北条氏康

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北条 氏康
北条氏康像(小田原城天守閣所蔵模本品、原本は早雲寺所蔵)
時代 戦国時代
生誕 永正12年(1515年
死没 元亀2年10月3日1571年10月21日
改名 伊勢伊豆千代丸(幼名) → 北条氏康
別名 通称:新九郎、号:太清軒
渾名:相模の獅子、相模の虎
戒名 大聖寺殿東陽宗岱大居士
墓所 神奈川県足柄下郡箱根町早雲寺
官位 従五位上相模守左京大夫
氏族 伊勢氏北条氏桓武平氏
父母 父:北条氏綱
母:養珠院宗栄
兄弟 氏康為昌氏尭、大頂院殿、浄心院、高源院、芳春院、ちよ、蒔田殿(吉良頼康室)北条(福島)綱成(義弟)
正室:瑞渓院今川氏親の娘)、側室:遠山康光室の姉妹、松田殿(松田憲秀娘)
氏親氏政七曲殿氏照、尾崎殿、氏規、長林院殿、蔵春院殿氏邦上杉景虎浄光院殿桂林院殿
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北条 氏康(ほうじょう うじやす)は、戦国時代武将相模国戦国大名後北条氏第2代当主・北条氏綱の嫡男として生まれる。後北条氏第3代当主。母は氏綱の正室の養珠院[1]。姓名は平氏康[2]

関東から山内扇谷上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏今川氏との間に甲相駿三国同盟を結んで関東を支配し、上杉謙信を退け、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮した[3]。後北条氏当主として19年間、隠居後も後継者である第4代当主北条氏政との共同統治を12年間続け、30年以上にわたって後北条氏を率いた[4]

概要[編集]

北条氏康は相模国戦国大名後北条氏第二代当主・北条氏綱の嫡男として永正12年(1515年)に生まれた。享禄2年(1529年)に15歳で元服し、氏康と名乗る。

翌享禄3年(1530年)に扇谷上杉家当主の上杉朝興が北条領の小沢城に攻め込むと、これを奇襲して大勝し、上杉軍を壊滅させた(小沢原の戦い)。この戦いは氏康の初陣であり、関東諸侯に北条の世襲が盤石であると見せつけた。

氏康は天文4年(1535年)の山中の戦い、天文6年(1537年)の第一次河東一乱などで活躍し、父氏綱の躍進を支える。そして天文7年(1538年)の第一次国府台合戦で敵の大将・小弓公方足利義明を討ち取る大勝利を上げた。その後は氏綱から軍権を譲り受け、武蔵中央部を征服するなど勢力拡大を続けた。

しかし、この情勢は父氏綱の死により一変する。天文10年(1541年)に氏綱が死去すると扇谷上杉家の上杉朝定山内上杉家上杉憲政が同盟を結び、今川義元里見義堯を引き入れて北条包囲網を形成する。氏康は巧みにこれに対応するも、天文14年(1545年)には今川義元が北条領の河東に侵攻し(第二次河東一乱)、さらに北条氏唯一の味方であった古河公方足利晴氏が上杉に味方して北条軍の中武蔵における拠点河越城を包囲するなど、危機的な状況に陥る。義元に破れた氏康は今川軍と停戦し、一旦兵を引き揚げる。そして翌天文15年(1546年)に8万とも2万5千とも称される上杉、公方連合軍に夜襲を仕掛け、敵軍を壊滅させる大勝利を収めた(河越夜戦)。この戦いで氏康は扇谷上杉家を滅亡させ、山内上杉、古河公方にも壊滅的な被害を与えるなど、後の北条氏躍進のきっかけを作った。

その後は扇谷上杉家の残党を滅ぼしながら北上し、天文19年(1550年)までに武蔵国を併合した。天文21年(1552年)には上杉憲政の居城平井城を攻略して上野国にまで勢力を広げた(平井城の戦い)。天文23年(1554年)には古河城を攻略して足利晴氏を隠居させ、甥の足利義氏を擁立した。その過程で今川義元、武田信玄甲相駿三国同盟を結び、背後を固めた。弘治3年(1557年)から永禄元年(1558年)にかけて大規模な軍事遠征を行い、上杉憲政を関東から追いやって上野国を完全に併合した(上野侵攻)。 北条氏の領土はかつてないほどまでに拡張され、最早関東において北条氏に対抗できる大名は存在しなかった。氏康は永禄2年(1559年)に嫡男氏政に家督を譲って隠居し、共同統治を行う。

しかし、永禄3年(1560年)に上杉謙信が関東侵攻を行うと状況は急変する。上杉軍は北条領を次々と攻略して、翌永禄4年(1561年)には居城の小田原城を包囲される。氏康は籠城にてこれに対抗し、上杉軍を撤退させた(小田原城の戦い)。これ以降約10年間、北条氏は上杉軍との戦争を続けていく。

謙信が帰国すると北条軍は即座に反撃を開始、生野山の戦いで上杉軍を破り、永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦で里見義堯、里見義弘に大勝利を収めると房総にもその支配を広げる。永禄9年(1566年)には厩橋城を攻略して再び関東の覇権を握った。この間に氏康は実権の氏政への譲渡を進め、隠居している。

永禄11年(1568年)に武田信玄が三国同盟を破り駿河に侵攻する(駿河侵攻)と、氏康は今川氏に援軍を派遣して武田の侵攻に抗戦した。このため関東に目を向けられなくなった氏康は謙信と越相同盟を結んだ。北条軍は駿河東部の河東を占領して武田軍と争ったが、翌永禄12年(1569年)の三増峠の戦いの敗北により駿河の戦線は劣勢となり、また越相同盟もあまり機能しないまま、元亀2年(1571年)に氏康は没した。

氏康の約30年間の治世により、北条氏は関東一の大名となり、後を継いだ氏政により、北条氏は最盛期を迎える。氏康は関東に覇を唱え、上杉謙信や武田信玄と互角に争った名将として評価されている。

生涯[編集]

家督相続まで[編集]

出生[編集]

後北条初代として扱われる伊勢宗瑞(北条早雲)が存命中の永正12年(1515年)、第2代当主・北条氏綱(当時は伊勢氏綱)の嫡男「伊勢伊豆千代丸」として生まれる[5]。氏康が生まれた当時は早雲が当主であり、相模の統一のため扇谷上杉氏とその傘下豪族である相模三浦氏と争っていた(相模平定戦)。3歳であった永正15年(1518年)2月8日、宗瑞から護符太刀および置文を授けられ、将来の後継者として位置づけられる[6]。4歳の時に祖父・宗瑞が死去。9歳の頃から父・氏綱は北条氏を名乗るようになる。ただし、当初「北条」の名乗りを用いたのは、氏綱のみであったらしく、大永5年(1525年)8月に飛鳥井雅綱から蹴鞠伝授書を授けられた際に「伊勢伊豆千代丸」充で贈られている[7]。また、この頃今川氏の家臣であった福島正成の息子勝千代(後の北条綱成)と出会っている。勝千代の父正成は武田氏との合戦に敗北し、討死したことで福島氏は所領を減らされ、勝千代が北条の元に逃れてきたためである。

元服、初陣[編集]

元服は氏綱の左京大夫任官と同時期の享禄2年(1529年)年末の15歳の頃と見られている。北条氏を名乗ったのも元服をきっかけにしたと推測される[7]。氏康の元服当時、父氏綱は扇谷上杉朝興と南武蔵をめぐって争いを続けており、武蔵の守りを固めるため武蔵府中に近い要所小沢城に氏康を入れた。享禄3年(1530年)六月、上杉朝興が甲斐武田信虎と同盟し共同で北条領に攻め込んできた。小沢城を守る氏康の隊1000程に対し朝興の軍は5000を越えており、城を守ることは厳しかった。しかし氏康は圧倒的な数の差に朝興が油断していると判断、上杉軍を奇襲し大勝利を収めた(小沢原の戦い)と記録されており(『異本小田原記』)、当時代史料の面からも事実に近いとされている[8]。幼少期の頃の氏康は内気な性格で家臣からの評判は芳しくなかったが、この戦いにより自身の強さを証明、これ以降氏康は氏綱の嫡男、すなわち北条氏の後継者として数多くの合戦に出陣、大いに武功を上げることになる。

武功を重ねる[編集]

小沢原の戦い以降、上杉朝興による北条包囲網に苦しめられていた氏綱は守勢から攻勢に転じ、安房里見氏の内紛に介入、当主義豊を討ち里見義堯を当主に擁立した。(犬掛の戦い)これにより敵対する小弓公方の勢力を弱らせた。さらに天文4年(1535年)8月、北条包囲網の一翼を担っていた武田信虎は上杉朝興の要請を受けて駿河に出陣、また弟の勝沼信友を郡内に向かわせた。今川からの援軍要請を受けた氏綱は甲斐に出陣、武田軍に大勝し信虎の弟勝沼信友が北条綱成に討ち取られた。(山中の戦い)この合戦で氏康は別動隊を率いて敵軍を混乱させる武功を上げた。天文5年(1536年)、今川家の当主氏輝が急死して内乱が勃発すると(花倉の乱)氏綱は嫡流の梅岳承芳を支援することを決定、氏康が北条の援軍総大将として駿河に向かい、今川良真と戦い勝利、義元が今川の当主となった。また後述する第一次河東一乱において、氏康は氏綱と共に駿河に出陣、今川軍と戦い勝利して富士川より東、すなわち[河東]を手に入れた。さらに天文6年(1537年)7月、扇谷居城の河越城攻略を提案、自ら部隊を率い河越城に出陣して陥落させる戦功を上げ、綱成を河越城主とさせると自身は江戸城に戻り天文7年(1538年)10月の第一次国府台合戦では父と共に足利義明里見、真里谷武田連合軍と戦い、自ら隊を率いて公方軍と激突し、敵の総大将・小弓公方の足利義明を討ち取り、小弓公方を滅亡、断絶させる大勝利を収めた[9]

天文4年(1535年)もしくは翌5年(1536年)に又従兄弟にあたる今川氏親の娘を正妻に迎え[注釈 1][7]、天文6年(1537年)には嫡男の西堂丸が誕生している[11]。しかし、天文6年(1537年)2月に今川氏が北条氏と対立する武田氏と婚姻同盟を結んだことを知った氏綱はその月のうちに今川との同盟を破って駿河に侵攻している(第一次河東一乱)[12]。天文6年(1537年)7月には父と共に鎌倉鶴岡八幡宮に社領を寄進し、同8年(1539年)6月には将軍・足利義晴から巣鷂(鷹の雛)を贈られている[9]

家督相続[編集]

天文7年(1538年)10月の第一次国府台合戦以降、氏綱にかわって氏康が北条軍を指揮することとなった。氏康は千葉昌胤と共に国府台城、亥鼻城馬加城を次々と落城させると年内には無人となった小弓御所を攻め落とし、下総を制圧した。さらに翌天文八年(1539年)には当時上総を追放されていた真里谷信隆を支援して上総に南下、小弓公方の滅亡により豪族たちは次々と北条に鞍替えし真里谷信応は里見義堯を頼って安房に落ち延びていき、3月には久留里城に入った。氏康は古河公方に働きかけて信隆を当主とした。さらに東上総の酒井定治を調略、これにより上総で北条家及び信隆の勢力圏に入らないのは佐貫城峰上城真里谷信秋のみとなった。信秋は信隆、信応の叔父であったが、一貫して信応側についていた。一方で国府台合戦に参戦こそしたものの、無傷で安房まで戻っていた里見義堯は、金谷城に信応を連れて入ると、未だ信隆に抵抗する信秋を支援、さらに小弓公方足利義明の次男国王丸を保護して擁立の動きを見せるなど、氏康への徹底抗戦を表した。この状況で安房の攻撃は厳しいと判断した氏康は一旦相模に撤退した。

