三井浩二

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三井 浩二
2009年8月24日(西武第二球場)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 北海道足寄郡足寄町
生年月日 (1973-09-15) 1973年9月15日(50歳)
身長
体重
184 cm
86 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 2000年 ドラフト2位
初出場 2001年3月25日
最終出場 2009年8月6日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

三井 浩二(みつい こうじ、1973年9月15日 - )は、北海道足寄郡足寄町出身の元プロ野球選手投手)。

経歴

プロ入り前

北海道足寄郡足寄町出身。北海道足寄高等学校3年時の1991年プロ野球ドラフト会議阪神タイガース福岡ダイエーホークスが4位指名で競合し、抽選の結果ダイエーが交渉権を獲得したが入団を拒否し、社会人野球の新日本製鐵室蘭へ進んだ(後年の雑誌でのインタビューでは実力面の不安が理由と語っていた[要出典])。

1994年に新日鐵グループの野球部の統廃合に伴って新日本製鐵広畑へ転籍し、チームのエースとして活躍した。2000年のプロ野球ドラフト会議前に西武ライオンズを逆指名することを表明[1]。ドラフトでは西武が2位指名で交渉権を獲得し契約金1億円、出来高払い5000万円、年俸1300万円(金額は推定)で入団合意した[2]

プロ入り後

2001年、プロ初勝利を含む3勝を記録、二軍でも活躍しイースタン・リーグ優勝や自身がMVP選出のファーム日本選手権制覇などに貢献。

2002年スクリューボールを習得。この年は中継ぎでの登板が多かったが、15試合に先発した。結局41試合に登板し、10勝を挙げ、初めて規定投球回に達して防御率リーグ5位の成績を残し、チームの優勝に貢献した。同年はオールスターゲームに出場。

2003年は2年連続となる10勝以上を挙げたものの、防御率は5点台に低下。

2004年はわずか9試合に登板にとどまり、2勝に終わった。

2005年シーズン後半から中継ぎに転向した。同年は28試合に登板したが、防御率4.95と安定しなかった。千葉ロッテマリーンズとのプレーオフ第1ステージ第1戦では勝ち越し点を与え敗戦投手となってしまった。チームは次の試合も敗れプレーオフ敗退となった。

2006年石井貴に次ぐチーム2位のホールドを挙げた。45試合に登板し、防御率は年間通じて1点台、被本塁打は1本だった。

2007年、自己最多の47試合に登板し、リーグ3位の27ホールドポイント、防御率2.22を記録した。

2008年、4月26日の対オリックス戦においては、8回表4点リードの場面で登板して1イニングで5失点し、コーチの大久保博元がその裏の攻撃前の円陣で「三井が死んでしまう、みんなで助けよう」と発破をかける、その回の裏にチームは逆転し勝ち投手となった。その後一旦二軍落ちしたあと、8月26日の日本ハム戦で復帰し1イニング無失点とし、オリックス戦以外では無失点だった。同年は23試合の登板で防御率7点台と精彩を欠いたシーズンとなった。シーズン終了後、ポスティングシステムを利用する[3]。西武でのポスティングシステム利用は3人目で[4]、35歳での利用は史上最高齢であった。しかし期限までに入札を行う球団は現れず、2009年1月5日に再申請を申し出るが、入札を行う球団は無く、西武と再契約する。「入札されなかった選手が同一年度内に再度ポスティングシステムを利用すること」や、「2回続けて応札が無かったこと」は、共に史上初である。

2009年は19試合の登板に終わり、防御率6.23と不調を脱することができなかった。10月2日に戦力外通告を受ける。シーズン終了後、12球団合同トライアウトに参加した。

2010年東北楽天ゴールデンイーグルスの春季キャンプにテスト生として参加、3月4日には福岡ソフトバンクホークスの入団テストを受けたが、いずれも不合格となった。3月30日現役引退を表明した。

現役引退後

2011年7月、埼玉県入間市に「入間野球道場」を開講し、指導を行なっている[5]。その野球道場は西武の大友進加世田美智久が講師を務めている[5]。2015年10月には、「三井杯十勝少年野球チャンピオンシップ大会」を北海道十勝管内で開いている[6]。また、J SPORTSメジャーリーグ中継で解説者を務めている。

