対馬 (防護巡洋艦)
表示
艦歴 | |
---|---|
計画 | 第二期拡張計画[1] |
起工 | 1901年10月10日 |
進水 | 1902年12月15日 |
竣工 | 1904年2月14日 |
除籍 | 1939年4月1日、雑役船編入 |
廃艦 | 1940年4月1日 |
その後 | 1944年沈没 |
要目 | |
排水量 | 常備:3,366t |
垂線間長 | 102.0m |
最大幅 | 13.44m |
吃水 | 4.92m |
機関 | ニクローズ式石炭専焼罐16基 レシプロ蒸気機関2基、2軸推進 9,400馬力 |
燃料 | 石炭600t |
速力 | 20.0ノット |
航続距離 | |
乗員 | 320名 |
兵装 | 40口径152mm単装速射砲 6門 40口径76mm単装速射砲 10門 47mm単装砲 4門 |
装甲 | 甲板傾斜部:76mm 司令塔:100mm |
対馬(つしま)は、日本海軍の防護巡洋艦。新高型の2番艦である。艦名は旧国名対馬国にちなんで名づけられた。
艦歴
[編集]1901年、呉工廠で起工、1904年2月14日に竣工し、三等巡洋艦に類別。
日露戦争では、蔚山沖海戦(直接の戦闘には間に合わず)、宗谷沖海戦、日本海海戦等に参加。1912年8月28日、二等巡洋艦に等級変更。
第一次世界大戦では、スルー海、インド洋、南アフリカ水域での作戦に従事した。1919年から翌年にかけて、シベリア出兵に伴い沿海州、北樺太警備に従事した。
1921年9月1日二等海防艦に類別変更された。翌年から1935年まで、ほとんど中国警備に従事し、1935年に横須賀海兵団練習艦に指定され、繋留して使用された。
1939年4月1日に除籍され雑役船に編入、横須賀海兵団練習船に指定され、繋留して使用。翌年4月1日、廃艦第10号と仮称され、横須賀海兵団練習船、さらに航海学校応急練習船として使用されたが、1944年中ごろ三浦半島大津海岸で雷撃訓練標的として使用し漏水により沈没した。
歴代艦長
[編集]※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。階級は就任時のもの。
- 仙頭武央 中佐:1903年10月16日 - 1905年8月31日?
- 西山実親 大佐:1905年8月31日 - 1907年8月5日
- 三上兵吉 大佐:1907年8月5日 - 1908年11月20日
- 森義臣 大佐:1908年11月20日 - 1909年2月20日
- 水町元 中佐:1909年2月20日 - 5月25日
- 高木七太郎 中佐:1909年7月10日 - 12月1日
- (兼)片岡栄太郎 中佐:1910年2月16日 - 3月19日
- (兼)山岡豊一 大佐:1910年3月19日 - 4月9日
- 舟越楫四郎 大佐:1910年4月9日 - 12月1日
- 町田駒次郎 大佐:1910年12月1日 - 1911年11月27日
- 桜野光正 中佐:1911年11月27日 - 12月27日
- 山口鋭 大佐:1911年12月27日 - 1912年5月22日
- 下平英太郎 大佐:1912年5月22日 - 6月29日
- 平賀徳太郎 大佐:1912年9月27日 - 1913年5月24日
- 三輪修三 大佐:1913年5月24日 - 1914年1月24日
- 笠島新太郎 中佐:1914年1月24日 - 不詳
- 別府友次郎 中佐:不詳 - 1915年12月4日
- 松下東治郎 中佐:1915年12月4日 - 1916年12月1日
- 小松直幹 大佐:1916年12月1日 - 1917年12月1日
- 漢那憲和 大佐:1917年12月1日 - 1918年12月1日
- 井上伊之吉 大佐:1918年12月1日[2] - 1919年11月20日[3]
- 丸橋清一郎 中佐:1919年11月20日[3] - 1920年11月12日[4]
- (心得)野村仁作 中佐:1920年11月12日[4] - 12月1日
- 野村仁作 大佐:1920年12月1日[5] - 1921年9月2日[6]
- (兼)副島慶一 大佐:1921年9月2日[6] - 11月1日[7]
- 岸科政雄 大佐:1921年11月1日 - 1922年11月10日
- 池田他人 大佐:1922年11月10日 - 1923年10月20日
- (心得)藤吉晙 中佐:1923年10月20日[8] - 12月1日
- 藤吉晙 大佐:1923年12月1日 - 1924年5月7日
- (心得)津留雄三 中佐:1924年5月7日[9] - 不詳
- 津留雄三 大佐:不詳 - 1924年12月1日[10]
- 梅田三良 大佐:1924年12月1日[10] - 1925年12月1日[11]
- 柳沢恭亮 大佐:1925年12月1日[11] - 1926年7月1日[12]
- 黒羽根秀雄 大佐:1926年7月1日 - 12月1日
- 河村重幹 大佐:1926年12月1日 - 1927年3月1日
- (兼)柳沢恭亮 大佐:1927年3月1日[13] - 1927年4月20日[14]
- 蔵田直 大佐:1927年4月20日 - 11月15日
- 間崎霞 大佐:1927年11月15日[15] - 1928年3月15日[16]
- 伴次郎 大佐:1928年3月15日 - 12月10日
- 佐藤脩 大佐:1928年12月10日 - 1929年11月30日
- 湯野川忠一 大佐:1929年11月30日[17] - 1930年12月1日[18]
- 本田忠雄 大佐:1930年12月1日 - 1932年11月15日
- 松浦永次郎 大佐:1932年11月15日 - 1933年11月15日
- 中村一夫 大佐:1933年11月15日 - 1934年11月1日
- 畠山耕一郎 大佐:1934年11月1日 - 1935年11月15日
- 上野正雄 中佐:1935年11月15日 - 1937年7月1日
同型艦
[編集]脚注
[編集]- ^ #海軍制度沿革8(1971)p.9、明治二十九年
- ^ 『官報』第1900号、大正7年12月3日。
- ^ a b 『官報』第2190号、大正8年11月21日。
- ^ a b 『官報』第2486号、大正9年11月13日。
- ^ 『官報』第2501号、大正9年12月2日。
- ^ a b 『官報』第2728号、大正10年9月3日。
- ^ 『官報』第2776号、大正10年11月2日。
- ^ 『官報』第3350号、大正12年10月22日。
- ^ 『官報』第3510号、大正12年5月8日。
- ^ a b 『官報』第3684号、大正13年12月2日。
- ^ a b 『官報』第3982号、大正14年12月2日。
- ^ 『官報』第4157号、大正15年7月2日。
- ^ 『官報』第49号、昭和2年3月2日。
- ^ 『官報』第91号、昭和2年4月21日。
- ^ 『官報』第266号、昭和2年11月16日。
- ^ 『官報』第363号、昭和3年3月16日。
- ^ 『官報』第878号、昭和4年12月2日。
- ^ 『官報』第1179号、昭和5年12月2日。
参考資料
[編集]- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻八』 明治百年史叢書 第180巻、原書房、1971年10月(原著1941年)。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 呉市海事歴史科学館/編『日本海軍艦艇写真集・巡洋艦』ダイヤモンド社、2005年。
- 千藤三千造他『造艦技術の全貌』興洋社、昭和27年。
- 雑誌「丸」編集部/編『写真 日本の軍艦 第5巻 重巡Ⅰ』(光人社、1989年) ISBN 4-7698-0455-5
- 『官報』