研究倫理

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研究倫理(けんきゅうりんり、研究規範: Research ethics)とは、倫理の基本法則を研究行為に適用したものである。ねつ造改ざん盗用オーサーシップなど科学における不正行為は、研究成果を記述する文書学術出版論文書籍レポート申請書など)にみられる不正行為である。これらは、法律に抵触しないので犯罪ではない[1]が、研究倫理に違反する行為である。なお、研究倫理は、生命倫理や医療倫理とは別もので、それらを含んでいない。

研究倫理は、これら倫理に違反する行為の考え方・規則・対処法でもある。告発に対するあり方、違反の調査方法も議論されている。通常の違反者は、所属大学・所属研究機関から懲戒処分学位取消処分などの処分がなされる。違反が顕著な場合は犯罪行為とみなされる場合もある。

研究倫理基準は欧米先進国間で基準作成・会議・議論がされているが、日本では十分検討されていない。研究活動は国際的なので、国際的に統一された基準に日本も対応する必要があるが、研究倫理は国の文化・社会構造・価値観にも依存するので、国際基準作りに日本も関与すべきだろう。研究倫理は生物医学研究分野で最も進歩しているが、学問分野によって基準が異なり、他の分野、例えば、心理学社会科学にそのまま適用できないと思われている。

用語[編集]

研究倫理は、「倫理」とあるから、日本では「道徳」「善悪」でとらえる人がかなり多く、子供のころから家庭で教育される「しつけ」「行儀」「善悪」、その後、10代の自己確立の過程、さらに社会・人間関係の中で自然と身につけてきた「道徳」「善悪」で対処できると思い込んでいる人が多い。この意味の「倫理」は、英語では「モラル(moral)」であり、研究倫理の「倫理」ではない。研究倫理の「倫理」は、英語の「エシックス(ethics)」である。「エシックス(ethics)」は特定の組織の規範という意味なので、研究倫理は、研究という職業をこなすにあたっての考え方・規則・対処法である。従って、それらを家庭や社会で自然に習得することはできず、大学大学院で研究を習得するのと同じようにしか習得できない。

研究倫理事件[編集]

学術研究は信頼という土台の上に構築されている。研究者は誠実に研究し、発表内容は正確でバイアスがない事実だと受け止められている[2]。しかし、現実には、そうではないケースがある。学術界が研究倫理の重要性を研究者に遵守させていかないと、研究倫理に違反する事件が生じるようになる。

日欧米の生物医学研究分野で研究倫理事件が多発しているが、分野は文系理系を問わない。

研究倫理には「研究」という語句がついているが、教育の場でも重要な不正行為になる。高校生、大学生、大学院生のレポート論文でのねつ造改ざん盗用も不正行為である。欧米では、重要な不正行為として退学処分・停学処分・単位不認定などが課されている。日本でもようやく、修士論文(2007年の文京学院大学が最初)や博士論文(2008年の山形大学が最初)の論文盗用事件が問題視され始めた。

米国の研究倫理事件と対応[編集]

1980年頃、米国生物医学研究分野で研究倫理事件が多発し大きな社会問題になった。

  • 1974年 サマーリン事件:スローン・ケタリング記念癌研究所のウィリアム・サマーリンが皮膚移植で「ねつ造」した
  • 1980年 ソーマン事件:エール大学・准教授のソーマンがデータを「ねつ造」した
  • 1980年 アルサブティ事件:エリアス・アルサブティが50~60報の論文を「盗用」した
  • 1981年 ダーシー事件:ハーバード大学のジョン・ダーシー英語版 がデータを「ねつ造」をした
  • 1981年 スぺクター事件:コーネル大学の大学院生マーク・スペクターががん研究でデータを「ねつ造」をした

それで、研究者コミュニティ、学協会(アメリカ科学振興協会(AAAS)、アメリカ大学協会(AAU))、研究ジャーナル編集部、連邦政府が研究倫理問題に取り組み始めた。

米国では、1970年代の終わりに、信頼を裏切る研究不正がいくつも発覚した。研究データを創作や操作する「ねつ造」「改ざん」、他人のデータ・アイデア・文章を自分のもののように発表する「盗用」である。これらの事件をマスコミが大きく報道したので、議会も関心をもち、元・副大統領アルバート・ゴア(当時は国会議員)は、1981年、議会公聴会「生物医学研究の不正行為」を開いた。その中で、ゴアは次のように述べている。

私たちが科学研究へ投資するその根底には、科学研究への国民の信頼と研究者コミュニティの研究公正性があるからです。その信頼が脅かされるなら、国民は大きなリスクに直面するだけでなく、科学研究自体もむしばまれることになるでしょう。

その頃まで、研究者コミュニティは研究不正に向き合っておらず、従って、対処する用意をしてこなかった。大学・非営利研究所は公式のガイドラインも処理手続マニュアルももっていなかった。

グリンネル『グリンネルの科学研究の進め方・あり方』[3]