人物

石川知裕は小中学校の同級生や野球部のチームメイト[7]。地元足寄町の出身の松山千春と交流が深く、自身のシンカー系の変化球に「チハルボール」と名づける[8]。当初は後援会長を務めていた政治家の鈴木宗男にあやかり「ムネオボール」と名づけていたが、鈴木の不祥事により名称を変更した。文化放送ライオンズナイターでは「大空と大地の申し子」と呼ばれる。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
2001 西武 29 15 0 0 0 3 3 0 -- .500 406 88.0 100 9 46 0 3 70 2 0 55 51 5.22 1.66
2002 41 17 1 1 0 10 2 0 -- .833 574 140.0 128 17 34 2 4 94 1 0 51 49 3.15 1.16
2003 41 15 1 0 1 11 5 0 -- .688 542 120.2 128 16 59 2 7 84 2 0 76 70 5.22 1.55
2004 9 8 0 0 0 2 3 0 -- .400 224 45.2 67 8 15 0 4 27 2 0 42 39 7.69 1.80
2005 28 2 0 0 0 1 2 0 2 .333 174 40.0 43 5 13 0 3 42 1 0 22 22 4.95 1.40
2006 45 0 0 0 0 4 1 1 21 .800 223 52.0 47 1 17 2 1 42 0 0 16 10 1.73 1.23
2007 47 0 0 0 0 4 2 0 23 .667 180 44.2 40 3 12 1 0 35 2 0 12 11 2.22 1.16
2008 23 0 0 0 0 1 1 0 3 .500 116 24.0 33 2 10 0 4 12 0 0 20 20 7.50 1.79
2009 19 0 0 0 0 0 1 0 5 .000 55 13.0 12 4 3 0 0 7 0 0 9 9 6.23 1.15
通算:9年 282 57 2 1 1 36 20 1 54 .643 2494 568.0 598 65 209 7 26 413 10 0 303 281 4.45 1.42
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰

記録

  • 初登板:2001年3月25日、対千葉ロッテマリーンズ2回戦(西武ドーム)、4回表1死に2番手として救援登板、2回2/3を2失点
  • 初奪三振:同上、5回表に諸積兼司から
  • 初先発:2001年3月31日、対大阪近鉄バファローズ2回戦(西武ドーム)、5回5失点
  • 初勝利・初先発勝利:2001年5月10日、対大阪近鉄バファローズ8回戦(西武ドーム)、5回1/3を3失点
  • 初完投勝利・初完封勝利:2002年3月31日、対千葉ロッテマリーンズ2回戦(札幌ドーム
  • 初ホールド:2005年7月12日、対千葉ロッテマリーンズ11回戦(インボイスSEIBUドーム)、4回表2死に2番手として救援登板、2回1/3を1失点
  • 初セーブ:2006年9月5日、対千葉ロッテマリーンズ17回戦(千葉マリンスタジアム)、8回裏に5番手として救援登板・完了、2回無失点
  • オールスターゲーム出場:1回 (2002年)

背番号

  • 29 (2001年 - 2009年)

脚注

  1. ^ 朝日新聞、2000年11月14日付朝刊 (14版、14面)
  2. ^ 朝日新聞、2000年11月25日付朝刊 (14版、18面)
  3. ^ 会見で三井は、2006年の日米野球で好投したことが自信となり、今回のメジャー挑戦に繋がったと語る。2007年オフの契約更改の際も今回同様ポスティングシステムを利用してのメジャーリーグ挑戦を希望したが、その時は球団の了承が得られなかったことも公表した。
  4. ^ 他の2人は森慎二松坂大輔
  5. ^ a b 週刊ベースボール2011年10月31日号 セカンドキャリアの「球人力」P92
  6. ^ 北海道新聞 2015年10月26日 十勝・帯広版 26面
  7. ^ 前・衆議院議員 石川ともひろ プロファイル”. 2015年10月27日閲覧。
  8. ^ プロ野球スピリッツでは「ミツイボール」と名づけられている。

関連項目

外部リンク