アリエル・オルテガ

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アリエル・オルテガ
名前
本名 アリエル・アルナルド・オルテガ
Ariel Arnaldo Ortega
愛称 El Burrito (小さいロバ)
ラテン文字 Ariel ORTEGA
基本情報
国籍 アルゼンチンの旗 アルゼンチン
生年月日 (1974-03-04) 1974年3月4日(50歳)
出身地 レデスマスペイン語版
身長 170cm
体重 67kg
選手情報
ポジション MF (OH) / FW
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1991-1996 アルゼンチンの旗 リーベル・プレート 134 (30)
1997-1998 スペインの旗 バレンシア 29 (9)
1998-1999 イタリアの旗 サンプドリア 27 (8)
1999-2000 イタリアの旗 パルマ 18 (3)
2000-2002 アルゼンチンの旗 リーベル・プレート 56 (23)
2002-2003 トルコの旗 フェネルバフチェ 14 (5)
2004-2006 アルゼンチンの旗 ニューウェルズ 53 (11)
2006-2012 アルゼンチンの旗 リーベル・プレート 82 (12)
2008-2009 アルゼンチンの旗 インデペンディエンテ・R (loan) 25 (4)
2011 アルゼンチンの旗 オール・ボーイズ (loan) 12 (0)
2011-2012 アルゼンチンの旗 D・ベルグラーノ (loan) 27 (4)
通算 447 (129)
代表歴
1993-2010 アルゼンチンの旗 アルゼンチン 87 (16)
獲得メダル
男子 サッカー
オリンピック
1996 アトランタ サッカー
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

アリエル・アルナルド・オルテガAriel Arnaldo Ortega, 1974年3月4日 - )は、アルゼンチンフフイ州出身の元サッカー選手同国代表であった。現役時代のポジションは攻撃的ミッドフィールダーフォワード。キレのあるスピードドリブルで相手をかわし、チャンスをつくる、テクニシャンで[1]、マラドーナ 、メッシ、レドンドと共にアルゼンチンが誇る天才ドリブラーの1人。

愛称は父親が名付けた「El Burrito(エル・ブリート、小さいロバの意)」。

経歴

アルゼンチンのリーベル・プレートの下部組織出身。テスト入団後、当時のリーベル監督・ダニエル・パサレラの目に留まり、1年を待たずしてトップチーム昇格。1991年、17歳でプロデビューを飾る[2]。この時にはすでに彼のプレースタイルは完成されており、得意のドリブルを随所に見せていたが、ボールを持ちすぎて好機を逸する場面も目立ち、時折批判の対象ともなった。賛否両論はあったものの、オルテガは主力選手として国内リーグ制覇、コパ・リベルタドーレス優勝に貢献。

1994年W杯アメリカ大会で、ディエゴ・マラドーナが史上初めて途中交代された試合(グループリーグ・対ギリシャ戦)で、マラドーナに代わって出場した。ディエゴ・マラドーナが出場不在のルーマニア戦では、マラドーナの代役として先発出場、アルゼンチン国民に希望を与えるプレーを見せた[2]

1996年にはトヨタカップで来日も果たした(この時はクロスバーにあたる際どいシュートを放つが、デル・ピエロジダンらを擁するユヴェントスに1-0で敗北した)。ユヴェントスはオルテガを獲得を検討して、かつてユヴェントスでプレーしたシボリを介してオルテガの情報を集めていた[2]

代表レベルでは1993年12月の初招集以後、翌年のW杯アメリカ大会に弱冠20歳で出場。1996年夏にはアトランタオリンピックで中心選手として活躍。決勝でナイジェリアに敗れるものの、銀メダルを獲得した。

1997年、当時のクラブ史上最高の移籍金(20億ペセタ)でバレンシアスペイン)に移籍。しかし練習のやり方を巡ってクラウディオ・ラニエリ監督と衝突、レギュラーを外される。

1998年には自身2度目のW杯フランス大会に臨み主力メンバーとして活躍し、決勝トーナメント進出に貢献。しかし準々決勝のオランダ戦において、ペナルティーエリア内でダイブをし、抗議・挑発をしに来たオランダ代表GKファン・デル・サールに頭突きを見舞い一発退場(明確に言えばシミュレーションで警告を受け、ファン・デル・サールに頭突きを食らわしたプレーで警告となり退場)。試合も1-2で敗れ、戦犯として大きな批判を受けた。

その後イタリアセリエAサンプドリアパルマに在籍するが、そこでも目立った活躍をすることは出来なかった。

2000年にリーベル復帰。当時売り出し中の若手だったパブロ・アイマールハビエル・サビオラ等と共に活躍。かつての輝きを取り戻し、2002年日韓W杯のアルゼンチン代表メンバーにも選ばれた。

2002年フェネルバフチェトルコ)に移籍したが、環境に馴染めず半年でアルゼンチンに無断帰国。この行動がクラブ側の逆鱗に触れ、多額の違約金を請求される。その後問題は泥沼化、最終的にはFIFAが介入し、オルテガに長期間の出場停止処分が下された。

意欲を失ったオルテガは一時現役を引退。しかし、アルゼンチンリーグ1部ニューウェルズ・オールドボーイズがオルテガに救いの手を差し伸べた。移籍金という形でフェネルバフチェ側への支払いを肩替わりし、2004年8月に和解が成立。この時点で出場停止処分も解除となった。

2006年、古巣のリーベルに復帰。長年に渡って苦しんできたアルコール依存症を克服するため、近年リハビリを行っていることが報じられた。

2007年、依存症の治療のためチリへ渡る。

2008年、チームとの距離が生じていた中、アル・アインUAE)からのオファーを拒否。残留と思われたが、アルゼンチンリーグ2部のインデペンディエンテ・リバダビアスペイン語版に期限付きで移籍した。

2010年5月5日の親善試合・ハイチ戦で約3年ぶりにアルゼンチン代表へ招集され、出場を果たした。

2010年、リーベルに復帰するも、アルコール依存症の再発で出場は数試合にとどまり、シーズン中にオールドボーイズに期限付き移籍される。

2011年デフェンソーレス・デ・ベルグラーノスペイン語版に移籍。

2015年5月 かつてのリーベルのチームメート、フランチェスコリ、ソリン、アストラーダ、ガジャルドらが集まり、モニュメンタルで引退試合が開催された[3]

脚注

  1. ^ トヨタカップ 1996 大会パンフレット P.27
  2. ^ a b c トヨタカップ 1996 大会パンフレット オルテガ紹介ページ ページ数は無し
  3. ^ El Burrito Ortega tendrá su partido homenaje en Jujuy-Clarin

外部リンク