鹿島 (戦艦)
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艦歴 | |
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起工 | 1904年2月29日 |
進水 | 1905年3月22日 |
竣工 | 1906年5月23日 |
除籍 | 1923年9月20日 |
その後 | 1924年11月解体 |
性能諸元 | |
排水量 | 16,400トン (常備) |
全長 | 143.3m |
幅 | 23.8m |
吃水 | 8.1m (平均) |
機関 | 缶20基,蒸気レシプロ機関2基,2軸 |
最大速 | 18.5ノット (34.26km/h) |
航続距離 | 10ノットで10,000浬 |
兵員 | 864名 |
兵装 | 30.5cm45口径連装砲2基 25.4cm45口径単装砲4基 15.2cm45口径単装砲12基 7.6cm40口径単装砲16基 47mm単装砲3基 45cm水中魚雷発射管5門 |
鹿島 (かしま)は大日本帝国海軍の戦艦。香取型戦艦の2番艦であり、艦名は茨城県鹿島神宮に由来している。基本的な仕様はほぼ同じであるが、香取とは煙突の配置を始めとして細部は異なる。
概要
英国のアームストロング社エルジック工場で建造され、アームストロング式(安式)の砲を備えた。なお、香取はヴィッカーズ式(毘式)であった。
第三期海軍拡張計画の一艦として計画され、当初は香取の三年遅れで建造される予定であったがロシアとの関係悪化により計画が繰り上げられ、同時に建造されることになった。
完成は日露戦争後となったが、到着当時、戦争による損耗(「八島」と「初瀬」の触雷沈没)と事故(「三笠」の火薬庫爆発)により日本には使える戦艦が3隻しかなく、新鋭戦艦2隻の到着は日本海軍の戦力を大幅に増加させることとなった。
第一次世界大戦後、ワシントン海軍軍縮条約締結により解体された。
艦歴
- 1918年 - 第3艦隊第5戦隊としてシベリア出兵に参加。沿海州警備、デカストリ湾上陸支援に従事。
- 1921年 - 皇太子欧州訪問供奉、第3艦隊旗艦。
- 1923年 - ワシントン海軍軍縮条約により廃艦。 解体後、主砲塔2基は沿岸防備用の陸上砲台へと転用された。
艦長
- 回航委員長
- 伊地知季珍 大佐:1905年12月12日 - 1906年5月23日
- 艦長
- 伊地知季珍 大佐:1906年5月23日 - 11月22日
- 加藤定吉 大佐:1907年11月15日 - 1908年4月2日
- 土屋光金 大佐:1908年12月10日 - 1910年3月9日
- 岡田啓介 大佐:1912年12月1日 - 1913年12月1日
- 下村延太郎 大佐:1915年3月17日 - 1916年12月1日
- 大谷幸四郎 大佐:1918年11月10日 - 1919年11月20日
関連項目
- キング・エドワードVII世級戦艦 - 香取型戦艦の基になった
- 鹿島 (練習巡洋艦)
- かしま (練習艦)