|pp=404-408, 415}}。1942年9月に初飛行、高度7000mで724km/hを発揮するなどしたが、空軍は目標高度を13700mに設定、DB 603Aに排気タービン過給器を装備することを要求した{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|pp=406-407}}。しかしタービンのインペラの強度は弱く出力の制限を要し故障も多く、また機体全体のの飛行性能も安定性を欠く物であり、改修の結果高度10000mで680km/hを発揮するなどしたもののD型が所期の性能を発揮していたため、1944年5月11日に開発は中断された{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|pp=407-408}}。{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=191}}

D型は液冷12気筒エンジン Jumo 213A-1(離昇出力1776馬力、高度5800mで1600馬力、MW50出力増加装置使用で2240馬力){{sfn|フラッペ|ローラン|1999|pp=408, 415}}を装備。それに伴い機首および胴体後部(49cm)を延長し全長を8.95mから10.192mと改めた{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=408}}。また機首右側面には過給器空気取り入れ口が突出している。液冷エンジンに不可欠な[[ラジエーター]]はエンジンの前面に環状に配置(環状ラジエーター)されている{{sfn|野原|2006|p=80}}{{sfn|長谷川|2007|pp.67-68}}。
初飛行は1942年9月{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|pp=408, 415}}。やはり排気タービン過給器(ターボチャージャー)は装備しておらず本格的な高々度戦闘機とも言い難かったものの、A型のような高空での急激な出力低下は見られず、1944年6月末には2機のプロトタイプが完成{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|pp=409-411}}、こうして1944年8月以降、'''Fw190D-9'''、愛称'''ドーラ'''(Dora、ドーラ9、長鼻ドーラ)、が量産されることとなった{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=411}}{{refnest|group = *|C型と同様に与圧キャビンの無いD-1型、与圧キャビンを装備したD-2型がA-0型やC型からの転用も含め用意された{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=408}}。だが、量産型が何故D-3型ではなくD-9型であるのかは不明である{{sfn|長谷川|2007|p=70}}。}}。最終的にカタログスペックでは高度6400mで698km/h、高度6200mでMW50を使用して732km/h、上昇限度13200mなどとなっている{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=415}}。なお初期にランゲンハーゲン工場で生産された300機は従来型と同様のキャノピーを装備していたが、それ以降は視界を向上させたガーラント・ハウベを装備している{{sfn|野原|塩飽|1990|p=68}}。また胴体下面にはETC501またはETC504爆弾ラックを装備し、爆装も可能である{{sfn|野原|塩飽|1990|p=68}}。

武装は機首にMG 131 13mm機関銃×2(弾数各475発)、主翼内翼にMG151 20mm機関砲×2(弾数各250発){{sfn|野原|塩飽|1990|p=63}}を装備していた。D-9にもいくつかの改修型が計画されたが、1944年末に完成したキャノピー除霜装置、FuG125「Hermine」[[無線航法装置]]/着陸誘導装置、LGWK23進路指示計、PKS12[[自動操縦装置]]を装備した全天候仕様R11以外は、実戦では全く、またはほぼ使われていない<ref group = *>フラッペ&ローラン(1999)によれば全く使われていないが、野原&塩飽(1990)によれば、実際に使われたのはR5,R11くらいのものであるとのこと。</ref>{{sfn|野原|塩飽|1990|p=63}}{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=412}}。D-9およびD-9/R11は約750機が生産された{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=414}}が、並行してA型の生産も続けられていた{{sfn|野原|塩飽|1993|p=51}}。なおD型合計で1805機とする資料もある{{sfn|野原|2006|p.81}}。

ドーラは1944年11月頃から前線に配備されだし、いくつかの飛行隊が機種改編され、12月には実戦に投入される{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=419}}。しかしドイツ空軍の戦闘機隊は12月中に[[ラインの護り]]作戦に投入され、大きく損耗してしまう。Fw190D-9は連合軍の新鋭戦闘機とも十分に渡り合える性能を持っていたと思われるが、既に述べた通りドイツ空軍には最早ベテランパイロットは少なく、また物量差も圧倒的で、戦況を覆すには至らなかった{{sfn|野原|塩飽|1990|pp=63-64}}<ref group = *>野原&塩飽 (1990)では、空力的に洗練されている上に馬力の割に重量が軽いことなどから、単純な空戦性能であればP-51 ムスタングを凌駕していたのではないかと言及されている。</ref>。

'''Fw190D-10'''はプロペラ軸内に[[MK 108 機関砲|MK108]] 30mm 機関砲を[[モーターカノン]]として装備、エンジン上部にMG151 20mm機関砲を1門装備したものであるが、搭載予定であったJumo 213C-1 エンジン(1770馬力)の開発が遅れるなどし、量産はされなかった{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=412}}{{sfn|野原|塩飽|1990|p=69}}。
'''Fw190D-11'''はエンジンを改良型のJumo 213E(1750馬力)またはJumo 213F(離昇出力2000馬力)とし、プロペラについても新型のVS10を装備、キャノピーはガーラント・ハウベを標準とし武装は内翼にMG151 20mm機関砲×2、外翼にMK108 30mm 機関砲×2を装備したもの。1944年8月31日に初飛行を行ったもののJumo 213Fの開発の遅れなどにより原型機7機の生産にとどまった{{sfn|野原|塩飽|1990|p=70}}{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=413}}。
'''Fw190D-12'''はエンジンをJumo 213F(2050馬力){{sfn|野原|塩飽|1990|p=4}}とし、武装はMK108 30mmモーターカノン(弾数85発)と主翼内翼にMG151 20mm機関砲×2を装備したもので、戦闘爆撃機型でもある。D-11型と同時に開発され1945年4月まで少数生産されたと見られるが詳細は不明{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=413}}{{sfn|野原|塩飽|1990|p=70}}。高度9150mで730km/hを発揮したと言われる{{sfn|野原|塩飽|1990|p=70}}。
'''Fw190D-13'''はD-12のモーターカノンをMG151 20mm機関砲(弾数220発){{sfn|野原|塩飽|1990|p=63}}に改めたもので、A-8型となるべく部品を共通化し量産が図られた。1945年3月以降約30機が生産され、約20機が第26戦闘航空団(Ju26)に配備された模様である{{sfn|野原|塩飽|1990|p=71}}。エンジンはJumo 213F-1(2060馬力){{sfn|野原|塩飽|1990|p=4}}。
'''Fw190D-14'''ではC型での採用が検討されたDB 603エンジンの搭載を空軍側が指示し、試作機のみが作られた。DB 603の構造上、過給器空気取り入れ口は機首左側に移設されている{{sfn|野原|塩飽|1990|p=72}}。最高速度は高度7400mで710km/h{{sfn|野原|塩飽|1990|p=72}}。全長は更に伸び10.422m{{sfn|野原|塩飽|1990|p=63}}。
'''Fw190D-15'''ではDB 603Eエンジン(またはMW50出力増強装置を装備したEB。この場合出力は最大で2260馬力)が搭載され内翼にMG151 20mm機関砲×2、外翼にMK108 30mm 機関砲×2を装備。A-8型の部品をなるべく流用しつつ、機首や尾翼などをTa152Cと共通化した。1945年4月から生産がなされた、またはされるはずであったが、最早ドイツは敗戦を迎えようとしており、少数の生産にとどまった{{sfn|野原|塩飽|1990|p=72}}{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=414}}<ref group = *>この突然のエンジン変更は、フラッペ&ローラン(1999) p.414の[[小野義矩]]による訳注によれば、[[メッサーシュミット]]社で開発されていたDB 603Aエンジンを装備予定の新型機が軒並み開発中止となってしまいメッサーシュミット社がジェット戦闘機である[[Me 262]]に専念することとなったためではないかと思われる。野原&塩飽(1990)によれば、少なくとも2機が実戦に参加した。</ref>。

=== Ta152 ===
{{Main|Ta 152}}
以降の形式はやはりFw 190の改良型ではあるが、[[Ta 152]]と言う名称に改められた。これはクルト・タンクにとって本命と言える改良型であった。エンジンを液冷のものに換装し全長を10.710mと延長した上で、高々度戦闘に備え主翼を高々度飛行に向いたアスペクト比の大きなものに再設計、全幅は10.510m(Fw190A-8)から14.440m(Ta152 H-1)となった。Ta152Hは空軍の指示によりJumo 213Eを搭載し、{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=454}}、武装はMK108 30mmモーターカノン×1および主翼内翼にMG151 20mm機関砲×2。高度9000mで700km/hを記録するなど高性能を発揮した{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=457}}。試作機は1944年7月頃から製造され、1945年1月からは第301戦闘航空団(JG301)で実戦テストが開始された{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=459}}{{sfn|田中|飯田|佐藤|2006|pp=26-27}}。また1944年12月から翌1月にかけにはDB 603LまたはLAエンジンを搭載し翼を全幅11mに切り詰めたC型も初飛行を行い、相当数が試作された{{sfn|田中|飯田|佐藤|2006|p=27}}。総生産機数は終戦までにH0型20機およびH1型34機{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=456}}、1945年2月までに各型合計で67機{{sfn|田中|飯田|佐藤|2006|p=29}}などと言われている。なおH型、C型と名付けられたのは、Fw190の各型との混同を避けるため。初期型はTa152Bとされ、Ta152Eは戦闘偵察機の予定であった{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|pp=454-455}}。

=== F・G型 ===
1943年夏{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=166}}以降に制式化された戦闘爆撃機型・長距離戦闘爆撃機型は合計6644機が生産された{{sfn|野原|塩飽|1993|p=92}}。1943年秋頃からは旧式化したJu87の穴を埋めるためG型が多く生産され、その分F型の生産は抑えられた{{sfn|青木|1995|p=225}}。G型では通常、合計500kg - 1000kgの爆弾が搭載でき、最大で1.8tを運用することができた{{sfn|青木|1995|p=225}}。

