陰謀論
陰謀論(いんぼうろん)または陰謀説(いんぼうせつ)とは、ある出来事について、広く人々に認められている事実や背景とは別に、何らかの陰謀や策謀があるとする意見[1]を指す名称である。
陰謀を「謀略」と呼ぶことがあるように、陰謀論を「謀略論」と呼ぶ論者もある。
概要
「陰謀論」という言葉が一般に認知され、さかんに用いられるようになったのは比較的最近のことであり、いわゆる「新語」に分類される[1]。広辞苑第五版には採用されていない。
「陰謀論」とされるのは、一般に、強い権力をもつ者(一もしくは複数の国家、警察、検察、あるいは大企業や多国籍企業など巨大資本、マスコミ、宗教団体、エリートなど)が一定の意図を持って一般人の見えないところで事象を操作し、または真実を衆目に触れないよう伏せている、とする主張や指摘である。操作する方法としては政治力や財力が主張される。
ある説を唱えている人が、自身の説を「陰謀論」と呼ぶことはない。それは周囲によって称される。
「陰謀論」に基づいて世界史を解釈することを、「陰謀史観」などと呼ぶ人もいる。
- 具体的にどのような考えや指摘が「陰謀論」と呼ばれているかについては、陰謀論の一覧を参照
陰謀と陰謀論
現代では現実問題として、諜報機関などによって日々陰謀(謀略)は行われており、諜報機関同士で謀略のしかけあい(諜報合戦、工作合戦)が行われている、と元公安調査官・野田敬生は自身の活動経験から述べている[2]。
ところが、現実に世界で様々な謀略(諜報)が行われていることを指摘すると、「陰謀論だ」などとレッテルを貼って、指摘している者の知性が劣るかのように言いだす者がおり[2]、謀略が行われていることを知っている者としては、「陰謀論だ」とレッテルを張り安易に却下する論者がいるとしても、事実であることを説明しないわけにはいかない。確かに、事実ではない見当違いの論も一部はあるが、そうはいってもやはり世界では現実に謀略・陰謀は行われているのである[2]とする。
どうすれば陰謀に関する見当違いの説をそれと見分けられるか、ということについて野田は、もしある説が、あるひとつの組織が世界の全てを支配している、などと主張しているならば、それは事実ではないと判断できる、世界は非常に複雑で、常にどの組織にとっても計算不能(予測不能)な事態が起きているので、とても全ては支配できない、また時には、ある結果を引き起こそうとして工作活動を行っても、意図したところと反対の結果を生んでしまうことも起きる[2]。逆に言えば、陰謀は世界の一部の限定的な地域・組織・領域に対しては相当程度の影響力を及ぼすことがある、という。
諜報機関では工作活動だけでなく情報戦も行っており、自ら行った犯行が世間から追求されることをかわすために、情報操作も行っている。みずから突拍子もない説をいくつも流すこともあるという。暗殺などを実行した時でそれがマスコミなどに目をつけられ記事が書かれるようになったら、とんでもないような説をいくつも流す。すると、ひとつの事件について、メディアで怪しげな説がいくつも語られるようになる。中には、暗殺された人物について「殺されたのではなく自作自演の自殺だ」などという説が流れることもある。そうなっている状態というのは諜報機関にとって好都合だという。というのは、ある人物が殺されたということに関する真実はひとつしかないにもかかわらず、怪しげな説がいくつも流れることによって、まさに黒幕となった組織の関与を疑うまっとうな説であっても、相対的にその説の重みが減じてしまう。やがて人々はいくつもの怪しげな説を聞かされることにうんざりしてしまい、次第に関心を失い、事件は風化してゆくためである[2]。
脆弱性
陰謀論は通説、定説と比較して信頼性が著しく低い場合が多く、また採用すべき仮説に対する全くの誤解や無理解、誤解釈といった無知を根拠とするものから、知っているが、知っているからこそ通説、定説、仮説の根拠の全体や一部を故意に無視するなどの倫理感の欠如に基づく事も多いという批判が可能である。
検証の積み重ねを経ることで、事実や通説として認識される陰謀論もある。明らかとなっている陰謀を参照。
陰謀論の支持者は、検証や反証により棄却された仮説であっても、検証や反証に捏造された資料が関係していると論じたり検証や反証過程そのもの、関わる人物や機関に陰謀が関与しているなどと主張し棄却に同意せず(このこと自体は学術的な態度として必ずしも誤りではないが)、よって棄却された仮説をも結論的な証拠として積極的に採用したり、検証や反証過程に「陰謀が絡んでいた」ことが棄却された陰謀論を正当であると補完する根拠になったとすることがある。
陰謀論とプロパガンダ
「陰謀」論という呼称は、その呼称の対象となった論説に対して、虚偽ないし風説にすぎないと強調し印象付ける意図で使用される場合がある(レッテル・ラベル)。ここでは、この呼称の利用者の意図や目的が問題となる。
