小林彰太郎

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小林 彰太郎(こばやし しょうたろう、1929年11月12日 - 2013年10月28日)は、日本自動車評論家自動車雑誌カーグラフィック(CG)」(二玄社)の創設者である。

小林 彰太郎
Shotaro Kobayashi
生誕 1929年11月12日
日本の旗 日本 東京都
死没 (2013-10-28) 2013年10月28日(83歳没)
職業 自動車評論家、編集者、実業家
受賞 日本自動車殿堂(2013年)
FIVA Heritage Hall of Fame Award(2021年)
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経歴

生い立ち

東京都生まれ。ライオン株式会社を創業した一族の出身[1]小学校から旧制高等学校まで13年間を成蹊学園で過ごす[1]成蹊小学校旧制成蹊高校(文科甲類)卒業。[2]

モーリスを自家用車として使用していた叔父などの影響を受けて自動車好きであるとともに、当時の多くの少年たちと同様に、飛行機好きの「軍国少年」であった。中学生時代の第二次世界大戦の終戦間際に海軍技術研究所に動員され、中島十八試陸上攻撃機「連山」の鋼鉄化にあたり、鉄の低温脆弱試験のための液体酸素省電で研究所まで運ぶ仕事をしたという。

学生時代

日本の敗戦後には連合国による飛行禁止令が出され、その後は自身の興味が完全に飛行機から自動車へと代わるようになった。初めて運転した車は、成蹊学園に駐留していた陸軍の置き土産の「くろがね四起」だった。

東京大学経済学部在学中[1]には、アメリカ大使館付随の語学学校で大使館員に日本語教育をするアルバイトを、三本和彦などとともに1年間行なった。その給料は当時の学生のアルバイトとしては破格だったといい、イギリス製の乗用車である1932年型「オースチン・7」を5万円で購入[1]することによって、本格的に車の世界へ入り込んだ。

モータージャーナリストへ

1954年に大学卒業後、第二次世界大戦後初の本格的な自動車雑誌であった『モーターマガジン』(日刊自動車新聞社)へ寄稿するようになり、「それでも車は動く」、「ロードインプレッション」などの連載が人気となった。また、日本国産車の発展を考え、それまでのタクシー専用車や営業車の派生から決別した純オーナードライバー向けモデルの開発が必要であると主張した。

1961年に、「モーターマガジン」編集部員だった高島鎮雄、吉田次郎とともに、当時は書道専門出版社であった二玄社東京都千代田区)から、写真集「スポーツカー」を出版した。しかし、これがもとで『モーターマガジン』誌との関係が悪化し、同様に同誌から退職することとなった高島と吉田とともに同誌と絶縁した。

カーグラフィック創刊

1962年4月、二玄社から「カーグラフィック[注釈 1]」を創刊した。創刊号では在日アメリカ軍人から借用した「メルセデス・ベンツ・300SLロードスター」で運輸省村山テストコースを180km/hで走行してのロードテストを敢行した。

その後、ジャガーフェラーリフォード日産自動車シトロエンなど、1号ごとに自動車メーカー1社を特集する形だった同誌は、最初の1年間は部数の伸び悩みに苦労したものの、次第に部数が伸びていくとともに現在のような体裁へと変化してゆく。

1963年には「第1回日本グランプリ」や「マカオグランプリ」を取材したほか、1964年にはホンダのF1初参戦を取材するために、発売直後の「ホンダ・S600」をパンアメリカン航空ボーイング707型機でヨーロッパに持ち出し、2ヶ月半で12,000kmを走破し、ホンダF1が参戦したドイツグランプリイタリアグランプリを観戦するなど、これまで他の自動車雑誌が取り上げることが無かった国内外のモータースポーツを取り上げた。

発展期

なお、同誌では当初編集長を置かずに編集を行なっていたが、1966年に大病から復活した小林は、二玄社社長渡邊隆男に同社取締役・初代編集長への就任を要請され、これを受諾した。編集長となった小林のもと、同誌は日本を代表する自動車雑誌に発展した。