天文8年(1539年)5月に氏康は孤立していた河越城を救うため江戸城に入り、南武蔵の主力を集めると約14000の兵を率いて中武蔵侵攻を開始した。当時氏康の攻撃により北条領となった河越城と北条の本領は分断されており、領土の接続のための侵攻であった。氏康は軍を二手に分けると勝沼城三田綱秀毛呂城毛呂顕秀を寝返らせて滝山城大石氏を攻撃、陥落させたことで大石元興を従属させ、もう一つの隊が蕨城を包囲、攻撃して城主渋川義基を調略して城を制圧し、太田資正は命からがら難波田城まで撤退した。こうして河越城への街道を手に入れた。また、蕨城の陥落により扇谷領は縦に延びる形となったため6月に深大寺城太田資顕は城を放棄、氏康が城を押さえた。これにより扇谷上杉氏の主な城は居城の松山城太田資顕、資正兄弟の岩槻城難波田憲重難波田城の3城となり、滅亡寸前にまで追い込まれた(中武蔵侵攻)。 これを受けて扇谷上杉は敵対する山内上杉との和睦を模索し始めていたが、山内が拒否したためこの時点では失敗している。また10月には河越城主の綱成に難波田城を攻撃させたがこれは撃退されている。この時の失敗により河越城主が滝山城を落とした大道寺盛昌に交代している。この時期、天文の飢饉の原因となる大雨が全国で発生しており、戦どころではなくなったため一旦城攻めは中断した。

その後はどの大名にも目立った動きがないまま時は過ぎ、翌天文9年(1540年)11月、鶴岡八幡宮本殿再建の儀式が盛大に執り行われ、父氏綱が古河公方足利晴氏によって関東管領に任じられた。この席には関白近衛稙家が参列するなど、この一件で北条の威信はさらに増大した。この時氏康が軍を動かせない隙をつき、佐貫城に入った里見義堯が真里谷信応を真里谷当主に返り咲かせるという大義名分で上総に侵攻してきた。里見家臣の正木時忠天津城勝浦城を次々と攻略して万喜城土岐頼定を調略、上総南東部を制圧して小田喜城を包囲した。さらに義堯の本隊が大戸城久留里城を攻略、信隆の嫡男真里谷信政がいる真里谷城を攻撃した。危機的状況となった真里谷信隆の援軍要請を受けた氏康はすぐに出陣、時忠の兄で里見重臣の正木時茂の水軍を破って11月下旬に上総に上陸、信隆の息子信政が籠る真里谷城を救うべく、城を攻める里見軍、信応軍を後方から奇襲、打撃を与えて信秋の息子真里谷義信を討ち取ると、里見軍を安房に撤退させた(真里谷城の戦い)。この後一旦は古河公方足利晴氏の仲介により停戦しているが、その後も義堯は何度も上総侵攻を行い、抗争はより激化していく。

一大危機とその打開[編集]

父の死と北条包囲網[編集]

氏綱から家督を相続した氏康による房総や武蔵への侵攻に、関東管領山内上杉憲政は危機感を抱き始めていた。そして天文10年(1541年)7月17日に氏綱が死去したため、27歳で家督を継いで第3代当主となった。氏綱は死の直前の5月22日、5か条の訓戒状を残している。一説では天文7年(1538年)に氏綱が隠居して氏康に家督を譲り、後見していたとされる。また、氏綱は天文10年(1541年)の初夏には体調を崩して前述の訓戒状を残していることから、氏綱の隠居は死の直前であったとする説もある[13]。天文7年(1538年)正月以降、氏康単独の発給文書が見られることから、実際の家督の問題は別として、当主継承に備えた準備が進められていたと推測することは可能である[7]

氏康が家督を継いだとされる天文10年(1541年)7月時点で、北条氏の領国は相模国・伊豆国の二国と武蔵国の一部(小机領江戸領河越領)と下総国の一部(葛西領)であり、その他従属国衆として上総国の真里谷家、下総国の千葉家、武蔵国の由井大石家勝沼三田家、駿河国東部の御厨垪和家葛山家富士家の諸家が位置づけられ、当時の日本における最大規模の戦国大名であった。しかし、氏綱の時代に大きく領土を拡大させ過ぎたこともあり、既に北条領の周辺には敵対大名が多くいた。このことが北条包囲網の結成に繋がっていく[14]

第二次河東一乱[編集]

天文10年(1541年)10月、氏綱の死を知った山内上杉家扇谷上杉家は連携して河越・江戸方面への侵攻を行った。しかし、上杉軍の統率が乱れていたこともあり、氏康はこれを撃退して反対に武蔵北部の上杉領を攻撃している。こうして扇谷上杉は氏綱の死に意気消沈する北条から領土を奪還する好機をみすみす逃してしまうことになった。しかし、天文の飢饉の中で、これ以上の攻撃は抑制し、翌天文11年(1542年)に入ると領内の検地を行って課税基準の見直しを行っている[14]。しかし、同年に発生した真里谷家の内紛をきっかけに里見義堯との衝突が再び発生、本格化した。

長年北条と敵対関係にあった武田は、天文10年5月に信濃に侵攻、海野平の戦いを起こして佐久郡を制圧した。その後信虎が駿河に向かった時、山内上杉が佐久郡に侵攻、碓氷峠を越えた。上杉軍は大井貞隆を調略すると武田軍と交戦、乙女城太平寺城を攻略して諏訪頼重と和睦した。その後6月には信虎が甲斐を追放され、武田晴信が当主となるが、この一件で同盟関係にあった武田と山内上杉の関係は著しく悪化した。その後晴信は諏訪頼重を滅ぼすと、山内上杉と敵対、同じく上杉と敵対する北条との和睦を模索して天文13年(1544年)正月には氏康は武田晴信(後の信玄)との和睦に踏み切るなど、対外的な情勢は複雑化することになった[15][注釈 2]

氏康が家督を相続した時点で、北条と対立するのは扇谷上杉の上杉朝定山内上杉氏上杉憲政、安房の里見義堯、駿河の今川義元など、ほぼ全方位を敵に囲まれていた。北条家の勢力が目前にまで迫っていた関東管領上杉憲政は、天文13年(1544年)には対立していた上杉朝定と和睦し、さらに里見義堯、今川義元とも反北条で一致、北条包囲網を形成した。また、古河公方足利晴氏も北条と距離をとり始めており、氏康は危機に陥った。しかし、武田が北条と和睦したことが関東中に知れ渡ったことで、状況は膠着、どの大名も氏康を恐れ軍を動かさなかった。

天文14年(1545年)7月、今川義元から和睦の提案を受けるが、合意に至らなかった。そこで、義元は関東管領山内上杉憲政扇谷上杉朝定(朝興の子)等と連携し、氏康に対し挙兵した。義元は、氏綱に奪われていた東駿河を奪還すべく攻勢をかけた。これを第2次河東一乱という。今川軍は吉原砦を落とすと、これに対応するため氏康は駿河に急行して、富士川を挟んで今川軍と対峙する。しかし第一次河東一乱と違って、今度は北条軍の方が少なく、北条勢は武田軍の援軍を受けた今川軍に押され、さらに河越城を両上杉の大軍が包囲したことが駿河に伝わり、北条軍の士気は低下、そこに今川軍の総攻撃が加えられ北条軍は総崩れとなった。(狐橋の戦い)氏康は吉原城・長久保城、間門城を自落させ、堅牢な興国寺城に籠城するも、婚姻関係のある従属国衆の葛山氏が今川方に離反するなど、状況は不利であった。その在陣中、関東では山内・扇谷の両上杉氏が大軍を擁して義弟・北条綱成が守る河越城を包囲したという知らせが届き、東西から挟み撃ちにあった氏康は絶体絶命の危機に陥った。そして興国寺城への今川軍の総攻撃が加えられ、興国寺城は落城した。氏康は長久保城に籠城するも、ついに追い詰められた。この窮状の中まずは片方を収めるべく、氏康は武田晴信の斡旋により、義元との和睦を模索。東駿河の河東地域の旧領を義元に割譲することで和睦する。後の武田氏を交えた甲相駿三国同盟の締結までは緊張が続いたが、その後は同盟関係を堅持し、駿河侵出はなかった。和睦により氏康は兵力の大部分を関東に向けることが可能になり、河越城を包囲する上杉軍もそれを警戒して攻撃には出なかった。

河越夜戦[編集]

北条包囲網に形だけ参加している里見義堯は、12月には大戸城久留里城小田喜城などを攻略して次々と上総侵攻を進めていたが、一旦は氏康は義堯を無視することにした。第二次河東一乱の後、小田原城に帰還した氏康は敗戦により失った名声と傷の回復に注力していた。年を越えて天文15年(1546年)になっても河越城という一代拠点が大軍に包囲されている状況でありながら、一向に出陣の気配を見せない氏康の行動に、上杉軍は油断していった。そんな中、両上杉の軍は一旦所領に撤退していった。駿河を片付けた北条軍の主力が武蔵にやってくると知り、決戦に備えるためであった。

一方、氏康の義兄弟(妹婿)であり、これまでは北条と協調してきた古河公方足利晴氏が連合軍と密約を結び、3月に河越城の包囲に加わった。これは氏康と晴氏との間で何らかの確執があったためとされる(第一次国府台合戦の後、滅亡した小弓公方の所領の帰属をめぐって対立したという説がある)。およそ8万(諸説あり、一説には25000とも)の連合軍に包囲された河越城は約半年に渡って籠城戦に耐えるものの、今川との戦いを収め関東に転戦した氏康の北条本軍は1万未満しかなく、圧倒的に劣勢だった。氏康は両上杉・足利陣に「これまで奪った領土はお返しする」との手紙を送り、長期の対陣で油断を誘った。上杉軍は氏康に降伏を呼び掛け、河越城に誘き出そうとした。そして天文15年(1546年)4月20日、氏康は和睦に乗ったと見せかけて河越城にまで進軍し、河越城内の綱成と連携して、連合軍に対して夜襲をかける。隊を分散させていた連合軍は氏康に各個撃破されていくが、憲政はなんとか他の隊と合流し、討死を免れた。しかし憲政を守るため山内上杉家臣の本間近江守倉賀野行政など多くの重臣が討死した。氏康は敵陣に自ら切り込み、憲政を追い詰めたが危険を察知した多目元忠が法螺貝を鳴らし、氏康は撤退した。また扇谷上杉ではこの夜襲で上杉朝定は戦死し、ここに200年の歴史を持つ扇谷上杉氏は滅亡した。さらに、難波田城が蕨城から出陣した北条軍の別動隊によって落城させられ難波田憲重が戦死し、岩槻城主の太田資顕を寝返らせたことで、扇谷の家臣団も瓦解した。そして河越城から北条綱成が出陣、古河公方軍を攻撃して壊滅させた。その後、上杉憲政は居城の上野国平井城に、足利晴氏は下総国古河城に遁走し、氏康は1万を越える敵兵を討ち取る大勝利を収めた(河越夜戦)。「河越城の戦い」の内容に関しては、同時代史料が乏しく、研究の余地の大きい合戦ではあるものの、この戦いで北条家が大勝利をおさめたことで、以降北条家は関東における抗争の主導権を確保、両上杉や古河公方は急速に衰退していくことになる[17]

