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'''カバネ'''(可婆根、骨、姓、尸)は、古代日本の[[ヤマト王権]]において、[[治天下大王]](天皇)から有力な[[氏族]]に与えられた、王権との関係・地位を示す[[称号]]である。
'''カバネ'''(姓、可婆根、骨、尸)は、古代日本の[[ヤマト王権]]において、[[治天下大王]](天皇)から有力な[[氏族]]に与えられた、王権との関係・地位を示す[[称号]]である。


== 概要 ==
以下、特別の補足がない限り「氏」は「うじ」、「姓」は「かばね」と読む。
カバネは古代日本の氏(ウヂ)の名前に付され、氏の体裁・性格を示す称号である<ref name="中村2009pp6_7">[[#中村 2009|中村 2009]], pp. 6-7</ref>。古代日本の人名について語られる際には姓・氏姓・姓字といった用語はしばしば多義的な意味合いを含み、文脈・論者によって異なる意味合いで使用される場合があるが、本項では人名から個人名を除いた部分を'''姓'''(ショウ/セイ)とし、姓に続けて書かれる「臣」「連」あるいは「朝臣」「宿禰」と言った称号を'''カバネ'''、姓からカバネやその他の族字を除いたウヂ(氏)の名前を示す部位を'''氏名'''と表記する{{refnest|group="注釈"|古代の氏姓に関連する用語は曖昧さを含み、関連する用語や概念の範囲が研究者によって微妙に異なる場合がある。本項での定義は中村 2009のまとめを参考にしているが、便宜上のものであり、厳密なものではないことに注意。}}。具体的に以下のような人名のうち、カバネにあたるのは太字の部分である。
* 物部'''連'''目
* 蘇我'''臣'''馬子
* 藤原'''朝臣'''道長
* 源'''朝臣'''家康(徳川家康)

カバネには「姓」という漢字表記が当てられているが、この字は先[[秦]]時代の中国では血縁的氏族を指し、一方で「氏」字は領土的氏族を指すものであったが、[[漢]]代には両者が混同されるようになっており、日本に漢字が伝来した際こうした字義の混用も伝わった<ref name="中村2020p25">[[#中村 2020|中村 2020]], p. 25</ref>。古代日本の史書では「姓」字によってウヂ、カバネ、あるいはその双方を指す場合がある<ref name="中村2020p25"/>。

古くから、カバネは氏の格を表す尊号であり序列を表すものとしても解されているが、元来はそうした序列を示す機能はなかったとも言われ、カバネがいつ頃、どのような理由で誕生したのかは厳密にはわかっていない。通説的には氏(ウヂ)の確立と共に6世紀半ば頃までには成立していたとされ、天皇(大王)から氏に、あるいは個人とその家族の単位に賜姓されるものであった。代表的な古代のカバネには[[臣]](オミ)、[[君]](キミ)、[[連]](ムラジ)、[[直 (姓)|直]](アタヒ)、[[造]](ミヤツコ)、[[首 (姓)|首]](オビト)などがある。

684年([[天武天皇|天武]]13年)に[[八色の姓]](やくさのかばね)が制定され、上位から順に[[真人]](マヒト)・[[朝臣]](アソミ)・[[宿禰]](スクネ)・[[忌寸]](イミキ)・[[道師]](ミチノシ)・臣(オミ)・連(ムラジ)・稲置(イナギ)の8種に整理された。これらは[[奈良時代]]から[[平安時代]]にかけて上位の冠位を得ることができる氏と下級の氏を分けるものとして扱われ、上位のカバネを求めて改正が繰り返された。最終的には朝臣・宿禰以外はほとんど賜姓の対象とならなくなり、また平安時代後期頃までに藤原氏に代表される特定氏族が上位の冠位を占有するようになるとともに実質的な意味合いを失っていった。しかし、カバネ自体はその後も命脈を保ち[[明治]]時代初期まで存続した。[[明治維新]]後、日本人の人名に関する規定が整理される中で、1871年(明治4年)の[[姓尸不称令]]によって公文書においてカバネ(尸)を表記しないことが定められた。


