細野正文

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ほその まさぶみ

細野 正文
1912年
生誕 1870年11月8日
死没 (1939-03-14) 1939年3月14日(68歳没)
国籍 日本の旗 日本
職業 鉄道官僚
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細野 正文(ほその まさぶみ、1870年明治3年)11月8日 - 1939年(昭和14年)3月14日)は、明治期の鉄道官僚。日本人唯一のタイタニック号の乗客として知られる。

略歴[編集]

家族[編集]

タイタニック号をめぐって[編集]

細野正文の手記、内容は外部リンク参照

細野は鉄道院副参事(現在の国土交通省大臣官房技術参事官に相当)を務めていた1912年、第1回鉄道院在外研究員としてロシアサンクトペテルブルク留学の帰路にタイタニック号に乗船した[5]

日本人唯一の乗船客である細野は、タイタニック号沈没事故において最も死亡率が高かった二等船室の男性乗客[注釈 1]であったが、10号ボートに乗って生還を果たした。細野はその時の状況を雑誌『冒険世界』(1912年7月号)において次のように語っている[6]

ふと舷側を見ると今や最後のボート卸ろされるところで中には45人分の女子供が乗って居たが、スルスルと1ヤードか2ヤード程卸した。ところが何か滑車に故障があったと見えてピタリと止まった。ふと聞くともなしに聞くと『何にまだまだ3人位ゆっくり乗れるじゃないか』と船員同士の話声がした。私は立ち止った。すると私の側に居った一人の船員がヒラリとばかりにボートに飛び下りた。見るとボートは元の儘、舳のところが空いて誰も居ない。これなら飛込んでも誰れにも危害を与えまいと思ったので、いきなり飛び下りた。

細野が批判されていたとする説[編集]

週刊文春』(1997年12月18日号)などの報道によると、タイタニック生還者の1人であるイギリス人のローレンス・ビーズリーが1912年に出版した著作『THE LOSS OF THE SS.TITANIC』の中で「他人を押しのけて救命ボート(13号ボート)に乗った嫌な日本人がいた」と証言したことが日本国内で広まったことにより、細野は当時の新聞や修身の教科書などから批判に晒されたという。1997年にタイタニック展示会主催団体「タイタニック・エキシビション・ジャパン」の代表マット・テイラーが、細野の手記や他の乗客の記録と照らし合わせた調査から、ビーズリーと細野は別の救命ボートに乗っており、人違い[注釈 2][注釈 3]であることが判明して細野の名誉が回復されたとしている[6]

細野が批判されていたとする説への疑問[編集]

一方、ジャーナリストの安藤健二は、細野がビーズリー証言をもとに批判されていたという逸話自体に疑問を呈している。安藤の調査ではビーズリーの著作『THE LOSS OF THE SS.TITANIC』から日本人に関する証言を見つけることはできず、また、当時の修身の教科書や新聞にも細野を批判した物は発見されなかった。そもそも、タイタニック号沈没事件について触れている教科書は1925年発行の『正定 女子副読本 巻二』(金港堂)と『補修教育 現代文読本 後編二』(文光社)の2冊のみであり、そこに掲載されているのはいずれも経済学者である和田垣謙三のエッセイ『タイタニック号 の沈没』だが、「日本人も一人居たが、これは幸にも助った」とあっさり触れているだけで、細野への批判などはまったく記述されていない[6]

安藤の調査で確認できたのは、事故から何年も経った後に少年向け愛国雑誌『義勇青年』(1916年3月号)のインタビューの中で、新渡戸稲造が細野の名前を出さずにこの事故で女用のボートに飛び下りて助かった日本人男性がいることを皮肉っぽく語っていたことぐらいだという[6]。明確な細野への批判が最初に確認できるのは、細野が死んで、だいぶたった後の1954年10月4日付『新潟日報』夕刊に掲載された、洞爺丸事故に関連して寄せられた早稲田大学教授木村毅の寄稿文であるという[6]。しかも、新渡戸も木村もビーズリー証言をもとに批判しているわけではなく、女性と子供が優先というルールがあったにもかかわらず、男性である細野が甲板から下ろされる途中の救命ボートに飛び乗るという特殊な手段を用いて助かった行為を批判ないし皮肉ったものであった[6]。安藤は、メディアが「名誉回復された」という美談に仕立て上げようとして批判の存在を捏造したのではないかと推測している[6]

生存者エイダ・ウエストの手記[編集]

タイムズ2009年3月26日の記事によると、同じ10号ボート生存者で2007年に亡くなったバーバラ・ウエストの母エイダの手記によれば、ある男性が女性のドレスに隠れていたという。また、ドレスに火が点かないようタバコを消すよう注意された男性がいたといわれる。しかし、その人物を特定して名指しした文書は現在のところ存在しない[8]。ただし、10号ボートに船員以外の男性は細野を含む2人しかいなかったのも事実である[9]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 二等船室の男性乗客は三等船室の男性乗客より死亡率が高かった。
  2. ^ 記録では、細野が乗り込んだ救命ボート(10号ボート)にはアルメニア人の男性と女性しか乗っていなかったことになっているが、事故当時、細野はひげを生やしていたためアルメニア人と誤記されたものであり、一方でビーズリーの13号ボートには中国人が乗っており、ビーズリーはこの中国人を細野と勘違いしたのだという。
  3. ^ テイラーは細野の手記について、読んだ時に体が震えるほどの衝撃を受けたといい、「事故当時の乗客の心理状態を、これほど的確に描写した記録はほかにはないでしょう」とも語っている[7]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g ファミリーヒストリー 「細野晴臣~タイタニックの宿命 音楽家の原点~」、NHK、2015年06月12日放映
  2. ^ 明治44年4月21日大毎『新聞集成明治編年史. 第十四卷』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  3. ^ 細野正文歴史が眠る多磨霊園
  4. ^ 『CD 現代日本人名録 物故者編1901~2000』(日外アソシエーツ) より
  5. ^ 唯一の日本人にして生き残りだった祖父”. ナショナル ジオグラフィック日本版. 2018年5月20日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g 安藤健二 2011, p. 第4章捏造された日本人差別。タイタニック生還者が美談になるまで.
  7. ^ 『タイタニック号99の謎』、福知怜、二見書房二見文庫、pp.149-151、1998年5月30日。
  8. ^ The Times - Flask of hot milk for family then Arthur West went down with Titanic
  9. ^ Titanic Survivors : Lifeboat 10

外部リンク[編集]

参考文献[編集]

  • 安藤健二『ミッキーマウスはなぜ消されたか---核兵器からタイタニックまで封印された10のエピソード』河出書房新社、2011年。ISBN 978-4309411095 
  • 福知怜『新装版 タイタニック号99の謎』二見書房、2012年。ISBN 978-4576120461