国中諸郡退転と公事赦免令[編集]

危機は軍事面だけではなかった。河越夜戦の後しばらくの間、領地経営は遅滞した。特に天文18年(1549年)に関東で発生した大地震では被災した領民への対応が後手に回り、領国全域で農民が村や田畑を放棄しての逃亡が大規模に起こる「国中諸郡退転」という深刻な状況に陥ってしまったため、天文19年(1550年)4月付けで公事赦免令を発令した。これは伊豆から武蔵南部にまたがる領域に、直轄領・給人領の別なく朱印状を発給し、それまで雑多な徴収をされていた賦税課税の手順や対象や課税率を単純化・軽減化して税制改革すると共に、特定の賦役の廃止や免除、過去設定されていた諸税を撤廃、指定の債務を破棄するというものである。この発布により事態を収拾したが、これは北条氏が全領国規模で行った初めての徳政であった[18][19]

この「公事赦免令」は、目安制によって、中間管理者に対する農民の直訴をも認め、徴税や徴発の統一化による中間搾取の回避と共に、中間管理者に当たる領内の中小規模の旧支配層の権限縮小することで、関東の地付きではない北条氏の支配権の強化につながっていった[18][20]

勢力拡大[編集]

上杉憲政との戦い[編集]

河越夜戦後、勝利の勢いを持ったまま氏康はすぐに旧扇谷上杉領の松山城、岩槻城を攻撃、太田資顕の寝返りにより岩槻城は陥落、松山城もすぐに制圧し、残る扇谷残党の上田朝直、太田資正は上野国新田金山城由良成繁の元に逃れた。東武蔵の平定を終えた氏康は一旦小田原城に帰還した。

しかし、扇谷の旧臣はまだ諦めてはいなかった。上杉氏との戦いで手一杯とみた里見義堯が真里谷氏を攻撃し始め、久留里城や小田喜城、佐貫城峰上城を攻略するなど、急速に領土を拡張したため、氏康は里見義堯を討伐するため主力を南に動かすと見た扇谷上杉氏の遺臣である太田資正上田朝直が10月に松山城を北条軍が相模に集まった隙をついて奇襲し、陥落させた。このため氏康は一旦房総侵攻を白紙に戻すと、主力を武蔵に戻したが戦線は膠着した。

翌天文16年(1547年)、8月、江戸城代を長年務めていた太田資高が病死した。さらにその2か月後の10月、資高と同族の岩槻城主太田資顕も病死してしまった。資高の後は次男の太田康資が継いだが、資顕には後継者がいなかったため、これに反応した資正が岩槻城を乗っ取り、強引に家督を相続してしまった。これ以上事態を悪化させないために11月、氏康は出陣して主力を北に動かし、忍城成田長泰羽生城木戸範実を寝返らせて松山城を挟撃、上田朝直を降伏させた。残された太田資正は城を包囲する北条軍を夜襲するも、これに備えていた北条綱成の奮戦により資正は敗北、城に撤退した。その後も資正は抵抗を続けるも翌天文17年(1548年)1月に、上田朝直の説得によりついに氏康に降伏し、完全に扇谷を滅亡させた(岩槻城の戦い)。これにより武蔵北東部までを手に入れ、扇谷の家臣団も吸収したことになり、更に勢力を拡大した。

5月、武田氏の圧迫を受けた国峯城小幡憲重が武田に降伏した。さらに翌天文18年(1549年)に、氏康の調略を受けて山内上杉の従属国衆である秩父郡の領主藤田氏や憲政と同族の深谷城主の上杉憲賢を従属させて、武蔵最北端で憲政の居城平井城に近い御嶽城を除く武蔵のほぼ全域を制圧した。これを受けて御嶽城主の安保全隆は裏切った藤田重利を攻撃した。これに対し河越城の北条幻庵など武蔵衆が対応、全隆の攻撃を抑え込んで重利を救った[21]。この全隆の行動は独断であり、憲政の統制力が露見することとなった。これに対し憲政は氏康を恐れ反撃に動くことができず、また武田晴信との小田井原の戦いに敗北したこともあり、ますます衰退していった。

古河公方足利晴氏の次男梅千代王丸を葛西城に入れて晴氏の動きを封じた氏康は天文20年(1551年)に、上杉憲政の居城平井城を攻めたが、このときの攻略はならず、翌天文21年(1552年)1月に二万を越える主力を動員して上野に出陣、御嶽城を攻略して城主の安保全隆を降伏させ、憲政の嫡男竜若丸を人質に取り、さらに3月には平井城を包囲、大軍の前に上杉軍は次々と逃亡、自害して瓦解し、総攻めを開始して攻略することに成功、憲政は総攻めの数刻前に平井城を脱出して厩橋城、さらに白井城へと撤退していった。天文22年(1553年)正月に憲政は越後守護代・長尾景虎(後の上杉謙信)の元に身を寄せることになった(平井城の戦い[1][22]。しかし、翌天文22年(1553年)7月に長尾景虎の支援を得た憲政が武蔵北部まで入り、同調した諸氏に対し味方の赤井氏救援のため氏康が報復する事態まで起きた[1]。 しかし憲政が平井城を落とされたの後すぐに越後に逃れたのではなく、数年間白井城に留まり、再起を図っていたという説もある。白井城は川に囲まれた天然の要害であり、簡単に攻略することはできない城であった。さらに白井城の背後は越後であり、すぐに長尾景虎を頼ることができた。いずれにせよ、氏康は天文21年の時点で上野を完全に平定できた訳ではなく、その後数年をかけて徐々に領国化していった。 以後、氏康は直接上野に軍を出すのではなく古河公方の御内書や人質の憲政の嫡男竜若丸などを利用して圧力をかけ、調略を進めていった。

弘治元年(1555年)、12月、晴氏の次男で氏康の甥の義氏が古河公方になったことで、もともと古河公方の影響力が強かった館林城赤井文六赤石城那波宗俊足利城長尾当長などを降伏させた。これにより上野東部に勢力を拡大した。長尾当長の降伏は憲政に衝撃を与え、もはや憲政が自ら軍事行動を起こすことはなくなった。また、この頃から下野国常陸国の国衆に対して義氏を通して圧力をかけ、勢力範囲を東へと広げていった。

弘治3年(1557年)、憲政は氏康に反撃するためまず家臣を上洛させた。その際に将軍足利義輝に謁見し、自身の関東管領としての正統性を主張すると共に、氏康によって幽閉されている足利晴氏、藤氏の解放を頼んだ。その後義輝は氏康に御内書を出し、晴氏、藤氏の解放を指示した。憲政はこれを利用して彼らを古河城で挙兵させ、更に氏康に友好的でない北関東の国衆や安房の里見義堯、下総で氏康の傀儡となっている千葉親胤などを挙兵させて足利義氏を捕らえ、竜若丸との人質交換に使おうとした。しかしこれは失敗し(第二次古河城の戦い)、逆に氏康に警戒されてしまった。

第二次古河城の戦いにおいて、晴氏、藤氏の挙兵が上杉憲政の策略によるものだと判断した氏康は、下総の仕置が完了した後に鉢形城に主力を動かした。同時に氏康は調略を行い、北条氏の圧力に屈した新田金山城由良成繁厩橋城長野賢忠安中城安中重繁を寝返らせた。これにより上野中央部に勢力を伸ばした氏康はここに至って平井城の戦い以来二度目となる大規模な上野侵攻の開始を決断した。

永禄元年(1558年)、1月、前年より鉢形城にいた氏康は武蔵の主力や寝返らせた上野衆ら合わせて三万近い軍勢を動かして上野侵攻を開始した。倉賀野城総社城箕輪城などが次々と陥落し、さらに別動隊により岩下城が落城、これににより白井城では背後から攻撃を受ける可能性が生じたため、白井城にいた憲政は城を放棄、沼田城に撤退していった。しかし、その沼田城でも当主と嫡男とで内紛が起こっていたため、憲政は越後にまで逃げ延び、長尾景虎に保護された(上野侵攻)。その後氏康は白井城、沼田城を落城させ、上野の主要な城を押さえると小田原城に帰還した。こうして祖父早雲以来の悲願であった両上杉の討伐を完了させ、上野を併合した。百年以上に渡って関東支配を続けてきた上杉氏はこの戦いにより関東から姿を消すことになった。

足利晴氏、藤氏との戦い[編集]

河越夜戦後、氏康は上野侵攻のため一旦晴氏と和睦するが、氏康は北条方であったにもかかわらず上杉方についた晴氏を恨んでおり、甥の梅千代王丸を利用して古河公方権力の解体そして北条への吸収を狙っていく。

天文19年(1550年)、まず晴氏室となっていた妹の芳春院とその所生である梅千代王丸(後の足利義氏)を取り戻す工作を進め、翌天文20年(1551年)12月に、晴氏の重臣である簗田高助が死去した隙をついて、両者を北条領である下総葛西城に移すことに成功した[23]。これが氏康の平井城攻めに繋がった。

天文19年(1550年)7月6日に足利義輝の命を受けて、里見義堯との仲介の労を取るために関東に下向した彦部雅楽頭に取り成しに満足した旨の手紙を送っている[24]

また天文21年(1552年)、同年より始まった房総侵攻において、甲相駿三国同盟の締結に忙しい氏康が江戸城に入るまで房総で戦っている北条兵の士気を保つためという理由で晴氏を呼び出し、葛西城にいれることに成功した。当初はすぐに古河城に帰れると思っていた晴氏であったが、その思惑は外れ約一年半葛西城にとどめおかれることになる。

天文23年(1554年)、約一年半葛西城に閉じ込められていた晴氏は密かに古河城に帰還、長男藤氏と共に挙兵した。しかし、これは古河公方を敢えて挙兵させる氏康の罠であった。栗橋城主の野田弘朝の密告、内応により事前にこれを察知していた氏康はすぐさま軍を古河城に動かし、古河城を陥落させると2年前に公方の位を後北条氏の血を引く次男(氏康の甥)の足利義氏に譲った晴氏と藤氏を捕らえ、直轄領の秦野に幽閉した(第一次古河城の戦い)。

そして翌弘治元年(1555年)11月、氏康は御所を古河城から関宿城に移すと義氏を元服させ、正式に古河公方とさせ、義氏により関東管領に補任された。さらに古河公方の御料地の多くを北条の直轄領として、金銭的にも大きな進歩となった。これにより古河公方は北条家の傀儡となり、北下総を勢力圏に入れると同時に北関東の国衆の調略を開始し、北関東への進出を開始した。さらに大石氏には三男の氏照藤田氏には五男の氏邦と息子を養子に送り、時間をかけながら、実質的に一門に組み入れ、西武蔵の支配を磐石にしていった。

