ニシオカナヲト

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ニシオカナヲト1967年昭和42年)1月8日 - ) は、日本のシンガーソングライター、音楽プロデューサー、作詞家、作曲家、ボイストレーナー、YouTuber、ニシオカナヲト音楽事務所代表取締役社長。兵庫県神戸市灘区出身。

ニシオカ ナヲト
ニシオカナヲト
基本情報
生誕 (1967-01-08) 1967年1月8日(57歳)
出身地 日本の旗 日本兵庫県神戸市灘区
学歴 東京音楽大学作曲指揮専攻中退
報徳学園高等学校卒業
ジャンル 歌謡曲
フォーク
カントリー
洋楽
ジャズ
職業 シンガー
作曲家
作詞家
ボイストレーナー
音楽プロデューサー
演出家
MC
担当楽器 ボーカル
ギター
コーラス
活動期間 1990年 - 現在
レーベル 1990年-1992年
テイチクエンタテインメント
1992年-1993年
Sound Works(現:ナッシュスタジオ)
1998年-1999年
UMC innovation
2000年-2013年
UTA UTAI BIG ENTERTAINMENT
2014年
ユニバーサルミュージック
2014年-2022年
UTA UTAI BIG ENTERTAINMENT
2022年-
ラッツパックレコード
事務所 ニシオカナヲト音楽事務所
公式サイト ニシオカナヲトWeb Site
ニシオカナヲト
YouTube
チャンネル
活動期間 2010年1月4日 -
ジャンル 音楽
登録者数 約1431人
総再生回数 約129,954回
チャンネル登録者数・総再生回数は
2022年8月20日時点。
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経歴

生い立ち

1967年1月8日午前10時35分、大雪が降る寒い日の朝、兵庫県神戸市灘区の田辺病院で産まれる。その後すぐに西宮市に引っ越し、4歳まで阪神甲子園球場の近くにある父・務(つとむ)の仕事先の日本電信電話公社(現NTT)の社宅で育つ。その頃、妹が産まれる予定だったが、母 順子の容態が悪くなり、妹は生まれてくる事が出来なかった。

その後、父が転職し神戸市灘区の六甲バターの社員食堂に入社。同時に、神戸市立稗田幼稚園に入園した。家賃が無料という理由から、社員食堂の隅にある5畳ほどの一部屋に家族住み込みで暮らす事になる。その後、神戸市立稗田小学校に入学する。

小学4年生になる頃に父が脱サラし、中華料理店「神香園」を灘区原田通りに開業する。同時に電気屋の物置の2階に引っ越しをする。この家にはお風呂が無かったため近所の銭湯の白井温泉か、みやこ温泉に行っていた。この家は玄関のドアを開けるとすぐに階段があり、急勾配だったため何度も転げ落ちたという。

中学は神戸市立上野中学校に入学し剣道部へ入部。中学3年の夏に全日本剣道連盟の灘区の大会で個人戦で優勝し、選手宣誓も努めた。その後の神戸市の大会で個人戦で準優勝した。このことがきっかけで、神戸市の中学生代表に選ばれ、3都市大会(神戸市、大阪市、京都市)に出場した。また、全日本剣道連盟兵庫県大会個人戦で3位に入賞。これらの成績を収めた事がきっかけで、報徳学園高等学校の推薦を受ける事になる。中学3年生が終わる頃、近所の共同住宅に引っ越した。これが神戸時代では最後の引っ越しとなる。

1982年、報徳学園高等学校に剣道で推薦入学をする。小学2年生から憧れていた高校だったため入学が決まった時、家族全員で大喜びをした。[1]

報徳学園は私立のため、学費がとても高い。ニシオカの実家は貧乏だったため、到底通えるような家柄では無かった。しかし、父がラーメン屋で1杯400円のラーメンを、何杯も何杯も売ってくれた事で、報徳学園に通う事が出来た。母もそんな父を側で支え、お店の力になってくれた。この事をニシオカは両親にとても感謝しているという。

この時から、のちにニシオカナヲトの代表曲となる愛犬"チェリー"を飼い始める。ここから、父、母、ニシオカナヲト、チェリーの4人暮らしがスタートする。報徳学園時代は毎日毎日、朝から晩まで厳しい剣道部の練習に取り組んだ。辛い練習から帰ってきた時、いつもチェリーが疲れた心と身体を癒してくれた。

1985年、報徳学園高等学校を卒業。その後は、大阪府の金井大道具に正社員として入社し音響を担当する。吉本興業の漫才、ジュディ・オングのミュージカル、加藤登紀子のミュージカルなど錚々たる芸能人の舞台創りに携わった。その中でも、化粧品メーカーのマックスファクターのイベントで大道具を担当し、ニシオカが憧れていたたハリウッド女優のダイアン・レインが主役で登場した。その日はダイアン・レインの誕生日で、イベントの後に関係者のみでバースデーパティーが開催された。そこにニシオカも参加し、憧れのダイアン・レインを遠くから見ていたところ、会社の上司に「こんなチャンス二度と無いぞ! ニシオカ、行ってこい!」と背中を押されて、勇気を出してダイアン・レインの横まで行くと、なんとニッコリ微笑んでくれた。すると、タイミングよく乾杯の音頭が行われ、ダイアン・レインがニシオカの方を向いて、1人目に乾杯してくれた。この乾杯の音頭と同時にニシオカの温度も最高潮に達し、最高の思い出となった。

また、松山千春のコンサートには、内緒で先輩に袖幕に入れてもらった。松山千春の歌に感動し、袖幕で泣きながら聴いた。この時、裏方ではなく自分が"表舞台に立ちたい"と思うようになり、1年半で金井大道具を退社。ここから、ニシオカナヲトの歌手としての修行が始まる。

 1986年 - 1989年の活動 

19歳からアルバイトのかけもち生活が始まる。昼は神戸市三宮の「サンローレ」というお好み焼き&焼きそば店に勤め、夕方から三宮の北野坂の「オリアナ」というカラオケパブに勤め、朝から夜まで働いた。

この時、『京阪神エルマガジン』に掲載されていた大阪市西天満の芸能事務所 株式会社原田エンタープライズのオーディションを受ける。事務所代表の原田信夫は、1970年に結成されたムードコーラスグループ「ザ・キャラクターズ」のリーダーとして活動。日本コロムビアより『港町シャンソン』でデビュー[2]。この楽曲は、まだ駆け出しの阿久悠の作品であった。その後、コロムビアからシングル5枚を発売後[3]、1977年までキングレコードポニーキャニオン徳間ジャパンと渡り歩き、合計12枚のシングル盤(EP)を発売した。キングレコードではスキャットボサ『ラブ・サウンズ』、ディープ歌謡『恋の人魚姫』、ポニーキャニオンではジャニーズ顔負けのアイドル歌謡『白い羽根の勇士』など、コーラスグループとしての実力を発揮した。

ニシオカは代表の原田信夫に「歌手になりたい」と伝えた。そしてオーディションで谷村新司の「群青」を歌い、合格した。この時から週1回、大阪までレッスンに通いながらアルバイトを続ける。20歳の時に、原田が番組企画・制作・出演した朝日放送の音楽番組『夜はオンリー・ユー』が始まり、メインホストにやしきたかじんが起用される。そこで、ニシオカはやしきたかじんの下働きを約半年間、経験させて貰う。楽屋でお茶を用意したり、衣装の準備をしたり、やしきたかじんの話相手となったりした。

