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堀井雄二

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堀井 雄二(ほりい ゆうじ、1954年1月6日 - )は兵庫県洲本市出身のゲームデザイナー作家、アーマープロジェクト代表取締役。『ドラゴンクエストシリーズ』の生みの親。早稲田大学第一文学部卒業。テレビゲーム業界に多大なる影響を与えた人物の1人。

経歴

実家は淡路島で堀井ガラス店というガラス屋を営んでいる。幼少時は弁護士志望だったが、中学時代に漫画家志望に転換。兵庫県立洲本高等学校を経て、1972年早稲田大学第一文学部に進学し、早稲田大学漫画研究会に所属。1975年に冒険グループ名義で『いたずら魔』を書いた直後から、放送作家として活動を始めるが、翌1976年にバイク事故で内臓破裂の大怪我を負い、3ヶ月の入院後、帰郷し療養生活を送る。

1978年早稲田大学を卒業後、サイケイスポーツ、セブンティーンなどでフリーライターとして活動。1981年から小池一夫劇画村塾で第三期生として学ぶ。この頃、資料整理のためにパソコンの導入を図ったが、パソコンゲームにはまり、のちに自作をはじめる。

1980年から『月刊アウト』(みのり書房)で読者投稿コーナーを担当。1982年から「ゆう坊のでたとこまかせ」を開始し、人気を博す。同年、友人で『週刊少年ジャンプ』の編集者鳥嶋和彦からエニックスの第1回ゲーム・ホビープログラムコンテストの取材を依頼されたのを機に、自らもPC-6001で自作した『ラブマッチテニス』を応募し、入選プログラム賞を取る。コンテストの授賞式で森田和郎中村光一と知り合う。

1983年にパソコンのアドベンチャーゲームポートピア連続殺人事件』を手がけ、ゲーム界に名を知られるようになる。この年、エニックスは堀井雄二、中村光一らをアメリカで開催されたアップル関連の見本市「アップルフェスト」に派遣している。

1985年から『週刊少年ジャンプ』で「ファミコン神拳」というコーナーを、ゆう帝というペンネームで、1986年からは『ログイン』でゲームに関するエッセイの連載を持つ。また、1985年にさくまあきらが中心となって創刊された新人漫画家発掘誌『マンガハウス』に編集者として関わっている(1987年に廃刊)。

1986年に「ファミコン初の正統派RPG[1]」である『ドラゴンクエスト』を発表。以後同シリーズは現在まで、堀井の手により続いている。

2010年9月に行なわれた東京ゲームショウ2010の「日本ゲーム大賞」にて「経済産業大臣賞」を受賞した[2]

人物像

性格は“温和で謙虚”であることで知られているが、プレイヤーとしてゲームを見る目は非常に厳しい。彼の作品に見られる独特の文章や台詞回しは「堀井節」といわれファンに親しまれている。

ゲーム製作のほか、本田 一景の名前で漫画原作も手がけている。イラストレーターえびなみつる大川清介、『桃太郎電鉄シリーズ』の作者さくまあきらとは学生時代からの友人。

2008年9月24日ふるさと納税の制度を利用して洲本市に950万円を寄付している[3]