== 起源 ==
== 起源 ==
カバネの発祥の経緯は明確ではない。通説的には6世紀なかば頃までのある時期に制度として確立し、当初は[[ヤマト王権]]の朝廷で政治的地位を有していた氏(ウヂ)に対し、地位・職掌に基づき与えられた称号であるとされる{{refnest|group="注釈"|今日の通説的理解は基本的に[[阿倍武彦]]の研究に基づくものであり<ref name="篠川2009p28">[[#篠川 2009|篠川 2009]], p. 28</ref><ref name="山尾1998pp24_28">「[[#山尾 1998|山尾 1998]], pp. 24-28</ref>、本項では阿部の見解を基本としてカバネについてまとめる。}}。カバネを冠する氏(ウヂ)の起源もまた明確ではないが、『[[日本書紀]]』『古事記』(記紀)において[[中臣氏|中臣]]や[[大伴氏|大伴]]などの氏名が人名に関されて記述されるようになるのは概ね[[応神天皇|応神朝]]以降である<ref name="阿部1960p17">[[#阿部 1960|阿部 1960]], p. 17</ref>。外国史料では確実に氏の名であろうと思われる記載が現れるのは『[[隋書]]』(7世紀成立)であり、『日本書紀』に引用されている[[百済]]系史料(『[[百済三書]]』)では[[欽明天皇|欽明]]朝(6世紀)頃を境に日本人(倭人)の人名表記に氏名と見られるものが表記されるようになっている<ref name="阿部1960pp20_21">[[#阿部 1960|阿部 1960]], pp. 20-21</ref>。また、年代・読解ともに確実ではないが、考古学的史料では[[隅田八幡神社人物画像鏡]]に登場する「開中費直」が「河内直」であるとする見解があり、同鏡に記載されている癸未年という年号が503年であるとすれば{{refnest|group="注釈"|癸未年は503年の他、383年、443年の可能性もあるが、503年と見るのが通説である<ref name="阿部1960p23">[[#阿部 1960|阿部 1960]], p. 23</ref>。}}6世紀初頭には河内というウヂが存在し、直(アタヒ)というカバネが使用されていたと見ることができる。これらのことから、概ね欽明朝(6世紀)までには氏(ウヂ)とカバネが成立していたであろうと考えられる<ref name="阿部1960p24">[[#阿部 1960|阿部 1960]], p. 24</ref>。
カバネの発祥の経緯は明確ではない。大和王権が成熟し、大王家([[皇室]])を中心として有力氏族の職掌や立場が次第に確定していく中で、各有力者の[[職掌]]や地位を明示するために付与されたと考えられている。カバネには有力豪族により世襲される称号として、いわゆる[[爵位]]としての性格と、職掌の伴う[[官職]]としての性格の二つの側面があるとされ、古代、大和王権の統治形態を形成する上で重要な役割を果たしてきた<ref>[[篠田賢]]著「[http://www.seijo.ac.jp/graduate/gslit/orig/journal/jomin/pdf/sjpn-26-02.pdf カバネ「連」の成立について]」[[成城大学]][[大学院]][[文学研究科]]編『日本常民文化紀要 第二十六輯』(成城大学、2006年)35頁参照。</ref>。


古代日本の史料に登場し地名や[[部民制|部名]]で呼ばれる氏(ウヂ)は原始社会に普遍的に見られる[[氏族]]とは大きく異なるものであった。氏は日本の古代国家における政治的集団であり、その氏が冠するカバネは[[ヤマト王権]]と諸氏の政治的関係の表現であった<ref name="阿部1960p1">[[#阿部 1960|阿部 1960]], p. 1</ref>{{refnest|group="注釈"|[[中村友一]]は「氏(ウヂ)」について次のようにまとめている。「日本古代の『氏』は家族(family)・親族を中心としつつも、その周縁などに擬制的同祖同族関係の氏族も結びついて構成される政治集団である。いわゆる、親族・血縁集団の集合で構成される西洋歴史学の概念である『氏族(Clan)』とは異なるものである<ref name="中村2020p32">[[#中村 2020|中村 2020]], p. 32</ref>。古代日本の史書では「姓」字によってウヂ、カバネ、あるいはその双方を指す場合がある<ref name="中村2020p25"/>。」}}。ヤマト王権・日本の古代国家の内部構造について厳密なことは不明であるが、恐らく天皇(大王)にある種の精神的権威を持たせて結合の中心とし、緩やかな連合体を構築した[[大和]]地方([[奈良県]]周辺)の諸豪族と、各職業を分掌する伴造(トモノミヤツコ)で構成されていたと考えられる<ref name="阿部1960p28">[[#阿部 1960|阿部 1960]], p. 28</ref>。ヤマト王権による[[日本列島]]の統合が進み王権が強化されると共に、これらの諸豪族に一定の地位が与えられてそれが継承されるようになり、カバネが付与されて政治的組織として確立されていくようになっていったと見られる<ref name="阿部1960p28"/>。カバネと判断できる称号がヤマト王権から諸氏へ与えられるようになった時期ははっきりとはわからない。『[[先代旧事本紀]]』などの文献では[[垂仁天皇]](第11代)ころから朝廷による付与が行われていたという記載があるが、こうした古文献の記述をそのまま史実とすることはできない<ref name="阿部1960p31">[[#阿部 1960|阿部 1960]], p. 31</ref>。
カバネの語源は必ずしも明確ではないが、以下のような説が存在している。
* 株根(かぶね)、株名(かぶな)などで血筋や家系を意味する語より。
* 崇名(あがめな)より変化したもの。
* その他、諸説多し