半年後、メインホストが中村泰士に代わった。この時に、原田がワンコーナーをもうけてニシオカ本人も出演し「想い出のサンフランシスコ」を歌った。中村泰士に歌を絶賛され、コンサートの前歌としても出演させてもらった。この時、ゲストだったアンリ菅野にも気に入られ、色紙へのサイン、更に頬にキスのサービスまで受けた。

また、下働きとして漫才師はな寛太・いま寛大の運転手も経験した。当時、はな寛太・いま寛大が担当していたラジオ関西のゲストとして、八代亜紀が登場した。番組終了後に八代亜紀とスタッフみんなで蕎麦屋に行くと、ニシオカは八代亜紀の目の前に座らせて貰った。当時は下っ端なので、先輩より早く食べ終えなければならなかったので、かけそばだけを注文した。それを八代亜紀が見て「あなた具が無いじゃない。私の海老天あげるわね」と仰って、自分の海老天をニシオカに分けてくれた。その八代亜紀の優しさに、心から感動した。歌手を目指している事を八代亜紀に伝えると「がんばってね」と励まされ、ニシオカは絶対に成功するぞと誓った。

1988年、21歳の時大阪パークホテルのバイキング&ディナーショーのオーディションに合格。懐かしのグループ・サウンズを歌うという企画のメインボーカルに選ばれた。1回90分のステージで18曲を熱唱。1ヶ月間で40公演(土日は2ステージ)をこなした。主に歌った曲は君だけに愛を花の首飾りブルーシャトー夕陽が泣いている想い出の渚亜麻色の髪の乙女など。中でもエメラルドの伝説は好評だった。

 1990年〜1994年 

1990年、23歳の時に事務所の原田から楽曲を進呈される。この曲にニシオカが歌詞を書き『愛があるから』をレコーディングをする。また、同じ時期に師匠の原田信夫がポニーキャニオンからニューシングル『壁』をリリース[4]。その際に、原田信夫を取り上げるという事で、事務所にフジテレビが取材に来る。そこで、原田信夫の一番弟子としてニシオカが紹介され、フジテレビの『おはよう!ナイスデイ』という番組で、レコーディングしていた『愛があるから』を披露した。

そして『愛があるから』をレコーディングをしたスタッフが、テイチクエンタテインメントとの繋がりがあり、この曲の音源をテイチク関係者に渡してくれた。この事がきっかけで、テイチクの音多ボーカルオーディションを受ける事になった。指定された楽曲は、矢沢永吉の『時間よ止まれ』だった。4次審査まで勝ち残り合格。この時にプロデューサーである中西雄一と出会い、テイチクでの歌手活動がスタートする。

音多カラオケリリースで発売した楽曲は9曲ある。時間よ止まれ(矢沢永吉)、もう涙はいらない(鈴木雅之)、ガラスのメモリーズ(TUBE)、少年時代(井上陽水)、償いの日々(財津和夫with原みどり)、Last Christmas Eve(矢沢永吉)、バラッドをお前に(THE MODS)、ベイサイド・セレナーデ(鈴木雅之)、FIRST LOVE(鈴木雅之)をリリースした。ここで、プロの厳しさを初めて体感した。特に一曲目の「時間よ止まれ」のレコーディングは大変厳しいものだった。一生懸命に魂を込めて歌っても、なかなかOKが出ず何回も何回もフラフラになりながら歌った。レコーディングが終わり、発売は難しいのかもしれないと落ち込んでいた時、プロデューサーの中西雄一が「発売するからな」と言われ、とても嬉しかったという。そして何より嬉しかった言葉は「ニシオカは、声に力がある。諦めずに頑張れよ」というものだった。

1992年、サウンドワークス(現:ナッシュスタジオ)から"原正彦"という名前で8センチシングルCD『ラストオーダー(作詞作曲/楠本清輝)』を発売する。カップリング曲は『素敵な夢を(作詞作曲/楠本清輝)』。プロモーションでラジオ関西の番組で楽曲が使用されたり、サンチカサテライトでイベントやゲストとしてラジオ番組に出演していた。有線放送でも好評で、リクエストが多かった。また、演歌歌手の香田晋とも共演した。その他に、神戸国際会館で行われた歌謡祭にも出演した。

その後、原田信夫プロデュース「トゥー・キャラクターズ」を結成。メンバーはヴォーカル&ギター 原正彦(ニシオカナヲト)、ヴォーカル&ピアノ 黒古陽子、サポートドラム 柳原優作の3名。月1回の3ステージを高級レストラン 宝塚サラブレッド・ドゥーで行う。宝塚劇場の近くのレストランだったため、当時のタカラジェンヌも多く来店し、華のあるパフォーマンスを行った。披露していた曲は想い出のサンフランシスコルート66好きにならずにいられないフライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン明るい表通りでなど。この現場で、MCやパフォーマンスを磨いた。

1993年、所属事務所である株式会社原田エンタープライズから株式会社グレースに移籍し、俳優活動を始める。 ニシオカの演技講師は個性派俳優の日高久であり、基礎である外郎売や演技のエチュードを学んだ。その後、東映京都撮影所松竹京都撮影所でも共演することもあり、現場でも気にかけてくれる優しい先生だった。 その後、『仮面の忍者 赤影』で知られる東映の監督の小野登に出会い、東映京都撮影所に頻繁に出入りすることになる。出演したドラマは『銭形平次』、『水戸黄門』、『暴れん坊将軍』、『三匹が斬る!』、『新・部長刑事 アーバンポリス24』に出演。映画では『極道の妻たち』、『わが愛の譜 滝廉太郎物語』に出演。お正月の日本テレビのスペシャルドラマ『鶴姫伝奇』にも出演した。

『暴れん坊将軍』の撮影では、監督である降旗康男に突然「ちょっと君! こっちへ来てみなさい」と沢山の俳優の中からニシオカだけが呼ばれて、あるシーンの悪役に任命された。その役では、屋台で酒を呑んでいる所を岡っ引に、引き摺り回される激しい役だった。その撮影で初めて単独でメイクさんや衣装さんが付き、ニシオカのセッティング待ちで撮影が20分止まった。撮影の後は大雨が降っており、降旗監督が自ら傘をさしてくれて相合傘で俳優会館まで歩いた。その際に「お前、いい役者だから辞めずに頑張れ。成功するから頑張れよ!」と激励を貰った。

『極道の妻たち』の撮影では、極道役だった清水宏次朗を捕まえる警察官の役で出演した。ビルのひと部屋で逃げ回る清水宏次朗を押さえ込む演技では、本気の力で取っ組み合いをした。

『わが愛の譜 滝廉太郎物語』では生徒役で出演。風間トオルが音楽教師の滝廉太郎役だった。そして憧れの女優渡辺典子も生徒役で出演しており、教室での授業のシーンで約5時間隣の席で撮影があり、共演できた事が本当に嬉しかったという。

『鶴姫伝奇』では主演の後藤久美子と奇跡的に仲良くなり、休憩時間に弁当を一緒に食べた。だが、支給されたお弁当が後藤久美子とニシオカでは全く違った。後藤久美子はお重に入った立派なお弁当で、ニシオカは普通のお弁当だった。後藤久美子はニシオカのお弁当の中身を見て、「そっちの方が美味しそうね」と言うので、おかずを交換したりして休憩時間を楽しんだ。超売れっ子の主役女優と仲良くなれた事が本当に嬉しかったという。