* '''Fw190F-1''':1942年9月に就役していたA-4/U3を改称した[[戦闘爆撃機]]型{{sfn|野原|塩飽|1993|p=89}}。対空砲火に備え胴体下面の外板を5-8mm厚とするなどし、装甲を強化{{sfn|野原|塩飽|1993|p=89}}{{sfn|「丸」編集部|2000|p=79}}。外翼の20mm[[MG151|MG151/20]][[機関砲]]を撤去、胴体下に爆弾架を装備。総重量は360kg増加{{sfn|野原|塩飽|1993|p=89}}。実用テスト機扱いで30機のみ生産された{{sfn|野原|塩飽|1993|p=89}}。
* '''Fw190F-2''':A-5/U3を改称した戦闘爆撃機型で、改修部はF-1型とほぼ同様{{sfn|野原|塩飽|1993|p=89}}。
* '''Fw190F-3''':A-5/U17を元にした本格生産型で、1183機を生産{{sfn|野原|塩飽|1993|p=90}}。旧式化したJu87に代わり東部戦線での地上攻撃の主力を務めた{{sfn|野原|塩飽|1993|p=90}}。R1型では両主翼下に小型爆弾架ETC50が各2個装備されるが、これは実際にはほとんどの機体に装備されている{{sfn|野原|塩飽|1993|p=90}}。なお以降のF-4/F-5/F-6/F-7は計画のみの機体である。<ref group = *>鈴木 (1979)によれば、エンジン上部の7.92mm[[MG 17 機関銃|MG17]]×2を20mm[[MG151|MG151/20]][[機関砲]]×2に変更して武装を強化したもの。</ref>
* '''Fw190F-8''':A-8を基にした戦闘爆撃機型で、機首の機銃が13mm機関銃に変更され{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=192}}、両主翼下の4つの小型爆弾架も新型のETC50に変更、個別の投下が可能となった{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=192}}。後期生産型はキャノピーを「ガーラント・ハウベ」に変更している{{sfn|野原|塩飽|1993|p=92}}。A-8型と同様非常に多数生産され、戦闘爆撃機型の6割はこのタイプである{{sfn|野原|塩飽|1993|p=92}}。この機体は各種の改修型が生産され、特に対戦車用として[[パンツァーシュレッケ]]・[[R4M|パンツァーブリッツ]]と言ったロケット弾を装備したものは大規模に運用された{{sfn|野原|塩飽|1993|p=92}}。なお、F-4からF-7型は計画のみの機体である<ref group = *> 鈴木五郎著『フォッケウルフ戦闘機』1979年 サンケイ出版 161項 によれば、[[R4M]]ロケット弾×24発又は対戦車ロケット弾×14発又は各種の爆弾を積載可能。</ref>。
* '''Fw190F-9''':A-9を基にした戦闘爆撃機型。A-9と同様エンジンは[[BMW 801]]TS、キャノピーは「ガーラント・ハウベ」へ変更されている。生産数は不明だが、少数生産されたもよう{{sfn|野原|塩飽|1993|p=93}}<ref group = *>1945年1月20日時点で、前線にF-8型とF-9型を合わせ790機が配備されていた。</ref>。なおこの機体以降もF-10型、F-15型、F-16型が計画またはテストされたが、F-11からF-14型は欠番である{{sfn|野原|塩飽|1993|p=94}}。

* '''Fw190G-1''':A-4/U8を基にした長距離戦闘爆撃機型。固定武装は主翼付け根の20mm[[MG151|MG151/20]][[機関砲]]×2のみ。胴体下に爆弾架、両主翼下に300リットル入り増槽が標準装備{{sfn|野原|塩飽|1993|p=95}}。
* '''Fw190G-2''':A-5/U8を基にした長距離戦闘爆撃機型。Aシリーズの生産ラインがA-5に変わったため。601機生産{{sfn|野原|塩飽|1993|p=95}}。
* '''Fw190G-3''':A-6・A-7を基にした長距離戦闘爆撃機型。PKS11自動操縦装置を装備。144機生産{{sfn|野原|塩飽|1993|p=95}}。なお以降のG-4/G-5/G-6/G-7は欠番。
* '''Fw190G-8''':A-8を基にした長距離戦闘爆撃機型。Aシリーズの生産ラインがA-8に変わったため。両主翼下の増槽架は爆弾装備も可能なETC503に変更{{sfn|野原|塩飽|1993|p=96}}。

=== 練習機型 ===
練習機型は合計で90機が生産された{{sfn|野原|塩飽|1993|p=96}}。
* '''Fw190S-5''':A-5を基にした複座の[[練習機]]型。後席は教官席で簡単な操縦装置追加されている。武装は全廃され、キャノピーは前・後席とも右上方へ開く{{sfn|野原|塩飽|1993|p=96}}。
* '''Fw190S-8''':A-8を基にした複座の練習機型。教官席のキャノピー側面が改修され視界が向上している。

== スペック ==
{| border="1" cellpadding="2" cellspacing="0" class="wikitable"
{| border="1" cellpadding="2" cellspacing="0" class="wikitable"
|+性能諸元
|+性能諸元
|-
|-
|機体記号:|| Fw190
|機体記号:|| Fw190A-5|| Fw190A-8 || Fw190D-9
|-
|-
|全長:||9.00 m
|全長:||8.95 m||8.95 m||10.192 m
|-
|-
|全幅:||10.51 m
|全幅:||10.510 m||10.510m||10.506m
|-
|-
|全高:||3.95 m
|全高:||3.95 m||3.95m||3.36m{{sfn|野原|塩飽|1990|p=63}}
|-
|-
|翼面積:||18.30m<sup>2</sup>||18.30m<sup>2</sup>||18.30m<sup>2</sup>
|全備重量:||4,900 kg
|-
|-
|全備重量:||4,063 kg||4,750 kg||4,840 kg
|速度:||610km/h
|-
|-
|速度:||670 km/h (6250m)||640 km/h (6400m)||698 km/h (6400m) / 732 km/h (6400m, MW50使用)
|航続距離:||850km・(1450km落下タンク300ℓ装着時)
|-
|-
|航続距離:||850 km||1450 km (300リットル増槽装備時){{sfn|野原|塩飽|1993|p=51}}||810 km
|主武装:||13 mm[[MG 131 機関銃|MG 131]][[機関銃]]2挺(A7以降)<br> 20 mm [[MG 151 機関砲|MG 151/20]][[機関砲]]4挺
|-
|-
|主武装:||7.92 mm [[MG 17]] 機関銃 2挺<br>20 mm [[MG 151 機関砲|MG 151/20]][[機関砲]] 2挺 <br>20 mm [[MG FF 機関砲]] 2挺 || 13 mm[[MG 131 機関銃|MG 131]][[機関銃]]2挺<br>20 mm [[MG 151 機関砲|MG 151/20]][[機関砲]]2挺 <br>20 mm [[MG FF 機関砲]] 2挺|| 13mm[[MG 131 機関銃|MG 131]][[機関銃]]2挺 <br> 20 mm [[MG 151 機関砲|MG 151/20]][[機関砲]]2挺
|発動機<br>出力(馬力):||BMW801 <br /> 1800馬力</td></tr>
|-
|-
|発動機<br>出力(馬力):||BMW 801 D-2<br /> 1700馬力(離昇)||BMW 801 D-2<br /> 1700馬力(離昇)||Jumo213A <br /> 1776馬力 (離昇。[[MW 50]]使用時には2240馬力)
|乗員:||1 名
|-
|乗員:||1 名||1 名||1 名
<!--
<!--
|-
|-
|生産数:||空欄 機|| -->
|生産数:||空欄 機|| -->
|}
|}
''※ 数値は文献により多少の差違がみられるが、特記無き部分は ジャン=ベルナール・フラッペ & ジャン=イヴ・ローラン (1999)『フォッケウルフFw190 その開発と戦歴』p.162, p.190, p.415に準拠する。ただしA-5型の全幅は誤りと見られるため、10.510mとした。''


== 運用国 ==
== 運用国 ==
[[Image:Focke-Wulf Fw 190D-9 outside USAF.jpg|thumb|250px|アメリカの博物館で保存されているFw 190D-9]]
[[file:Fw190A-3 JG2 Gr.Ko.Hahn42 kl96.jpg|thumb|250px|Fw190 A-3]]
*[[ナチス・ドイツ|ドイツ]]
* [[ナチス・ドイツ|ドイツ]]
*[[ハンガリー]]: F型
* [[ハンガリー]]: F型
*[[トルコ]]: A型
* [[トルコ]]: A-3の軽武装を70機{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=518}}。
*[[チェコスロバキア]]: A型(戦後運用)
* [[チェコスロバキア]]: A型(戦後運用)


連合国側・枢軸国とも非常に注目を集めた機体であったので、以下のような国でFw 190を購入し、あるいは、[[鹵獲]]機を試験・分析した。また、一部は限定的に運用された。
連合国側・枢軸国とも非常に注目を集めた機体であったので、以下のような国でFw190を購入し、あるいは、[[鹵獲]]機を試験・分析した。また、一部は限定的に運用された。
*輸入国
* 輸入国
**[[ルーマニア]]: A/F型(実戦部隊配備なし・限定的運用)
** [[ルーマニア]]: A/F型(実戦部隊配備なし・限定的運用)
**[[大日本帝国|日本]]: A-5型(試験目的)。1943年10月、[[陸軍航空審査部]]飛行実験部の[[テスト・パイロット]]である[[荒蒔義次]]中佐・[[神保進]]少佐によりテスト飛行が行われた。印象は、電気コントロールで油圧の日本機に比べ軽快な戦闘機だったこと、急降下速度は形状的特性からBf109や[[三式戦闘機|三式戦闘機「飛燕」]]には劣ったがドイツの工業水準を垣間見る事が出来た、とある。<ref>『[[丸 (雑誌)|丸 季刊グラフィッククォータリィ]]』、第12号「ドイツの軍用機」1973年・[[潮書房]]刊18頁</ref>また、同機のエンジン装備と空力処理の方式は、[[五式戦闘機]]の開発に大きく貢献した。
** [[大日本帝国|日本]]: A-5型(試験目的)。1943年10月、[[陸軍航空審査部]]飛行実験部の[[テスト・パイロット]]である[[荒蒔義次]]中佐・[[神保進]]少佐によりテスト飛行が行われた。印象は、電気コントロールで油圧の日本機に比べ軽快な戦闘機だったこと、急降下速度は形状的特性からBf109や[[三式戦闘機|三式戦闘機「飛燕」]]には劣ったがドイツの工業水準を垣間見る事が出来た、とある。<ref>『[[丸 (雑誌)|丸 季刊グラフィッククォータリィ]]』、第12号「ドイツの軍用機」1973年・[[潮書房]]刊18頁</ref>また、同機のエンジン装備と空力処理の方式は、五式戦闘機の開発参考とされ(前述)