カバネという言葉の語源もまた、明確にはわかっていない。「アガメナ(崇名)」「カハラネ」「カブネ(株根)」「カハホネ」「カバネナ」「カボネ」「カラホネ」などといった言葉から派生したとも、[[朝鮮語]]で「族」の意味を持つ「骨」字を[[日本語]]読みにしたものとも言われる<ref name="阿部1960p28"/>。しかし、カバネという用語が「蘇我臣」「物部連」「河内直」などのように氏名の下に書かれる[[臣]](オミ)、[[連]](ムラジ)、[[君]](キミ)といった称号を指すものであったことは確実である<ref name="阿部1960p29">[[#阿部 1960|阿部 1960]], p. 29</ref>。左に挙げたような代表的なカバネは[[大化の改新]](7世紀半ば)以前から存在したと考えられるものである<ref name="阿部1960p16">[[#阿部 1960|阿部 1960]], p. 16</ref>。各カバネの起源も同じく明らかではない。より古い時代には酋長・部族の長たちが、多くの場合は地名に尊称を付して呼ばれており、これらが後のカバネの原型であったとも考えられている(原始的カバネ)<ref name="阿部1960p29"/>。このような尊称には[[ヒコ]](彦)、[[ヒメ]](媛)、[[君 (カバネ)|キミ]](君)、[[タケル]](梟師)、[[トベ]](戸畔)、[[ネ (称号)|ネコ]](根子)、[[ミミおよびミ|ミミ]](耳)、[[タマ (称号)|タマ]](玉)、[[ヌシ]](主)、[[モリ (称号)|モリ]](守)、ツミ(積)などがある<ref name="阿部1960p29"/>。これらのうちのいくつかは『[[三国志]]』「魏書」東夷伝倭人条([[魏志倭人伝]])に対応すると見られるものがあり、極めて古い時代から使用されていたことがわかる<ref name="阿部1960p29"/>{{refnest|group="注釈"|例えば複数の国に見られる官名「卑狗(ヒコ)」「卑奴母離(ヒナモリ)」や、不弥国にみえる「多模(タマ)」、投馬国に見える「弥弥(ミミ)」等<ref name="阿部1960p29"/>。}}。「魏志倭人伝」に見られるこれらの「原始的カバネ」が「官」の名前であり、かつ地名に彦や媛を追加した古代の人名と関係が深いと考えられることから、これらの原始的カバネは元来、尊称というだけではなく官職とも関係の深いものであったとも想定される<ref name="阿部1960p30">[[#阿部 1960|阿部 1960]], p. 30</ref>。
== 原始的カバネ ==
原始的カバネとは、大和王権による統一以前から、在地の首長や団体名に使われたと思われる名称である<ref> 太田亮著『日本上代における社会組織の研究』1921年、溝口睦子「記紀神話解釈の一つのこころみ」『文学』1973-1974年</ref>。代表的な原始的カバネとしては、[[ヒコ]](彦、比古、日子)、[[ヒメ]](比売、日女、媛)、[[ネ (称号)|ネ]](根、禰)、[[ミミおよびミ|ミ]](見、美、彌、耳)、[[タマ (称号)|タマ]](玉、多模)、[[ヌシ]](主)、[[モリ (称号)|モリ]](母理、守)、[[コリ (称号)|コリ]](古利、凝)、[[トベ]](戸部、戸畔)、[[キ (称号)|キ]](岐、支)、[[はやお|ハヤオ]](速男、早雄)などがある。これらの原始的カバネは名称の語尾に付くもので、今日でも「ヒコ」や「ミ」など、人名の語尾によく使われるものもある。ただしこれらの「原始的カバネ」は後世の学者によってカバネ的なものではないかと推定された仮説上の概念であって、当時の人々に実際にカバネとして認識されていたのかどうかは不明瞭である。


== カバネの制度化 ==
== 古代のカバネ ==
古代のカバネは[[臣]](オミ)、[[君]](キミ)、[[ワケ|別]](ワケ)、[[連]](ムラジ)、[[直 (姓)|直]](アタヒ)、[[造]](ミヤツコ)、[[首 (姓)|首]](オビト)、[[国造]](クニノミヤツコ)、[[県主]](アガタヌシ)など、およそ30種弱が知られている<ref name="阿部1960p31">[[#阿部 1960|阿部 1960]], p. 31</ref>。氏(ウヂ)に対してどのようなカバネが与えられるかは概ね祖先の出自もしくは官職によって決まったものと言われている<ref name="阿部1960p31"/>。祖先の出自によるカバネの代表例として皇別氏族に多い「臣」、神別氏族に多い「連」があり、官職によるものには「国造」「県主」「稲置(イナギ)」「史(フヒト)」「画師(エシ)」、あるいは「(何々)人」と言ったものがあるとされる<ref name="阿部1960p32">[[#阿部 1960|阿部 1960]], p. 32</ref>。このような観点は近代歴史学のものではあるが、阿部武彦によれば既に大化の改新の頃にはそのような認識が存在したらしく、古代の詔勅の中には「基の王の名をかりて伴造(トモノミヤツコ)となし、祖の名によりて臣連となす」というものがある<ref name="阿部1960p32"/>。前者は王権に奉仕する[[名代]][[子代]]のような集団が「造」のカバネを称していたことを、後者は有力な氏が祖先の出自に基づいて「臣」「連」を称していたということを意味すると考えられ、7世紀の人々がカバネについてこのような認識を持っていたことを示す<ref name="阿部1960p32"/>。
大和王権が確立するとカバネが制度化され、王権との関係・地位を示す称号となる。[[成務天皇]]の時、[[国造]](くにのみやつこ)、[[県主]](あがたのぬし)、[[ワケ]](和気、別)、[[稲置]](いなぎ)などが定められ<ref>『[[日本書紀]]』成務天皇5年の条。</ref>、これらは後にカバネにも転用または併用されていくが、本来はカバネではない。[[允恭天皇]]の時代には[[臣連制]]が導入され、[[君 (カバネ)|公・君]](きみ)、[[臣]](おみ)、[[連]](むらじ)、[[直 (姓)|直]](あたい)、[[首 (姓)|首]](おびと)、[[史 (姓)|史]](ふひと)、[[村主 (カバネ)|村主]](すぐり)などが定められた<ref>『日本書紀』允恭天皇4年の条。</ref>。この改革により和気・別には君・公姓が、国造・県主には直、凡直、君・公、臣、連姓が与えられた。臣連制の中で最も有力な者には更に[[大臣 (古代日本)|大臣]](おおおみ)、[[大連 (古代日本)|大連]](おおむらじ)の称号が与えられた。その他のカバネとしては、[[百済]]滅亡後に帰化した百済王族に与えられた[[百済王氏|王]](こにきし)などがある。なお古代氏族の系図においても、[[神代]]から[[応神天皇]]までの人物は「命」の称号を伴うが、雄略天皇頃の人物以降はカバネを伴った名称に変わる([[仁徳天皇]]から允恭天皇までは混在期)。