同誌は、これまでの日本の自動車雑誌にはなかった、加速やブレーキ性能などをデータ化したロードテストや、実際に購入したモデルを日常使用しての長期テスト、ポール・フレールや山口京一、ステディ・バーカーや宮川秀之などによる海外からの豊富な寄稿文、様々な国内外のモータースポーツ情報などを取り入れた斬新な編集方針は、日本の自動車雑誌や評論のみならず、高度経済成長期に生産台数とラインナップを増やしつつあった日本の自動車業界にも大きな影響を与えた。

しかし1969年には、テスト中に同乗していた車が事故を起こし足に大けがをした他、テスト車として借り入れた「ロールス・ロイス・シルヴァーシャドウ」のブレーキシステムの欠陥で事故を起こしそうになったが小林の操縦でこれを逃れるなど、様々なトラブルもあったものの、「ミッレミリア」に参戦したり編集部によるレーシングチームを立ち上げるなど様々な活動を行い、1970年代から1990年代にかけてその内容も部数も大きく伸びることとなる。なお小林は、1980年より1990年まで「日本カー・オブ・ザ・イヤー」の選考委員長を務めた。

その後

1989年4月に「カーグラフィック」の編集長を退任したが、その後は同誌の編集顧問兼二玄社の編集総局長として、「カーグラフィック」や「NAVI」、「スーパーカーグラフィック」や「カーグラフィックTV」などの二玄社の自動車雑誌やメディアを中心に評論活動を行った。

その後も、対談や翻訳を含む多数の著書を持つほか、「日本カー・オブ・ザ・イヤー」にかかわりを続けた。また、濱徳太郎桃山虔一の後を承け、日本クラシックカークラブ(CCCJ)会長を務めたほか、様々なクラシックカーラリーに参加し続けた。また「カー・オブ・ザ・センチュリー」や「コンコルソ・デレガンツァ・ヴィラ・デステ」といった世界的な自動車イベントの審査員としても活躍した。

晩年

2000年代に入っても、論評活動を行う傍ら「アルスターTTレース」などの海外のクラシックカーラリーに積極的に参加を続けた。2012年12月26日放送の「カーグラフィックTV」では、CG創刊50周年記念イベントにCG名誉編集長として出席したが、鼻腔にチューブを通して酸素吸入を行なっていた。

2013年10月28日に、肺性心のため死去[3]。83歳没。同年12月19日には、都内のホテルにて「お別れの会」が行われ自動車業界や出版関連者のみならず、多くの読者が訪れその死を悼んだ[4]

評価

第二次世界大戦後の日本に自動車ジャーナリズムを創出し位置づけたパイオニアと評される。歴史や技術を踏まえた上で自身の経験を通して執筆される味わいある文章は単なる評論の域を超えており、イギリス流の自動車趣味や海外の自動車事情・文化・歴史を紹介、アマチュアリズムをもつプロのジャーナリストを実践した。

黎明期の日本のモータスポーツの普及発展においても、日本国外レースの記事執筆や、指南書(ポール・フレール著『ハイスピードドライビング』)の翻訳を通じて大きな役割を果たしている。日本の自動車に技術面、文化面から与えた影響はあまりに大きい。

所有車

自身でこれまで所有した乗用車は、オースチン・7(1932年型)[1]シトロエン・トラクシオン・アバン(英国製ライト・フィフティーン)、第二次世界大戦前のタトラインヴィクタ(ともにレストア用に購入したが果たせずに終わる)、サンビーム・タルボット、オースティンA50MGスペシャル(エンジンとギアボックスをMGA用パーツでチューンアップ)、MGマグネット、ローバー・2000TCアルファロメオ・アルフェッタ、同アルファスッドホンダ・S600ランチアラムダ(1920年型)やランチア・イプシロンシトロエンエグザンティアブガッティ・ブレシアアルファロメオ・SZアルビス(1936年型)[1]など。