*鹵獲テスト国
* 鹵獲テスト国
**[[イギリス]]: A-3型等。1942年6月[[ベンブレイ]]の英国軍基地へ1機のFW190A-3が着陸した。搭乗していたのは、ドイツ第2戦闘航空団所属のファーベル大尉であった。投降説もあるが、着陸前に戦果を示すダイブをしている事から方向を見誤りフランスのドイツ基地と誤認したのだろうといわれている。本機は、生産されたばかりの真新しい機体であったという<ref>『丸 季刊グラフィッククォータリィ』、第12号「ドイツの軍用機」1973年・潮書房刊15頁</ref>
** [[イギリス]]: A-3型等。1942年6月[[ベンブレイ]]の英国軍基地へ1機のFW190A-3が着陸した。搭乗していたのは、ドイツ第2戦闘航空団所属のファーベル大尉であった{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=65}}。投降説もあるが、着陸前に戦果を示すダイブをしている事から方向を見誤りフランスのドイツ基地と誤認したのだろうといわれている。本機は、生産されたばかりの真新しい機体であったという<ref>『丸 季刊グラフィッククォータリィ』、第12号「ドイツの軍用機」1973年・潮書房刊15頁</ref>。1943年4月
** [[ソビエト連邦]]: D型等。戦後にバルチック艦隊飛行連隊に配備されていたとの説もある{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|p=518}}。
**[[ソビエト連邦]]: D型等
**[[アメリカ合衆国]]: A/F型等
** [[アメリカ合衆国]]: A/F型等
** [[フランス]]: A型等。1944年のフランス解放時修理工場が接収され、鹵獲した機材を修理・組み立てしNC900と名付け運用。64機が空軍に納入され、1947年夏ごろまで配備されていた{{sfn|フラッペ|ローラン|1999|pp=518-521}}。
**[[フランス]]: A型等

== 注釈 ==
{{reflist | group = *}}


== 出典 ==
== 出典 ==
{{reflist | 2}}
<references />

== 参考文献 ==
* {{Citation |last=青木|first=茂| year = 1995 | title = ドイツ第三帝国軍用機ガイド 1934‐1945 | publisher = 新紀元社 | isbn = 978-4883172542}}
* {{Citation |last=秋本|first=実| year = 2000 | contribution = Fw190の勝利と敗北 | series = 図解・軍用機シリーズ | volume = 10 | title = メッサーシュミットBf109/フォッケ・ウルフ Fw190 | publisher = [[光人社]] | isbn = 4-7698-0919-0}}
* {{Citation |last=飯沼||first=一雄| year = 2000 | contribution = Fw190A・F・Gタイプ&バリエーション | series = 図解・軍用機シリーズ | volume = 10 | title = メッサーシュミットBf109/フォッケ・ウルフ Fw190 | publisher = [[光人社]] | isbn = 4-7698-0919-0}}
* {{Citation |last=ウィール|first=ジョン|transrator = [[阿部孝一郎]]| year = 2001 | series = 世界の戦闘機エース | volume = 9 | title = ロシア戦線のフォッケウルフFw190エース | publisher = [[大日本絵画]] | isbn= 4-499-22744-5}}
* {{Citation |last=ウィール|first=ジョン|transrator = 阿部孝一郎| year = 2004 | series = オスプレイ軍用機シリーズ | volume = 43 | title = ドイツ空軍地上攻撃飛行隊 | publisher = 大日本絵画 | isbn= 4-499-22838-7}}
* {{Citation |last=ウィール|first=ジョン|transrator = [[手島尚]]| year = 2006 | series = オスプレイ軍用機シリーズ | volume = 52 | title = ドイツ空軍強襲飛行隊 | publisher = 大日本絵画 | isbn= 4-499-22916-2}}
* {{Citation |last=黒江|first=保彦|year = 1962 | contribution = 私の見たフォッケウルフFw190 | title = 航空ファン 1962年2月号 | p=74}}
* {{Citation |last=古峰|first=文三| year = 2007 | contribution = 発動機を水冷から空冷に換装、起死回生を遂げた「キ100」 | pages = 153-158 | series = 歴史群像 太平洋戦史シリーズ | volume = 61 | title = 三式戦「飛燕」・五式戦 | isbn = 978-4-05-604930-5}}
* {{Citation |last=白石|first=光| year = 2009a | contribution = 突撃飛行隊シュトルムボック | series = 歴史群像アーカイブ | volume = 8 | title = ヨーロッパ爆撃戦記 | publisher = [[学習研究社]] | isbn = 978-4-05-605522-1}} - 初出は『歴史群像』 2008年2月号(No.87) pp.96-103。恐らくアーカイブの方が手に入りやすいであろうことから、ページ番号はそちらに準拠した。
* {{Citation |last=白石|first=光| year = 2009b | contribution = 実録 アメリカ第8航空軍 | series = 歴史群像アーカイブ | volume = 8 | title = ヨーロッパ爆撃戦記 | publisher = 学習研究社 | isbn = 978-4-05-605522-1}} - 初出は『歴史群像』 2008年6月号。
* {{Citation |last=鈴木|first=五郎| year = 1979 | title = フォッケウルフ戦闘機 ドイツ空軍の最強ファイター | series = 第二次大戦ブックス | volume = 75 | publisher = サンケイ出版}}
* {{Citation |last=鈴木|first=五郎| year = 2006 | title = フォッケウルフ戦闘機 ドイツ空軍の最強ファイター | publisher = 光人社 | isbn = 4-76980-2487-4}} - 上記の加筆修正・文庫版。特記無き場合ページ番号はこちらに準拠。
* {{Citation |last1=田中|first1=義夫|last2=飯田|first2=雅之|last3=佐藤|first3=幸生|editor-first=義夫|editor-last=田中| year = 2006 | series = イラストレイテッド | title = ドイツ軍用機名鑑 1939-45 | publisher = [[コーエー|光栄]] | isbn = 4-7758-0368-9}}
* {{Citation |last=野木|first=恵一| year = 2007 | contribution = ドイツの航空燃料裏事情 | series = 歴史群像 第二次大戦欧州戦史シリーズ | volume = 26 | title = ドイツ空軍全史 | publisher = 学習研究社 | isbn = 978-4-05-604789-9}}
* {{Citation |last1=野原|first1=茂| year = 2006 | title = ドイツ空軍戦闘機 1935-1945 メッサーシュミットBf109からミサイル迎撃機まで | series = 世界の傑作機 別冊 | publisher = 文林堂 }}
* {{Citation |last=野原|first=茂|last2=塩飽|first2=昌嗣| year = 1990 | title = フォッケウルフFw190D | series = エアロ・ディテール | volume = 2 | publisher = 大日本絵画 | isbn = 4-499-20547-6}}
* {{Citation |last=野原|first=茂|first2=昌嗣|last2=塩飽| year = 1993 | title = フォッケウルフFw190A/F | series = エアロ・ディテール | volume = 6 | publisher = 大日本絵画 | isbn = 4-499-22603-1}}
* {{Citation |last1=長谷川|first1=忍| year = 2007 | title = 第2次大戦のドイツ軍用機列伝 | volume = 1 | publisher = 酣燈社 | isbn = 978-4-87357-265-9}}
* {{Citation |last=フラッペ|first = ジャン・ベルナール|last2=ローラン|first2=ジャン・イヴ| year = 1999 | transrator = [[小野義矩]] | title = フォッケウルフFw190 その開発と戦歴 | publisher = [[大日本絵画]] | isbn = 978-4499226981}}
* {{Citation |last1=ボーマン|first1=マーティン| year = 2008 | title = P-51マスタング vs フォッケウルフFw190 ヨーロッパ上空の戦い 1943-1945 | series = オスプレイ "対決" シリーズ | volume = 1 | publisher = アートボックス }}
* {{Citation |author=「丸」編集部| year = 1994 | series = 軍用機メカ・シリーズ | volume = 10 | title = メッサーシュミットBf109/フォッケ・ウルフ Fw190 | publisher = 光人社 | isbn = 4-7698-0680-9}}
* {{Citation |author=「丸」編集部| year = 2000 | series = 図解・軍用機シリーズ | volume = 10 | title = メッサーシュミットBf109/フォッケ・ウルフ Fw190 | publisher = 光人社 | isbn = 4-7698-0919-0}} - 上記のハンディ(コンパクト)版。これに掲載された文書については特記のない限り、より入手容易と思われるこちらを参照している。
* {{Citation |last=村上|first=洋二| year = 2000 | contribution = 超一流の戦闘機Fw190のメカニズム | series = 図解・軍用機シリーズ | volume = 10 | title = メッサーシュミットBf109/フォッケ・ウルフ Fw190 | publisher = 光人社 | isbn = 4-7698-0919-0}}
* {{Citation |last=渡辺|first=洋二| year = 2006 | title = 液冷戦闘機「飛燕」 日独合体の銀翼 | publisher = 文春文庫 | isbn = 4-16-724914-6}} - 1998年 朝日ソノラマ 『液冷戦闘機「飛燕」』の加筆・修正・文庫版。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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[[Category:ドイツの戦闘機|ふおつけうるふFw190]]
[[Category:ドイツの戦闘機|ふおつけうるふFw190]]


[[ar:فوك وولف فو 190]]
[[br:Focke-Wulf Fw 190]]
[[ca:Focke-Wulf Fw 190]]
[[ca:Focke-Wulf Fw 190]]
[[cs:Focke-Wulf Fw 190]]
[[cs:Focke-Wulf Fw 190]]