しかし、これらのカバネが初めて登場するのはより古い時代であり、7世紀の記憶が史実を伝えていると見ることはできない。各カバネを有する氏族に見られる特徴から、カバネは古代の[[部民制]]の発達と密接な関わりを持って発展したもの見られ、「臣」「君」「連」「造」「直」などのカバネは与えられた基準が比較的はっきりしている<ref name="阿部1960p52">[[#阿部 1960|阿部 1960]], p. 52</ref>。以下、通説的理解とされる阿部武彦のまとめに従って代表的なカバネについて列挙する。

; オミ :「臣」と表記される。畿内地方を中心に、地名を名とする氏([[蘇我氏|蘇我臣]]、[[小野氏|小野臣]]、[[出雲氏|出雲臣]]、[[吉備氏|吉備臣]]など)に多く見られ、その多くは地方的な豪族に由来を持つものと見られる。蘇我臣、[[和珥氏|和珥臣]]、[[阿倍氏|阿倍臣]]、[[春日氏|春日臣]]、[[葛城氏|葛城臣]]など、古代において天皇の后妃を出した氏が多く、その数は他のカバネを圧倒している。これらのことから、古くは天皇(大王)と共にヤマト政権を連合的に形成した諸豪族を中心に臣姓が与えられたものと見られる。オミという言葉の意味は不明であるが、何らかの尊敬の意味を持った言葉であろうと言われている。「臣」という漢字が用いられた理由も不明である<ref name="阿部1960p37">[[#阿部 1960|阿部 1960]], p. 37</ref>。
; キミ :「君」「公」と表記される。いずれもキミと読むが「君」「公」は必ずしも同一のカバネではなかったと見られ、「公」字をあてるものは[[継体天皇]]の一族、および継体以降の皇別氏族に与えられている。[[上毛野氏]]・[[下毛野氏]]([[関東]])、[[綾|綾氏]]([[四国]])、のように遠隔地の半自立的な豪族が目立ち、[[関東]]、[[九州]]、[[北陸]]の[[国造]]に君姓のものが多かったこともこの傾向を明らかにしている。[[磐井 (古代豪族)|筑紫君]]、火君のように、君姓氏族は臣姓氏族と同じく地名を氏の名とするものが多いのも特徴である。他に[[大三輪氏]]のような祭祀的な伝統を持つ氏族も君姓を名乗っており、「キミ」のカバネは概ね、継体以降に分かれた新しい皇別氏族、遠隔地の半自立的氏族、伝統的な地祇系氏族の三者に与えられたものと見られる<ref name="阿部1960p37"/>。
; ムラジ :「連」と表記される。この漢字表記の由来は不明瞭であるが{{refnest|group="注釈"|山尾は「連」字を用いる理由について連続(豆々企<ref name="コトバンク八十続">この語は『日本書紀』巻2に「数多く長く続くこと」を意味する語として現れている。[https://kotobank.jp/word/%E5%85%AB%E5%8D%81%E7%B6%9A-2089168 コトバンク参照]</ref>)の意味の連を宛てたらしいものとしている<ref name="山尾1998p49">[[#山尾 1998|山尾 1998]], p. 49</ref>。朝鮮において主張を意味する「連」が日本語のムラジと意味的に近かったため、この漢字表記が採用されたとする説もある<ref name="阿部1960p39">[[#阿部 1960|阿部 1960]], p. 39</ref>。}}、ムラジという名称は元来「群主(ムレアルジ、あるいはムラウシ)」の意で、[[伴部]]の首長を表したものと見られる。後代では「祖の名によって」与えられたカバネとされるものの、[[中臣氏|中臣連]]、[[物部氏|物部連]]、[[大伴氏|大伴連]]、[[土師氏|土師連]]、[[掃部氏|掃部連]]のように職掌を氏名とするものが多く、元来は中臣部、物部、土師部などの部民の長として天皇(大王)に奉仕していた人々のカバネであったと考えられる。時と共に職掌外の任務も担うようになりその中から有力氏族として台頭する氏も現れた<ref name="阿部1960pp39_40">[[#阿部 1960|阿部 1960]], pp. 39-40</ref>。
; ミヤツコ:「造」と表記される。宮ツ子、あるいは奴(ヤッコ)から来ているとも尊称であるとも言われる{{refnest|group="注釈"|阿倍武彦は「奴」(ヤッコ)、あるいは貴人の尊称とも言われるが明瞭ではないと述べている<ref name="阿部1960p42">[[#阿部 1960|阿部 1960]], p. 42</ref>。山尾幸久は「宮ツ子」から来ており「宮の子」の意味であると解している<ref name="山尾1998p31">[[#山尾 1998|山尾 1998]], p. 38</ref>。}}。造姓を持つ氏族はほとんどが職業部、名代子代の伴造であり、基本的に[[伴部]]の首長のカバネであったと考えられる。同じく伴部の首長のカバネであったと見られる「連」との違いは明確にはわからない。「非常に大ざっぱ」(阿部)な区分としては、山部、海部、土師部などに典型的に見られるように地方に居住し現地で部民を統括していた長が「造」であり、この現地の長を中央で従える広義の伴造が「連」であったかもしれない(山部に対する山部連、海部に対する阿曇連など)。また、山部などと同じく地方に居住し長を持つが、中央の豪族ではなく官司に隷属しており、貢納よりも中央への上番を中心とする部民、例えば馬飼部、鍛冶部、史部、蔵部なども「造」姓のものが多い。このタイプの氏は基本的に[[渡来人]](帰化人)であり、このため「造」のカバネは渡来系氏族に数多く見られる。この二つのタイプの伴部(品部)は前者の方がより古く、「連」によって統率される伴部は基本的に前者のものであり、より新しい後者の伴部の長には「造」しか存在しなかったと見られる。「造」「連」のカバネがこのように画一的に把握できることは、これらのカバネがある時期に(複数回)制定的に定められたことを示す<ref name="阿部1960pp42_48">[[#阿部 1960|阿部 1960]], pp. 42-48</ref>。
; アタヒ:「直」と表記される。「費」「費直」と書くこともあり、アタエとも読む。語源については、アタは「貴」、エは「兄」を意味するとも、[[朝鮮語]]で上長の意味とも言われる。「直」字が使用された理由は不明瞭であるが「番人」の意味であり、地方の長官としての役割を示すとも考えられる。国造のカバネに良く見られるが、全ての国造が直姓であったわけではなく、主に[[近畿]]、[[吉備]]と[[出雲]]以外の[[中国地方]]、[[四国]]、[[東海道]]、[[関東]]南部に直姓の国造が広がっていた。関東北部や九州の国造には君姓のものが多く、吉備と出雲の国造は臣姓である。ヤマト王権は征服された地方豪族を完全に滅ぼすことは少なく、概ね国造として地位を認め支配したと見られ、そうした地方豪族に「直」のカバネが与えられていったものと見られる。
; オビト:「首」と表記される。首姓氏族には大きく3類型がある。1つは伴部(山部首、海部首、忌部首など)で、例外はあるが地方に居住して現地の部民を統括する地方有力者である。2つ目は渡来人(帰化人)系氏族(西文首、馬飼首、韓鍛冶首など)で、官僚的な職位によるものと見られ職掌名を氏の名とする。3つ目は[[屯倉]](ミヤケ)の管理者、[[県主]]、[[稲置]]であり、地名を氏の名とする(例えば大戸村の屯倉の管轄者が大戸首、志紀県主が志紀首とされるなど)。「首」姓氏族全体に共通して地方村落の首長という性質が見られる<ref name="阿部1960pp50_51">[[#阿部 1960|阿部 1960]], pp. 50-51</ref>。