温かいエピソードとしては、『わが愛の譜 滝廉太郎物語』の撮影が終わった後、女優の檀ふみと俳優会館の中にある公衆電話を譲り合った事がある。1台しかない公衆電話の前に同時に来てしまい、「どうぞどうぞ!」のやりとりがお互い5回くらい続いて、2人で笑い合った。ニシオカが「檀さん、先輩なのでお先にどうぞ!」と念押しで言ったことで、先に公衆電話を使ってもらう事になった。電話が終わったあと、檀ふみに「ありがとうね!」と言ってもらった。そしてニシオカも事務所に電話するために受話器を握った。その時、直前まで電話していた檀ふみの手の温もりが受話器から伝わってきた。その温もりに檀ふみの優しさを感じた。

CMはオートバックスの空気清浄機や、「宝塚アイスアリーナ」にも出演した。

舞台では、大阪テイジンホールで行われた小野登演出による舞台『守銭奴』にラ・フレーシュ役で出演。劇中歌『昭和枯れすすき』を熱唱し、演技も歌も好評を得た。

1994年、事務所をグレースから株式会社チャンスネットワークシステムに移籍し、関西の所属アーティストとなる。この会社は作詞家作曲家を目指している人を育成する会社であり、アーティストと作家を結ぶネットワークを作り、当時全国に4万人の会員が在籍していた。南野陽子の『秋からも、そばにいて』がヒットする。また、歌手の米屋純が所属していた。そして同年の12月に、関西のチャンスアーティストによるグランプリコンサート行われ、グランプリを受賞した。この事がきっかけで、澤井社長のサポートを受けながら関西から東京への上京が決まった。

 1995年〜1999年 

1995年1月8日、ニシオカナヲトの誕生日に澤井社長からプレゼントが届いた。それは1枚のFAXだった。そこには新しいアーティスト名が書かれていた。その名前は"西岡直人"。この名前が現在のニシオカナヲトの原型になっている。直感が優れていたため"直人"という名前になったそうだ。

同月の15・16日の2日間、東京の恵比寿で会社の会議と新年会があり関西から出席。会議ではニシオカの発言に澤井社長が腹を立てて一時騒然となった。だが、某メジャーレコード会社のディレクターが「ニシオカ君の発言は正しい」とフォローしてくれ、アーティストのクビが繋がった。そのディレクターが澤井社長を説得し、社長がニシオカを本社(東京)のチャンスアーティストとして認め、アーティストとして給料を貰えるようになった。そしてその16日の夜、神戸に戻る。

そして翌日1月17日の朝。1995年1月17日5時46分、阪神・淡路大震災が発生する。神戸市灘区に住んでいたニシオカの実家は大打撃を受け、全壊した。着の身着のまま家族全員で、近所の母校である稗田小学校に向かい、避難生活が始まる。

電気、ガス、水道、交通は全てストップしていたため、大変不便な生活を送った。小学校の教室には10人〜20人程の被災者が肩を寄せ合い、真冬の寒さを乗り切った。余震が起きるたびに、恐怖に怯えて暮らした。その震災の日の夜、教室から夜空を見上げた時に満月がポッカリと浮かんでいた。「何で皆んなこんな思いをせなあかんのや……」と悔しくて腹が立った。しかし、ニシオカはすぐに気持ちを前向きに切り替えた。「よし。絶対に神戸の皆んなが喜べる街に戻すぞ。俺の歌で皆んなを幸せにするぞ」と心に誓った。

被災して10日ほど過ぎた頃から、ようやく電気が復旧した。その時に、東京から澤井社長が父の中華料理店に電話をかけた。何度も何度もかけたそうで、ようやく繋がって安心した。澤井社長は「僕に出来ることがあれば何でもさせて貰うから、遠慮なく言ってくれ」と言い、ニシオカは電話越しで泣き崩れた。ようやく東京で歌手活動が出来るという時にこの震災に遭い、明るい未来を失いかけていた。もう東京に行く事も無理なのではないかと思っていた。

だが澤井社長は、ずっとニシオカの事を気にかけていた。「また東京に来れるようになったら来い! 頑張れニシオカ・・・」 そんな、澤井社長の想いがとても嬉しかった。真冬の被災地にいるニシオカの心を、澤井社長の1本の電話が安心させてくれた。

小学校での避難生活にも限界が近づてきた頃、母親の姉が声をかけてくれて、少し離れた姉の家に10日ほど泊まらせて貰うことになった。風呂に入れること、家があること、明るい部屋にみんながいることにとても安心した。伯母のお陰で、冷え切っていた心がホッと温まった。

だが、そんな生活もずっと続けるわけにはいかず悩んでいた時、澤井社長のご厚意でニシオカは新大阪にあるチャンスネットワークの会社のオフィスで寝泊まりすることになった。一方で、父は自分の店で寝泊まりするようになる。母はまだしばらくは姉の家にいたのだが、ニシオカが神戸から大阪まで歩いて向かい、母と愛犬チェリーが暮らす家を探しに、不動産屋に乗り込んだ。だが門前払いもいいところ、何回も何回も断られ、ニシオカはだんだん腹が立っていき、不動産屋のスタッフに「震災で家が全壊したんや! 何で貸してくれへんねん!」と半分怒りながら思いをぶつけたところ、やっと物件を紹介してくれて、母とチェリーは避難所生活から抜け出せることになった。

また、ニシオカはこの時期から仕事を始めることになる。澤井社長が立ち上げた「HOTONレーベル」でCDを販売したり、チャンスネットワークに登録している会員に配布する冊子の大阪ページを担当させて貰った。そして、同年6月に心斎橋にあるアメリカ村三角公園で「美少女伝説」というコンテストを開催。キリンビバレッジがスポンサーになり、大きなイベントを企画・制作し大成功をおさめた。そんな日々を過ごしていたが、いよいよ上京する日が近づいてくる。被災中、ニシオカは母に「夢を諦めずに東京に行きなさい」と背中を押してもらい、上京すること決断したのだ。

1995年6月29日、ニシオカは新神戸駅から東京駅行きの新幹線に乗り、夢を追いかけて上京した。東京に着き、ニシオカはチャンスネットワークの本社がある恵比寿に向かった。会社では、澤井社長や他のスタッフ皆が歓迎し、とても嬉しかったという。その日の夜、吉祥寺でステーキを食べさせて貰った。会社の寮が府中市の中河原にあり、社員の男3人で暮らし始める。会社の事務作業などを手伝いながら、チャンスネットワークの会員様から送られてくる楽曲を聴いて、自身の作品選びに励んでいた。

同年10月14日、母の誕生日にライブハウスの恵比寿GUILTY(現:渋谷GUILTY)にて、チャンスアーティストによる「HOTONライブ」に出演が決まる。震災後上京して初めてのステージで、トリに選ばれた。ライブでは5曲披露し、最後に歌った西岡直人オリジナル曲『月〜1995年1月17日神戸の夜〜』(作詞/わらびさこじゅんや、作曲/宮井英行)を聴いた観客は、西岡直人の想いに惹きつけられ、西岡直人のファンになった。ライブが終わり会社の寮に帰るとき、夜空に震災の日に見たような満月が空に浮かんでいて、それを見た途端、神戸への思いが溢れ、今日を迎えられた事が嬉しくて涙が止まらなかった。

その後、西岡直人はチャンスアーティストとして人気が出始めた。同じ事務所内のロックバンド「ビー・トリップ」も人気が出始め、ニシオカとライバルになる。そしてすぐに「ビー・トリップvs西岡直人」が恵比寿GUILTYにて開催される。

この日のステージにそなえて、毎日朝から晩までトレーニングをし、万全の体制でライブに挑んだ。当日は、全国のチャンス会員がビー・トリップ対西岡直人の音楽試合を目に焼き付けに来場した。西岡直人のステージは、泣かせる曲や盛り上がる曲など様々な楽曲を披露して会場を沸かせた。まるで宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の決闘のようだった。魂を込めたステージで、ライブは大成功をおさめた。