2012年11月29日 (木) 06:16時点における版

フォッケウルフ Fw190

飛行中のFw190

飛行中のFw190

フォッケウルフ Fw190は、第二次世界大戦時のドイツ空軍戦闘機メッサーシュミットBf109とともに主力を担った。愛称は「ヴュルガー」(百舌)。設計はクルト・タンク。強力な空冷エンジンを搭載し優れた飛行性能を見せたほか、頑丈で余裕の有る機体は戦闘爆撃機型や対爆撃機型、高速偵察機型など様々な派生型を産み、さながら「軍馬」のごとくよく過酷な戦場に耐え、大戦を戦い抜いた。1944年にはエンジンを液冷のJumo213 Aに換装したFw190-D9型が登場。大戦末期に開発された更なる改良型は設計者・タンクの名称を取ってTa 152と命名された[* 1]。シリーズの総生産数は20,000機以上。

概要

ナチス・ドイツ政権の大軍拡政策によって、ドイツ空軍は戦闘機の近代化を強力に推し進めた。ところが、主力戦闘機メッサーシュミット Bf109は高性能ではあったものの、操縦が難しくまた主脚のスパンが短く構造も脆弱であったため、着陸事故が多かった[1]。また搭載エンジンであるDB 601は生産性に難があり供給数量に限界があった。

その事故率の高さと生産性の問題に不安を感じたドイツ空軍上層部は、1938年[2][3][4]フォッケウルフ(フォッケ・ヴルフ)社に対し、補助戦闘機の開発を依頼した。フォッケウルフ社ではこれを受けて、クルト・タンク技師およびブラーザー主任技師を中心としたわずか12名のチームで開発を進め[5][6]1939年6月1日に初飛行に成功した。

タンク技師は、第一次世界大戦騎兵として出征、大学では第一志望の航空力学の講義が禁止されたため電気工学を専攻、在学中はグライダー研究会でグライダーの設計、製作、飛行までを行い、その後さらに、飛行機の操縦ライセンスまで取得するという異色の経歴を持っていた。

タンク技師はFw190開発に当たって、メッサーシュミットBf109のような「速いだけが取り柄のひ弱なサラブレッド」ではなく、過酷な戦場での使用に耐える「騎兵の馬(ディーンストプフェーアト"Dienstpferd")」をコンセプトとして開発を進めた[2]。完成したFw190は、強力な武装・良好な空戦性能を持ち操縦しやすく、最前線でも容易に修理が可能、さらに大量生産しやすい構造という、まさに理想的な兵器であった。

当時、戦闘機は前映投影面積が小さくその分空気抵抗が少ないため液冷エンジンが有利とされていたが[7]、Fw190は、当時使用可能だった唯一の1500馬力級空冷星形エンジンBMW 139(離昇出力1550馬力)を使って開発された。これはBf109その他の機体に採用されて生産が手一杯だったDB601系エンジン(離昇出力1075馬力)とは別のエンジンを使用する様に、空軍当局が指示したともされるが[8]、エンジンの指定その他の要求はほとんど無かったともされ[9]、タンク自身は後に、その馬力の大きさと被弾への強さから敢えて空冷エンジンを選んだとしている[10][11]

これによりFw190は液冷王国ドイツにおける唯一の空冷エンジン単座戦闘機となったのであるが、エンジンの出力が高いほかタンクの先進的な設計もあり、試作段階より既にBf109Eを凌駕する速度を発揮していた[12]。量産型ではのちにBMW社が開発に成功した、より高出力のBMW 801シリーズに換装された。なお開発時および実戦配備初期には空冷エンジンの冷却不良・過熱や、エンジンの自動制御装置の不良などが問題視されていた[13]

Bf109がヨーロッパ最強を誇っていた緒戦ではあまり注目を浴びなかったが、スピットファイア Mk.V等、連合国の新型戦闘機に対抗する高性能機として1941年から実戦配備が始まった。

しかしながら、空軍では能力不足を露呈しつつあったにも拘らずメッサーシュミットのBf109を主力として配備する方針であったため、Fw190は補助戦闘機という低い地位しか与えられなかった。それでも、最初の配備型Fw190Aは英国のスピットファイア Mk.Vを実戦で圧倒し、強力な新型戦闘機の登場という混乱を連合国に与えた。本機の活躍によりドーバー海峡上の制空権はドイツ空軍の手中に収められ[14]、この状況は半年後のイギリス空軍のスピットファイアMk.IXの出現まで継続した。A型は高度6000m以上でBMW 801の出力が落ち、高高度性能が不足していたが中低高度では高性能を遺憾なく発揮し、その後も改良が続けられBf109と共にドイツ空軍を支えた。

Fw190は低高度での高性能に加えて、広く安定した車輪間隔や余裕ある設計や頑丈な機体という特長があったため、これを生かして戦闘機としてのA型のほかに戦闘爆撃機型のF型、長距離戦闘爆撃機型のG型など多様な種類が作られた。爆撃任務を行うF・G型にはBf109の護衛がつく事があったが、 爆弾さえ投棄すればFw190のほうが空戦性能に優れていたため、護衛する側にとっては馬鹿らしい任務だったと言ったエピソードが紹介された文献もある[15]

Fw190は高々度より進入する連合軍の重爆撃機やそれを護衛する戦闘機との戦いに要する高々度性能が不足しており、またBWM 801エンジンでは高々度性能の向上が難しかったため、これを液冷エンジンJumo 213に換装した改良型、Fw190 D-9型が設計され、配備された(詳しくは後述)。だがD-9型が配備され始めた1944年晩夏の頃にはすでにドイツ軍全体が燃料欠乏に悩まされており[16] [* 2]、さらにベテランの喪失によるパイロット全体の質の低下、さらに数的劣勢が加わってドイツ空軍にはD-9型を有効に駆使する能力は残っていなかった。D-9型は約700機が生産された。もうひとつはタンク技師の本命であり最終開発タイプとなったTa 152(機体に個人のイニシャルを冠する栄誉を得た[18])であったが、こちらは60機強の生産に過ぎず本格的な配備には到らなかった。Fw190シリーズは、最終的には20000機あまり(修理再生も含む)が生産された。

枢軸国各国及び一部の中立国や連合国でも多く使用されたBf109と違い、Fw190は主としてドイツ空軍で運用された。例外はハンガリー空軍とトルコ空軍で、枢軸国であった前者にはF型の部隊配備がなされ、中立国であった後者には枢軸国側への引き込みを目的に、He 111 Fなどと共にA型が提供された[要出典]。また、日本は参考のためにA-5型をドイツより有償供与され、1943年に海軍の潜水艦輸送された。この機は陸軍航空総監部で、技術的な分析ののち飛行テストがなされた。その結果はメーカーの技術者も参照でき、五式戦闘機のエンジン排気の空力処理などの参考にされた[19][20]。その他の飛行テストなどについては#エピソードで詳述する。

第2次大戦後、Fw190の性能を調査したアメリカ軍は、「第2次世界大戦におけるドイツ最良の戦闘機」という評価を与えている[要出典]