== 八色の姓 ==
== 八色の姓 ==
姓の制度は、[[壬申の乱]]([[672年]])の後、[[天武天皇]]が制定した[[八色の姓]](やくさのかばね)によっ有名無実化してしまった八色与えられた姓は、上から[[真人]](まひと)・[[朝臣]](あそみ<ref>後に「あそん」、更に「あっそん」とも。</ref>)・[[宿禰]](すくね)・[[忌寸]](いみき)・[[道師]](みちのし)・臣・連・稲置と定められた。ただし、実際に与えられたのは、上位4姓に連を加えた5姓だけである。この制によれば、それまで上位の姓とされた臣・連は序列の6、7番目実際は5、6番に位置付けられ、そ地位は低下している。代わって、天皇へ忠誠心がある有能な者には、新たに作られた朝臣・宿禰などの上位の姓が与えられて、従来の氏族秩序にらわれない人材登用図られた(真人は皇親氏族のみ)。しかしながら、[[奈良時代]]を過ぎる頃には、ほとんどの有力氏族の姓が朝臣になってしまい、八色の姓も形式的なものとなってしまった
[[天武天皇]]13年(684年)、[[八色の姓]](やくさのかばね)の制定が行われた。これは「『氏姓』変革の歴史於い画期的な事件として注目されている<ref name="阿部1960p65">[[#阿部 1960|阿部 1960]], p.65</ref>」(阿部)こでは旧来の諸氏の族姓を改めて、上から順に[[真人]](マヒト)・[[朝臣]](アソミ<ref group="注釈">後に「アソン」、更に「アッソン」とも。</ref>)・[[宿禰]](スクネ)・[[忌寸]](イミキ)・[[道師]](ミチノシ)・臣(オミ)・連(ムラジ)・稲置(イナギ)の8種カバネを与えることが宣告された<ref name="阿部1960p65"/>

この族姓改革の理由、意図については様々に論じられており、大化の改新以来の対氏族政策の最終的な処置として、古い氏姓制度を新しい体制の中に取り込むために行われた、または古い姓に付随した政治的特権を整理し新しい体制を構築するためのものであったなどの見解がある<ref name="阿部1960p66">[[#阿部 1960|阿部 1960]], p.66</ref>。また、上記のような対氏族政策とは別に、大化の改新以降の政治改革と関係があり、新たに整備された官僚制が、族姓制度の改革をも要求したのではないかという見解もある<ref name="阿部1960p68">[[#阿部 1960|阿部 1960]], p.68</ref>。