弘治3年(1557年)には宇都宮家臣・芳賀高定宇都宮城奪還に協力し、古河公方及び佐竹氏や那須氏など周辺の大名らに宇都宮氏への援軍要請を出している。さらに宇都宮城奪還時に壬生氏当主の壬生綱雄に対して旧宇都宮領を宇都宮氏にすべて返還するよう命令を出した。これらの行いは氏康の権力が関東管領に匹敵することを関東諸将に知らしめるという思惑があったために行ったという。

また同年将軍足利義輝の命により幽閉を解かれ古河城に戻った晴氏、藤氏親子が再起を計り、上杉憲政や里見義堯、北関東の国衆や下総の千葉親胤と共に氏康に対抗し、謀反を起こそうとした。千葉親胤は幼少で家督を継いだため、重臣の原胤貞や北条氏に実権を握られ不満を持っていた。そのため氏康に反旗を翻して居城本佐倉城で挙兵したが、この計画が事前に氏康に知られていたためすぐに北条軍が下総に渡り、十分な準備ができなかった親胤は北条軍に敗北し自害、親胤の叔父千葉胤富が家督を継いだ。 千葉親胤の反乱を鎮圧した氏康はこれ以上反乱を拡大させないため、野田弘朝の再度の離反、密告により晴氏の挙兵も察知した氏康は古河城をすぐに攻撃し落城させると、晴氏、藤氏を捕らえて、栗橋城の野田弘朝に身柄を預けた(第二次古河城の戦い)。早期の反乱鎮圧により逆に氏康の名声は高まり、さらに翌年には大規模な上野侵攻に氏康は動いている。

2度の古河城の戦いに敗北した晴氏、藤氏であったが、氏康は彼らを殺そうとはしなかった。依然として関東支配のためには古河公方の権威は必要であり、氏康は甥の義氏を使って古河公方権力を利用していたためである。北条氏が古河公方の権威なしでの関東支配が可能になるのは息子氏政の代になってからである。

里見義堯との戦い[編集]

北条家に従属していた真里谷武田は里見義尭に何度も攻められていた。義堯は久留里城を本拠地として、小田喜城佐貫城など上総に多くの拠点を築いた。天文21年に平井城攻めのため氏康が主力を北に動かすと義堯は笹子城有吉城を制圧し木更津湊を手中に収めた。さらに真里谷氏を一気に滅亡させることを決意、椎津城の真里谷信政の討伐を開始した。一方これまで義堯と共に信政と争っていた信応は、義堯の狙いが上総の領有化であることを知り、信政方で真里谷城で挙兵した。義堯はすぐにこれを攻め、12月には椎津城、真里谷城は陥落、当主武田信政は自害し、叔父の真里谷信応は打ち取られ、真里谷氏は没落、事実上滅亡し、義堯は上総の大部分を支配するに至った。

この義堯による真里谷討伐の際、氏康は何度も援軍要請を受けていたが、嫡男氏親の死に悲しみ、動かなかった。しかし信政の自害を聞くと、これに報復するため氏康は天文22年(1553年)4月に里見氏討伐を決意、まず弟の北条氏尭を江戸城から生実城と、陸路で椎津城を攻撃、落城させると義弟の綱成を玉縄城から上総や安房の沿岸に上陸させて佐貫城や金谷城を攻略させた。当初氏康は自ら房総に渡る予定であったが甲相駿三国同盟の締結作業のため小田原城を離れられなくなってしまった。そのため氏康は居城から房総侵攻を指示し続けていた[5]。陸と海から同時に里見領を攻撃して、弘治元年(1555年)、連年の攻撃によって、内房沿岸における里見軍の拠点の1つであった金谷城を攻略することに成功し、内房地域を制して里見氏を安房に追い込んだ。さらに造海城岡本城笹子城有吉城など多くの沿岸の城を攻略して義堯を追い詰めた。しかし義堯は北条との野戦を選ばず、本拠久留里城での籠城を選んだため、房総侵攻は長期化することとなった。[25]。その後元号が永禄に変わる頃には北条主力が北に向かったこともあり義堯は大反撃を開始して房総制圧の指揮を取る北条綱成の軍勢を破って奪われていた領土をほとんど奪回している。

しかし、永禄元年に氏康の上野制圧が完了すると、いよいよ義堯と決着を着けることを決意し、永禄2年(1559年)に永禄の飢饉への対応を済ませると翌永禄3年(1560年)、自ら主力を引き連れ房総に出陣、千葉勢らと共に上総や安房の城を次々に陥落させていくと義堯の居城久留里城を包囲、義堯を追い詰めた。しかし、長尾景虎による関東侵攻で義堯を滅ぼすことは叶わなかった。

関東の覇者[編集]

こうして、河越夜戦以降の約15年間、氏康はひたすら敵対勢力との争いに注力し、両上杉を事実上滅亡させ古河公方を吸収、里見義堯を追い詰めるなどして伊豆国韮山城)、相模国小田原城玉縄城三崎城津久井城)、武蔵国小机城江戸城滝山城河越城松山城[要曖昧さ回避]岩槻城鉢形城)、上野国平井城新田金山城厩橋城沼田城)などを拠点としてこれらの国の全域、北下総(古河城、関宿城)と南下総の一部、上総や安房の沿岸地帯を支配し、南下総の千葉胤富を従属させるなど、全国最大級の領土と勢力を誇った。この時期は氏康の人生の絶頂期であった。

三国同盟[編集]

同盟締結まで[編集]

先の河東一乱後の和睦はなったが、今川との関係は非常に濃い血縁関係があるにもかかわらず(氏康と義元は再従兄弟かつ義兄弟)、依然として緊迫した状況であり、天文17年(1548年)3月、氏康が尾張を支配する織田信秀に宛てた返書(古証文写)の「一和がなったというのに、彼国(義元)からの疑心が止まないので迷惑している」という内容[注釈 3]からもそれは見て取れる[注釈 4]

天文20年(1551年)8月頃より、武田・今川両氏との婚姻交渉を進め、氏康の娘を今川義元の嫡男に嫁がせ、武田晴信の娘を氏康の嫡男・西堂丸に嫁がせることになった[30]。天文21年(1552年)正月頃、西堂丸は元服して新九郎氏親と名乗り、氏康は父・氏綱の官途名であった左京大夫を名乗った。ところが3月に入ると、氏親は病に倒れ、わずか16歳で死去してしまう。突然の事態により、氏康はやむなく次男の松千代丸を新たな後継者にすると共に武田晴信に対して婚約者の変更を申し入れた[30]。翌天文22年(1553年)正月、氏康と晴信は婚約のやり直しに関する起請文を交わしている[31]。一方、氏康と義元の間でも、氏康の娘が幼すぎる(天文21年時点で6歳)ということが問題視された。このため、氏康は当面の措置として実子の氏規を実質的に人質として、氏規にとっては外祖母にあたる寿桂尼に預けた[注釈 5][23]。天正23年(1554年)正月頃、松千代丸は元服して新九郎氏政と名乗った[31]。これらの交渉のため氏康は小田原城を離れられなくなり、軍事行動は少し鈍化していた。

一方「天文23年(1554年)、今川義元が三河国に出兵している隙を突いて再び駿河に侵攻するが、義元の盟友である武田晴信の援軍などもあって駿河侵攻は思うように進まなかった」といった後世に成立した北条の軍記物(『関八州古戦録』、『小田原五代記』)に描かれているような第3次河東一乱とみられる動きは、今川氏や武田氏・近隣国に関する同時代史料・軍記からは確認できず、先の興国寺領に関する旧説と遺跡・史料研究の齟齬からも、小和田哲男、有光友学、黒田基樹他、今川氏や後北条氏、武田氏の研究者による見解は否定的である[32][33][34]

同盟の成立と効果[編集]

そして天文23年(1554年)7月、今川氏の重臣・太原雪斎の仲介などもあって、娘・早川殿を今川義元の嫡男・今川氏真に嫁がせ、12月には、前年に婚約の成立していた武田信玄の娘・黄梅院を嫡男・氏政の正室に迎えることで、武田・今川と同盟関係を結ぶに至った(甲相駿三国同盟)。

これにより背後の駿河、甲斐が固まったことになり、後顧の憂いを断って関東での戦いに専念することになる(事実、天文23年以降、古河城攻め、上野侵攻、里見征伐と短期間の間に何度も大きな軍事行動を起こしている)。特に武田との甲相同盟は、対上杉(長尾)に対する有効な軍事同盟として機能し、北条による上野侵攻、武田による北信濃侵攻など両者は密接な関係にあった。この同盟は武田義信が死去する永禄11年(1568年)までの15年間続いた[35]

上杉謙信との戦い[編集]

小田原城の戦い[編集]

永禄2年(1559年)、氏康は次男で長嫡子の氏政に家督を譲って隠居した。「永禄の飢饉」という大飢饉が発生していたため、その責を取るという形で代替わりによる徳政令の実施を目的としていた。しかし隠居後も小田原城本丸に留まって「御本城様」として政治・軍事の実権を掌握しながら、氏政を後見するという、「ニ御屋形」「御両殿」と称される形体に移行した[35][36]

この頃、上野国内の上杉方(横瀬(由良)氏・上野斎藤氏沼田氏など)をほぼ降伏させ、この時点では上野国の領国化に成功している。越後に対しては越後から上野への出入口・沼田に北条康元を置いて対抗した[35]

永禄3年(1560年)5月、今川義元が桶狭間の戦いにおいて織田信秀の跡を継ぎ尾張を統一した織田信長に討たれたため、今川氏の勢力が衰退する[35]。これをきっかけに甲相駿三国同盟が崩れていくことになる。

氏康によって上野を追われていた上杉憲政は自身を匿っていた長尾景虎に長年関東出兵を要請していたが、大義がないとして景虎は応じなかった。しかし景虎が憲政と共に上洛して将軍義輝に謁見すると、景虎は関白近衛前久の指示を取り付け、関東侵攻を決断した。そして永禄三年、桶狭間の戦いによって三国同盟の一角今川氏が崩れたことを知った景虎(上杉謙信)が「永禄の飢饉」の中の関東へ侵攻し、小田原城の戦いとなる。上杉憲政と近衛前久を奉じ、8,000の軍勢を率いて三国峠を越えた謙信は、各地で略奪を繰り広げながら、沼田城厩橋城岩下城赤石城など上野国の北条方の諸城を次々と攻略し、関東一円の大名や豪族さらには一部の奥州南部の豪族に動員をかける。これに対し、上総国の里見義堯の本拠地・久留里城を囲んでいた氏康は、包囲を解いて9月に河越に出陣、10月には松山城に入る。ここで主要な城へ籠城指示を出し、その後本拠地の小田原城に入城。籠城の構えをとった[8][36]。こうして、これ以降氏康と謙信との間で約10年に渡って関東全域で激しい戦いを繰り広げることになる(上杉謙信の関東侵攻)。

上杉連合軍には、上野国の白井長尾氏、総社長尾氏、箕輪長野衆、沼田衆、岩下斎藤氏、金山横瀬氏、桐生佐野氏。下野国の足利長尾氏、小山氏、宇都宮氏、佐野氏。下総の簗田氏、小金高城氏。武蔵国の忍成田氏、羽生広田氏、藤田衆、深谷上杉氏、岩付太田氏、勝沼三田氏。常陸国では、小田氏真壁氏、下妻多賀谷氏、下館水谷氏。安房国の里見氏。上総国の東金酒井氏、飯櫃城山室氏といった『関東幕注文』の面々に加え、遅れて佐竹氏が参陣した[8][36]