メカニズム

フォッケウルフ Fw190の特徴を以下に述べる。

Fw190 A
Fw190 A-3
飛行特性
Fw190は、空冷式であったものの当時ドイツで最大パワーを誇っていたBMW 801エンジンを搭載していた。これは二重星型14気筒で[* 3]、A-2型まで搭載されていたBMW 801C型で離昇出力1600馬力、A-3型以降のBMW 801D-2型で1700馬力であり、Bf109 E型のDB 601A(離昇出力1100馬力)やBf109 F型のDB 601E(1350馬力)と比較して明らかに強力である。空冷星形エンジンは液冷エンジンに比べ前方投影面積が広い点が不利であるが、カウル内に空気抵抗の大きい突起物を全て納めるなどの設計で、十分な性能を確保した[21]。水平面での旋回半径こそ大きいものの[22]、軽快で扱いやすく操縦は容易、補助翼の効きは非常に優れており[23]、連合軍の一線級戦闘機と渡り合うことができ[23][24]、初期にはこれを圧倒したほどである。特に上昇力を生かした降下&ズーム上昇での一撃離脱戦法に適性を示した[25]
ただしBMW 801は、高度6000-7000mを超えると出力が急激に低下する[26][27]。このため1942年以降、特に高空において2段2速過給器ターボチャージャーを装備した連合軍の新型戦闘機に苦戦することとなり、液冷エンジンに換装するなどして性能の改善がはかられた(後述)。
またFw190には、脚やフラップを降ろさない状態で速度が175km/h程度に低下した時に振動などの前触れ無く突如失速状態に陥り、左翼が下がり自転から錐揉みに至ると言う弱点があり、格闘戦が不向きな要因の一つであった。これは急激なロールの切り返しで、より高速度でも意図的に発生させることもでき、敵機に追尾されている状態からの離脱に用いることができたと言う[28]。ウィール (2001)によればこれはA-3型での話であるが、後の型で改良されているのかについては定かではない。
操縦への配慮
Fw190ではダイレクトな操縦感覚を求めて伸び縮みしないロッドを使い、速度差による違和感については、リンク機構を工夫することで解消していた[29][30](高速時に舵面にかかる風圧が大きくなると、それに応じてリンク機構の支点位置も移動するので、操縦桿と舵面の動きが非直線となり、違和感が解消できる)。
操縦に要する力もできるだけ少なく抑え、コックピットの設計にも気を配るなど、パイロットが疲労しないように配慮がなされた[31]。また、燃料タンクや機関砲など、使用することによって重量が変化するものは重心付近に集中して設置し、トリム調整も最小限に済むようにされていた[32]
その他、誤操作をなくすため、スイッチの配置に人間工学的な配慮がされていたり、作動状態の確認はランプではなくメカ方式が使われるなど、パイロットが短期間で習熟できるように配慮がなされていた。
また、BMW 801エンジンには、「コマンドゲレート"Kommandogerat"」と呼ばれる自動制御装置、後年でいう所のアナログコンピュータが組み込まれていた。当時の他の航空機用エンジンは、速度や高度に応じてエンジンを細かく調整する必要があったのだが、この自動制御装置は、パイロットがスロットルレバーを操作するだけで、プロペラピッチ、2段スーパーチャージャーの切り替え、点火時期調整、混合気濃度などが自動調整されるようになっており、余分な負担が減った分だけ、パイロットは戦闘に集中することができ、未熟なパイロットでも十分に扱うことができた[33][34][* 4]
頑丈な機体
前述の通り本機は戦場での過酷な使用に耐えることをコンセプトの一つとして開発された[2]
当時、引き込み脚(主脚)の間隔の短さや強度不足などから着陸事故が多発していた主力戦闘機メッサーシュミット Bf109に対して、Fw190では主脚の間隔を3.5mと十分広く取り[35][36]、さらに通常求められる数値の2倍となる秒速5.0mでの着地に耐えるように設計され[5]、パイロットが最も神経を使う着陸時に、多少ラフな操作をしても壊れない強度が持たせられていた。その他の部分にも十分な余裕を見込んだ設計がなされ、これらが後に戦闘爆撃機型、突撃型などの様々な発展型の実現に寄与した[5]
主要部分には防弾鋼板が張られている(A-8型で総計136-166kg)[37]ほか、キャノピー正面の防弾ガラスの厚さは50mmにも及ぶ[38]。オイル系統も装甲の上で2重の冗長性を持たされ、被弾時の生残性を高められていた[39]
また、空冷エンジンは液冷エンジンと比較して耐弾性に優れ、液冷エンジンであれば冷却水漏れを起こす様なケースにおいても無事に帰還ができる場合があり[5]、さらにパイロットにとっては前方からの射撃に対する装甲としても機能した[22]。ただし万が一エンジンが停止した時には、滑空性能は良好とは言えず[* 5]、主脚を用いての着陸は比較的困難[* 6]であり、脱出または胴体着陸が推奨されていた[22]
なおFw190は、開発段階では全長8.85m、全幅9.5mと、小型と言われるBf109と大差のない機体サイズでありまた、武装もそう強力なものではなかった(後述)[40]
大量生産への配慮
フォッケウルフ社は会社の規模が小さく、部品製作を下請けメーカーに依存していたため、大量生産しやすいように機体をいくつかのコンポーネントに分割する一方、その構成部品も円筒のような単純な2次元曲面を多用し、球形のような複雑な3次元曲面の部品は最小限にしていた[41]。例えば、エンジン・カウリングは板を曲げただけの単純な形状であり、カウリング前面の3次元曲面を構成する部品は、オイルタンクとオイルクーラーが一体化した部品を兼ねている、というように、複雑な形状を持つ部品が機能を融合化することによって部品数が減らされていた。このような設計は、後に本機を捕獲した英軍や輸入した日本軍にも影響を与えた。[要出典]ある簡素な製造ラインでは、ベルリンが占領される直前までFw 190を生産し続けていたと言う[30]
前線での整備
上述の様にFw190は、各部がコンポーネント化されていたため、壊れた部品はユニットごと交換するだけで簡単に修理することができるようになっていた[30][42]。また、機体各部の作動機構は、車輪の油圧ドラムブレーキ以外すべて電動式を採用した[30]。その理由として、タンク技師は、米軍機程に油圧機構に信頼がもてなかったことと、前線での整備のメリットとをあげている[要出典]。電動式にすることで、前線での点検整備・交換が簡単に行えるようになった[30]。なお、電線を接続するコネクターはすべて形状が異なるようにされており、目的通りの接続でなければコネクターが接続できないというように、整備面に対する人間工学的な配慮もなされていた[30]。その他、胴体後部に機体を左右に貫通する小さな穴が開けられており、ここに鋼管を差し込みジャッキアップできるといったようなメカニズムもあった[43]最前線での過酷な状況下でも整備や修理が容易に行えるように配慮してあった。また、整備仕様としては欧米での主流であった定時部品交換方式(一定飛行時間毎に決められた部品を強制交換してゆく方式、日本陸軍でいう「時間整備」)を更に進め、部品交換時の調整工数を極限まで減らした設計とされていた。(飛行時間あたりの整備に掛かるマンアワーは同時代米軍機の約70%とも言われる)[要出典]
キャノピー
Bf109やスピットファイアなどにみられた、キャノピー後部が胴体と一体化したファストバック型は空力的には有利であるが、いかんせん後方視界が良くない。Fw190では視界の良いスライド型のものが用いられた[44][6]
Fw190は一見前方視界が悪いように見え、またやはり良好であるとも言い難いものであったようだが、通常時は幾分機首を下げた状態で飛行するため、飛行時については劣悪と言う訳ではなかった[45]。また地上滑走時においてはやはり前方視界に問題はあったものの[46]、尾輪式の単発レシプロ戦闘機であれば、もとより正面などは見えないものであり、前下方の視界がキャノピー側面の胴体への食い込みで確保されているFw190はむしろ視界良好な部類であったと見る向きも有る[44]。また日本への輸入機を操縦した大日本帝国陸軍パイロットは、機体への切れ込みがあり前下方の視界は良好で、接地の寸前まで良好な着陸視界を得ることができると評価しており[47][* 7]、鹵獲機体を試験飛行させたイギリス空軍パイロットは、前方視界はBf109、スピットファイア、マスタングよりも良好であったとしている[48]
なおキャノピーは後方にスライドさせ開く形式であったが、飛行時に人力で開く事が非常に困難でありパイロットの脱出に支障を来したため、20mm機関砲の薬莢の火薬を用いてキャノピーを脱落させる機能が持たされた[49][50][51]。また、後期の型には高さを増し視界を向上させた「ガーラント・ハウペ」と呼ばれる形状のものを装備している[50]
航続距離
航続距離は、Bf109より多少は長いものの、前部胴体タンクが232リットル、後部胴体タンクが292リットル、予備タンク115リットル(出力増強装置などに用いられる場合もある)[39]で通常800km程度、さらに300リットルの増槽を付けて1400km程度[21]と、そう長いものではなかった。

エピソード

エアシーフ(空の泥棒)作戦
1942年、Fw190の出現により劣勢に立ったイギリス空軍は、Fw190の秘密解明のため特殊部隊を使ってドイツ占領下のフランスからFw190を盗み出す、というエアシーフ(空の泥棒)作戦を立案した。この作戦は、決行直前の6月23日、1機のFw190が霧の中で方角を見失い、誤って英空軍基地に着陸したことで中止された。この時、鹵獲されたFw190を調査した英空軍は、そのコンセプトを採用するため、開発中の新型戦闘機ホーカー シーフューリーに対していくつかの設計変更を行った。小規模飛行機メーカーのわずか12人のエンジニアが作り出した戦闘機は、敵国の戦闘機開発にまで影響を与えたのである。

日本に輸入されたFw190A-5

『航空ファン』へ寄稿された文によれば[52]、日本陸軍黒江保彦少佐は、福生(横田基地)において、輸入されたFw190A-5の試験に携わった。曰くFw190は旋回性能は大したことはないが快速を誇り、また安定性もよく、出足(加速力)と突っ込み(降下時の初期の加速力)の早さは他に比肩するものはなし、との所見であった。なお実際に飛燕疾風と模擬空戦を行なってみたところ、急旋回しようとするとすぐに振動が発生し高速失速を起こす様なもので、格闘戦においてはやはりそれを重視した日本機とは勝負にならなかったようだ。また黒江は整備が容易で油漏れも故障もまったくと言って良いほどなかったことにも言及している。
終戦(1945年8月)直前、Fw190A-5, Bf109, P-51C, P-40, 疾風の5機を用いて、高度6000mで速度競争が行なわれた。競争開始直後は黒江の乗ったFw190とBf109がリードしたものの、1分後にはP-51が迫ってきて、3分後には抜き去っていったと言う。黒江は、Fw190は水平最高速度ではP-51には適わないものの、出足の速さはどの機種にも負けなかったと結んでいる。

地上攻撃

本機はBf109より積載能力に優れ耐弾性にも勝り、さらに不整地での運用も優れており戦闘爆撃機(ヤーボ)として地上攻撃にも活躍[53][54]、ドーバー海峡を挟んだイギリスを相手に、神出鬼没の活躍を見せた[55]。1943年以降イギリス軍の防空体制が整うとその活躍は封じ込められるが[56]、本機はその余裕有る設計を生かし、旧式化した急降下爆撃機Ju 87の穴を埋めるため、引き続き地上攻撃機としての運用が続けられた。

東部戦線でもソビエト軍と善く闘った。東部戦線には1942年9月以降に本格的に配備されはじめ、次第に主力を担いだした[57][58]、Fw190は1943年9月-10月頃には戦闘機型200機、戦闘爆撃機型41機が展開。1944年12月には戦闘機型が79機、戦闘爆撃機型が502機と、戦闘爆撃機型が大多数を占める様になった[57]

これらは初期には戦闘機型の改修型[* 8]として運用されていたが、1943年8月以降[61]には地上攻撃機型をF型、長距離戦闘爆撃機型をG型と命名した[62]。またこれらの型は機関銃/機関砲と言った固定装備が減らされたものもあった[63]。なお爆弾もしくは増槽を装備すると、例えば500kg爆弾搭載時には最高速度は500km/h程度に落ちるなど、相応に飛行性能は低下する[64]

対爆撃機戦闘・突撃飛行隊

1943年夏頃より、連合軍の爆撃機を迎撃するため、21cm空対空ロケット弾(WGr.21)の運用が開始された(A-4/R6)。だがこれを積載したフォッケウルフは性能が低下し、敵戦闘機との空戦は困難となった[65]。そのほか主翼下に20mmまたは30mm機関砲を内蔵するゴンドラを装備するなどの改修型も見られた[66]

1943年、ドイツ空軍はコンバット・ボックス(密集防御編隊)を組んだアメリカ第8航空軍重爆撃機、B-17およびB-24 (航空機)の重防御・高火力に対抗する術を必要とした。コンバット・ボックスは6機を3グループ束ねた15-18機で構成され、どの方向にも30-40門の機銃による防御射撃が可能なものであった[67]。またこれを上下3段に重ねた、45-54機による「コンバット・ウイング」を構築、これを連ね数百機の大編隊による攻撃が行われていた[67][68]