  • 1989 年 米国連邦政府・健康福祉省に「科学公正局」発足させた。この「科学公正局」は、現在の「研究公正局」である。

連邦政府は1985年、健康研究拡張法(Health Research Extension Act)を定めた。この法律は、連邦政府への助成を申請する研究機関に、「不正行為に基づいた報告をチェックするための運営システムを確立し、さらに不正行為で告発された事例を調査し政府に報告する」よう求めた。この法律を実行するために国民健康局(Public Health Service:PHS)は、研究公正局の前身となった科学公正局と科学公正審査局を、1989年に設立した。ついで、1992年6月には、この2つの機関は合併され、現在の研究公正局ができあがったのである。

山崎茂明『科学者の不正行為 捏造・偽造・盗用』[4]

研究公正局は、生物医学の研究助成を受けた研究の研究不正が対象だが、実質的には、米国の研究不正に対処する中枢的な連邦政府機関である。告発の調査、研究不正防止の研修、教育、ニュースレターの無料配布、研究不正に関する研究、全米の研究者に「研究不正」研究の研究費を支援している。各研究機関・大学は自前の研究公正官が自分の組織の研究不正問題に対処するが、研究公正局はその対処をサポートする。

日本の研究倫理は、欧米の意識・取組・システム・研究・教育に比べ、すべての点でかなり遅れた。最近、メディアで事件が大きく報道されているのは、その遅れが大きな原因である。

研究倫理上の問題行為[編集]

米国科学アカデミーは、研究界の不祥事を3つのカテゴリーに分類している[5]

  • カテゴリー1:「研究不正」=「ねつ造」「改ざん」「盗用
  • カテゴリー2:「問題ある研究行為」。研究記録不備、査読オーサーシップ
  • カテゴリー3:「研究違法行為」。研究実施に伴う法・条例違反や犯罪行為で、研究行為とは直接の関係がない。例えば、セクハラ研究費不正など。

米国研究公正局は、上記カテゴリー1の「ねつ造」「改ざん」「盗用」の3つを「研究不正」と定義した。

日本は、米国にかなり遅れていることもあり、研究倫理に関することは基本的に米国研究公正局の方針に追従している。

基本文書は、2006年の文部科学省のガイドライン「研究活動の不正行為への対応のガイドラインについて」である[6]。2014年2月3日改訂版の「公正な研究活動の推進に向けた「研究活動の不正行為への対応のガイドライン」の見直し・運用改善について(審議のまとめ)」が発表された[7]。ただし、定義や指針に関しての変更はない。以下に、文部科学省の定義する不正行為を引用する。

本ガイドラインの対象とする不正行為は、発表された研究成果の中に示されたデータや調査結果等の捏造と改ざん、及び盗用である。ただし、故意によるものではないことが根拠をもって明らかにされたものは不正行為には当たらない。

(1)捏造

存在しないデータ、研究結果等を作成すること。

(2)改ざん

研究資料・機器・過程を変更する操作を行い、データ、研究活動によって得られた結果等を真正でないものに加工すること。

(3)盗用

他の研究者のアイディア、分析・解析方法、データ、研究結果、論文又は用語を、当該研究者の了解もしくは適切な表示なく流用すること。

研究倫理問題の対処[編集]

国家研究公正システム[編集]

ハルレポート[8]は、研究公正当局の法的な調査権限に基づき、55か国・地域の国家研究公正システムを以下の3つのタイプに分類した。松澤孝明が以下のようにまとめている[9]

  • タイプ1:

「調査権限を有する,国として立法化された集権システム」(言い換えれば,法的な調査権限(強制力)を有する研究公正当局が国レベルで存在するシステム)

  • タイプ2:

「研究費配分機関や個々の機関とは異なる,監督のための法律によらない組織」からなるシステム(言い換えれば法的権限(強制力) は有さないが,独立性の高い研究公正当局やコンプライアンスシステムが国レベルで存在するシステム)

  • タイプ3:

「独立した研究公正監督組織やコンプライアンス機能がないシステム」(言い換えれば,国レベルでの独立性の高い研究公正当局やコンプライアンスシステムが存在しないシステム)

松澤孝明、諸外国における国家研究公正システム(1) 基本構造モデルと類型化の考え方[9]

  • タイプ1は、米国、デンマーク、ノルウェー、クロアチア、中国の5か国・地域。一例は、米国・研究公正局
  • タイプ2は、フィンランド、ポーランド、オーストリア、ドイツ、英国、カナダなどの14か国・地域。一例は、英国研究公正室(UKRIO:UK Research Integrity Office)。
  • タイプ3は、日本、フランス、アイルランド、インド、ベルギーなどの26か国・地域。

日本は、最も後進的なタイプ3に分類されている。

大学・研究機関[編集]

日本の大学・研究機関は所属する教員・研究者などのスタッフ向け、と学部生・大学院生向けに、研究規範を制定・伝達している。ただし、教員・研究者向けなのか学部生・大学院生向けなのか、サイトからは判断しにくいケースもある。