その後、日々の業務に戻り作曲に取り組んだり、澤井社長が開催していた作詞セミナーのサポート業務に携わる毎日だった。楽しい毎日を過ごしていたが、会社の業績が悪くなり始め、会社の規模を縮小して恵比寿から渋谷の小さなオフィスに引っ越した。何とか続けていこうと社長も社員も努力したが、倒産に追い込まれた。澤井社長の妻には、いつもお弁当を作ってきてもらったり、困った時に助けてもらっていたため、倒産になることは本当に辛かった。

1995年12月23日、最後に澤井社長と夜ご飯を食べることになった。「会社はうまく行かなかったけど、西岡は音楽頑張れよ・・・」と、渋谷の吉野家で牛丼の並盛りをご馳走になった。そして最後に挨拶をして、澤井社長と別々の道を進んだ。ここから、ニシオカナヲトの壮絶な生活が始まる。

会社が倒産してしまったため、寮からは出なくてはならなかった。震災後、着替えだけが入ったカバン1つで上京したため身の回りのものは殆どなく、カバンひとつで寮を後にした。もちろん、行くあてなど無かった。12月24日クリスマスイヴの寒い日、ニシオカナヲトはホームレスになった。

故郷は阪神・淡路大震災で潰れてしまったため、帰る事は出来ない。というか、どちらにしても家が全壊したため、実家もホームレスなのである。ましてや、歌手になると決意して上京したのだから、夢を叶えるまで帰る事は出来なかった。実家も東京も家が無くなったため、「叶えるまで帰るな」という神様からのメッセージだとニシオカは受け止めた。ここから、ニシオカナヲトの路上生活が始まる。

寮を出てからはあまり記憶がなく、2,3日はフラフラと東京を彷徨った。こんな生活では手持ちのお金も無くなってしまうので、引っ越し屋の日払いのバイトの面接に行った。この時、"住所不定無職"という肩書きの状態だったため面接官に驚かれたが、事情を話して免許証を見せて身分を証明すると、ありがたいことに次の日から働かせてもらえる事になった。そこから毎日、引っ越し屋で働いた。一般家庭だけではなくオフィスや学校の引っ越し依頼があったため、週6日働かせて貰った。平均1日7,000円〜8,000円ほど日払いで稼ぐことが出来た。ただ辛かったのは、仕事が終わった後に帰る家が無かったことだ。ニシオカはホームレスだということを仕事仲間には打ち明けていなかったため、お疲れ様〜!と言いながら家に帰るふりをしていた。打ち明けなかったのは家が無いということが恥ずかしかったからだ。仕事が終わると、引っ越し屋の事務所があった水道橋付近のサウナやカプセルホテルに寝泊まりする生活を、2ヶ月ほど続けた。

心細くて惨めで辛くて仕方なかった。ましてや1月で真冬だったため心も身体も凍えきった。とにかく家に住みたい。そう考えていた時、ふと過去の記憶が蘇りチャンスネットワークで世話になっていた、渋谷の不動産屋を思い出して店に向かった。訪ねてみると、運良く顔見知りのスタッフがおり、現在の事情を話すとすぐに物件を探してくれた。とにかくどこでもいいから家が欲しかった。そこで提案されたのが練馬区桜台のワンルームだった。内見もせず、入らせてくれと頼んだ。ありがたいことに賃貸契約を交わすことができ、2ヶ月のホームレス生活に別れを告げた。家の鍵を貰ったときは本当に嬉しかった。家に着いてすぐに床に大の字になって寝そべり、天井を見上げた。「あぁ・・・天井がある。壁もある・・・。」 そう呟きながらニシオカは泣いた。その日は、近所のコンビニでお弁当と鯖寿司とお茶を買い、家具も何もない家で食べた。家で食べるご飯は、格別に美味しかった。

その後、世話になった引っ越し屋のバイトは辞めて、家の近所で仕事を探そうと思い、近所を歩いていたら暇そうなカレー屋を見つけた。丁度、壁にアルバイト募集の張り紙があったのでそのまま店に入り、バイトをさせて下さいと申し込んだ。履歴書も無かったのに快く受け入れてもらい、明日から来て良いよと言って貰えた。そのカレー屋が、当時大人気だった「牛友チェーン」の本店である。

1996年3月、カレーチェーン店「牛友チェーン」桜台1号店でアルバイトをスタートした。カウンター9席ほどの小さい店だったが大人気店で、常連が毎日くるほどファンが多かった。ランチタイムに週5日はシフトに入って、石井社長に直々で指導してもらった。火加減、盛り付け方、カレーの混ぜ方、洗い物の仕方など、社長はとにかく細かかったため、覚えるまで苦労した。少しカレーの盛り方が違うと、常連客から指摘されて客から仕事を教えてもらうこともあった。社長は仕事にとても厳しかったが、本当はとても優しい人だった。ニシオカが歌手を目指していることを真剣に応援してくれた。阪神・淡路大震災で実家が全壊し、歌手になるために上京したもののホームレスになり、苦労しているニシオカを雇ってくれたのだから。

ある日、社長に歌を聞いてもらおうと思い、自分の歌を録音したカセットテープを社長に渡した。その後、店長とお客さんから聞いて分かったのだが、そのテープを夜の営業時間にいつも流してくれていたそうだ。自分がいるときは流しておらず、いないところで流してくれていたことが本当に嬉しかった。そして1年ほど経ったとき毎日汗水流して働いていると、師匠の原田信夫のボーカルスクールの発表会のゲストとして呼ばれることになり、社長にお休みのお願いをすると、行っておいでと背中を押してもらい、ご飯代として1万円を渡してくれた。ニシオカは本当に嬉しかった。

その後も、真面目に働いた。社長はゴルフ好きだったため、社長が休みのときは必ずシフトに入ってお店を営業した。その頃には客にも褒められるようになり、店の隣の事務所に勤めていたおばちゃんにも「ニシオカ君は社長がいないときでも教えられたように真面目に働いて本当に偉いわ!」と褒めてもらえるようになった。そして2年が過ぎた頃、ニシオカの人生で1番悲しい出来事がふりかかる。

愛犬であるチェリーが15歳と7ヶ月で他界したのだ。震災に遭ったあと父・母・チェリーの3人は神戸の仮設住宅に住んでいたのだが、環境も変わってしまい、ニシオカと離れ離れの生活になってしまったため、死に目には会えなかった。それもそのはず、なんと母はニシオカがショックを受けて立ち直れなくなると思い、亡くなってから1週間はその事実を伝えていなかったのだ。そして母から電話で「チェリーちゃん亡くなったんよ・・・」と伝えられた。その言葉を聞て、ニシオカは泣き崩れた。そして涙と同時に感謝の気持ちが溢れてきた。そしてそのまま、近所のゴミ置き場から拾ってきたボロボロのギターで歌を作った。その曲が『CHERRY天国からの贈り物』である。最愛のチェリーはいつも俺の心の中に生き続けている。そう信じて歌った。そのあとの1週間はカレー屋のバイト中も涙が止まらなかった。俺は歌手を目指して東京に来たのに何で毎日カレーを作っているんだろう。俺は絶対に歌手になるんだ!天国にいるチェリーに恩返しをするために・・・。自分の心の奥底に沈んでいた想いを、チェリーが出させてくれた。