これに対し、北条氏には上野国の館林赤井氏、武蔵国の松山上田氏。下野国の那須氏。下総の結城氏、下総守護千葉氏臼井原氏。上総国の土気酒井氏。常陸国の大掾氏が組みし[8]玉縄城には北条氏繁滝山城、河越城に北条氏堯江戸城小机城由井城に北条氏照、三崎城に北条綱成、津久井城内藤康行で等対抗した[36]

12月初旬、謙信は下総古河御所などを包囲。危険を察知した義氏は相模に避難、上杉軍が古河城を占領、足利藤氏を擁立した。その後上野厩橋城にて越年し、永禄4年(1561年)2月に松山城、そして相模に南下し鎌倉を攻略。最終的に10万余りの連合軍を率い、氏康の本国・相模にまで押し寄せた。連合軍先陣は3月3日までには当麻に着陣。上杉方は14日に中郡大槻にて北条方・大藤氏と交戦。謙信勢も3月下旬ころまでに酒匂川付近に迫り(加藤文書・大藤文書他)、居城・小田原城を包囲した(小田原城の戦い)。 『関八州古戦録』等の軍伝に於いては上杉軍の太田資正隊が小田原城の蓮池門へ突入するなど攻勢をかけ、対する北条軍は各地で兵站に打撃を与えて抗戦、この間、包囲は一ヶ月に及んだとも伝えられているが、同時代史料では上杉軍による城下への放火等は記されているものの(「上杉家文書」)、詳細は明らかになっておらず、前後の上杉軍や謙信の動きから包囲自体は1週間から10日間ほどであったという[35][37][38]。 小田原城の防衛は堅く、当時関東では飢饉の続発していたため長期にわたる出兵を維持できず、佐竹氏など諸豪族が撤兵を要求し、一部の成田氏などの豪族は勝手に陣を引き払う事態となっていた(杉原謙氏所蔵文書)[35]

さらに氏康と同盟を結ぶ信玄が信濃国川中島海津城を完成させ、信濃北部での支配域を広げることで、謙信を牽制。これらにより、謙信は小田原城から撤退、鎌倉に兵を引き上げ、閏3月に鶴岡八幡宮にて関東管領に就任した。この後、謙信は近衛前久と共に足利藤氏(義氏の庶兄)を公方として擁立[注釈 6]。更に謙信は上杉憲政を関白・近衛前久と共に古河に入れるが、武田氏に扇動された一向一揆が越中国で蜂起したこともあり、このときの小田原城の攻略を断念[35]。早くも上杉軍から離反した上田朝直の松山城を再攻略し、各地で略奪・放火を行いながら、6月に越後国へ帰国した[35]。他にも、関宿城等の城が北条氏から離脱したが、玉縄城、滝山城、河越城、江戸城、小机城、由井城、三崎城、津久井城等は攻勢を耐え切った[35][36]

越後守護が、関白と関東管領を奉じて関東に出兵して北条氏の居城である小田原城を包囲、さらに鎌倉で関東管領に就任するなどこの小田原城の戦いは関東だけでなく、東国一帯に強大な影響を与えることとなった。

以降の永禄年間、上杉謙信は、作物の収穫後にあたる農業の端境期である冬になると関東に侵攻し、氏康は北条氏と上杉氏の間で離脱従属を繰り返す国衆と、戦乱と敵軍の略奪による領国内の荒廃といった、その対応に追われることなる[36][39]

この永禄三年(1560年)、永禄四年(1561年)前半の合戦で氏康は上野の全域と西、北武蔵、古河公方、千葉氏や北関東の国衆を失い、大きく勢力を減らすことになった。

生野山の戦い[編集]

永禄4年(1561年)6月の謙信帰国の直後には、関東管領就任式時に北条下から離脱していた下総国の千葉氏・高城氏が再帰参したが、氏康は謙信の帰陣前の六月から、既に上杉氏に奪われた勢力域の再攻略を試みていた[35][39]

まず九月に、氏康は氏政と共に小田原城を出陣、滝山城の氏照と合流して離反していた武蔵国勝沼城の三田氏を攻め滅ぼし、その領国は氏照に与えられた[39]。次に氏邦が家督を継いでいた藤田氏の領国のうち、敵に応じていた秩父日尾城天神城を攻略し[39]、武蔵西部を奪還した。

さらに武蔵国の小田氏・深谷城上杉憲盛、御嶽城の安保全隆、忍城の成田長泰をも再帰参させ、上野国の佐野直綱と下野国の佐野昌綱を寝返らせることに成功したが[39]、昌綱の方はその後まもなく謙信に降伏している。氏康は氏邦の鉢形城で軍勢を整えると、家臣の上田朝直や大道寺重興らに松山城を包囲させた。救援要請を受けた謙信は武蔵に出陣、松山城を目指すが11月27日の生野山の戦いで、氏康は謙信を奇襲、第四次川中島合戦直後の上杉謙信を破り、上杉軍を壊滅させると上野国そして越後まで撤退させると(内閣文庫所蔵・小幡家文書、出雲桜井文書、相州文書)[35]、そのまま上野武蔵境まで進軍して、秩父高松城を降伏させ、氏邦の領国の回復を成させた[39]。しかし、松山城の攻略には失敗した。生野山の戦いについては、謙信ではなくその重臣である柿崎景家長尾政景が指揮していたとする説もある。

上杉勢は古河城を、公方宿老の簗田晴助に任せるとの書状を出して軍を引き上げていたが、12月には近衛前久は由良成繁に古河城の苦境を伝えている(『古簡雑纂』)[35]。古河城を追われた義氏は、北条氏によって上総佐貫城に移された[39]

生野山の戦いの大勝利により、氏康は反撃を本格化させる。翌永禄5年(1562年)3月、下総に進出し葛西城を奪っていた里見家臣の正木時茂とその弟正木時忠を弟氏尭に江戸衆らと共に攻めさせた。北条綱成らの奮戦により城は落城した。これにより下総の千葉氏との連絡を回復させた。しかし、この戦いでの傷が原因で氏尭が亡くなっている。

さらに上杉勢の敗退を受け古河城にいた近衛前久が畿内に帰っていったことを知ると、6月に氏康は再び出陣、武蔵全土や上野、北下総、南下総など北条に従属する国衆を動員して古河城を包囲、およそ一万五千の軍勢でまたも裏切った野田弘朝と共に古河城を攻め落とした。(第三次古河城の戦い)足利藤氏は氏康に降伏、捕らえられたが、後に殺されている(また重臣の簗田晴助を助命して懐柔を図るが、後に永禄6年の合戦で上杉に寝返っている)。こうして反北条の旗頭であった近衛前久、足利藤氏を失ったことで、反北条の動きは減退していった[35]

第三次古河城の戦いにより、北関東の国衆は続々と氏康に寝返っていった。唐沢山城佐野昌綱小山秀綱結城城結城晴朝など。こうして、永禄4年(1561年)後半、永禄5年(1562年)の合戦で謙信に奪われていた領土の一部を奪回したが、謙信は永禄5年7月には再び関東に出兵しており、戦いは長期化していくことになる。

謙信の反撃と苦境[編集]

北条氏の北武蔵における一大拠点であった松山城は、謙信の攻撃により落城、上杉憲勝が扇谷上杉を再興させていた。また、松山城と太田資正の岩槻城は石戸城で接続されており、北条領と古河城が分断されている状況であった。永禄5年7月の謙信の攻勢により、館林城、唐沢山城が落城したが、謙信は越中に向かうため越後に引き揚げていった。

それを知った氏康は8月、五男氏邦に石戸城を奇襲させ落城させると、城主安田景元は岩槻城に逃亡した。松山城と岩槻城とを遮断した氏康は9月に相模や武蔵の軍勢35000で松山城を包囲し、兵糧攻めとした。 翌永禄6年(1563年)2月には武田氏の援軍を得たこともあって、五万にまで膨らんだ軍勢でついに上杉憲勝は降伏、松山城を攻略した(松山城の戦い)。しかし、松山城の攻略に半年をかけたことでその間に謙信は越中を平定、雪で街道が積もるなか三国峠を越えて関東に入り、厩橋城そして松山城を目指し進軍してきた[35]。しかし松山城の落城を知った謙信は激怒、3月、まず岩槻城に入り太田資正と合流し北関東に反撃、騎西城、忍城を攻略し成田長泰を降伏させると強制的に隠居させて嫡男の成田氏長に家督を譲らせた[35]。また古河城に進軍、簗田晴助を寝返らせて城を奪還し、さらに北上して館林城の赤井文六を攻め滅ぼし、唐沢山城の佐野昌綱、小山城、祇園城の小山秀綱、結城城の結城晴朝を降伏させ、北条方の諸城を攻略して北関東をあっという間に席巻した。この永禄六年の上杉軍の動きに対し、氏康は五男氏邦に厩橋城を攻略させるなどしたが、すぐに謙信に奪還されている[35][39]

この永禄六年の合戦で氏康は松山城を攻略し、扇谷上杉を再び滅亡させることには成功したが、北関東の多くの国衆を失い、氏康が謙信に対し有効な反撃を取れなかったため、北条方の国衆には不満が広がっていった。さらに謙信はこの年厩橋城で越年しており、翌年も関東で軍事行動をとることは明白であった。謙信は常陸国で急速に勢力を伸ばす佐竹義昭と、安房の里見義堯、太田資正と連携をとり小田氏治小田城、葛西城を落とし江戸城を陥落させて東武蔵一帯を制圧する計画を立てていた。氏康は再び危機に陥ることになったのである。

永禄6年頃、弟の北条氏堯を葛西城攻めで失っている。もう1人の弟である北条為昌も既に天文11年(1542年)に失っており、後世の系譜では氏康の子供と記録されている種徳寺殿(小笠原康広に嫁ぐ)および氏忠・氏光兄弟について、実際にはそれぞれ為昌と氏堯が実の父親で、氏康が養子女として引き取ったものが忘れられたとみられている[40]

関東での戦い[編集]

上杉輝虎(謙信)の攻勢を前に、氏康は劣勢に陥っていたが、小田原城から氏政を呼び出し、合流すると共に各地に出陣、反撃を開始した。

第二次国府台合戦[編集]

これまで、氏康は毎年のように房総侵攻を行っていたが、小田原城の戦い以降、里見義堯とその嫡男里見義弘は反転攻勢に出た。北条方に奪われていた安房、上総の領土を永禄3年(1560年)の内に奪回すると、翌永禄4年(1561年)には謙信が小田原城を包囲する間に千葉胤富を降伏させ、下総に進出、無人となった葛西城を攻め落とした。しかし前述のとおり葛西城は北条が奪い返し、胤富も再度氏康方についた。義堯と義弘はまず永禄5年(1562年)6月、上総で未だ里見に従っていなかった東金城土気城の酒井氏を攻め、酒井胤俊を降伏させた。さらに正木時茂の嫡男正木信茂が千葉の重臣原胤貞の居城生実城馬加城を攻略し胤貞が逃げた臼井城も信茂の猛攻により陥落した。