参謀本部で戦闘機隊総監アドルフ・ガーランドを補佐していたハンス=ギュンター・フォン=コルナツキ(KORNATZKI コルナルツキ、コルナッキー)少佐はこれを迎撃するための「突撃飛行隊」(Sturmgruppen)[* 9]の設立を提案[69]。1個飛行隊(3個飛行中隊)が敵重爆撃機の防御火力の比較的弱い正面から編隊攻撃を行い、大打撃と共に敵重爆撃機搭乗員に精神的圧迫を与え、作戦的にはコンバットボックスの防御を機能不全に陥らせ、戦術的には米軍に対して継続して打撃を与え許容し得ない大出血を強いる言う作戦であった[69][70]。1943年10月19日に第1突撃飛行中隊(シュトルムタッフェル)が創設された[* 10][71][* 11]。パイロットは可能な限り肉薄し、必要とあらば体当たり攻撃も辞さずに敵重爆撃機を撃墜することを宣誓した[72][* 12]約15名[* 13]。彼らは1944年2月末までに訓練を終え、1944年1月[75]または3月[76]より本格的な作戦を開始した。

突撃飛行隊の有効性は高く評価され、1944年4月始めには第11戦闘航空団(JG11)と第1戦闘航空団(JG1)「エーザウ」に新たに突撃中隊が置かれた[77]。さらに4月末または5月始めには第3戦闘航空団(JG3)「ウーデット」に第IV飛行隊(突撃)(第10,第11(旧第1突撃飛行中隊が編入)[78],第12中隊、計36機)「モーリツ」突撃飛行隊が[79][80]、1944年7月頃には第300戦闘航空団(JG300)第II飛行隊、第4戦闘航空団(JG4)第II飛行隊も突撃飛行隊とされ、後者については1944年春に中佐となった突撃飛行隊創案者・コルナツキが指揮官となった[81][82][83]。なおコルナツキは1944年9月13日、敵護衛戦闘機に撃墜され、不時着を試みるも高圧電線に接触、戦死している[84][85]

突撃飛行隊は当初は正面攻撃が用いられていたものの、相対速度が高いため射撃を行える時間が少なく、パイロットにも高い技量が求められると言った面もあり、敵重爆撃機の防御火力は強力であるが、後方からの攻撃が行われることが一般的になった[86][* 14][87]。この攻撃は全機が火力を発揮するため一列横隊または鏃型の編隊を組み、敵コンバット・ボックスの後方に肉薄し攻撃を加えるものであった[88]。ただし後方からの攻撃が最初から行なわれていたとする文献もある。

また体当たり攻撃も実際に行われ、敵の主翼に軟着陸しそれを切断する方法や、尾翼にプロペラやエンジン部を衝突させ破壊する方法が推奨された[86]。これは重装甲を誇る突撃型Fw190であればパイロットの生還は十分に期待できるものであり、献身的行動ではあるが、自殺的作戦ではない[70]

訓練中に用いられた機体は20mm MG15120mm機関砲4門、MG 17 7.92mm 機関銃2門を装備するA-6型に防弾ガラスを装備するなど装甲を強化しアメリカ軍重爆撃機の装備するブローニング 12.7 mm M2 機関銃に対抗できるようにしたもので、シュトルムイェーガー(突撃戦闘機)と呼ばれた[* 15][70][71]。その後A-7/R2(外翼の20mm機関砲を30mm機関砲に換装したタイプ)を経て[76]、A-8/R2、およびA-8/R8、「シュトルムボック」(破城槌または破壊槌)が開発・配備されるに至った[79]。これは武装は13mm機関銃2門、20mm機関砲2門、30mm機関砲2門を備え、キャノピー前面には50mm、側面に30mmの防弾ガラス、コックピット周辺の5mm鋼板、両翼の機関砲前面に20mm鋼板を装備[89]したもので、機体の重量は250キログラム以上増加していた[79]。30mm機関砲は敵重爆撃機には効果的であったが、これらの機体は重量の増加から敵戦闘機との空戦は相当に困難となっており、通常の戦闘機仕様のFw190、またはBf109による護衛を必要とした[79][90][83]。なおR-8型はR-2型の防弾ガラスなど装甲を強化するなどし、その代償として機首の13mm機関銃を撤去したもの[91]。後期には敵護衛戦闘機の厚い壁に阻まれ、あまり戦果はあがらなかった[83]


各型の変遷

試作機からA-2型

開発初期の試作機はFw190Vと称される。V1はBMW139(1550馬力)を装備し1939年5月中旬頃に完成、6月1日に初飛行を行った[92]。機首は短いカウルに、プロペラ基部を丸ごと覆う巨大なスピナーと言った出で立ちで、先端のダクトより吸気しエンジンの冷却を行う構造である[93][94]。この形は空力的には洗練されていたものの、冷却力は不足していた[95]。1939年12月31日には両翼にMG17 7.92mm機関銃とMG131 13mm機関銃を1丁ずつ装備したV2が空軍に引き渡された[96]。この機体も若干の改良の上でV1と同じ機首形状を採っていたが、やはり冷却力が不足しており、1940年1月には両機とも通常の機首形状に変更された[96][* 16]。1939年の秋にBMW139の開発中止が決定したため、5号機となるV5にはBMW 801C-0(離昇出力1600馬力)が搭載された[98]。だが重量増から翼面荷重が増加し飛行性能は低下した。このため従来の全幅9.515m、翼面積が14.90m2の主翼を装備したV5k[* 17]の他に、全幅10.5m、翼面積が18.30m2の大型翼を採用したV5gが生産され、試験の結果、最高速度は695km/hから685km/hとやや低下したものの、運動性については格段の改善が見られたため、こちらの主翼が採用された[99]

V5の試験開始とともに空軍はFw190に強い関心を示し、新型エンジンの量産体制が整っていないにも拘わらず、40機もの増加試作が仮発注された[100]。これは結局1940年11月から1941年9月までに28機が生産されFw190A-0とされたが、初期の8機は主翼の改修が間に合わず、従来型の小さいもののままであった[101][* 18][102]。その後エンジンは新型のBMW 801C-1とされ、それを装備したFw190A-1が、1941年秋までに102機生産された[103]。これは当初、武装はMG 17 7.92mm 機関銃×4(弾数各850発)と貧弱なものであったが、主翼外翼にMG/FF 20mm機関砲(弾数各60発)が増設された[101]。しかしA-0型を使用しての実用実験中、Fw190は多くのエンジントラブルに見舞われる。従来よりの加熱・発火と言った問題の他に、BMW 801に装備されていた自動制御装置「コマンドゲレート」にも不具合が発生、一時期はFw190の実用化さえ危ぶまれる事態となった[104]。多くの改修を経て多くの問題をクリアし開発は継続されたものの、エンジンの冷却不足については実戦投入後1年くらいは問題視されていた[105]

1941年10月頃からはBMW 801C-2エンジンを装備したFw190A-2の量産が開始される。このモデルは降着装置を強化し[105]内翼の7.92mm機関銃をMG 151 20mm機関砲(弾数各250発・ベルト給弾)に変更[106]し、MG17 7.92mm機関銃×2、MG 151 20mm機関砲×2、MG FF 20mm機関砲×2となり、これは以降の標準装備となる。426機[103][107]または952機[106]製造。

1941年7月末、西部戦線英仏海峡方面に在る第26戦闘航空団(JG26)に Fw190A-1が配備、実戦投入される[108]。故障が頻発するなど苦戦したものの[109]、英軍の スーパーマリン スピットファイア Mk.Vを相手に有利に戦闘を進め、制空権を確保した[14]。1942年の春には北フランス方面の第2戦闘航空団(JG2)とオランダ西海岸方面の第1戦闘航空団(JG1)にもFw190A-2が配備されるなど[110]、以後Fw190は多方面に配備されていく。

A-3からA-7型

1942年の3月-4月頃にはBMW 801D-2エンジン(離昇出力1700馬力)を搭載し最高速度660km/h[111]を発揮するFw190A-3の量産が開始。胴体下面に爆弾架(ETC-501)を装備し、戦闘爆撃機としての運用も可能となった[112]。7月中旬頃からはエンジンに水メタノール噴射装置MW50を追加し、短時間ながら最大で2100馬力を発揮[113][114]し、無線機を変更するなどしたFw190A-4に移行する。これらのタイプは空対空ロケット弾を装備するR6型など多くの改修型が作られ、一部は後にFw190F型・G型として制式化される。1942年9月頃からは第51戦闘航空団(JG51)を皮切りに、東部戦線にもFw190が配備されはじめた[115]。A-3は509機[35]、A-4は906機[116]または894機[117]が生産された。

続く1942年末のFw190A-5ではエンジンの取付架を前方に152.5mm延長し重心位置を修正[117][26]。ほとんどがなんらかの改修型とされ、ノーマルの機体は少なかった[26]。723機生産[26]。やはり多くの改修型が作られている。そのうちA-5/U10は1943年5月以降Fw190A-6として量産され、主翼外翼のMG/FF 20mm機関砲をより強力なMG151 20mm機関砲(弾数各140発)へ変更[118][* 19]。武装はMG 17 7.92mm機関銃×2、MG 151 20mm機関砲×4となる。これは当初は東部戦線で地上攻撃機として運用されたもので、コックピット周辺に防弾装甲が付されている[63]。突撃型・夜間戦闘機型も作られた[60]。569機生産[63][60]。また1943年末頃からは機首のMG17 7.92mm機関銃をMG 131 13mm機関銃へ変更したA-5/U9を制式化したFw190A-7が、アラド社により80機生産される[119][120]

A-8およびA-9型

Fw190A-8はA-7に若干の改良を加えたものであり、1944年2月から生産が開始され[121]、8300機が生産された[122][123]。MW50((水メタノール、10分間以上)またはGM-1(亜酸化窒素、8分間のみ)出力増強装置を装備[124]。武装は装甲を強化し主翼外翼MG151/20を30mmMK 108機関砲(弾数各55発)へ変更したR2、R8仕様の場合[[MG 131 13mm機関銃×2、MG 151 20mm機関砲×4、MK 108 30mm機関砲×2。度重なる改修による重量増により、最高速度をはじめとした飛行性能は低下している[122]。一部の機体には新型のBMW 801TU(離昇出力1810馬力)を搭載した。 1944年10月からは離昇出力2000馬力のBMW 801TS/THを装備したFw190A-9が量産開始。主翼前縁の装甲が取り外され軽量化がなされており、WM50またはGM-1出力増強装置を使えば10分程度の間、2270馬力、710km/hを発揮できた[125][* 20]。高々度性能も向上し、P-51 マスタングら連合軍の戦闘機とも対等に戦えるものとも思われたが、戦局はそれを許さず、ほとんどが東部戦線に備え、対地攻撃用のF-9型に改修されてしまった[125]。A-10型はターボ過給器を備えたBMW 801エンジンの搭載および翼巾の延長を行った高々度戦闘機型として計画されたが、既にD型やTa 152が存在していたため、計画のみで終わった[126]。なおこの機体はのちにFw190D-10の試作に流用されている[127]。なお、A-1からA-9までの合計生産数は約13200機である[128]