親交・エピソード

  • 詩人の谷川俊太郎とは、30年近く隣人同士で幼馴染。俊太郎さん、彰太郎さんと呼び合う仲であった。
  • 三本和彦とはともにアメリカ軍基地で日本語アルバイトをして以来の親友である。小林はそのバイト代で中古のオースチンを買い、三本は報道用カメラスピード・グラフィックを買った。長年に渡りCGの巻頭コラム『FROM OUTSIDE』の執筆を担当した。
  • レーシングドライバーのポール・フレールとは1960年代から交流がはじまり、その後生涯にわたって続いた。またフレールは1967年よりカーグラフィック誌にコラムを掲載している。
  • ホンダ創業者の本田宗一郎とは、S500発売時から交流がはじまり、その後生涯にわたって続いた。[5]
  • 白洲次郎が1920年代に乗っていたベントレーが現存している、とワク井ミュージアム館長に知らせたのは、小林であった。小林の助言により、館長は当時の所有者であった英国人と交渉を行い、この車は日本で保存されることとなった。[6]
  • 長野県軽井沢町別荘を所有し、別荘の車庫にも数台クラシックカーを保管していた。小林によれば軽井沢は昔から走るのに楽しい土地で、クラシック・ブガッティを足代わりに走り回っていた[7]。また、軽井沢には自動車趣味を共有する友人がいて、星野リゾート創業者一族の星野嘉苗と交流があったり、近衛忠輝甯子夫妻を乗せてランチア・ラムダでドライブしたとも語っている[7]。テレビ番組「ニュースステーション」でも紹介され、久米宏が軽井沢を訪ねている。久米はのちに「濃い緑の中を駆け抜けるオースチンセブン。ハンドルを握る彰太郎氏は少年そのものだった」と回顧している[8]。また著書「小林彰太郎の世界」の表紙は、小林が軽井沢の緑の中をクラシックカーで走る写真が使用されている。

著書

  • 小林彰太郎の世界(二玄社
  • 小林彰太郎の世界 + 徳大寺有恒との対話(二玄社)
  • 天皇の御料車(二玄社)
  • On the road―すばらしきクルマの世界(二玄社)
  • 長期テスト シトロエンエグザンティアV-SXの全記録(二玄社)
  • THE PURSUIT of DREAMS―The First 50 Years of HONDA 独創と挑戦の50年(二玄社)
  • HONDA S2000(アクシス)
  • 小林彰太郎の日本自動車社会史(2011年 講談社ビーシー講談社
  • 昭和の日本 自動車見聞録(2013年 トヨタ博物館

編纂

翻訳

  • ミニ・ストーリー―小型車の革命 (ローレンス・ポメロイ著/二玄社
  • いつもクルマがいた―ポール・フレール自叙伝(ポール・フレール著/二玄社)
  • ハイスピード・ドライビング (ポール・フレール著/二玄社)
  • 新ハイスピード・ドライビング (ポール・フレール著/二玄社)

出典

  1. ^ a b c d e f 小林彰太郎が語る「車への熱き思い」 Vitalite インタビュー
  2. ^ 一般社団法人成蹊会
  3. ^ “「カーグラフィック」名誉編集長・小林氏が死去”. YOMIURI ONLINE. (2013年10月29日). オリジナルの2013年10月29日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20131029202052/http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20131028-OYT1T01143.htm 2014年10月25日閲覧。 
  4. ^ 【小林彰太郎 お別れの会】”. CAR GRAPHIC公式Facebook (2013年12月19日). 2014年10月15日閲覧。
  5. ^ 小林彰太郎氏 追悼”ホンダ公式ホームページ
  6. ^ 003 Bentley/涌井清春 ロールス・ロイスの光、ベントレーの風に魅せられて”目の眼コラム
  7. ^ a b 第一編集局セオリープロジェクト『あなたの知らない軽井沢 〔セオリー〕2010 vol.4』(講談社, 2010年7月24日刊), 76 - 81頁に所収。
  8. ^ 小林彰太郎初の全文書き下ろし自叙伝発売!”. web CG. 株式会社webCG (2011年7月8日). 2020年6月28日閲覧。

注釈

  1. ^ 現在の表紙タイトルが「CAR GRAPHIC」との英字であるのに対して、創刊時から1969年末までは「CARグラフィック」であった

外部リンク

先代
(創刊)
カーグラフィック編集長
初代:(1962年4月~1989年4月)
次代
熊倉重春(1989年4月~1995年)