通説とされる論説、陰謀論とされる論説のいずれにおいても、検証の過程を省略あるいは操作して、権威主義または反権威主義、ポピュリズム、あるいは、倫理観、または、自由・平等・国際協調といった理想的概念、感情(恐怖、怒り、民族感情、国家意識から個人の自己愛まで)に対して訴えかける方式の論説であるときは、それはプロパガンダである可能性がある(報道におけるタブー参照)。
通説がプロパガンダや言論統制により擁護されている場合、権威主義的に通説に依拠して、「陰謀論」の論者が列記する資料や証拠に対する検証過程を拒否するか省略し、あるいは自己に都合のよい結果となる事例のみを採用した上で、「通説と異なる背後関係⇒故に陰謀論である⇒故に検証を要さず棄却」という論法を採用することが多い。
通説と陰謀論の双方がいずれもプロパガンダに過ぎず、いずれもが事実を表示していない場合もある。 陰謀の存在を語る人間、信じる人間は馬鹿だという雰囲気を漂わせることで、人間の自尊心に訴えかけて言論統制の効果を達成することが可能である。政府や諜報機関などが、カウンター・プロガンダを用いる際には専門家や大学教授など権威者を利用して、疑惑を消し去るための言論活動を展開させることは常套手段である。
陰謀論のレッテル張りを行うと、非科学的な妄想と、検証に値する矛盾点の指摘とを区別しないことで、一括してゴミ箱に放り込むよう人々を仕向けることが出来る。
陰謀を指摘する側(A)と、その指摘を「陰謀論」として排除する側(B)の双方に工作員を送り込み、Aにおいて攻撃しやすいほどに破綻した主張を紛れ込ませて、それをBからさかんに攻撃させA陣営の信憑性を全体的に落としめるという方法がある。
ただ一方、真に単なる与太話を印税など金銭を稼ぐため、自分が嫌っている相手を貶めるため、あるいは自分を客観的に評価できない人間が、思考停止して自己満足するためだけに唱える可能性のほうが圧倒的に大きいため、「その話が広まることで、利益を有することになる人間は誰か」、「もし陰謀論が事実だと仮定して、陰謀でなかった場合と比較して矛盾点は大きくならないか」、「陰謀を主張する人間に、論理のすり替えなど、詭弁を用いているものがいないか」など、「火を陰謀主張者が自分で立てていないか」という面での検証も重要である。
陰謀論の説明対象
陰謀論の対象範囲は幅広いが、頻発する分野はある程度限られている。通説を様々な角度から否定する意図から、科学、政治、歴史など、分野をまたいだ説へ発展する事がある。また、ユダヤ陰謀論とフリーメイソン陰謀論の様にそれら同士で密接な関わりがあったり、混同される場合もある。
事件の背景
陰謀論は、ある事件に対する政府等の対応や説明の「不可解な部分」を補足説明するものとなる。日本航空123便墜落事故やジョン・F・ケネディ暗殺に関する陰謀説等、事件が有名かつ謎の部分が多いほど、活発に展開される。
ある団体や個人に対する侮辱や攻撃、人種差別や思想弾圧の背景・動機となる陰謀論もある。例えばナチスのユダヤ人迫害はシオン賢者の議定書に基づくとされる。
悪意を持って発生するものもある。例えば反ユダヤ主義に基づくユダヤ陰謀論、また嫌韓感情に根ざすネット上の論争相手に対する在日認定などの民族差別正当化等である。
ある組織、あるいは対立する複数の組織にとって不都合な真実が明るみに出た場合、陰謀論で説明される事がある。実際に起こった例としては大韓航空機爆破事件における、韓国側の主張した「北朝鮮による爆破」説と北朝鮮側が主張した「韓国による自作自演説」などがある。冷戦時代においては CIAとKGBの間で陰謀論の応酬が展開された。
オウム真理教による坂本堤弁護士一家殺害事件では「我々を陥れる為に公安(又は他の宗教団体)が仕組んだもの」等の陰謀論を主張したが、これは自らの犯罪を隠蔽する為であった。
自説が認められない場合の理由付けとして
学会やマスコミ等で自説が認められない場合、自説の根拠の証明の責任(立証責任)を他所、他者に責任転嫁するという手段で、陰謀論はその理由を説明する(開き直る、逃げる)道具となる事がある。陰謀論自体が自説が認められない人間のオリジナルである場合やすでに他に存在する陰謀論を利用する場合もある。宇宙人、心霊現象、超能力といったオカルト分野や、いわゆる疑似科学(永久機関、超高効率エンジン、常温核融合、反相対性理論等)や偽史(超古代文明、宇宙考古学、古史古伝等)が認められない理由付けに利用される場合もある。そのため、一つの陰謀論を唱えていた人間が、複数の陰謀論を主張し出すパターンもある。
噂、都市伝説の背景