翌永禄6年(1563年)には義堯、義弘が下総に出陣し国府台城松戸城を陥落させた。こうして下総の中枢にまで一気に進出した里見の勢力はかつての小弓公方に匹敵するほどになった。同年十一月、太田資正は江戸城 主の一人太田康資を調略し江戸城の乗っ取りを計画するが、遠山綱景富永直勝らの活躍により乗っ取りを防いだ。資正と康資は一旦岩槻城に退却するが資正の息子太田氏資の裏切りにより岩槻城は北条の手に落ちた。行き場を失った二人は国府台城の義堯の元に落ち延びていった。この事件を義堯の陰謀と見た氏康は劣勢を挽回するため里見軍との決戦を模索する。

永禄7年(1564年)2月、氏康は氏政と共に伊豆、相模、南武蔵の軍二万を江戸城に終結させて里見義堯義弘父子と上総国の支配権をめぐって対陣する。里見方の兵力は一万五千で数では北条軍が有利であった。しかし里見軍は精強で一筋縄にはいかず、緒戦で北条軍は川を渡河する隙を付かれて遠山綱景富永直勝などの有力武将を多く失った。しかしこの勝利に油断した義堯や義弘などの里見軍首脳は酒を部隊に許した。ほとんど連戦続きであった里見軍は久々の酒に喜び、兵士の指揮が低下した。敗北に動揺した氏康であったが、家臣の進言により夜襲を計画、氏政と綱成に別動隊を指揮させ後方から、自身は正面から里見軍に夜襲を仕掛けた。油断していた里見軍はあっという間に瓦解、氏政や綱成の奮戦により里見軍の中核を担う万喜城土岐為頼が調略に乗り勝手に撤退、正木信茂安西実元など里見軍の重臣を多く討ち取り、安房に撤退させる大勝利を収めた(第二次国府台合戦))。里見軍の死者は五千を越えたという[35]。その後氏康は氏政に軍の指揮を委ね、臼井城正木時忠を寝返らせると里見方の国衆を次々に北条方に寝返らせ、下総を再び制圧した。下総は事実上北条の領土となった。 この戦い以降、氏康は氏政と共に反撃に出て、数年の間に北関東の上杉派の国衆は壊滅していった。

北関東への進出[編集]

第二次国府台合戦と同じ永禄七年(1564年)2月頃、謙信は北条方の唐沢山城に出陣していた。この戦いは幾度と起こった唐沢山城の戦いの中でも最大のものとなった。佐野昌綱は奮戦して上杉軍に打撃を与えるが孤立無援の中降伏した。さらに謙信は4月には小田城に出陣、小田氏治を破り城を攻略した。しかしその後謙信は越後に帰国、北条にとってみれば勢力拡大の好機となった。

翌永禄8年(1565年)3月、氏康は、関東の中原における拠点である関宿城を攻撃、この城は利根川水系等の要地で氏康も重要視していた城であった。しかし城主の簗田晴助の奮戦により先鋒が打撃を受け、氏康、氏政が自ら攻撃しても城は落ちなかった。そんな中謙信が関東に向かっているとの知らせを受けたため、氏康は撤退した。(第一次関宿合戦)。

翌永禄9年(1566年)、氏康は氏政に里見攻略を命じた。氏政は下総や上総の城を次々と攻略して里見義弘を追い詰めるが、救援要請を受けた謙信が関東に出兵してきた。謙信は再び小田氏治を破ると下総に進出、船橋を占領した。さらに謙信は原胤貞が籠る臼井城に侵攻、落城寸前にまで追い詰めたが防衛方の北条家臣松田康郷の奮戦により上杉軍を壊滅させた(臼井城の戦い)。上杉軍の撤退を受けて氏康は簗田晴助と交渉を開始した。晴助の所領安堵、古河公方の御座所を古河城とする事、など晴助に有利な形で和睦した。こうして足利義氏を古河城に入れることには成功したがより重要な関宿城は一旦諦める形となった。

その後氏康は氏政を簗田との和睦により北関東に出陣させ、忍城の成田氏長、深谷城の上杉憲盛を降伏させ、武蔵のほぼ全域を支配した。さらに氏政は北上して館林城を落城させ、新田金山城の由良成繁を降伏させ、赤石城を攻略、更に翌永禄10年(1567年)には厩橋城の北条高広を調略した。この氏政の怒涛の進撃により唐沢山城の佐野昌綱、小山城の小山秀綱、結城城の結城晴朝、などを寝返らせ、さらに常陸国の佐竹義重が謙信の出陣要請に難色を示すなど、対北条方の足並みの乱れが生じていた(三戸文書)。そして、氏政の攻勢により上杉謙信は大幅な撤退を余儀なくされた。謙信の関東管領としての威信を打ち砕き、謙信に奪われた領土のほとんどを奪還した上に、下総を支配し北関東の多くの豪族を従属させ、再び大幅に勢力を拡大した。

隠居[編集]

それに先だって、永禄8年(1565年)8月、氏康は成田氏の忍城攻撃の際に、自らの出陣がこれが最後になることを告げた。また、永禄9年(1566年)5月頃に朝廷から相模守への任官を受けると、これまで用いていた官途名・左京大夫を氏政に譲っている。また、「武栄」と刻まれた独自の朱印を作成し、氏政が出陣などで不在で氏康が代わりに政務を決裁した時にはこの印を用いることとした[41]

永禄9年(1566年)以降は実質的にも隠居し息子達に多くの戦を任せるようになる。関東において優勢に戦いを進めており、氏政も成長しつつあったためである。これ以降は「武榮」の印判を用いての役銭収納、職人使役、息子達の後方支援に専念するようになる。この前後から氏政は左京大夫に任官し、氏康は相模守に転じている。家臣への感状発給もこの時期に停止し、氏政への権力の委譲を進めている[42]

こうして氏康は実権を氏政に委譲して隠居に近い形となった。以降の氏康は自ら出陣するのではなく、氏政らに指揮を任せ、自身は小田原城から朝廷や幕府との交渉、大名や国衆との外交など、政務に力を入れて氏政を後方支援することに注力していく。

永禄10年(1567年)8月、氏康は息子の氏政・氏照に里見氏攻略を任せ出陣させる。氏政は順調に進軍し上総西部の城を占領、東部では土岐為頼、正木時忠を寝返らせると、義弘の居城佐貫城を狙うため三舟山に布陣した。里見義弘はこれに危機感を抱き三舟山の北条軍に攻撃を仕掛けた。これに対し氏政は弟氏照を義堯の居城久留里城攻撃に向かわせ、綱成を海から攻撃させようとした。しかし、正木氏などの国人が里見氏に通じたことなどがあり、氏政は里見軍に裏をかかれて大敗。北条家は上総南半を失った。この際、殿を務めた娘婿の太田氏資が戦死している(三船山合戦)。この敗戦により義弘は勢力を回復させ、上総をほぼ制圧した。こうして里見氏との戦線は再び膠着することになった。

簗田晴助との間には和睦が結ばれていたが、栗橋城の野田氏が上杉に寝返ったことにより和睦は決裂した。永禄9年(1566年)に反乱を鎮圧した北条氏照が栗橋城に入り、永禄11年(1568年)には砦を築いて関宿城攻めを開始した(第二次関宿合戦)。氏照の激しい攻勢により関宿城を落城寸前にまで追い込むが武田信玄による駿河侵攻が始まると氏康は謙信と和睦(越相同盟)し、第二次関宿合戦は休戦となった。

また佐竹領以外の常陸においては、南常陸の小田氏等の臣従により北条氏の勢威が及んだものの、小田氏は永禄12年(1569年)に佐竹氏に大敗し、佐竹氏の勢力は南へ拡大した。

氏政が指揮するようになった北条軍は一部敗北することはあったものの、全体の戦線は常に北条氏優勢であった。しかし、武田信玄の駿河侵攻により状況は再び大幅に変化することになる。

武田信玄との戦い[編集]

薩埵峠の戦い[編集]

永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いによる今川義元の討死とその後の混乱により今川氏は三河国を失い、衰退していった。今川を継いだ今川氏真は従属国衆の松平元康の離反を止められず、さらに遠江で大規模な国衆の離反が起こるなど今川氏の衰退は明らかなものとなり、同盟関係にある氏康や信玄は、今川に対する対応を変化させていった。

永禄11年(1568年)12月6日、義元没後の今川氏の衰退を受けて、従来の外交方針を転換させた武田信玄が駿河侵攻を行ったことにより、三国同盟は破棄された。信玄は大宮城を攻撃し南下、12日薩埵峠にて今川軍と対峙する。(第一次薩埵峠の戦い)しかし国衆の離反により今川軍は武田軍に敗北、13日に駿府は陥落し、さらに徳川軍の侵攻を受けて氏真は掛川城に追い詰められる。北条氏康と北条氏政は娘婿の今川氏真を支援をする方針を固め、氏政が駿河に出兵、富士郡や駿東郡の城を降伏させると蒲原城を抑えた。翌永禄12年(1569年)1月26日、氏政は薩多峠にて信玄と対峙する(第二次薩埵峠の戦い)。さらに27日には今川方が駿府を奪還するなど、信玄の動きを抑え込んだ。2月、3月にも氏政は武田軍と合戦を繰り返して信玄を追い詰めた。さらに氏康は信玄が徳川の不信を買ったことを利用し徳川との密約を結び、駿河挟撃の構えをとった。そして富士信忠大宮城に攻撃を仕掛けた武田軍を退けたことにより、信玄はこの状況での駿河防衛は困難と判断、4月28日、一旦駿河国から軍を退き甲斐国へと退却した。北条氏は興国寺城、葛山城、深沢城など東駿河を奪取した。こうしておよそ25年ぶりに河東を北条氏が支配する状況となった。氏康と信玄の敵対関係は決定的となり、甲相同盟は破綻した[43]

こうして娘婿である氏真を支援して駿河に出兵したことで、信玄を追い込むが、無事に甲斐に帰国させてしまった。武田軍に打撃を与えられなかったことが、後の駿河の戦況を変えていくことになる。

越相同盟[編集]

氏政の活躍により一旦は信玄を駿河から撤退させた氏康だか、武田との同盟破棄により氏康は、西に武田氏、北に上杉氏、東に里見氏と3方向を敵勢力に囲まれる危機的状況に陥る[42]。また信玄は北関東の豪族に北条への攻撃を要請しており、再び苦境に陥った。この苦境を乗り切るべく駿河出兵を決めると同時に、上杉氏との同盟交渉を開始(大石氏照書状)[42]。この頃、西上野一円は武田領化しており、また南上野には氏康の勢力が及んでおり、謙信の上野における支配域は沼田と厩橋など主に東上野のみとなっていた[42]。さらに謙信の目は越中国に向けられていた。謙信は当初、討伐対象であった北条氏との同盟に乗り気でなかったが、家臣の説得や関宿城が氏照や氏邦の猛攻に晒されていた(第二次関宿合戦)こともあり態度を軟化[42]。既に纏まっていた今川家と上杉家の同盟に乗る形で交渉を始め、謙信の旧臣・由良成繁を仲介役に、石巻天用院を使者として、永禄12年(1569年)6月に由良成繁の仲介で上杉謙信との同盟である越相同盟を結んだ[42]。これにより謙信は氏康の甥である足利義氏を関東管領の主である古河公方として、また氏康・氏政は、謙信を公方の執事たる関東管領職であるとお互いに認め、上野・武蔵北辺の一部の上杉氏領有(羽生城岩槻城)などを認める代わりに、謙信に北条氏による相模・武蔵大半の領有と上野の一部が北条に属すことを認めさせた(由良成繁の金山城館林城赤石城など)[42]。北条方は氏康の実子・三郎(後の上杉景虎)、上杉方は謙信の家臣・柿崎景家の実子・晴家が人質とされた[42]。厩橋城の北条高広は上杉に帰参した。