1998年4月、UMCボーカルアカデミーの所属アーティスト兼ボーカルインストラクターとして働くことが決まった。お世話になった牛友チェーンを辞めて、再び音楽の道を再スタートさせた。ここでは生徒として1年学んだあと、ボーカル講師として2年勤めた。ボーカルインストラクターズクラブバンド"V.I.C.B."のメンバーとしても活動した。4枚目のアルバム『ただひとすじ』に参加。タワーレコード渋谷店で売上1位を獲得。東京の日本青年館や名古屋でコンサートを開催。また、テレビ東京の『JAPAN COUNTDOWN』のエンディング曲に選ばれ、参加したPVが放送された。講師としては、歌手を目指している生徒に真剣に向き合い、歌心を教えた。その結果、自分が担当していたクラスの小川大輔が、校内のボーカルコンテストでグランプリに輝いた。

ボーカルスクールの生徒数は業界ナンバーワンだったため、とてもハードなスケジュールで毎日働いた。他のスタッフたちも本気で生徒と向き合い、ハードな日々を共に過ごした。辛いことも沢山あったが、その分嬉しいことも沢山あった。その時のメンバーには今でも感謝をしている。この仕事で精神を鍛えられたことが将来の自分の歌手人生に必要なことだったと語っているほとだ。

 2000年〜2005年 

2000年5月、音楽家として独立し「ウタウタイ アーティストプロデュースプロジェクト」を東京都練馬区に開業。新人アーティストを育成し、デビューさせることを目的として創った。とはいいつつも、まだこの時は事務所はなく、住んでいるアパートが事務所のようなものだった。段ボールの切れ端にマジックペンで「UTA UTAI」と書いて、部屋の中に貼っていた。最初の2ヶ月ほどはキリンビバレッジの自動販売機にジュースを入れるバイトをしながら、携帯電話でレッスンの予約を受けて、休みの日に池袋のレンタルスタジオで生徒とレッスンをした。本気で歌手を作りたかったため、オーディションでは本気で歌手になりたい人だけを採用した。その時に集まったメンバーが、Ren、K-na、yukko、丸石祥子、さのましほ、小林妙子、松田菜穂、宮澤優子、会田晃司の9人だった。ウタウタイから初のオムニバスCDを出すために、皆んなで日夜練習に励んだ。ニシオカの厳しい指導は鬼のようだと言わており、毎日誰かが泣いていた。

2000年10月14日、ウタウタイから待望のオムニバスCD『DIAGRAM』をリリースする。参加メンバーは、ニシオカナヲト、Ren、K-na、yukko、丸石祥子の5人。レコーディングは四ツ谷のスタジオ音楽館FEI-V studioで行われ、6曲を24時間で録音しミックスダウンまで仕上げ、ニシオカは完璧な音源を作り上げた。そのまま一睡もせず、渋谷のデザイン会社を訪ねてCDジャケットとフライヤーのデザインを作りに行った。お金がなかったのでフライヤーは白黒のデザインになった。そして、初のCDが出来上がり、インストアライブを東京と大阪で開催。東京は恵比寿GUILTY(現:渋谷GUILTY)と大阪は心斎橋ミューズホール(現:OSAKA MUSE)の二箇所で開催された。このライブがきっかけでメンバー全員が一致団結し、プロとしての第一歩を歩み出し、事務所としての活動が動き始め、これでやっていけるぞと希望の光が見えてきたのだった。

2001年から徐々にUTA UTAIへの問合せも増えて、歌手を目指す者たちがニシオカの所へ集まるようになる。この頃から外部のボーカル講師も務めるようになり、中でも平均年齢6.4歳という世界最年少アイドル「ちゃい夢」を担当した。夏休みは後楽園遊園地内の屋外ステージでパフォーマンスを披露し、メジャーデビューに向けて子供たちとレッスンに励んだ。そして、ちゃい夢は2001年10月16日、日本クラウンから『チェキラ!』でCDデビューする。このファーストシングルまではニシオカが担当し、セカンドシングルからはパパイヤ鈴木が担当した。

2002年1月8日、UTA UTAIから2枚のコンピレーションアルバム『Breath』がリリースされる。参加アーティストは、ニシオカナヲト、Ren、K-na、丸石祥子、yukko、さのましほ、松田菜穂、会田晃司、コーラスで宮澤優子が参加した。インストアライブは赤坂GRAFFITYで開催。会場のキャパシティが150人ほどだったのに対し、250人を超える観客が来場。楽屋の出入口が客席側にあり、通常だと客席を通ってステージに上がるのだが、満員でステージに行けず、コロダイのような形で(観客の頭をコロコロと転がりながら移動する動作のこと)客の頭上を胴上げするようにしてステージまで運んで貰い、オープニングから会場は大爆笑となった。司会はニシオカと宮澤優子で進行した。ニシオカは愛犬チェリーの歌である『CHERRY天国からの贈り物』を歌い、これまでの想いが込み上げ涙が溢れた。またその後、原宿にあった養成所のマンハッタンアカデミーのボーカル講師の代表として、小学生の男女たちにミュージカルやステージに必要なことをレッスンした。

2003年、練馬区に事務所を設立する。これまではレンタルスタジオでのレッスンだったが、アーティストも増えてレッスンも頻繁に行うようになったので、マンションの一室をニシオカナヲト音楽事務所として契約した。この頃からメジャーデビューに向けたオーディションを行い、歌手を目指している若者たちがウタウタイのオーディションを受けに来た。同年10月、オーディションでのちにメジャーデビューを果たす佐藤広海と出会う。彼女の歌をオーディションで聴いた時、ニシオカの中に衝撃が走った。そしてニシオカは佐藤広海に「本気でやればお前は歌手になれる。1年後にデビューするぞ」と言い、佐藤広海のプロデュースが決まった。週に5回は佐藤を事務所に呼び、メジャーデビューに向けての猛特訓が始まる。

2004年から本格的にプロデューサーとしてのニシオカナヲトの人生がスタートする。すぐに佐藤の楽曲制作にとりかかり、佐藤広海をメジャーデビューさせてくれるレコード会社を数々訪問し「佐藤はホンマに良い歌手なんです。絶対に売れるから契約してほしい!」と交渉し続けた。そしてメジャー契約をして貰えることになり、2004年10月14日にコロムビアミュージックエンタテインメントより『Cherry〜天国からの贈り物〜』(作詞作曲ニシオカナヲト)、cw/『流れのままに』(作詞ニシオカナヲト、作曲さのましほ)で佐藤広海はメジャーデビューを果たし、全国流通CDをリリースした。ニシオカは佐藤のキャッチフレーズとして「圧倒的癒しのボーカリスト」とつけた。これは、佐藤広海の歌声は、人々の心を圧倒的に癒す力があったからだという。そして、デビューライブは、恵比寿GUILTY(現:渋谷GUILTY)で開催され、約170人の観客が来場。事務所のメンバーもかけつけ、リハーサルの時点で感動のあまりみんなが泣いていた。バックバンドにはTogetter5が参加。本番は、佐藤の圧倒的な歌声に引き込まれ、会場が感動に包まれた。ニシオカはこれまでの苦労と感謝の気持ちが込み上げて、嬉しくてPAルームでワンワン泣いた。ライブ終了後のCD物販会では約150枚を売り上げ、デビューライブは大成功をおさめた。

