福島安正
福島 安正 | |
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生誕 |
1852年10月27日 日本、信濃国松本 |
死没 |
1919年2月19日(66歳没) 日本、東京府北豊島郡高田村 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1878 - 1914 |
最終階級 | 陸軍大将 |
墓所 | 青山霊園 |
福島 安正(ふくしま やすまさ、嘉永5年9月15日(1852年10月27日) - 大正8年(1919年)2月19日)は、日本の陸軍軍人[1]。最終階級は陸軍大将。男爵。萩野末吉に続く情報将校。10カ国語以上に通じ、軍部第一の地理学者・語学者と称賛された[2]。
経歴
嘉永5年(1852年)、信濃国松本城下(現・長野県松本市)に松本藩士・福島安広の長男として生まれる[注釈 1]。慶応3年(1867年)、江戸に出て、幕府の講武所で洋式兵学を学び、戊辰戦争に松本藩兵として参戦。
明治2年(1869年)、藩主・戸田光則の上京に従い、開成学校へ進み外国語などを学ぶ。明治5年(1872年)に司法卿江藤新平の知遇を得[2]、翌明治6年(1873年)4月、司法省に仕官。語学力を買われ、明治7年(1874年)9月に文官として陸軍省へ移る[2]。明治9年(1876年)7月から10月までアメリカ合衆国に出張。フィラデルフィア万国博覧会へ西郷従道に随行。明治10年(1877年)の西南戦争では征討軍筆記生として従軍し、山縣有朋の伝令使を務めた[1][2]。
明治11年(1878年)5月、陸軍士官登用試験に合格し、陸軍中尉となる。同年12月、参謀本部長伝令使に就任。明治12年(1879年)3月、陸軍教導団歩兵大隊付となり、同年12月、参謀本部管西局員に異動。中国、朝鮮などを実地調査し、明治16年(1883年)2月、陸軍大尉に昇進。同年6月、清国公使館付となる。
明治17年(1884年)11月、参謀本部管西局員兼伝令使に就任。明治18年(1885年)2月から4月まで、天津条約の交渉に随員として陪席する。陸軍大学校でドイツから来日したメッケルに学ぶ。明治19年(1886年)にはインド、ビルマ方面を視察の上、翌1887年(明治20年)に陸軍少佐に昇進。ドイツのベルリン公使館に駐在、公使の西園寺公望とともに情報分析を行い、ロシアのシベリア鉄道敷設の情報などを報告する。
明治25年(1892年)、帰国に際し、冒険旅行という口実でシベリア単騎行を行い、ポーランドからロシアのペテルブルク、エカテリンブルクから外蒙古、イルクーツクから東シベリアまでの約1万8千キロを1年4ヶ月をかけて馬で横断し、実地調査を行う。この旅行が一般に「シベリア単騎横断」と呼ばれるものである。その後もバルカン半島やインドなど各地の実地調査を行い、現地情報を参謀次長の川上操六らに報告する。この功績で勲三等を受勲している[1]。
明治26年(1893年)2月、陸軍中佐に進級。明治27年(1894年)6月、京城公使館付となる。同年8月、第一軍参謀として日清戦争に出征[1]。
明治28年(1895年)3月、陸軍大佐に昇進。同年9月、参謀本部編纂課長となり、欧州・アジア旅行、参謀本部第3部長、同第2部長を歴任。
明治33年(1900年)4月、陸軍少将に進級し西部都督部参謀長を兼務。同年6月、義和団事件鎮圧の為、臨時派遣隊司令官として清国に派遣された。同年9月から翌年6月まで、北清連合軍総司令官幕僚として作戦会議で司会を務め、英、独、仏、露、北京官語を駆使して調停役となる。明治35年(1902年)5月から11月までイギリスに出張。
明治37年(1904年)2月、大本営参謀に就任し、同年6月からの日露戦争では満州軍総司令部参謀として、それまでの経験を活かして諜報部において手腕を振るう。特に、満州馬賊を率いて戦った「遼西特別任務班」「満州義軍」の総指揮を行ったことは、一般にあまり知られていない。
明治39年(1906年)4月、参謀本部次長に就任し、同年7月、陸軍中将に進級。明治40年(1907年)9月、軍功により男爵を叙爵し華族となる。明治41年(1908年)12月、参謀次長(名称変更)に発令され、同45年(1912年)4月に関東都督に就任。
大正3年(1914年)9月15日、陸軍大将に進級と同時に後備役となり[4]、同年11月、帝国在郷軍人会副会長に就任。最晩年には「剛健主義」を掲げ全国騎馬旅行などをして過ごす。
大正8年(1919年)、東京市郊外の高田村(現、豊島区雑司が谷附近)の自宅で死去。67歳。墓所は東京都港区の青山霊園。
栄典
- 位階
- 1890年(明治23年)7月3日 - 従六位[5]