D型

Fw190D-9

Fw190A型は優れた戦闘機であった。だがその心臓部である空冷星形エンジンBMW 801は1段2速の遠心式過給器を装備し高度 5600m-5700mで1440馬力を発揮するものの[129][130]、高度6000-7000mを超えると出力が急激に低下する[26][27][130]。このため1942年以降、2段2速過給器やターボチャージャーを装備した連合軍の新型戦闘機に苦戦することとなった。もとより高々度性能改善の必要性については予想されていたことであり、タンクはFw190の実戦配備以前に既に性能向上策を検討していたのであるが空軍との折り合いがつかず[131]、計画が動き出したのは1942年初め頃となる。出力強化型のBMW 801を搭載したB型、液冷のDB 603Aを搭載したC型、液冷のJumo 213Aを搭載したD型が計画された[27][132]

B型はBMW 801にGM-1出力強化装置を装備し与圧キャビンも装備した機体であり、V12(A-0)改造機を含めた数機のB型が製作されテストされたが期待された性能は発揮できず、またBMW 801の高空性能向上に必要な空冷星形エンジン用の排気タービン過給器の早期開発の目算が立たないことから1943年5月末に開発は中断された[133]

C型は機首を延長し液冷12気筒エンジン DB 603A(離昇出力1750馬力)を搭載し、主翼位置を前進させるなどしたもの。空軍技術局はDB 603Aエンジンの使用に難色を示しており、未承認の中、開発が開始された[134]。C-0型、与圧キャビンの無いC-1型、与圧キャビンを装備したC-2型が合計9機生産されテストされた[135]。1942年9月に初飛行、高度7000mで724km/hを発揮するなどしたが、空軍は目標高度を13700mに設定、DB 603Aに排気タービン過給器を装備することを要求した[136]。しかしタービンのインペラの強度は弱く出力の制限を要し故障も多く、また機体全体のの飛行性能も安定性を欠く物であり、改修の結果高度10000mで680km/hを発揮するなどしたもののD型が所期の性能を発揮していたため、1944年5月11日に開発は中断された[137][126]

D型は液冷12気筒エンジン Jumo 213A-1(離昇出力1776馬力、高度5800mで1600馬力、MW50出力増加装置使用で2240馬力)[138]を装備。それに伴い機首および胴体後部(49cm)を延長し全長を8.95mから10.192mと改めた[139]。また機首右側面には過給器空気取り入れ口が突出している。液冷エンジンに不可欠なラジエーターはエンジンの前面に環状に配置(環状ラジエーター)されている[140][141]。 初飛行は1942年9月[138]。やはり排気タービン過給器(ターボチャージャー)は装備しておらず本格的な高々度戦闘機とも言い難かったものの、A型のような高空での急激な出力低下は見られず、1944年6月末には2機のプロトタイプが完成[142]、こうして1944年8月以降、Fw190D-9、愛称ドーラ(Dora、ドーラ9、長鼻ドーラ)、が量産されることとなった[143][* 21]。最終的にカタログスペックでは高度6400mで698km/h、高度6200mでMW50を使用して732km/h、上昇限度13200mなどとなっている[145]。なお初期にランゲンハーゲン工場で生産された300機は従来型と同様のキャノピーを装備していたが、それ以降は視界を向上させたガーラント・ハウベを装備している[146]。また胴体下面にはETC501またはETC504爆弾ラックを装備し、爆装も可能である[146]

武装は機首にMG 131 13mm機関銃×2(弾数各475発)、主翼内翼にMG151 20mm機関砲×2(弾数各250発)[132]を装備していた。D-9にもいくつかの改修型が計画されたが、1944年末に完成したキャノピー除霜装置、FuG125「Hermine」無線航法装置/着陸誘導装置、LGWK23進路指示計、PKS12自動操縦装置を装備した全天候仕様R11以外は、実戦では全く、またはほぼ使われていない[* 22][132][147]。D-9およびD-9/R11は約750機が生産された[148]が、並行してA型の生産も続けられていた[21]。なおD型合計で1805機とする資料もある[149]

ドーラは1944年11月頃から前線に配備されだし、いくつかの飛行隊が機種改編され、12月には実戦に投入される[150]。しかしドイツ空軍の戦闘機隊は12月中にラインの護り作戦に投入され、大きく損耗してしまう。Fw190D-9は連合軍の新鋭戦闘機とも十分に渡り合える性能を持っていたと思われるが、既に述べた通りドイツ空軍には最早ベテランパイロットは少なく、また物量差も圧倒的で、戦況を覆すには至らなかった[151][* 23]

Fw190D-10はプロペラ軸内にMK108 30mm 機関砲をモーターカノンとして装備、エンジン上部にMG151 20mm機関砲を1門装備したものであるが、搭載予定であったJumo 213C-1 エンジン(1770馬力)の開発が遅れるなどし、量産はされなかった[147][127]Fw190D-11はエンジンを改良型のJumo 213E(1750馬力)またはJumo 213F(離昇出力2000馬力)とし、プロペラについても新型のVS10を装備、キャノピーはガーラント・ハウベを標準とし武装は内翼にMG151 20mm機関砲×2、外翼にMK108 30mm 機関砲×2を装備したもの。1944年8月31日に初飛行を行ったもののJumo 213Fの開発の遅れなどにより原型機7機の生産にとどまった[152][153]Fw190D-12はエンジンをJumo 213F(2050馬力)[154]とし、武装はMK108 30mmモーターカノン(弾数85発)と主翼内翼にMG151 20mm機関砲×2を装備したもので、戦闘爆撃機型でもある。D-11型と同時に開発され1945年4月まで少数生産されたと見られるが詳細は不明[153][152]。高度9150mで730km/hを発揮したと言われる[152]Fw190D-13はD-12のモーターカノンをMG151 20mm機関砲(弾数220発)[132]に改めたもので、A-8型となるべく部品を共通化し量産が図られた。1945年3月以降約30機が生産され、約20機が第26戦闘航空団(Ju26)に配備された模様である[155]。エンジンはJumo 213F-1(2060馬力)[154]Fw190D-14ではC型での採用が検討されたDB 603エンジンの搭載を空軍側が指示し、試作機のみが作られた。DB 603の構造上、過給器空気取り入れ口は機首左側に移設されている[156]。最高速度は高度7400mで710km/h[156]。全長は更に伸び10.422m[132]Fw190D-15ではDB 603Eエンジン(またはMW50出力増強装置を装備したEB。この場合出力は最大で2260馬力)が搭載され内翼にMG151 20mm機関砲×2、外翼にMK108 30mm 機関砲×2を装備。A-8型の部品をなるべく流用しつつ、機首や尾翼などをTa152Cと共通化した。1945年4月から生産がなされた、またはされるはずであったが、最早ドイツは敗戦を迎えようとしており、少数の生産にとどまった[156][148][* 24]

Ta152

以降の形式はやはりFw 190の改良型ではあるが、Ta 152と言う名称に改められた。これはクルト・タンクにとって本命と言える改良型であった。エンジンを液冷のものに換装し全長を10.710mと延長した上で、高々度戦闘に備え主翼を高々度飛行に向いたアスペクト比の大きなものに再設計、全幅は10.510m(Fw190A-8)から14.440m(Ta152 H-1)となった。Ta152Hは空軍の指示によりJumo 213Eを搭載し、[18]、武装はMK108 30mmモーターカノン×1および主翼内翼にMG151 20mm機関砲×2。高度9000mで700km/hを記録するなど高性能を発揮した[157]。試作機は1944年7月頃から製造され、1945年1月からは第301戦闘航空団(JG301)で実戦テストが開始された[158][159]。また1944年12月から翌1月にかけにはDB 603LまたはLAエンジンを搭載し翼を全幅11mに切り詰めたC型も初飛行を行い、相当数が試作された[160]。総生産機数は終戦までにH0型20機およびH1型34機[161]、1945年2月までに各型合計で67機[162]などと言われている。なおH型、C型と名付けられたのは、Fw190の各型との混同を避けるため。初期型はTa152Bとされ、Ta152Eは戦闘偵察機の予定であった[163]

F・G型

1943年夏[164]以降に制式化された戦闘爆撃機型・長距離戦闘爆撃機型は合計6644機が生産された[165]。1943年秋頃からは旧式化したJu87の穴を埋めるためG型が多く生産され、その分F型の生産は抑えられた[166]。G型では通常、合計500kg - 1000kgの爆弾が搭載でき、最大で1.8tを運用することができた[166]