この越相同盟は、両家の停戦という意味では成功を収めた[42]。しかし同時に謙信に対する反北条派の里見氏や佐竹氏、太田氏といった関東諸大名・豪族の不信感を生み、彼らは上杉氏から離反し武田氏に与してしまった[42]。さらに信玄が信長・将軍足利義昭を通じて越後上杉氏との和睦(甲越和与)を試み[42]、同年8月には上杉・武田両氏の和睦が一時的に成立した[44]。また上杉が甲越和与を解消した後も北条・上杉両氏による同盟条件の不調整・不徹底のため、北条・上杉両軍の足並みは乱れることが多かった[42]

さらに上杉を離反し北条方となっていた結城や小山などの大名も、北条軍が駿河に注力するようになったことで影響力が低下、彼らは自立するか、北条に与するのか、武田に与するのか、など選択を迫られていく。

三増峠の戦い[編集]

永禄12年(1569年)5月6日、氏真がいた掛川城が開城、氏真は17日に蒲原城に入った。23日には男子のいなかった氏真が氏政の次男国王丸(後の氏直)を養子に迎えて駿河の支配権を譲り、戦国大名としての今川氏は滅亡した。義元が死んでから10年もたっていなかった。こうして駿河支配の体裁を整えた。

越相同盟と同月、信玄が北条領に進軍し伊豆、駿東郡などを攻撃して西に移動、大宮城を攻撃した。氏康は一族を総動員し氏政、氏照、氏規、氏邦、氏忠氏信などが出陣しているが、援軍は間に合わず信玄の大軍に大宮城は押され、7月3日ついに大宮城は落城する。こうして富士郡を武田軍が制圧した。

8月下旬、北条主力を駿河から武蔵、相模に移動させるため信玄が碓氷峠を越え武田軍が武蔵国に侵攻する。これに対し、鉢形城で氏邦が、滝山城で氏照が籠城し武田軍を退け、武田軍はそのまま南下、10月1日には小田原城を包囲する[42]。しかし氏康が徹底した籠城戦をとり、武田軍にも小田原城攻略の意図はなかったため、わずか4日後の10月4日、城下町に火を放ったのち撤退する[42]。しかし氏康が黙って信玄の帰国を許すはずがなかった。氏康は撤退する武田軍に対し挟撃を謀り、氏照、氏邦の部隊を三増峠に布陣させ、さらに氏政を出陣させるが、荷を捨て身軽になってまで迅速に行軍した武田軍に対して、氏政隊の追撃が間に合わず、本隊到着前に三増峠に布陣する氏邦・氏照隊が攻撃を開始し挟撃はならなかった[42]。北条軍はその最精鋭部隊であり、北条綱成、氏照、氏邦と名将揃いで士気は高く、緒戦は優位に押したが、武田別働隊を率いる山県昌景による高所からの奇襲を受け、加えて背後の津久井城も武田方に抑えられて援軍が出陣できず、突破され敗退。武田家譜代家老で箕輪城代の浅利信種や浦野重秀などを討ち取ったものの、武田軍の甲斐帰還を許す結果になった(三増峠の戦い)。追撃していた氏政は厚木にまで進軍していたが北条軍敗退の知らせを聞くと小田原城に撤退している。

戦況の悪化[編集]

その後、11月9日、武田信玄は再度駿河国に出兵、12月6日に蒲原城を攻撃した。またも北条軍の援軍は間に合わず、蒲原城主の北条氏信が討死し、蒲原城は落城した。蒲原城落城の影響は大きく、12日には薩埵山の北条軍も撤退した。さらに13日には駿府今川館に籠る岡部正綱が降伏、武田軍が再び駿府を制圧した。翌元亀元年(1570年)4月16日に武田軍が韮山城を攻撃、北条軍が撃退した。

さらに元亀2年(1571年)にも武田軍は駿河侵攻を行い北条方の深沢城興国寺城を攻撃した。深沢城の城主は綱成であり、武田軍に奮戦するが数の差に耐えきれず1月16日に落城した。しかし興国寺城は城主の垪和氏続が撃退した。深沢城の落城以後武田軍の侵攻は止まり、戦線は膠着した。北条方は里見氏の勢力回復や氏康の体調悪化に伴い、興国寺城など駿東郡南部はかろうじて保つものの、駿河国での戦いは武田に押されていった。

最期[編集]

氏康は元亀元年(1570年)8月頃から中風とみられる病を得ており、8月初旬には鎌倉仏日庵で、氏康の病気平癒祈願の大般若経の真読が行われている。その頃、小田原城に滞在していた大石芳綱は、「風聞としてではあるが氏康の様子を、呂律が回らず、子供の見分けがつかず、食事は食べたいものを指差すような状態で、意志の疎通がままならず、信玄が豆州に出たことも分からないようだ」と記し伝えている。その後、12月には信玄の深沢城攻めの対応を指示ができるほどには快方に向かったが、明けて元亀2年に入ると氏康発給の文書は印判だけで花押が見られなくなる。そして元亀2年(1571年)5月10日を最後に文書の発給は停止されている[42]

そして10月3日、氏康は小田原城において死没した。享年57。戒名は大聖寺殿東陽宗岱大居士

同年から、氏康は、かつて武田氏に通じていた北条高広を介して、武田信玄との和睦・同盟を模索していたといい、最後の務めとして氏政をはじめとする一族を集め、「上杉謙信との同盟を破棄して、武田信玄と同盟を結ぶように」と遺言を残したとされているが真偽は不明[42]。また、死の半年前の4月には武田との再同盟の噂を危惧した謙信の詰問に対して、丁寧に弁明した上で再同盟はあり得ないことを伝えたとされている[45]。氏康死後の12月27日、北条・武田は再同盟している。そして北条氏は再び謙信との抗争に突入していく。

人物[編集]

内政[編集]

  • 北条氏の特色である領内の検地を徹底して行い、永禄2年(1559年)2月、氏康は大田豊後守・関兵部丞・松田筑前守の3人を奉行に任命し、家臣らの諸役賦課の状態を調査し、それを安藤良整が集成して『小田原衆所領役帳』を作成した。構成は各衆別(小田原衆、御馬廻衆、玉縄衆、江戸衆、松山衆、伊豆衆、津久井衆、足軽衆、他国衆、御家中衆など)計560名の家臣個々の所領の場所(領地)とその貫高(所領高)が記され、負担すべき馬、鉄砲、槍、弓、指物、旗、そして軍役として動員すべき人数が詳細に記載されている。これにより家臣や領民の負担が明確になり、家臣団や領民の統制がより円滑に行われるようになった[19]
  • 歴代同様に税制の改革にも熱心で領民の負担軽減などに尽力しており、在郷勢力から支持されている。それまでの諸点役と呼ばれる公事を廃止し、貫高の6%の懸銭を納めさせることにより、不定期の徴収から百姓を解放し、結果的に負担を軽減させた。同時に税が直接北条氏の蔵に収められる(中間搾取がなくなる)ことで、国人等の支配力が低下し北条氏の権力はより大きなものとなった。さらに棟別銭を50文から35文に減額し、凶作や飢饉の年には減税、場合によっては年貢を免除した。その他、一部では反銭や棟別銭を始め国役までも免除されていた地域も存在する(内閣文庫所蔵・垪和氏古文書)[19][20]
  • 領民の誰もが直接北条氏(評定衆)に不法を訴える事ができるよう目安箱を設置し、領民の支持を得ると同時に中間支配者層を牽制した。また、他大名に先駆け永楽銭への通貨統一を進め、撰銭令も出している[19]
  • 永禄2年(1559年)12月、代物法度を制定して、精銭と地悪銭の法定混合比率を規定する貨幣制度を実施、翌年に比率を改定し完成した[19]
  • 氏康の統治期は全国的に良質の永楽銭の不足や地悪銭の増加が顕著になりだした時期で、それによる税収不足を防ぐ為に、永禄7年(1564年)反銭を米で納める穀反銭を創設し、その為の公定歩合として、永楽銭100文を米1斗2-4升と定めた。翌永禄8年(1565年)には、棟別銭も2/3を麦、1/3を永楽銭で納める正木棟別の制度を創設し、麦の公定歩合を100文につき3斗5升と定めた。そして最終的には、永禄12年(1569年)に棟別銭と反銭を銭納から米穀等の物納に全面的に切り替え、財政の安定化を図っている。
  • 地域ごとに違ったものを使用していた枡であったが、遠江の榛原枡を公定枡とし、領国内の度量衡を統一した[19]
  • 氏康の功績としては、独自の官僚機構の創出もあげられる。例えば評定衆はその代表的なもので、領内の訴訟処理などを行っていた。構成員はおもに御馬廻衆を主体としていた。史料上の初見は弘治元年で、裁許状は現在50例ほどが確認されている[19]
  • 小田原の城下町のさらなる発展のため全国から職人や文化人を呼び寄せ大規模な都市開発を行い清掃にも気を配り、その結果、小田原の城下町は東の小田原・西の山口と称される東国最大の都市となった。上水道小田原早川上水)を造り上げ、町はゴミ一つ落ちていないとまで評されるほどの清潔な都市であった[19]。その小田原の様について、天文20年に小田原に来訪した京都南禅寺の僧である東嶺智旺は、「町の小路数万間、地一塵無し。東南は海。海水小田原の麓を遶る」(『明叔禄』)と記している[19]。また、氏康在世時の小田原は寺院の建立も活発であった様子が残されている[19]
  • 殆どの文書に虎の印判を使用し行政の効率を高めた。同時期の戦国大名と比較して最も割合が多い。配下などに対して花押を用いずに印判状を用いる行為は効率と引き換えに反発を招く恐れもあった。それを押さえ込めるだけの権威と軍事力が氏康の代に備わったことを意味している。
  • その他の施策として、職人使役のための公用使役制の採用や伝馬制の確立などがあげられる。北条氏の伝馬手形に押された伝馬専用印判(印文「常調」)の初見は永禄元年(1558年)であり、 この時期に北条氏の伝馬制が確立したとされている[19]
  • 氏康は父氏綱の時代からあった支城体制をさらに強化した。氏綱時代からの韮山城、小田原城、玉縄城、津久井城、三崎城、小机城、江戸城、河越城などに加えて、氏康時代には滝山城鉢形城松山城古河城関宿城岩槻城などが整備された。このような支城体制は、広大な関東を円滑に統治するために必要不可欠なものであった。それぞれの支城には北条一門が入り、中央集権化が進められた。

教養・文化[編集]

