洗平竜也

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洗平 竜也
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 青森県上北郡六戸町
生年月日 (1979-01-09) 1979年1月9日(38歳)
身長
体重
178 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 2000年 ドラフト2位
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

洗平 竜也(あらいだい たつや、1979年1月9日 - )は、青森県上北郡六戸町出身の元プロ野球選手投手[1]

来歴・人物[編集]

プロ入り前[編集]

光星学院高では1年生の夏からエースとなるも、3年間連続して夏の甲子園県大会決勝で敗退、甲子園出場はならなかった[1]

高校卒業後は東北福祉大学に進学し、硬式野球部に入部[1]吉見祐治がエースを張るなど、層の厚い大学ゆえ当初は登板機会が与えられなかったが、3,4年次にはエースクラスの働きを見せ、仙台六大学リーグ通算10勝0敗。4年の秋、明治神宮野球大会出場を決めるための北海道・東北地区王座決定戦では北海学園大学から19奪三振を記録してスカウトの注目を集めた[1]

2000年同年のドラフト会議において、中日ドラゴンズを逆指名し2位で入団[2]。契約金は1億円であった[1]

プロ入り後[編集]

キャンプでブルペン入りして最初の球を、なんと隣のキャッチャーのミットに投げ込んでしまう。翌日も8球中7球が捕手がキャッチできない程の暴投であった[1]。原因は、極度の緊張でボールを放す感覚を突然忘れてしまった事とされ、精神的ストレスによる運動障害の1つ「イップス」であると報道された[1]。ブルペン入りして早々と「ノーコン」のレッテルが貼られた。そのキャンプでは何度かブルペン入りのチャンスを与えられたが制球力のなさは相変わらずで、キャンプの日程を半分も消化していないうちに2軍行きを命じられた。

1年目の2軍登板は25試合、2年目は10試合で、3年目はさらに減少した[1]

フォーム修正にも取り組んだものの制球力は良くならず[1]、結局在籍3年間で一度も1軍に上がることなく、2003年秋に戦力外通告を受けた[1]

アマチュア復帰[編集]

プロ野球引退後は、愛知県でサラリーマンをしながら[1]2004年から社会人野球硬式野球クラブ 東海REXに入団した[1]。しかし、制球難は相変わらずで、ベーブルース杯では打者の頭に死球をぶつけたこともあった。

2007年シーズンをもって現役を引退。

選手引退後[編集]

千葉県内に転居[1]。中日退団後に結婚した妻との間に3児をもうける[1]。長男が所属した少年野球チームのコーチをするなどを機に[1]2014年4月に日本学生野球協会の指導資格を取得している[1]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]

  • 一軍公式戦出場なし[1]

背番号[編集]

  • 32 (2001年 - 2003年)

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 元中日 悲運のエース洗平さん(青森・六戸出身)がアマ指導者で新たな一歩 Web東奥 2014年5月9日(金)13時49分配信 2014年5月11日閲覧
  2. ^ この年、中日は「天才投手」こと中里篤史を指名するためにわざとドラフト1位の枠を空けておいたともいわれる

関連記事[編集]