芝辻一郎
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芝辻 一郎(しばつじ いちろう、1883年(明治16年)6月6日 - 1962年(昭和37年)1月12日[1])は、日本の内務官僚。官選山梨県知事、川崎市長、沼津市長。
経歴
[編集]千葉県安房郡北条町長須賀(現:館山市長須賀)で、旧龍野藩士・芝辻勝の長男として生まれる[1][2]。北条町尋常高等小学校、千葉中学校、第一高等学校を経て、1910年7月、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年9月、内務省に入省し東京府属となる。1911年11月、文官高等試験行政科試験に合格[1][3][4][5]。
以後、神奈川県理事官、同県三浦郡長、同愛甲郡長、福島県北会津郡長、同県伊達郡長、富山県事務官・学務部長、愛媛県警察部長、宮崎県書記官・内務部長、三重県書記官・内務部長などを歴任[1][3]。
1931年12月、山梨県知事に就任。不況対策に取り組み、甲府市水道事業の拡張などに尽力した[1][3]。1932年6月28日、知事を休職[6]。1933年8月14日、依願免本官となり退官した[7]。
1935年9月14日、川崎市長に就任。戦時体制の強化政策を推進し、1939年9月13日任期満了で退任した[4]。1943年1月16日、沼津市長に就任。1944年4月、駿東郡片浜村・金岡村・大岡村・静浦村との合併を実現。戦時下の増産体制の整備を行う。また、戦災からの復興に尽力[8]。しかし、戦災対策の処理の停滞を理由に沼津市会から辞職勧告を受け、1945年10月11日に市長を退任した[8][9]。その後、公職追放となった[10]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e 『山梨百科事典』増補改訂版、456-457頁。
- ^ 『人事興信録』第8版、シ35頁。
- ^ a b c 『新編日本の歴代知事』505頁。
- ^ a b 『日本の歴代市長』第1巻、1049頁。
- ^ 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』201頁。
- ^ 『官報』第1648号、昭和7年6月29日。
- ^ 『官報』第1987号、昭和8年8月15日。
- ^ a b 『日本の歴代市長』第2巻、367頁。
- ^ 『朝日新聞』(東京本社発行)1945年10月11日朝刊、1頁。
- ^ 公職追放の該当事項は「翼賛市支部長」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、573頁。NDLJP:1276156。)