いずれにせよ、八色の姓の制定は単独で実施された孤立した政策ではなく、制定の数年前から「造」「値」姓の氏、または個人に次々と「連」姓が与えられていたことが『日本書紀』に記録されている<ref name="阿部1960p68"/>。これもまた、天武朝期における官僚制の強化と関係があるとも考えられ、臣・連・伴造・国造、あるいは品部といった古い政治組織が改変されて律令官へと組み替えられる中で、この変化に合わせてカバネも変更されたと見られる<ref name="阿部1960p71">[[#阿部 1960|阿部 1960]], p.71</ref>。また、官の位階の昇進について職務精励を評価して昇進させるという規定が存在したことで、旧来「臣」「連」姓を持つ氏に独占されてきた上位の冠位に登る「造」「直」出身者が登場した。この情勢が天武朝期に「造」「直」姓から「連」姓への改姓が繰り返された理由であるかもしれない<ref name="阿部1960pp72_73">[[#阿部 1960|阿部 1960]], p.72-73</ref>。実際にはこのような大きな人事制度の変更とそれに伴う急激な昇進は紛争の種であったらしく、天武11年(682年)には人事査定において行状のみならず族姓も勘案して考課することとしし、「族姓が定まらずば考選の色にあらず」とされた<ref name="阿部1960p73">[[#阿部 1960|阿部 1960]], p.73</ref>。

このような中で天武13年(684年)の八色の姓の制定は行われ、翌天武14年には位階制の拡張が行われた<ref name="阿部1960p73"/>。八色の姓で定められた姓のうち、実際に賜姓が行われたのは基本的に真人、宿禰、朝臣、忌寸の4つだけであった<ref name="阿部1960p73"/>。なぜ上位の4姓以外が運用されなかったのかについて記録は残されていない。八色の姓の制定は恐らくは官人の任用・昇進において族姓を考慮することが明確化されたことによって、族姓の等級をはっきりさせる必要が生じたことから、カバネを整理し改めたものと考えられる。また、それと併せて皇親の地位を明確化する意図があったとも言われている<ref name="阿部1960p74">[[#阿部 1960|阿部 1960]], p.74</ref>。天武朝期に真人姓が与えられた氏のうち、出自がわかっているものは継体天皇の近親またはそれ以後の王裔である<ref name="山尾1998p17">[[#山尾 1998|山尾998]], p. 17</ref>。

阿部武彦は八色の姓の制定以降、奈良時代を通じて改姓の実例はほとんどが5位以下の低い位階のものであることに注目し、忌寸以上の姓を与えることは[[小錦 (冠位)|小錦]](律令制の規定では5位{{refnest|group="注釈"|小錦は大化3年(647年)の[[七色十三階冠]]制定の際に設置された冠位。途中変遷を経つつ、天智3年(664年)には(大小)織、(大小)縫、(大小)紫、大錦(上中下)、小錦(上中下)という位階になっていた<ref name="虎尾2021pp6_7">[[#虎尾 2021|虎尾 2021]], pp. 6-7</ref>。小錦下以上がいわゆる上級の官人となる<ref name="虎尾2020p20">[[#虎尾 2021|虎尾 2021]], p. 20</ref>。}})以上の冠位を得ることができる氏であることを定めるものであったことに重点が置かれており、これより上位の姓を得ることに人事上の意味があったためであるとしている<ref name="阿部1960p75">[[#阿部 1960|阿部 1960]], p.75</ref>。昇進に一定以上のカバネが必要であったことから官人たちは競って改姓を願い出るようになった<ref name="阿部1960p78">[[#阿部 1960|阿部 1960]], p.78</ref>。八色の姓が制定された天武朝以降、[[六国史]]に記録された改姓は1200件にも及ぶ<ref name="阿部1960p78"/>。この時代の改賜姓は上述のように5位以下の低い位階の官人を中心としており、また個人およびその近親といった小さな単位で行われていることが特徴である<ref name="阿部1960p78"/>。このような事実は、八色の姓制定時点で名門とされた氏には当初から5位以上の冠位に昇進可能なカバネが与えられていたことを予想させ、また賜姓の単位が個人レベルまで細分化していることはカバネの上昇が官人としての活躍と関連していたことを示す<ref name="阿部1960p78"/>。

