アーサー・マレー

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アーサー・マレーArthur Murray1895年4月4日 - 1991年3月3日)は、アメリカ舞踏家、経営者であり、彼の名前を冠したフランチャイズダンススタジオが有名である。

概略[ソースを編集]

ジョージア大の公式学生年鑑"ブループリント"(Blueprint)に掲載された、1920年のアーサー・マレーによるラジオダンスの様子。 "Ramblin' Wreck"は、その夜に演奏された。

アーサー・マレーは1895年にオーストリア・ハンガリー帝国ガリチアでモーセ・タイクマンとして生まれる。彼は1897年8月に母親サラとともにアメリカに移住し、エリス島に上陸した。そして、彼らは父、アブラハム・タイクマンと共にマンハッタンローワー・イースト・サイドのラドロー通りに住むようになった。1912年、彼が17歳のときに、昼間は製図者として働きながら、夜間にダンスを教え始めた。また、アイリーン&ヴァーノン・カッスル夫妻の有名なダンスチームで勉強し、彼らのために働きに行った。

彼は、ノースカロライナ州アッシュビルに引っ越す前に、すぐにマサチューセッツ州ボストンのデヴェロー邸で社交ダンスを居住者達に教え始めた。第一次世界大戦が勃発すると、米国で反ドイツ運動が盛り上がり、"タイクマン"がドイツ風の名前であったため、「アーサー・マレー」と改名した。

1919年に、ジョージア工科大学で経営学を学び始め、アトランタのジョージアン・テラス・ホテルで社交ダンスを教えた。1920年に、マレーは世界初の「ラジオダンス」を組織化した。ジョージア工科大学キャンパスのバンドが"Ramblin' Wreck"などの歌を演奏し、アトランタのダウンタウンのキャピタル・シティー・クラブの屋根の上のおよそ150人のダンサー(ほとんど工学部の学生)のグループに向けて放送された。

アーサー・マレー スタジオの始まり[ソースを編集]

アーサー・マレー ダンスシステムの広告

彼の最初のビジネスはキネトスコープを用いて手紙でダンスを販売することだった。このビジネスは当初は成功していたが、途中で問題が起こり失敗した。

2番目のビジネスは、「フットプリント」を印刷し、販売することであった。この「フットプリント」を床に置くことで、ダンサーを目指す人が踊り方を学ぶことができた。この通信販売業は成功した。 1925年に始められた彼の3番目のビジネスは、ブランド化されたダンスレッスンをフランチャイズシステムを通して販売することだった。 アーサー・マレーはスタットラー・ホテルチェーンのためにダンスインストラクターを訓練し、やがて彼らは様々なホテルに赴きダンスを教えた。そして、マレーは各フランチャイズから利益の一部を受け取った。

このビジネスは1938年にさらに拡大し、アーサー・マレー フランチャイズ ダンス スタジオがミネソタ州ミネアポリスで営業を始めた。 他のスタジオも続々と営業を始めた。 第二次世界大戦後、マレーのビジネスはラテンダンスへの関心の高まりと共にますます発展し、彼は定期的にキューバでダンスの指導やTVの放送を行った。

マレーは彼の妻のキャサリン・マレーによるダンスプログラム"アーサー・マレー パーティー"をTVで放送した。この番組は、1950年から1960年にかけて、CBSNBCDuMontABC、そして再びCBSにて放送された。

マレーは1964年に引退したが、1970年代後半のダンス フィーバーディスコ ショーにゲストとして出演するなど、時々活動を続けた。

一時期、彼の名前を冠したダンススタジオが全米に360以上あった。 2007年現在では、世界中で約220のアーサー・マレースタジオが運営されている。

アーサー・マレーダンススタジオは、2番目に歴史のあるフランチャイズ カンパニーである(1番目は、1919年に始まったA&Wである)。

ポップカルチャーにおける アーサー・マレー[ソースを編集]

評論家は、アーサー・マレーのフランチャイズ・ダンススタジオとダンスの教授法が、音楽に合わせて教えないという教授法を用い、また、いかなるダンスでも共通の方法で踊れるという印象を与えたことで、多くのダンス、特にラテンダンスを均質化したと批評している。