2005年、ニシオカは師匠の原田信夫に軽井沢ラブソング・アウォードという楽曲コンテストを教えてもらい、『Mother』(作詞作曲:ニシオカナヲト)でエントリーをする。約560曲の中から12曲ほど選ばれるのだが、発表の日に公式サイトで『Mother』が選ばれており、ニシオカはびっくりしたという。そして本選が行われる軽井沢の会場(軽井沢大賀ホール)で『Mother』を披露することが決まった。ニシオカはこの曲を、佐藤広海に歌わせることに決めた。グランプリを獲得するために、毎日毎日佐藤と練習に励んだ。そして、10月2日に第3回軽井沢ラブソングアウォードに参加。審査員長は宮川泰だった。そして、『Mother』は協賛会社特別賞を受賞。コンテストの後の懇親会でニシオカは宮川康に挨拶に行き、『Mother』を褒めてもらった。一緒に酒を交わし、記念撮影をしたことが貴重な思い出。

また、佐藤広海の2枚目のシングル『満月ヲ、ミアゲテ』(作詞作曲/ニシオカナヲト)をリリースし、タワーレコードベストセラーズに選ばれた。そしてリリース記念イベントをプロデュースし、文京シビックホールで『佐藤広海コンサート2006』を開催した。

 2006年〜2010年 

2006年、師匠の原田信夫の繋がりから、村木浩(株式会社フジクリエイティブコーポレーション代表取締役会長、前山陰中央テレビ社長、元フジテレビ取締役)と交流を持つようになる。村木とは頻繁に電話をし合う間柄で、ニシオカを心配して村木から留守電が入っている事も多かった。季節のご挨拶として菓子折りを贈ったときは、毎回その菓子を食べながらニシオカに電話をしてくれていた。

同年の夏から、東京湾納涼船のイベントに、ニシオカがプロデュースするアーティストが出演するようになる。歴代の主な出演者は、佐藤広海、ホシシノブ、すなおしりえ子、ZIPANG、松尾昇平、河村リナ、まえだありさ。このイベント出演は2006年から2019年まで12年連続でニシオカがプロデュースするアーティストが出演した。

2007年、「UTA UTAI 7th Anniversary Live」を光ヶ丘IMAホールで開催。司会には藤本えみりを招いた。東京音響通信研究所に音響を依頼し、舞台と照明はNHKアートに依頼。JCOMテレビの取材も入り、当時所属していたアーティストが出演した。

佐藤広海のプロデュースでは現場経験を積ませ、客ひとりひとりに歌を届ける心を育てるために、キャパシティ30人ほどの小さなライブハウスに月3回ほど出演し、修行させた。佐藤はだんだんと、ひとりのお客様に歌を届けられるようになったと感じたニシオカは、もっともっと佐藤の歌を世の中の人に聴いてもらいたい思い、新たな活動を展開させる。

2008年、埼玉県のショッピングセンターイオンモール北戸田に佐藤広海を売り込みに行った。ショッピングセンターのステージでは、有名な歌手や漫才師などが出演しており、佐藤をこのステージに立たせてあげたいとニシオカは思った。デモテープを持って、売り込みに行ったのだが、担当者に「うちは有名なレコード会社や有名なタレントしか出てないので難しいですね」と言われ、門前払いを受けかけた。だがニシオカは諦めず「佐藤広海の歌は本当にいいんです。まずはデモテープを聴いてください」と土下座をして頼んだ。担当者はびっくりしていたが、ニシオカの熱意に押されてデモテープを聴いてくれた。そして1枠、出演のチャンスを与えてくれた。ニシオカは佐藤と共に、この日の本番に向けて死に物狂いで練習した。ライブ当日は、沢山の観客がステージを囲んだ。そこに担当者も来てくれて「佐藤さん、とってもいいですね」と言ってもらい、イオンモール浦和美園にも出演することが決まった。

同年4月、佐藤広海の3rdシングル『家族』(作詞作曲/ニシオカナヲト)をリリース。このタイトルをひっさげて、各地のイオンを周ろうと計画した。そこでニシオカはイオンモール郡山に連絡をし、佐藤を売り込み出演が決まった。その郡山でのライブの際に、東北各地のイオンモールを紹介してもらえることになり、秋田や岩手など東北地方のイオンモールを数々まわり、北は札幌まで足を運んだ。ライブは大盛況で、関西地方のイオンモールも紹介してもえることになり大阪や兵庫、岡山のイオンモールにも出演した。

2009年、佐藤広海の4thシングル『花 ~HANA~』(作詞作曲/ニシオカナヲト)[5]をリリース。PVは荒川の河川敷で撮影した。そして、東北から関西のイオンモールでのインストアライブを行い、年間約240ステージをこなした。ステージが終わったあと、CD物販会には大勢の客が集まり、佐藤のCDを買ってくれた。また、驚いたのは本番前のリハーサルの時点で、ステージの前を通りかかった人が、リハーサルの歌声を聞いて本番は見る時間が無いからと、本番前にCDを買ってくれることもあった。いつもニシオカは佐藤に「感謝の気持ちを忘れるな」と教えた。

2010年、佐藤広海のアルバムを発売することが決まる。タイトルは『ありがとう』。デビュー曲「Cherry~天国からの贈り物~」ほか“軽井沢LOVE SONG AWARD2005”で協賛会社特別賞を受賞した「Mother」など全12曲を収録。これまでの6年間の活動を集大成した佐藤広海のベスト・アルバムである。また、全国のイオンモールでインストアライブをし、観客に感謝の気持ちを歌で伝えた。TV出演もあり、NHK長野放送局『ひるとくテレビ」』ゲスト出演し、信濃毎日新聞から取材を受けた。

 2011年〜2015年 

2012年4月、ニシオカは東京音楽大学作曲指揮専攻ソングライティングコースへの入学が決まる。このときニシオカは45歳であった。受験のきっかけは、笑っていいとも!谷村新司が出演しており、東京音楽大学の客員教授になるという話を聞いたことが決定打だった。アリス時代から谷村新司を尊敬していたので、谷村新司から音楽を学びたいと思ったのだ。受験の当日は、谷村新司の目の前でオリジナル曲「ありがとう」歌った。今までに味わったことのない緊張感と、目の前に谷村新司がいる喜びが混じり合い、とても嬉しかった。合格発表の日は神戸に遠征しており、佐藤と弟子の河村りなと3人でうどんを食べている時に、携帯電話で受験番号を調べてもらい、合格を知った。入学後に聞いた話では、主席で合格したとのことだった。 入学後は数々の著名な教授との出会いがあった。作曲家であり編曲家の服部克久、シンガーソングライターの谷村新司、作曲家の小六禮次郎、音楽評論家の北中正和、作曲家の三枝成彰、ソニーミュージックの伊藤和彦との出会いがあり、様々な事を教えてもらった。

同級生は20歳前後の子たちばかりだったが、すぐにみんなが打ちとけてくれた。45歳のニシオカを受け入れてくれて「お父さん」と呼んでくれるようになり、お昼には一緒に売店に行きお弁当を買って一緒に食べてくれた。ピアノの授業では、悪戦苦闘した。発声練習の時にピアノを弾くくらいで殆ど初心者だったので、毎日仕事の合間をぬって必死に練習した。テストの時きらきら星をみんなの前で弾いた。全然弾けなかったニシオカが、急成長して弾けるようになっていたので、先生から「全く弾けなかったのに、仕事しながらも練習したことがわかりました。誰よりも伸びたと思います」と、とても高い評価をもらった。その後は、ピアノでも作曲ができるほどになった。また、しばらくの間東京音大のホームページのソングライティングコースにニシオカがピアノを弾く姿が掲載されていた。