  • Fw190F-1:1942年9月に就役していたA-4/U3を改称した戦闘爆撃機[167]。対空砲火に備え胴体下面の外板を5-8mm厚とするなどし、装甲を強化[167][89]。外翼の20mmMG151/20機関砲を撤去、胴体下に爆弾架を装備。総重量は360kg増加[167]。実用テスト機扱いで30機のみ生産された[167]
  • Fw190F-2:A-5/U3を改称した戦闘爆撃機型で、改修部はF-1型とほぼ同様[167]
  • Fw190F-3:A-5/U17を元にした本格生産型で、1183機を生産[168]。旧式化したJu87に代わり東部戦線での地上攻撃の主力を務めた[168]。R1型では両主翼下に小型爆弾架ETC50が各2個装備されるが、これは実際にはほとんどの機体に装備されている[168]。なお以降のF-4/F-5/F-6/F-7は計画のみの機体である。[* 25]
  • Fw190F-8:A-8を基にした戦闘爆撃機型で、機首の機銃が13mm機関銃に変更され[169]、両主翼下の4つの小型爆弾架も新型のETC50に変更、個別の投下が可能となった[169]。後期生産型はキャノピーを「ガーラント・ハウベ」に変更している[165]。A-8型と同様非常に多数生産され、戦闘爆撃機型の6割はこのタイプである[165]。この機体は各種の改修型が生産され、特に対戦車用としてパンツァーシュレッケパンツァーブリッツと言ったロケット弾を装備したものは大規模に運用された[165]。なお、F-4からF-7型は計画のみの機体である[* 26]
  • Fw190F-9:A-9を基にした戦闘爆撃機型。A-9と同様エンジンはBMW 801TS、キャノピーは「ガーラント・ハウベ」へ変更されている。生産数は不明だが、少数生産されたもよう[170][* 27]。なおこの機体以降もF-10型、F-15型、F-16型が計画またはテストされたが、F-11からF-14型は欠番である[171]
  • Fw190G-1:A-4/U8を基にした長距離戦闘爆撃機型。固定武装は主翼付け根の20mmMG151/20機関砲×2のみ。胴体下に爆弾架、両主翼下に300リットル入り増槽が標準装備[172]
  • Fw190G-2:A-5/U8を基にした長距離戦闘爆撃機型。Aシリーズの生産ラインがA-5に変わったため。601機生産[172]
  • Fw190G-3:A-6・A-7を基にした長距離戦闘爆撃機型。PKS11自動操縦装置を装備。144機生産[172]。なお以降のG-4/G-5/G-6/G-7は欠番。
  • Fw190G-8:A-8を基にした長距離戦闘爆撃機型。Aシリーズの生産ラインがA-8に変わったため。両主翼下の増槽架は爆弾装備も可能なETC503に変更[173]

練習機型

練習機型は合計で90機が生産された[173]

  • Fw190S-5:A-5を基にした複座の練習機型。後席は教官席で簡単な操縦装置追加されている。武装は全廃され、キャノピーは前・後席とも右上方へ開く[173]
  • Fw190S-8:A-8を基にした複座の練習機型。教官席のキャノピー側面が改修され視界が向上している。

スペック

性能諸元
機体記号: Fw190A-5 Fw190A-8 Fw190D-9
全長: 8.95 m 8.95 m 10.192 m
全幅: 10.510 m 10.510m 10.506m
全高: 3.95 m 3.95m 3.36m[132]
翼面積: 18.30m2 18.30m2 18.30m2
全備重量: 4,063 kg 4,750 kg 4,840 kg
速度: 670 km/h (6250m) 640 km/h (6400m) 698 km/h (6400m) / 732 km/h (6400m, MW50使用)
航続距離: 850 km 1450 km (300リットル増槽装備時)[21] 810 km
主武装: 7.92 mm MG 17 機関銃 2挺
20 mm MG 151/20機関砲 2挺
20 mm MG FF 機関砲 2挺
13 mmMG 131機関銃2挺
20 mm MG 151/20機関砲2挺
20 mm MG FF 機関砲 2挺
13mmMG 131機関銃2挺
20 mm MG 151/20機関砲2挺
発動機
出力(馬力):
BMW 801 D-2
1700馬力(離昇)
BMW 801 D-2
1700馬力(離昇)
Jumo213A
1776馬力 (離昇。MW 50使用時には2240馬力)
乗員: 1 名 1 名 1 名

※ 数値は文献により多少の差違がみられるが、特記無き部分は ジャン=ベルナール・フラッペ & ジャン=イヴ・ローラン (1999)『フォッケウルフFw190 その開発と戦歴』p.162, p.190, p.415に準拠する。ただしA-5型の全幅は誤りと見られるため、10.510mとした。

運用国

Fw190 A-3

連合国側・枢軸国とも非常に注目を集めた機体であったので、以下のような国でFw190を購入し、あるいは、鹵獲機を試験・分析した。また、一部は限定的に運用された。

  • 輸入国
    • ルーマニア: A/F型(実戦部隊配備なし・限定的運用)
    • 日本: A-5型(試験目的)。1943年10月、陸軍航空審査部飛行実験部のテスト・パイロットである荒蒔義次中佐・神保進少佐によりテスト飛行が行われた。印象は、電気コントロールで油圧の日本機に比べ軽快な戦闘機だったこと、急降下速度は形状的特性からBf109や三式戦闘機「飛燕」には劣ったがドイツの工業水準を垣間見る事が出来た、とある。[175]また、同機のエンジン装備と空力処理の方式は、五式戦闘機の開発時に参考とされた(前述)。
  • 鹵獲テスト国
    • イギリス: A-3型等。1942年6月ベンブレイの英国軍基地へ1機のFW190A-3が着陸した。搭乗していたのは、ドイツ第2戦闘航空団所属のファーベル大尉であった[176]。投降説もあるが、着陸前に戦果を示すダイブをしている事から方向を見誤りフランスのドイツ基地と誤認したのだろうといわれている。本機は、生産されたばかりの真新しい機体であったという[177]。1943年4月
    • ソビエト連邦: D型等。戦後にバルチック艦隊飛行連隊に配備されていたとの説もある[174]
    • アメリカ合衆国: A/F型等
    • フランス: A型等。1944年のフランス解放時修理工場が接収され、鹵獲した機材を修理・組み立てしNC900と名付け運用。64機が空軍に納入され、1947年夏ごろまで配備されていた[178]

注釈

  1. ^ フォッケウルフ社に在籍のまま、自分が開発した飛行機に、姓の略号であるTaを付けることができた。詳細は後述。
  2. ^ 石油をほとんど産出しないドイツは豊富な石炭を原料にした人造石油の開発・生産が盛んで、一般用途の57%以上、航空機燃料については92%に用いられていた(1944年初頭時点)。連合国は人造石油プラントを爆撃目標とし、人造石油は1943年には日産124000バレルであったものが、1944年9月には5000バレルに低下。中でも特に航空燃料の不足は深刻であった[17]
  3. ^ 開発初期にはBMW139(1550馬力)が用いられていた。BMW 801エンジンはこれの発展型である。
  4. ^ もっともこれは同時に、パイロットの手による微妙な調整ができないことも意味していた。Fw190のコックピットにはエンジンの燃焼をコントロールするインタフェイスは用意されていない。
  5. ^ 合理的な一撃離脱戦法を重視し、ロール性能を向上させた結果として翼面加重が高いため。
  6. ^ 主脚を出すことで空気抵抗が増し、低速域における揚力不足による失速を招くと思われる。
  7. ^ なおこの機体はA-5型。荒蒔義次は上昇力と操縦性を絶賛し、格闘戦でなら疾風に勝るであろうとしている。
  8. ^ 改修型のU仕様、戦地改修キットのR仕様として。「Fw190 A-3/U2 などと表記。A-6以降は改修はR仕様として統一。それに伴い試験型などはV型として統一された。[59][60]
  9. ^ 「強襲飛行隊」との訳もあるが、本稿では便宜上「突撃」に統一する。
  10. ^ フラッペ&ローラン (1999)p.340では1944年2月開設とされているが、白石 (2009) 、ウィール (2006)p.9によれば、1943年10月19日。ボーマン (2008) p.72でも1943年10月から。
  11. ^ ドイツ空軍の場合、中隊は12機編成。
  12. ^ ただし多分に儀式的な意味合いが含まれており、宣誓書に署名させられるようなことはほとんど無かった[73]か、または署名せずとも特に咎められることもなかった[74]。IV./JG3飛行隊長ヴィルヘルム・モリッツ大尉は、国防軍の将兵は入隊時既に国家への忠誠と献身を宣誓しており、重ねてのこの様な宣誓など無用と、署名済みの宣誓書を焼き捨てたと言う[74]
  13. ^ フラッペ&ローラン 1999 pp.340-341 による。白石 2009 p.74によれば18名。ウィール (2006) p.10によれば16または18名。
  14. ^ 秋本 (2000) によれば、後方攻撃への方針変換は1944年4月または5月、第3戦闘航空団第III飛行隊長のダール少佐の発案であるとのことである。また白石 (2009)では、コルナツキの発案により当初から後方攻撃が用いられたとされている。
  15. ^ ただし7.92mm MG 17 機関銃は、重爆撃機に対して効果が薄いと言うことで取り払われる例も多かった。また側面の防弾ガラスは視界が狭くなる上に、高々度に上がると従来のガラスと増設したガラスの間に氷が張ってしまうと言う弱点があり「目隠し」と呼ばれ、パイロットにより外されてしまうことが多かった。
  16. ^ なお、3号機・V3は交換部品のストック用とされ、4号機・V4は破壊・強度試験に使われた[97]
  17. ^ これは後にV6と改称。
  18. ^ 飯沼 (2000) によれば、9機が小型翼。
  19. ^ 内翼の機関砲は従来通り各250発を装備。
  20. ^ 野原&塩飽 (1993) p.89では「2200馬力」、700km/h
  21. ^ C型と同様に与圧キャビンの無いD-1型、与圧キャビンを装備したD-2型がA-0型やC型からの転用も含め用意された[139]。だが、量産型が何故D-3型ではなくD-9型であるのかは不明である[144]
  22. ^ フラッペ&ローラン(1999)によれば全く使われていないが、野原&塩飽(1990)によれば、実際に使われたのはR5,R11くらいのものであるとのこと。
  23. ^ 野原&塩飽 (1990)では、空力的に洗練されている上に馬力の割に重量が軽いことなどから、単純な空戦性能であればP-51 ムスタングを凌駕していたのではないかと言及されている。
  24. ^ この突然のエンジン変更は、フラッペ&ローラン(1999) p.414の小野義矩による訳注によれば、メッサーシュミット社で開発されていたDB 603Aエンジンを装備予定の新型機が軒並み開発中止となってしまいメッサーシュミット社がジェット戦闘機であるMe 262に専念することとなったためではないかと思われる。野原&塩飽(1990)によれば、少なくとも2機が実戦に参加した。
  25. ^ 鈴木 (1979)によれば、エンジン上部の7.92mmMG17×2を20mmMG151/20機関砲×2に変更して武装を強化したもの。
  26. ^ 鈴木五郎著『フォッケウルフ戦闘機』1979年 サンケイ出版 161項 によれば、R4Mロケット弾×24発又は対戦車ロケット弾×14発又は各種の爆弾を積載可能。
  27. ^ 1945年1月20日時点で、前線にF-8型とF-9型を合わせ790機が配備されていた。

出典

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関連項目

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