アーサー・マレー スタジオは、ダンススポーツとして知られる現代の競技ダンスを振興したとされている。

  • マレーの名前とフランチャイズは、ジョニー・マーサー(Johnny Mercer)とヴィクター・シェルツィンゲル(Victor Schertzinger)によって作られた、"Arthur Murray Taught Me Dancing in a Hurry"という1942年のヒット曲によって不朽の名声を与えられた。
  • 映画『The Sky's the Limit』(1943)で、フレッド・アステアジョーン・レスリーがダンスをした後、ジョーンが「どこでこんなダンスを習ったの?」と聞くと アステアは「アーサー・マレーだよ」と答えた。
  • 1946年、キューバン-アメリカン ミュージシャンのデジ・アーナズは、映画Cuban Peteに主演し、同時にレコーディングした同名の歌の中で、"Cuban Pete doesn't teach you in a hurry like Arthur Murray/You're now in Havana, and there's always mañana" と歌っている。
  • アメリカのシチュエーション・コメディ "アイ・ラブ・ルーシー"のエピソード"Little Ricky Gets a Dog," (1957)の中で ルーシーがリッキーに「アーサー・マレーからメキシカン・ハットダンシングのレッスンを受けている。」と言っている。
  • 1954年公開の映画『Phffft!』(監督:マーク・ロブソン 出演:ジャック・レモンジュディー・ホリデーキム・ノバック)の中で、 ジャック・レモンの役柄である(ロバート トレーシー)が、ニューヨークのアーサー・マレーダンススタジオに入っていき、ダンスの先生のメリー・アンダースと踊っている姿が見られる。 また劇中では、レモンとホリデー(ニーナ・トレーシー)がナイトクラブでルンバマンボを踊る古典的なダンスシーンも見られる。映画の後半に、レモンがホリデーの書いた使用済み小切手を調べるシーンがあるが、そこには"...thirty-nine dollars and forty cents to Arthur Murray Dance Studio"と書かれている。
  • 1960年公開の映画『アパートの鍵貸します』(原題:The Apartment 監督:ビリー・ワイルダー 出演:ジャック・レモンシャーリー・マクレーン)では、ジャック・レモンの役柄である(C.C.バド・バクスター)は、アーサー・マレーについて言及している。バドはフラン(シャーリー・マクレーン)に、自分が現在アーサー・マレーでレッスンを受けており、後ほど"彼のことを全く知らない"と明言しているマージー(ホープ・ホリデー)に次のように自己紹介をする、と言っている。『失礼、C.C.バクスターです。常務取締役で、アーサー・マレーの卒業生であり、恋人です』
  • リチャード・トンプソン(Richard Thompson)の歌『Tear-stained Letter』の中にアーサー・マレーの名が出てくる。 この歌は、トンプソンの1983年のアルバム『Hand of kindness』に収録されている。
  • 1987年の映画『ダーティー・ダンシング』(Dirty Dancing)で、ジョニーはアーサー・マレースタジオでトレーニングを受けたと言っている。
  • ヴィック・チェスナット( Vic Chesnutt)の1988年のアルバムThe Salesman and Bernadetteの中にアーサー・マレーというタイトルの曲が収録されている。
  • 1995年公開の映画『アメリカン・プレジデント』では、シドニー・エレン・ウェイドがダンス中に大統領に「踊り方を知らないんです。」と言うと、大統領が「それならアーサー・マレーに。6レッスンで踊れるよ。」と答えた。
  • アーサー・マレーの名前は、1978年のSteve Goodmanの歌"Would You Like to Learn to Dance?"の中でも登場する。 "We can draw the Arthur Murray patterns right here on the floor"

日本におけるアーサー・マレーフランチャイズスタジオ[ソースを編集]

2016年5月


関連項目[ソースを編集]

外部リンク[ソースを編集]

アメリカのアーサー・マレー社の本部

日本のアーサー・マレーフランチャイズスタジオ