毎日欠かさず授業に参加した。谷村新司教授との思い出は沢山ある。歌詞はゆっくり書くものだと思っていたが、5分の曲は5分で書けることを教わった。頭で考えるのではなく心で感じたことを、思いのままに書くことを学んだ。授業の中で書いた歌詞を、その場で谷村新司教授に添削してもらった。「ありがとう」や「感謝」を歌詞にすることが多かったニシオカに対して、それ以外のテーマの歌詞も書いてみようと言われた。だが、最初はなかなか書けなかった。そんな時に谷村新司教授からテーマをもらった。そしてついに、自由で枠にとらわれない歌詞が書けた。「更新日」というタイトルで歌詞を提出した。歌詞を見て谷村教授は「お前、変わったぞ。やったな!」と言ってくれた。授業が終わったあとも、谷村新司教授に駆け寄って沢山質問をした。アリス時代の話や宇宙の話をして貰った。気づけば2人だけで盛り上がり、他の教授や生徒は間に入れないほど親しくしてもらった。喋る時、何故かいつも2人の顔の距離が近かった。 他の生徒には◯◯さんと、さんづけで呼んでいたがニシオカには呼び捨てで名前を呼んでくれてたいことが嬉しかった。ニシオカにとって谷村新司教授から言われて一番残っている言葉が「ニシオカ、フックやぞ」である。「フック」という時に、谷村教授の息が顔にかかった。これがチンペイフックだと思ったそうだ。

その後仕事が忙しくなり、1年で大学を中退することになった。最後の授業は谷村新司教授が担当する作詞の授業だった。授業終わりに教室で谷村新司教授と2人きりになった時、中退する旨を伝えた。そうすると「ニシオカ、よく頑張ったな。東京音楽大学に入って勉強したことの意味が後で必ずわかるぞ。卒業、おめでとう」と言い、谷村新司教授自ら右手を差し出し、硬い握手を交わした。また会うことを誓い、教室を後にした。ニシオカの目には涙が滲んでいた。谷村教授の目にもうっすら涙が滲んでいたかもしれない。ここでニシオカの東京音楽大学の生活は幕を閉じる。

2013年、スマートフォン向けのインターネット配信放送局WALLOP放送局にて、初の冠番組「社長はメロンパンがお好きッ!」のメインパーソナリティを務める。様々な分野のスペシャリストをゲストに迎え、トークやパフォーマンスを披露する番組であり毎週火曜日の夜に放送された。また年2回スペシャル版を放送していた。

また同年10月31日をもって事務所の看板アーティストである佐藤広海が活動休止となる。不安定な時代がまた来てしまうのではないか・・・という心配から帯状疱疹を患ってしまう。激痛のまま4日間ほど市販薬の鎮痛剤で凌いだが、ついに眠れないほど痛みが悪化したため、ようやく皮膚科を受診した。あともう少し遅かったら大変なことになっていたと医者に言われた。だがその後、処方薬で無事完治した。

2014年、東京音楽大学の教授であった谷村新司に、谷村新司の会社である株式会社ダオで働かないかと誘われる。谷村の側近としてサポートしてほしいという話だった。谷村の事務所にも行き、今後の話を聞かせて貰った。ニシオカは本気で悩んだ。谷村新司に憧れて音楽を始めて、今日ここまで来たのだから、普通は「はい」とお願いするだろう。だがニシオカは2ヶ月悩んだ末、お断りすることにした。ニシオカは死に物狂いで作った自分の弟子たちがいる音楽事務所をたたむことは出来ないと思ったからだ。側近としてサポートすることは出来ないけれど谷村新司の教えは実践し続けている。そして想い出は今も胸の中に残り続けている。

同年、ニシオカの母校である報徳学園高等学校の卒業生にエールを送る歌「俺たちの報徳」(作詞/報徳学園同窓会、ニシオカナヲト 作曲/ニシオカナヲト)がリリースされる。音楽出版はサウンズネクスト。"すべての生徒、卒業生が幅広い世界で活躍するよう願っている"とエールを込めて制作された。また、東京と関西で毎年行われる報徳学園同窓会のステージに出演し、ワンステージで「俺たちの報徳」を3回繰り返し歌い大反響をえた。2022年現在、報徳学園高等学校の学校内で楽曲が放送されている。


2015年、BSフジの番組所さんの世田谷ベースを家で視聴している時に、所ジョージが番組内で自身の歌を歌っており「この曲誰かいる?!」と言っているのを見て、番組に問い合わせた。その後、番組のプロデューサーである、田平プロデューサーから手紙が届き残念ながら収録から放送まで時差があったため、楽曲は貰えなかったが、その後すぐに所ジョージに直接お手紙を送ると、本人からサイン入りのオリジナルグッズが送られてきた。その後、またお礼の手紙を書いては所ジョージ本人よりオリジナルグッズが届き、しばらく同じやり取りをした。3回目くらいの時、缶バッチが送られてきた。その時のエピソードをニシオカは歌にして送り返した。その曲が、2022年発売のアルバム「CHERRY」の1曲目に収録されている「缶バッチ・グー」である。


 2018年〜2022年 

2018年8月1日、井上陽水少年時代をカバーし音楽配信リリースされる。楽曲アレンジは自身で手がけた。

同年12月16日に水道橋Wordsにて"笑いあり、涙あり、歌あり"「おもっくそ!らいぶ」をプロデュース。ニシオカがゲストの面白い所を引き出し、笑いを生み出すライブである。ニシオカのステージでは盲導犬の育成訓練を行っているアイメイト協会の塩屋社長にアイメイト(盲導犬)を連れて来場してもらった。ニシオカはアイメイトと一緒にステージに立ち国内初の盲導犬チャンピイの詩「チャンピイ」(作詞作曲/ニシオカナヲト)を初披露した。

2019年9月18日、「守り神」(作詞作曲/ニシオカナヲト)を音楽配信リリースする。iTunes歌謡曲部門ランキング58位。ニシオカナヲトの弾き語り第3弾「守り神」は空からあなたを、いつも見守ってくれている。だから素直に真っ直ぐ生きようよ。というメッセージソングである。

同年6月26日、松尾昇平デビュー曲「君は竜に乗って帰ってくる」(作詞作曲/ニシオカナヲト)をプロデュースする。あなたの大切な人を優しい竜が背中に乗せて帰ってくる。もう二度と会えないと思っていたけれど、、あなたに会える。令和の日本に欲しかった詩がここにある。という歌である。


2020年2月23日、「ウタウタイライブ49」が高円寺ショーボートで開催される。ゲストは木山裕策を迎え、本人の代表曲「home」はもちろん、ニシオカナヲトと木山裕作のコラボステージでは栄光の架橋を共に披露した。

この頃から新型コロナウイルス感染症が流行し始め、人々が集まるイベントは開催が困難となり、これまで半年に1回開催してきたウタウタイライブも2月に行われた第49回の開催を最後に、その後の開催は延期となった。

同年夏より、ニシオカナヲトのYouTubeチャンネル「WAKU WAKU TV」を始動。本人が撮影から編集まで全て手作りで動画を制作し、コロナ禍で外出制限されている世の中の皆んなに"人生を明るくワクワク生きよう!"というメッセージを込めて、トークや歌を届けている。


2021年6月16日、相原愛&ニシオカナヲトで「FLY」(作詞/相原愛 作曲/ニシオカナヲト)を音楽配信リリース。この曲は大変な世の中をワクワクな世界に変えたいと相原とニシオカの想いで作られた作品。信じて前に向かえば気持ちも現実も飛び上がれる。そう鳥のように飛び立てる。そんな思いが「FLY」という作品に込められた。

同年9月29日、「愛しているよ」(作詞作曲/ニシオカナヲト)を音楽配信リリースする。2007年に作った曲を温めていてこのタイミングでレコーディングし、音楽生活35周年を記念して発売された。