  • 教養・学問にも熱心で、三条西実隆から歌道の師事を受け、三略の講義を足利学校で受けた[46]。歌を詠ませれば著名な歌人さえも感心させた[46]。蹴鞠作法は権中納言・飛鳥井雅綱から伝授されている[46]。天文20年(1551年)4月、氏康に接見した南禅寺の僧・東嶺智旺はその傑物ぶりを「太守・氏康は、表は文、裏は武の人で、治世清くして遠近みな服している。まことに当代無双の覇王である」と高く評価している[46]
  • 後水尾天皇の勅撰と伝えられる『集外三十六歌仙』の30番に一首を採られている[47][48]
中々にきよめぬ庭はちりもなし かぜにまかする山の下いほ — 集外三十六歌仙、30.閑居 北条氏康

逸話・伝承[編集]

  • 12歳の頃、武術の調練を見ていて気を失った。気を取り戻すと「家臣の前で恥を曝した」として自害しようとしたが、家老の清水某が「初めて見るものに驚かれるのは当然で恥ではございません。むしろあらかじめの心構えが大切なのです」と忠言した。以後、氏康は常に心構えをわきまえて堂々としていたという(三浦浄心北条五代記』)[要検証]
  • 「三世の氏康君は文武を兼ね備えた名将で、一代のうち、数度の合戦に負けたことがない。そのうえに仁徳があって、よく家法を発揚したので、氏康君の代になって関東八ヶ国の兵乱を平定し、大いに北条の家名を高めた。その優れた功績は古今の名将というにふさわしい」と評価されている(『北条記』)。
  • 後世成立の軍記の逸話としてであるが、夏に氏康が高楼で涼んでいると狐が鳴き、これを聞いた近習が「夏狐が鳴くを聞けば、身に不吉が起る」と告げたため、即興で歌を詠み、「きつね」を句によって分けた歌で凶を返したため、狐は翌朝に倒れて死んでいたという[49]
夏はきつ ねになく蝉のから衣 おのれおのれが身の上にきよ — 小田原北条記、北条氏康
小田原市谷津には、この夏狐の逸話を元亀元年とし、その後に狐の霊が北条の家臣に憑いて、調伏された恨みから災いを起すと訴え、翌年に氏康が死んだことを祟りと考えた氏政が老狐の霊を祀って供養したという縁起を持つ「北条稲荷」が在る[50]
  • 部下への教訓として「酒は朝に飲め」という言葉を残している。これは、寝る前の飲酒は深酒をしやすく、失敗につながりやすい、ということから。
  • 合戦においては自ら敵陣に突撃し、生涯経験した36渡の戦いで一度も敵に背を見せたことがなく、顔に2つ、身体には7つの刀傷があったという。武将たちはこの傷を[氏康傷]と呼んで褒め称えたという。この傾向は若い頃ほどよく見られ、河越野戦の際は敵陣に突撃しすぎて逆に討ち死にする危険があったという。
  • 三河東泉記では、戦国五雄(北条氏康、武田信玄、上杉謙信、織田信長、毛利元就)の一人に選ばれている。

系譜[編集]

主な家臣[編集]

北条分限帳(北条氏康時代前期)における衆[編集]

  • 小田原衆 松田憲秀 以下33人 9202貫
  • 御馬廻衆 山角康定 以下94人 8591貫
  • 玉縄衆 北条綱成 以下18人 4381貫
  • 江戸衆 遠山綱景・太田大膳・富永康景 以下77人 12650貫
  • 河越衆 大道寺政繁 以下22人 4079貫
  • 松山衆 狩野介(狩野康光?) 以下15人 3300貫
  • 伊豆衆 笠原綱信・清水康英 以下29人 3393貫
  • 津久井衆 内藤康行 以下59人 2238貫
  • 諸足軽衆 大藤秀信 以下17人 2260貫
  • 職人衆 須藤盛永 以下26人 903貫
  • 他国衆 小山田信有 以下30人 3721貫
  • 御家中衆
  • 御家門方 足利義氏・北条長綱 5852貫
  • 本光院殿衆 山中盛定 以下49人 3861貫
  • 氏堯衆 北条氏堯 以下4人 1381貫
  • 小机衆 北条時長 以下29人 3438貫
  • 御家門方 伊勢貞辰 以下11人 1050貫

墓所[編集]

早雲寺の北条五代の墓。中央が氏康の墓。

神奈川県箱根町の金湯山早雲寺(現在の早雲寺境内に残る氏康を含めた北条5代の墓所は、江戸時代の寛文12年(1672年) に、北条氏規の子孫で狭山藩北条家5代目当主の北条氏治が、北条早雲の命日に当たる8月15日に建立した供養塔)。

氏康の本来の墓所は、広大な旧早雲寺境内の大聖院に葬られたが、早雲寺の全伽藍は豊臣秀吉の軍勢に焼かれ、氏康の墓所の位置は不明となっている。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 大石泰史は天文5年2月の今川氏輝の小田原城訪問を氏康の婚姻に伴うものとしている。なお、駿府帰還直後に氏輝と弟の彦五郎が同日に死去する事態となり、花倉の乱の原因となる[10]
  2. ^ 海老名真治は氏康と晴信の合意は単なる和睦ではなく同盟であったとして、第2次河東一乱における武田の参戦も初めから斡旋を意図したものであったとする[16]
  3. ^ 一連の河東一乱のきっかけとなった今川氏・武田氏の同盟は元々花倉の乱後の今川領国の安定化のためのものだった(勿論、北条氏を敵とするものではなかった)と考えられる。ところが、それに対する北条側の対応を今川側が読み間違えて同盟破棄から戦いに至ってしまった。その結果、北条・今川間に相互不信が残り、特に北条側から攻撃を受けた今川側の反発が尾を引いたと考えられる[26]
  4. ^ 従来の説では天文20年(1551年)一時的ながら、祖父・北条早雲ゆかりの城である駿河興国寺城を奪いながら、その後また義元により撃退されたとも伝えられていたが、近年の研究では早雲が今川氏から初めて与えられた城は「石脇城」であるという見方もされており、また次に与えられた城も興国寺城ではなく、興国寺城の築城自体が、北条氏と係争し始めてからの今川義元によるものという説がある[27][28][29]
  5. ^ この時氏規は松平竹千代・後の徳川家康と親交を結んだとされる。
  6. ^ 古河公方の歴代には数えられていない。

出典[編集]

  1. ^ a b c 佐脇栄智「北条氏康」『国史大辞典』吉川弘文館。
  2. ^ 町指定重要文化財:第21号:寒川神社の棟札(小田原北条氏ゆかりの棟札3点)”. 寒川町役場教育政策課(神奈川県高座郡寒川町). 2021年12月5日閲覧。
  3. ^ 「北条氏康」『日本人名大辞典』講談社
  4. ^ 黒田 2018, p. 8, 「総論 北条氏康の研究」.
  5. ^ a b 下山治久『戦国時代年表 後北条氏編』
  6. ^ 黒田 2021, pp. 8–9, 「〈今代天下無双の覇主〉五十七年の生涯」.
  7. ^ a b c d 黒田 2021, p. 9, 「〈今代天下無双の覇主〉五十七年の生涯」.
  8. ^ a b c d 黒田 2012a, pp. 99–132, 「第三章 北条氏康」
  9. ^ a b 山口 2005, pp. 9–23
  10. ^ 黒田 2021, p. 263, 大石泰史「対立から同盟へ-今川義元・氏真と氏康の関係性-」.
  11. ^ 黒田 2021, p. 10, 「〈今代天下無双の覇主〉五十七年の生涯」.
  12. ^ 黒田 2021, pp. 264–265, 大石泰史「対立から同盟へ-今川義元・氏真と氏康の関係性-」.
  13. ^ 佐脇栄智「第3編第4章第2節 北条氏の領国経営(氏康・氏政の時代)」『神奈川県史 通史編Ⅰ』1981年。 /所収:黒田 2018, pp. 38–39, 「総論 北条氏康の研究」
  14. ^ a b 黒田 2021, p. 11, 「〈今代天下無双の覇主〉五十七年の生涯」.
  15. ^ 黒田 2021, p. 12, 「〈今代天下無双の覇主〉五十七年の生涯」.
  16. ^ 黒田 2021, pp. 281–286, 海老名真治「氏康と武田信玄-第一次甲相同盟の展開-」.
  17. ^ 黒田 2012b, pp. 53–79
  18. ^ a b 黒田 2005a, pp. 62–84, 「公事赦免令」
  19. ^ a b c d e f g h i j k 山口 2005, pp. 53–84
  20. ^ a b 小和田 1996, p. 108.
  21. ^ 黒田 2021, p. 13, 「〈今代天下無双の覇主〉五十七年の生涯」.
  22. ^ 山口 2005, pp. 28–38
  23. ^ a b 黒田 2021, p. 14, 「〈今代天下無双の覇主〉五十七年の生涯」.
  24. ^ 矢崎勝巳「『彦部家譜』所収里見氏関係文書」『中世房総』5号、1991年。 
  25. ^ 黒田 2021, pp. 323–324, 細田大樹「北条氏康の房総侵攻とその制約」.
  26. ^ 黒田 2021, pp. 271–273, 大石泰史「対立から同盟へ-今川義元・氏真と氏康の関係性-」.
  27. ^ 北条早雲史跡活用研究会編『奔る雲のごとく(今よみがえる北条早雲)』
  28. ^ 大塚勲「今川義元-史料による年譜的考察」
  29. ^ 黒田 2005b.
  30. ^ a b 黒田 2021, pp. 14–15, 「〈今代天下無双の覇主〉五十七年の生涯」.
  31. ^ a b 黒田 2021, p. 16, 「〈今代天下無双の覇主〉五十七年の生涯」.
  32. ^ 小和田 2004, p. 152.
  33. ^ 有光 2008, pp. 113–117.
  34. ^ 有光 2008, pp. 264–265.
  35. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 山口 2005, pp. 85–96
  36. ^ a b c d e f 黒田 2012b, pp. 81–110
  37. ^ 柴辻 2006, p. 68.
  38. ^ 市村 2006, p. 157.
  39. ^ a b c d e f g h 黒田 2012b, pp. 111–139
  40. ^ 黒田基樹『戦国北条氏一族事典』戎光祥出版、2018年、83-90・133-134頁。ISBN 978-4-86403-289-6 
  41. ^ 黒田 2021, p. 22, 「〈今代天下無双の覇主〉五十七年の生涯」.
  42. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 山口 2005, pp. 97–118
  43. ^ 黒田 2012b, pp. 169–195
  44. ^ 「甲越和与」の経緯については丸島和与「甲越和与の発掘と越相同盟」『戦国遺文武田氏編 月報』6
  45. ^ 黒田 2021, p. 24, 「〈今代天下無双の覇主〉五十七年の生涯」.
  46. ^ a b c d 山口 2005, pp. 119–135
  47. ^ 酒井抱一・集外三十六歌仙(姫路市立美術館)
  48. ^ 30.北条氏康
  49. ^ 江西 1980b, pp. 41–44
  50. ^ 立木望隆『小田原史跡めぐり』名著出版〈小田原文庫〉、1976年、52頁。 

参考文献[編集]

関連文献・史料[編集]

関連項目[編集]

関連作品[編集]

小説
テレビドラマ

外部リンク[編集]