こうして、古代の政治組織の確立と密接に関わっていたカバネは、奈良時代に入ると律令体制の確立と共に整備された官僚制と結びつくことになる。奈良時代を通じて頻繁に行われた改姓は時期によって異なる特徴がある。阿部武彦によれば概ね4期に区分することが出来、それぞれの時代の特徴は以下のようなものである。
# 天武天皇から[[元正天皇]]時代:八色の姓の制定時、基本的な方針としては遠い皇親に朝臣、神別氏族には宿禰、といったように氏族の出自を重視して上位のカバネが授与された。しかし、この時期はカバネの変更は少なく無姓の官人に臣・連・君・造と言った古いカバネが与えられている。なぜ古い姓の授与が行われいたのかは不明である<ref name="阿部1960p80">[[#阿部 1960|阿部 1960]], p. 80</ref>。
# [[聖武天皇]]から[[称徳天皇]]時代:多数の渡来人(帰化人)にカバネが与えられていることに特徴がある。また、聖武天皇の時代には忌寸・連の賜姓が中心であるのに対し、時代が進むほど宿禰や朝臣など上級のカバネが与えられるようになっていった。渡来人(帰化人)への賜姓は中下層の官人における彼らの重要性の増大によると考えられるが、これによって朝臣・宿禰といったカバネで元来考慮されていた氏族の出自の基準が形骸化し、最終的には完全に失われた。『[[新撰姓氏録]]』ではこの世相について序文で『諸蕃にゆるして願にまかせて之を賜ふ。遂に前姓後姓をして文字これに同じく、蕃俗倭俗相疑わしむ」と描写している<ref name="阿部1960p81">[[#阿部 1960|阿部 1960]], p. 81</ref>。
# [[光仁天皇]]から[[桓武天皇]]の時代:カバネ賜与の整理期であり、賜姓件数が減少するとともに諸氏の出自を調査し、石上朝臣を物部朝臣に服するなど、氏名の復古的な動きがみられた。氏名の変更・改姓に祖先の出自を重視するようになっている点において第2期から大きく変化している<ref name="阿部1960p82">[[#阿部 1960|阿部 1960]], p. 82</ref>。
# [[平城天皇]]以降:[[仁明天皇]]の時代頃までに朝臣・宿禰以外のカバネが全く賜姓の対象とならなくなる。これは上級の官が特定の氏族に独占される傾向が強くなっていったことで、冠位の昇進において有力な氏との関係性の方が重要となり、カバネの高低に実質的な意味がなくなっていったことと関係していると考えられる。カバネに比べ氏名の重要性が増したことで、各氏が昇進が見込める(本宗家の)氏名に変更を願い出るケースが目立つようになる(引田朝臣や狛朝臣から阿倍朝臣への変更など)。最終的に上級官職のほとんどが[[藤原氏]]に独占されるにに至って賜姓の記録は急速に減少し、[[光孝天皇]]代にはわずか8件(全て朝臣)にまで減少する<ref name="阿部1960p84">[[#阿部 1960|阿部 1960]], p. 84</ref>。

このように、元々ヤマト王権との政治的関係性の表現として登場したカバネは、天武朝における[[皇親政治]]の進展と律令制・官僚制の整備と共に八色の姓という形で再編され、官人たちは人事上の必要性から上位のカバネを競って求めるようになったものと見られる。再編されたカバネは本質的に皇室に奉仕する官僚に天皇から与えられるものであったが、その重要性は官位が特定の氏に独占されていくと共に失われていった。そして最終的に藤原氏が政権を掌握すると共に、カバネの高低はその実質的な意義を喪失した<ref name="阿部1960p85">[[#阿部 1960|阿部 1960]], p. 85</ref>。

== カバネについての諸論 ==
上記のような通説的理解についてはさらに検討が重ねられており、上記のような通説的理解によってカバネの実態が完全に解明されているわけではない。

問題の1つはカバネに関わる史料状況である。カバネの記録上の初出は多くの場合7世紀後半以後の史料においてであり、7世紀前半以前の状況を史料から跡付けることには困難が伴う。例えば「造」というカバネの存在を史料から辿ることができるのは「馬養造」「神功部造」が670年に登場するのが最古の確例であり、「連」姓の確例は[[藤原宮]]出土木簡522号にある「井於連」(684年)が最古である<ref name="山尾1998p31"/>。「連」の用例のより古い記録は『日本書紀』巻19(欽明紀)引用の『[[百済本記]]』に「物部至々連」「津守連」とあるが、恐らく7世紀末の表記と見られ<ref name="山尾1998p31"/>、恐らくは[[法隆寺]]の幡銘にある「山辺名嶋弖古連公」が現存最古の用例と見られ664までは遡り得るという<ref name="山尾1998p31"/>。このような問題から、例えば「連」「造」といったカバネが実際に7世紀前半以前に実在した確証は乏しく<ref name="山尾1998p32">[[#山尾 1998|山尾 1998]], p. 32</ref>、伴造設置の年代を『日本書紀』から復元することはほとんど不可能とも言われる<ref name="山尾1998p37">[[#山尾 1998|山尾 1998]], p. 37</ref>、

[[山尾幸久]]は『日本書紀』において「百官」の「群臣」がほとんどの場合「臣連等」と「伴造等」に二分されていること<ref name="山尾1998p36">[[#山尾 1998|山尾 1998]], p. 35</ref>、「連」姓の氏に「尾張連」「狭井連」「手嶋連」など地名を氏名とする氏族が存在することや{{refnest|group="注釈"|これらは通説的には「臣」を帯びるのが自然である<ref name="山尾1998p40">[[#山尾 1998|山尾 1998]], p. 40</ref>。}}、『日本書紀』巻6(垂仁紀)に「土部連」から「土部臣」への改姓記事があることなどを指摘し、「臣」「連」や「造」といったカバネ差異は本質的には出自の差異(皇別の「臣」、神別の「連」であり、職掌や政治的地位とカバネが直結していたわけではないとしている<ref name="山尾1998pp30_45">[[#山尾 1998|山尾 1998]], pp. 30-45</ref>{{refnest|group="注釈"|この理解に従えば、「連」を「造」を統括する古い職掌のカバネとする定義とは異なるものとなる。渡来(帰化)氏族は「造」姓のものが多く、全く連姓の氏族が見られないが、カバネが出自と結びついているとするならば、渡来氏族が神別のカバネである「連」を帯びず、基本的に「造」姓である場合が多いのは当然のものと理解できるという<ref name="山尾1998pp30_45"/>。}}。


