西脇市立西脇小学校

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西脇市立西脇小学校

2008年2月撮影
地図北緯34度59分30秒 東経134度58分40秒 / 北緯34.99167度 東経134.97778度 / 34.99167; 134.97778座標: 北緯34度59分30秒 東経134度58分40秒 / 北緯34.99167度 東経134.97778度 / 34.99167; 134.97778
過去の名称 為祥小学校
開性小学校
開性尋常小学校
津万尋常高等小学校
西脇尋常高等小学校
西脇国民学校
西脇町立西脇小学校
国公私立の別 公立学校
設置者 西脇市
設立年月日 1873年明治6年)
共学・別学 男女共学
学校コード B128210004264 ウィキデータを編集
所在地 677-0015
兵庫県西脇市西脇656番地
外部リンク 公式サイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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西脇市立西脇小学校(にしわきしりつ にしわきしょうがっこう)は、兵庫県西脇市にある公立小学校

概要[編集]

1873年(明治6年)の学制発布により為祥小学校として開校する。

1917年(大正6年)町制施行により西脇尋常高等小学校に改称する。

1937年(昭和12年)校舎を建替える。

2008年(平成20年)4月に木造校舎が兵庫県景観形成重要建造物に指定され、2020年(令和2年)木造校舎の改修を対象に2020年度グッドデザイン賞が授与される[1]

2021年(令和3年)には第一校舎、第二校舎、第三校舎が国の重要文化財(建造物)に指定される。

沿革[編集]

  • 1873年明治6年) - 学制発布により為祥小学校として開校[注釈 1]
  • 1885年(明治18年) - 輻湊小学校と合併し、開性小学校となる[3]
  • 1887年(明治20年) - 小学校令。開性尋常小学校と改称。
  • 1901年(明治34年) - 開性尋常小学校・津万尋常小学校・第二多可高等小学校が合併し津万尋常高等小学校となる。現在地に校舎新築。
  • 1909年(明治42年)- 校地拡張し,校舎を2棟増築。
  • 1917年大正6年)- 町制施行。西脇尋常高等小学校に改称。
  • 1921年(大正10年)- 校舎増築。
  • 1937年昭和12年)- 校舎建替え。現有木造校舎が竣工。設計は内藤克雄(ないとうよしお 1890-1973)[4]
  • 1941年(昭和16年)- 国民学校令施行。西脇国民学校に改称。
  • 1947年(昭和22年)- 学校教育法施行により西脇町立西脇小学校に改称。
  • 1952年(昭和27年)- 市制施行。西脇市立西脇小学校に改称。
  • 1963年(昭和38年)4月 - プールを新設。
  • 1970年(昭和45年)9月 - 第四校舎を新築。
  • 1979年(昭和54年)12月 - 体育館を新築。
  • 1989年(平成元年)12月 - 木造校舎の改修。
  • 1990年(平成2年)12月 - 第四校舎の改修及び中庭の改修。
  • 2008年(平成20年)4月 - 木造校舎が兵庫県景観形成重要建造物に指定される、第4校舎耐震工事。
  • 2011年(平成23年)6月 - 体育館耐震改修工事、第4校舎屋上改修工事。
  • 2017年(平成29年)6月 - 保存改修工事に着工[注釈 2]
  • 2019年(令和元年)8月 - 保存改修工事が完了。
  • 2020年(令和2年)- 木造校舎の改修を対象に2020年度グッドデザイン賞が授与された[4]
  • 2021年(令和3年) - 国の重要文化財に指定[7][8][9][10]

特色[編集]

通学区域[編集]

  • 西脇市[11]
    • 西脇、下戸田、上野、上戸田、津万、嶋、大垣内(おおがち)、寺内、西嶋、蒲江(こもえ)、坂本、大野、高田井町(一部)、小坂町(一部)、郷瀬町(一部)

進学先中学校[編集]

付記[編集]

  • 木造校舎南側に同時期に竣工した木造の講堂があったが,新体育館建設に伴い解体された。
  • 2008年(平成20年)公開の映画「火垂るの墓」の撮影が行われた。
  • 2009年(平成21年)公開の映画「人間失格」の撮影が行われた。

出身者[編集]

ギャラリー[編集]

周辺[編集]

通学区域が隣接している学校[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 為祥小学校は西脇385(童子山公園南にある観音堂東側の公園)にあった[2]
  2. ^ 校舎が建替え、取り壊しの危機にあったが、反対運動が巻き起こり、これに同校の出身者でもある横尾忠則も建替えに反対、保存改修による使用を強力に提案。横尾はノスタルジーからではなく、市民の文化の高さを誇る象徴としての建造物が存在するということを自慢できる。市民一人ひとりが誇りを持っていただきたいと発言。教育の場の経済至上主義、物質主義に警鐘を鳴らした[5]。そうした運動の結果、校舎3棟の保存が決まった[6]

出典[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]