研究倫理に特化した事務局組織をもつ大学・研究機関は、理化学研究所早稲田大学など少ない。

教育・研修[編集]

米国の研究倫理教育に比べ、日本の研究倫理教育は貧弱である。

米国では中学高校から教育されるが、日本の中学高校では教育されない。

日本の大学・大学院でカリキュラムに組み込んで定期的に教育している大学・大学院は、早稲田大学など少数である。なお、研究倫理に詳しい教員がいれば、その教員は講義するだろう。

日本の大学・研究機関は、所属する教員・研究者などのスタッフ向け、と学部生・大学院生向けに、不定期に研究倫理関係の研修会・集中講義を開催している。

白楽ロックビルの分析[10]埼玉学園大学の菊地重秋の分析[11]、松澤孝明の分析[12]など実証的データはどれも「日本では教授など地位が高い人が研究不正をする」と結論している。しかし、その人たちへの有効な対策はなされていない。

日本の国・大学・研究機関は、研究不正するのは大学院生だと思い込んでいる。それで、大学院生の研究者倫理教育を主体にしてきた。例えば、文部科学省は、「大学間連携共同教育推進事業」の1つとして「研究者育成の為の行動規範教育の標準化と教育システムの全国展開(CITI Japan プロジェクト)」を、2012年以降展開しているが、対象は以下の通り大学院生である。

CITI Japan プロジェクトは、倫理教育について6大学が提携し、e-learningを活用したカリキュラムを通して、大学院生に倫理教育の重要さを広げていくプロジェクトです。

CITI Japan プロジェクトとは?|CITI Japan プロジェクト[13]

学会[編集]

研究倫理に特化した日本の学会、外国の学会はないが、国際的な研究公正性世界会議(World Conference on Research Integrity)が2~3年に一度開催されている。

  • 4回目:リオデジャネイロ、ブラジル(2015年)予定
  • 3回目:モントリオール、カナダ(2013年)
  • 2回目:シンガポール(2010年)
  • 1回目:リスボン、ポルトガル(2007年)

ほとんどの学会は研究倫理委員会を設け、研究規範規定を策定している。

学術出版界[編集]

学術論文・書籍の出版をする出版社には、研究倫理に詳しい人がいる。

  • 学術出版規範委員会「COPE」(Committee on Publication Ethics):生物医学系学術誌が出版規範の問題を検討する世界的組織

民間告発組織[編集]

「出版後論文議論(post publication peer-review)」活動の1つとして、出版された論文の不正問題が指摘されている。

  • パブピア(PubPeer):米国の出版後論文議論サイト
  • リトラクション・ウオッチ(Retraction Watch、論文撤回監視):米国の論文撤回監視サイト。
  • サイエンス・フラウド(Science Fraud):現在、閉鎖中。
  • 論文捏造&研究不正 :11jigenの運営する日本の不正論文告発サイト
  • ヴロニプラーク・ウィキ(VroniPlag Wiki):ドイツの論文盗用告発サイト
  • ディザーネット(Dissernet):ロシアの論文盗用告発サイト

関連項目[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 平田容章「研究活動にかかわる不正行為」、『立法と調査』2006年、 112-121頁。
  2. ^ National Academy of Sciences (2009年). “On Being a Scientist: Third Edition”. The National Academies Press. 2014年8月11日閲覧。
  3. ^ グリンネル 『グリンネルの科学研究の進め方・あり方』 共立出版、東京、2009年ISBN 978-4320056978
  4. ^ 山崎茂明 2002.
  5. ^ National Academy of Sciences (1992年). “RESPONSIBLE SCIENCE. Ensuring the Integrity of the Research Process”. The National Academies Press. 2014年8月11日閲覧。
  6. ^ 研究活動の不正行為への対応のガイドラインについて”. 文部科学省 (平成18年(2006年)8月8日). 2014年8月11日閲覧。
  7. ^ 公正な研究活動の推進に向けた「研究活動の不正行為への対応のガイドライン」の見直し・運用改善について(審議のまとめ)”. 文部科学省 (2014年2月3日). 2014年8月11日閲覧。
  8. ^ Hickling Arthurs Low Corporation (HAL) (2009年). “The State of Research Integrity and Misconduct Policies in Canada”. 2014年8月11日閲覧。
  9. ^ a b 松澤孝明「諸外国における国家研究公正システム(1) 基本構造モデルと類型化の考え方」、『情報管理』第70巻第56号、2014年、 697-711頁。
  10. ^ 白楽ロックビル 2011.
  11. ^ 菊地重秋「我が国における重大な研究不正の傾向・特徴を探る」、『IL SAGGIATORE』第40号2013年、 63-86頁。
  12. ^ 松澤孝明「わが国における研究不正。公開情報に基づくマクロ分析(2)」、『情報管理』第56巻第4号、2013年、 222-235頁。
  13. ^ CITI Japan プロジェクトとは?|CITI Japan プロジェクト”. CITI Japan プロジェクト. 2014年4月15日閲覧。

参考文献[編集]

外部リンク[編集]