筑波 (巡洋戦艦)
艦歴 | ||
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起工 | 1905年1月14日 | |
進水 | 1905年12月26日 | |
就役 | 1907年1月14日 | |
その後 | 1917年1月14日、 火薬庫の爆発により沈没 | |
除籍 | 1917年9月1日 | |
性能諸元 | ||
排水量 | 常備:13,750t、満載:15,400t | |
全長 | 137.1m | |
水線長 | 134.1m | |
全幅 | 23m | |
吃水 | 8m | |
機関 | 宮原式重油石炭混燃缶20基 +直立型三段膨張式四気筒レシプロ機関2基2軸推進 20,500hp | |
最大速力 | 20.5ノット | |
乗員 | 879名 | |
武装 | 30.5cm連装砲 4門 | |
15.2cm単装砲 12門 | ||
12cm単装砲 12門 | ||
8cm単装砲 4門 | ||
45.7cm魚雷発射管 3門 | ||
装甲 | 水線帯 100-180mm | |
砲塔 180mm | ||
バーベット 180mm | ||
司令塔 200mm | ||
甲板 75mm |
筑波(つくば)は、大日本帝国海軍の巡洋戦艦。筑波型巡洋戦艦の一番艦である。艦名は茨城県の「筑波山」にちなんで名づけられた。この名を持つ日本海軍の艦船としては2隻目。
概要
戦艦に準ずる砲力を持つ巡洋艦として計画・急造されており、1912年に類別としての巡洋戦艦が新設されるまでは、一等巡洋艦(装甲巡洋艦)であった。
ジェーン海軍年鑑は、類別変更以前の装甲巡洋艦の分類を用いたが、ワシントン海軍軍縮条約において同型艦の「生駒」は、規制対象の戦艦として扱われた。
建造経緯
日露戦争初期に喪失した戦艦「初瀬」と「八島」の代艦として日露戦争臨時軍事費で建造され国産最初の大艦として設計され呉工廠で建造された。
艦体・機関や防御力は装甲巡洋艦であるが主砲は戦艦と同じ12インチ砲を搭載した。
略歴
- 1905年 呉工廠で起工。同年、進水[1]。
- 1907年 竣工、欧米訪問航海をおこなう。
- 1914年 第一次世界大戦、西太平洋に派遣。南洋諸島占領に参加。
- 1917年 横須賀港で火薬庫爆発、大破着底。除籍。
- なお児童文学作家の佐藤さとるが、編集顧問(最高代表)をつとめる同人「鬼ヶ島通信」で連載した、海軍士官だった父の人物伝『佐藤完一の伝記 海の志願兵』の同誌50+5号掲載分で(連載終了後、書き下ろしを加えて偕成社から発売)父の日記が引用されており、「自分(父)と同期の二人の目前で筑波が突如爆発し、絶句した」と記されている。
艦長
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
- 竹内平太郎 大佐:1906年8月10日 - 1907年12月27日
- 広瀬勝比古 大佐:1908年9月15日 - 1910年12月1日
- 築山清智 大佐:1910年12月1日 - 1911年4月12日
- 山路一善 大佐:1911年4月12日 - 1911年12月1日
- 橋本又吉郎 大佐:1911年12月1日 - 1912年7月9日
- 竹下勇 大佐:1912年7月9日 - 9月12日
- 鈴木貫太郎 大佐:1912年9月12日 - 1913年5月24日
- 堀内三郎 大佐:1913年5月24日 - 12月1日
- 加藤寛治 大佐:1913年12月1日 - 1914年5月6日
- 竹内次郎 大佐:1914年5月6日 - 1915年4月1日
- 片岡栄太郎 大佐:1915年4月1日 - 12月13日
- (兼)関重孝 大佐:1915年12月13日 - 1916年1月10日
- 吉岡範策 大佐:1916年1月10日 - 12月1日
- 有馬純位 大佐:1916年12月1日 -
同型艦
脚注
- ^ 「筑波艦進水式故障の為め失敗」報知新聞1905年12月15日『新聞集成明治編年史. 第十二卷』(国立国会図書館http://dl.ndl.go.jp/)
参考文献
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 『官報』
関連項目
- 戦艦一覧
- 大日本帝国海軍艦艇一覧
- 筑波 [I](コルベット)