酒は一切飲めない。

エピソード

  • テレビゲーム『いただきストリート』は、さくまあきらと「お互いにボードゲームを1つ作ってみよう」ということになり、堀井がデザインしたもの。ちなみにさくまは『桃太郎電鉄』をデザインした。
  • 「ゆう坊のでたとこまかせ」が単行本として出版された際、巻末特別付録として「ゆう坊のゲームデザイナー入門」を書き下ろし、実際に『ドラゴンクエスト』のデザインに使われた用紙まで掲載された。このコーナーは、「ゲームデザイナーの仕事が忙しすぎて、時間がとれなくなった」との理由で、『アウト』廃刊より先に連載終了している。「気がついたら副業が本業に代わっていた」を地で行った1人である。
  • 月刊OUT1982年10月号の「ゆう坊のでたとこまかせ」において、読者の提案により「2042年8月27日午後3時にJR御茶の水駅に集合」という約束が行われ、その後もことあるごとに「でたまか」の中で告知が行われていた。ただし、この約束が現在も有効かどうかは不明。
  • フリーライター時代には、前述の『週刊少年ジャンプ』の他、同じ集英社の『セブンティーン』誌で芸能記事なども手がけていた。それらの活動や劇画村塾で学んだ事の一つとして「文字数の制限がある中で、語るべき事を的確に表現する」という事を堀井は挙げている。
  • さくまあきらを始めとする、業界の友人たちとの宴会の席では、「おまえいつ落ち目になるんだ?」とか「えびなみつる! おまえの絵古くなってきたぞ」と互いに悪口を言い合うという。でもそれは「有名になって、お世辞しか言われなくなった友人に対する愛の忠告」で、「いざ仕事がなくなった者でも出ると、友人みんなで助ける。だからみんな業界で生き残っているのだ。」とさくまあきらは語っている[4]
  • 早稲田大学時代、漫研に所属していた。自身のゲーム等では絵を描くことはないが、さくまあきらのゲーム製作10周年記念作品『怪物パラ☆ダイス』では、お祝いメッセージと共にゲームで登場するボスモンスター「トンテンカン」のデザインを提供した。その独特の味のある画風は、さくまをして「学生時代のまま漫画家を目指していたら、今頃彼はどうなっていたのだろうか?私もだ…(笑)」と言わしめた。ちなみに実際のゲーム中では、出現率が低い上に対人戦でないと出ない、実質的な隠しキャラクターとなっている。
  • 高校時代も漫研に所属していたが、水泳部、ブラスバンド部、さらに生物部、茶道部を掛け持ちしていた。この頃は、本気で漫画家になるつもりだったという。夜更かしが多くなり、遅刻の常習犯になった。自宅から学校まで自転車で5分くらいの距離だったにもかかわらず、高校二年の成績表を見ると出席日数210日のうち、197日遅刻しているほどだった。
  • とある漫画家にアシスタント入りを志願しようと原稿を持って行くが断られ、「とりあえず大学にでも行くか」と受験勉強を始める。早稲田大学に見事合格し、漫研に入部した途端に学生運動のあおりを受けて大学はロックアウトで休校になってしまった。堀井曰く「身分は学生なのに、授業に出なくてもいい。この環境は、高校を出たばかりの少年を呆けさせるのに十分だった」。[5]
  • 早稲田を受けた理由は、漫画家志望で文学部が妥当だが歴史が出来ないため、数学でも受けられる文学部→早稲田、という結論に辿り着いたからで、本人曰く「しかたないから早稲田」にしたという。大学では漫研・麻雀・ライター業に没頭し卒業に6年かかった[6]
  • 友人のさくまあきらが『ドラクエ』のヒットに便乗して堀井の本を出版しようとするが、「ドラクエの本なら売れるがわしの本は売れん」と堀井が発言し結局中止になった。後年、さくまは堀井の発言一つで取りやめた事を後悔する発言をしている[7]

作品

著作リスト

  • いきなりパソコンがわかる本(二見書房/1984)
  • 堀井雄二のコンピュータ・クエスト(二見書房/1988)
  • 虹色ディップスイッチ(ビジネス・アスキー/1990)
  • ゆう坊のでたとこまかせ(みのり書房)

漫画原作(本田一景名義)

監修

テレビ・ラジオ出演など


参考文献

  • ゲーム・マエストロ VOL.1 プロデューサー/ディレクター編(1)(志田英邦著、毎日コミュニケーションズ発行) - 堀井のインタビューを収録。
  • ゲーム・マエストロ VOL.2 プロデューサー/ディレクター編(2)(同上) - 初期『ドラクエ』でディレクションやプログラミングを手がけた中村光一のインタビューを収録。

関連項目

外部リンク

対談

脚注

  1. ^ 堀井雄二『虹色ディップスイッチ -ファミコン業界クエスト-』(1990年、ログインブックス) p.26
  2. ^ DQIX情報ブログ2010年9月16日「経済産業大臣賞&ベストセールス賞受賞!」より。
  3. ^ 「ドラクエ」の堀井雄二さん、洲本市にふるさと納税 神戸新聞 2008年10月7日付 2009年7月31日閲覧
  4. ^ 『チョコバナナ』6巻p18より
  5. ^ 堀井雄二『虹色ディップスイッチ -ファミコン業界クエスト-』(1990年、ログインブックス) p.123 - p126
  6. ^ 『ファミ通』988号p208より
  7. ^ 『さくまあきらの正体』(ビー・アール・サーカス刊)より