同年12月22日、「CHERRY天国からの贈り物」(作詞作曲/ニシオカナヲト)を音楽配信リリース。PVの撮影は、故郷の神戸市灘区で撮影された。愛犬チェリーと一緒に暮らした思い出の場所を巡った。灘区の水道筋商店街での撮影中、偶然父親に遭遇。父親はニシオカが神戸に帰ってきていることを知らなかったため、偶然の再会だった。当時チェリーの毎日の散歩は父親が担当してくれており、父親にとっても思い出の商店街だったので、この再会はチェリーが引き合わせてくれたものだとすぐに感じた。 また、この曲の編曲は乃木坂46HKT48などへ楽曲提供を手掛けている、庄司裕氏が担当した。楽曲プロデューサーはソニー・ミュージックエンタテインメントの伊藤和彦氏が担当。伊藤氏とは2012年に東京音楽大学在学中に、伊藤氏が客員教授として学校に勤めていたことが出会いのきっかけである。当時から一緒に楽曲制作をしたいと話はしていた。それがようやく10年越しに、伊藤氏が"楽曲をリリースしましょう"と打ち合わせにニシオカの事務所に来てくれたことが始まりだった。リリース曲は、新たに曲を作ろうかとも考えたが、伊藤氏にプロデュースしてもらうのならば、自身の代表曲であるCHERRYしかないと思い、この曲をプロデュースしてもらうことが実現した。


2022年4月27日、ニシオカナヲトファーストアルバム「CHERRY」発売。レコード会社はラッツパック・レコード。本作にはアルバム・リード曲「CHERRY天国からの贈り物」、「俺は泣かない」のほか、井上陽水のカヴァー曲「少年時代」、国内初の盲導犬チャンピイの詩「チャンピイ」、ニシオカナヲトの母校のOBにエールを贈る詩「俺たちの報徳」、最新のラヴ・ソング・バラード曲「月に抱かれて」など11曲を収録。 母校報徳学園高等学校の先輩である金村義明氏のラジオ番組である、MBSラジオ「金村義明のええかげんにせぇ〜!」の生放送にて、金村義明氏に紹介され電話で生出演をする。 又、ラジオ成田「玻璃のペリウィンクル・ノイズ Chapter Ⅱ」や「玻璃とGuten Morgen」にて楽曲放送。また、茨城放送 の「MUSIC STATE」にゲスト出演。 そのほか、有線ラジオ放送の「LINE MUSICランキング」で「俺は泣かない」が上位注目曲ランキングに入り、1週間ヘビーローテーションで放送され「YouTubeミュージックランキング」でも注目曲にランクインする。 またBSフジ所さんの世田谷ベースの番組内で所ジョージ氏にアルバム「CHERRY」が紹介された。

同年、7月28日に神戸新聞に掲載される。取材では故郷の神戸への想いや、母校の報徳学園高等学校で培った諦めない気持ちと前向きに生きることの大切さをを伝えた。

9月25日、タワーレコード神戸店にて初のインストアライブが決定し、2部制でミニライブ&特典会を開催する。はじめてのお客様から故郷の先生や友人まで、様々顔ぶれが集まった。阪神・淡路大震災の真っ只中に上京した時のように、新たなスタートラインに立った感覚になり、また感謝が溢れた。

人物

学生時代

幼い頃、身体が弱かったことを両親が心配し、小学1年生から剣道を習うことになる。小学2年生まで、神戸市灘区の剣修会という道場に入っていた。最初は剣道がとても弱く、相手の面を打つことすらできなかった。小学3年の時、第二回全日本剣道連盟主催大会「全日本選手権大会」で準優勝を収めた中尾巌[6]が主幹する、巌剣修会に入る[7]。入ったその年に、和歌山の弘道館が主催する近畿大会が行われ、団体戦のメンバーとして出場し優勝した。高学年になるにつれて、兵庫県の県大会や、日本武道館で行われた全日本剣道道場連盟主催の全国大会に出場し、上位の成績を収めるようになった。実家には数々の賞状やトロフィー、メダルなどが飾ってあった。

1982年3月、入学を控えていた兵庫県の名門高校である報徳学園高等学校剣道部の毎年恒例の岐阜合宿に1週間参加。そこで50戦し勝敗成績で二位に入り、レギュラーを獲得した。1年生でレギュラーを獲得できたのは稀であった。

1982年4月、報徳学園高等学校に剣道で推薦入学し、剣道部に入部。高校1年のデビュー戦は西宮市剣道連盟主催の阪神大会高校の部に出場し団体戦で優勝。高校3年まで毎年出場し、3年連続で優勝をおさめる。同年、兵庫県剣道連盟主催の兵庫県新人戦大会に団体戦 先鋒で出場し3位入賞。

1983年、公益財団法人全日本剣道連盟の昇段審査にて二段を修得。同年、兵庫県剣道連盟主催の兵庫県インターハイ予選の団体の部にて3位入賞。また、近畿高等学校剣道選抜大会に出場し、報徳学園の学校長より表彰される。

1984年、兵庫県私立中高等学校剣道大会に団体戦で出場し優勝。同年9月、公益財団法人全日本剣道連盟の昇段審査にて三段を修得。高校3年生までで三段を修得した者は、この年は兵庫県で4名しかいなかった。その4名の中に入っていた。

芸能界への道

小学2年生の頃から、芸能界に興味を持ち始める。日本テレビで放映されていた『太陽にほえろ!』の松田優作演じるジーパン刑事の最終話「ジーパン・シンコその愛と死」のジーパン刑事の殉職シーンを観て感動し、芸能界に入ることを決めた。

小学5年生の頃、音楽番組夜のヒットスタジオを何気なく観ていた時、谷村新司率いるアリスが登場し『冬の稲妻』を演奏。その時、今までに感じた事がない衝撃が身体に走る。アリスがキッカケで、将来は歌手になることを決めた。

愛犬チェリーとの絆

チェリーとの出会いは、ある新聞記事がキッカケとなる。1982年に神戸新聞の記事に「子犬、譲ります」の文字を母親が見つけ、井上という家から譲り受ける事になった。高校1年生だったニシオカは、井上家へのお礼の品としてコンフェクショナリーコトブキという洋菓子店で、1000円のチョコレートを買い、待ち合わせ場所である近所の映画館の駐車場へ向かった。そして、子犬を抱きかかえる井上と対面し、人生で初めて子犬を抱っこした。雑種の雌犬で目がクリクリしており、うす茶色の毛並みがとても可愛かった。まだ小さかったためコロコロしていて愛くるしく、両耳が垂れていたため本当に可愛かった。桜が咲く、春の季節に我が家にやってきたということで、ニシオカが"チェリー"と名付けた。いつもニシオカは、チェリーの事を人間のように可愛がってきた。

脚注

  1. ^ ニシオカナヲトプロフィール”. ニシオカナヲトファンサイト. 2022年8月7日閲覧。
  2. ^ 「ザ・キャラクターズ」プロフィール”. 日本コロムビア. 2022年8月10日閲覧。
  3. ^ ザ・キャラクターズ-コンプリートシングルズ”. タワーレコードオンライン. 2022年8月10日閲覧。
  4. ^ 原田信夫 シングル「壁」1990年05月21日リリース”. オリコンニュース. 2022年8月10日閲覧。
  5. ^ 佐藤広海「花〜HANA〜」” (2022年9月19日). 2022年9月19日閲覧。
  6. ^ 全日本選手権大会”. 公益社団法人. 2022年8月8日閲覧。
  7. ^ 巌剣修会HP”. 巌剣修会. 2022年8月8日閲覧。