噂や都市伝説の背景を記述する場合や流行や風俗・文化等においても陰謀論が語られる事がある。このような場合は誤解、噂、ジョークとして扱われることが多い。例として「ルービックキューブやテトリスの開発は西側の生産力を低下させる為にソ連が仕組んだ」、「「クール (タバコ)」を始めとするメンソールタバコや清涼飲料水には男性の精力を減退させる成分が含有されている」等がある。
その他の概念の生じた理由
前述の諸性質もあり、信仰や思想、価値観や主義、主張、体制と反体制、マイノリティとマジョリティなどいかなるスタンスとも結びつきうる概念であり、しばしばそれらが生じた理由を説明する場合がある。
主な陰謀論
陰謀論を参考にして作られた大衆娯楽
陰謀論を参考にして制作された大衆娯楽には、さまざまなものがある。大衆娯楽にて扱われる場合、陰謀論は都市伝説と同様に、有名なものがモチーフとされることが多い。陰謀論の扱い方には、以下のような種類がある。
- アクセントのひとつとして取りあげたもの
- おおむねフィクションとして扱うもの
- 歴史的な事実と陰謀論を織り交ぜ、作られたもの
- 実際の出来事や実在した陰謀を下敷きに、それをフィクションとして再考証したもの
- 陰謀論の実現により生じる現在や未来を扱ったもの
一方で、これらフィクションの陰謀を、陰謀論を補強するものとして主張されることもある。アメリカ同時多発テロ事件以前にいくつかあった「ビルに旅客機が突入する」というフィクションは、時として陰謀が事前に計画されていたという主張に用いられることがある。
- 『カプリコン・1』(1977年、アメリカ) - 実際には失敗した火星探索有人宇宙船計画を成功したと偽るために、政府がニセの映像をでっち上げて発表するという映画作品。アポロ計画陰謀論にも大きな影響をあたえている。
- 『ゼイリブ』(1988年、アメリカ) - 現代社会に多数の宇宙人が人間の振りをして生活しており、彼等によって世界がコントロールされているという事実を暴露するために人間達が奮闘する。
- 『陰謀のセオリー』(1997年、アメリカ) - MKウルトラ計画をテーマにしている。
- ゲーム『メタルギアソリッド』に出現するビルダーバーグ会議。米国議会及び日本の内閣総理大臣は実権を握っておらず、陰から支配しているとされる愛国者達に該当している。
出典・脚注
関連書籍
- 海野弘『陰謀の世界史』文藝春秋、2002年、ISBN 4-16-358770-5;文藝春秋〈文春文庫〉、2006年、ISBN 4-16-767976-0
- 『奇妙な論理 1』 マーチン・ガードナー、早川書房〈ハヤカワ文庫〉、2003年、ISBN 4-15-050272-2(原題 In the Name of Science, 1952)
- 『奇妙な論理 2』 マーチン・ガードナー、早川書房〈ハヤカワ文庫〉、2003年、ISBN 4-15-050273-0(原題 In the Name of Science, 1952)
- 『トンデモ本の世界』シリーズ と学会 洋泉社、太田出版、楽工社等 ISBN 4-89691-166-0
- 『陰謀がいっぱい』 別冊宝島編集部 宝島社 ISBN 4-7966-9233-9(文庫版タイトル『「陰謀」大全』 ISBN 978-4-7966-1626-3/ISBN 978-4-7966-5772-3)
- 『現代アメリカの陰謀論』 M・バーカン、林和彦訳、三交社 (現代アメリカの代表的な各種陰謀論と陰謀をもたらす文化について詳しい) ISBN 4-87919-157-4
- 『陰謀論の罠』 奥菜秀次 光文社ペーパーバックス ISBN 4-334-93407-2(9.11陰謀論への批判が主だが、それ以外の陰謀論に関する記述も多い)
- 『検証 陰謀論はどこまで真実か』 ASIOS奥菜秀次水野俊平 文芸社 ISBN 4286103048
- 『ケースD ―見えない洪水―』 糸川英夫と“未来捜査局”(メジャー企業のグループに経済を握られ存立している世界と、その世界秩序が崩壊するような事態が生じたらどうなるか、をシミュレーションした小説) CBSソニー出版、1978年 2000年の角川文庫版はISBN 4-04-149101-0
- 「ポストモダニズムにおけるパラノイア的陰謀-エーコの「フーコーの振り子」とピンチョンの諸作品」村上恭子(高岡短期大学紀要富山大学)[1]
- 「欧米の陰謀論の日本における受容と変容」辻隆太朗(宗教研究 日本宗教学会)[2]
- 「キリスト教ファンダメンタリズムと陰謀論」辻隆太朗(「宗教と社会」学会要旨2006.6.3)[3]PDF-P.9
- 「救出カウンセリングの論理と宗教の社会的位置レジュメ」渡邊太(南山大学2004年12月11日)[4]
- 「ドービニェの自伝をめぐって : アンボワーズ陰謀事件」高橋薫(論集 The semiannual periodical of the Faculty of Foreign Languages 駒澤大学)[5]