- 1893年(明治26年)4月11日 - 正六位[6]
- 1895年(明治28年)11月15日 - 従五位[7]
- 1900年(明治33年)7月10日 - 正五位[8]
- 1905年(明治38年)7月20日 - 従四位[9]
- 1910年(明治43年)8月10日 - 正四位[10]
- 1913年(大正2年)8月20日 - 従三位[11]
- 1914年(大正3年)9月30日 - 正三位[12]
- 1919年(大正8年)2月19日 - 従二位[13]
- 勲章等
- 1889年(明治22年)11月22日 - 勲六等瑞宝章[14]
- 1895年(明治28年)
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功二級金鵄勲章・明治三十七八年従軍記章[17]
- 1907年(明治40年)
- 1914年(大正3年)9月15日 - 勲一等旭日大綬章[20]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[21]
- 外国勲章佩用允許
- 1889年(明治22年)11月21日 - ザクセン王国:アルブレヒトコムツウル第二級勲章[22]
- 1892年(明治25年)3月30日
- 1899年(明治32年)7月4日 - 大清帝国:第二等第三双竜宝星[24]
- 1901年(明治34年)12月5日 - オランダ王国:オランイエナソサイ勲章グロートオフィシール[25]
- 1903年(明治35年)3月28日
親族
- 妻 福島貞子 高野貞潔(幕臣)の娘
- 嗣子 福島四郎(陸軍中佐)
- 二男 福島正一(陸軍少佐)
- 三男 福島次郎(陸軍中尉、戦死)
- 長女 福島操子
伝記
- 太田阿山編『福島将軍遺績』東亜協会、1941年。
- 島貫重節『福島安正と単騎シベリヤ横断』上下、原書房、1979年。
- 坂井藤雄『シベリア横断 - 福島安正大将伝』葦書房、1992年。
- 浅野晃『こころの文庫 - 福島安正』全日本家庭教育研究会。月刊ポピーの副読冊子(32p)。振り仮名付きで子ども向け。
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d 朝日日本歴史人物事典. 福島安正. コトバンクより2022年4月26日閲覧。
- ^ a b c d 20世紀日本人名事典. 福島 安正. コトバンクより2022年4月26日閲覧。
- ^ 樋口清之・丹羽基二『姓氏』秋田書店、1970年、274頁
- ^ 『官報』第639号、大正3年9月16日。
- ^ 『官報』第2104号「叙任及辞令」1890年7月5日。
- ^ 『官報』第2932号「叙任及辞令」1893年4月12日。
- ^ 『官報』第3717号「叙任及辞令」1895年11月16日。
- ^ 『官報』第5106号「叙任及辞令」1900年7月11日。
- ^ 『官報』第6618号「叙任及辞令」1905年7月22日。
- ^ 『官報』第8142号「叙任及辞令」1910年8月11日。
- ^ 『官報』第319号「叙任及辞令」1913年8月21日。
- ^ 『官報』第651号「叙任及辞令」1914年10月1日。
- ^ 『官報』第1964号「叙任及辞令」1919年2月21日。
- ^ 『官報』第1925号「叙任及辞令」1889年11月27日。
- ^ 『官報』第3693号「叙任及辞令」1895年10月19日。
- ^ 『官報』第3862号・付録「辞令」1896年5月16日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
- ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
- ^ 中野文庫 - 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧(戦前の部)
- ^ 中野文庫 - 旧・勲一等旭日大綬章受章者一覧(戦前の部)
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第1930号「叙任及辞令」1889年12月3日。
- ^ a b 『官報』第2625号「叙任及辞令」1892年4月2日。
- ^ 『官報』第4810号「敍任及辞令」1899年7月14日。
- ^ 『官報』第5531号「叙任及辞令」1901年12月9日。
- ^ a b 『官報』第5948号「叙任及辞令」1903年5月4日。
参考文献
関連項目
外部リンク
日本の爵位 | ||
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