== カバネの変化 ==
== カバネの廃止 ==
その後、カバネは、公的な制度としては[[明治維新]]の初期まで、命脈を保った。たとえば、[[徳川家康]]が「源朝臣家康」、初期の明治政府の公文書では[[大村益次郎]]は「[[藤原氏|藤原朝臣]]永敏」、[[大久保利通]]は「藤原朝臣利通」、[[大隈重信]]は「[[菅原氏|菅原朝臣]]重信」、[[山縣有朋]]は「[[源氏|源朝臣]]有朋」、[[伊藤博文]]は「[[越智氏|越智宿禰]]博文」など、姓(カバネ)と諱(いみな)によって表記することを通例とした<ref>たとえば、[http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_A09054276400?IS_STYLE=default&IS_KEY_S1=F2009072213564674366&IS_KIND=MetaFolder&IS_TAG_S1=FolderId& 明治4年6月の『職員録・改』](国立公文書館アジア歴史資料センター ref.A09054276400)では、「従三位守大江朝臣孝允<sup>木戸</sup>」のように、位階・「行」(位階相当より低い官職の場合)または「守」(位階相当より高い官職の場合)・本姓・カバネ・諱に苗字を付記してある。なお、姓尸不称令が出された後の[http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_A09054276600?IS_STYLE=default&IS_KEY_S1=F2009072213564674368&IS_KIND=MetaFolder&IS_TAG_S1=FolderId& 同年12月の『諸官省官員録』](同、ref.A09054276600)では、位階・苗字・実名と簡素化されている。</ref>。これらの「朝臣」「宿禰」の真偽はともかくとして、天皇及び朝廷に仕えるために必要不可欠とされた氏・姓が用いられたものである。
その後、カバネは、公的な制度としては[[明治維新]]の初期まで、命脈を保った。たとえば、[[徳川家康]]が「源朝臣家康」、初期の明治政府の公文書では[[大村益次郎]]は「[[藤原氏|藤原朝臣]]永敏」、[[大久保利通]]は「藤原朝臣利通」、[[大隈重信]]は「[[菅原氏|菅原朝臣]]重信」、[[山縣有朋]]は「[[源氏|源朝臣]]有朋」、[[伊藤博文]]は「[[越智氏|越智宿禰]]博文」など、姓(カバネ)と諱(いみな)によって表記することを通例とした<ref group="注釈">たとえば、[http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_A09054276400?IS_STYLE=default&IS_KEY_S1=F2009072213564674366&IS_KIND=MetaFolder&IS_TAG_S1=FolderId& 明治4年6月の『職員録・改』](国立公文書館アジア歴史資料センター ref.A09054276400)では、「従三位守大江朝臣孝允<sup>木戸</sup>」のように、位階・「行」(位階相当より低い官職の場合)または「守」(位階相当より高い官職の場合)・本姓・カバネ・諱に苗字を付記してある。なお、姓尸不称令が出された後の[http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_A09054276600?IS_STYLE=default&IS_KEY_S1=F2009072213564674368&IS_KIND=MetaFolder&IS_TAG_S1=FolderId& 同年12月の『諸官省官員録』](同、ref.A09054276600)では、位階・苗字・実名と簡素化されている。</ref>。これらの「朝臣」「宿禰」の真偽はともかくとして、天皇及び朝廷に仕えるために必要不可欠とされた氏・姓が用いられたものである。


[[明治]]4年[[10月12日 (旧暦)|10月12日]]([[1871年]][[11月24日]])、[[姓尸不称令]](せいしふしょうれい、明治4年太政官布告第534号)が出され、一切の公文書に「姓尸」(姓とカバネ)を表記せず、「苗字實名」のみを使用することが定められた<ref>明治4年10月12日(1871年11月24日)、「[{{NDLDC|787951/220}} 公用文書ニ姓尸ヲ除キ苗字実名ノミヲ用フ]」、国立国会図書館近代デジタルライブラリー。</ref>。これに先立ち、明治政府は、明治3年([[1870年]])の[[平民苗字許可令]](明治3年太政官布告第608号)<ref>明治3年9月19日(1870年10月13日)、「[{{NDLDC|787950/212}} 平民苗氏ヲ許ス]」、国立国会図書館近代デジタルライブラリー 。</ref>、明治5年([[1872年]])の[[壬申戸籍]]編纂の二段階によって、「'''氏'''(シ、うじ)='''姓'''(セイ、本姓)='''苗字'''='''名字'''」の一元化を成し遂げ、旧来の氏・姓を公称することを自ら廃止した。このため、事実上、「藤原」などの旧来の氏、「朝臣」などの姓は、その役割を完全に終えた。この壬申戸籍以後、旧来の姓は、それと一体化していた旧来の氏と共に、法的根拠をもって一本化された「'''氏'''(シ、うじ)=姓(セイ、本姓)=苗字=名字」に完全に取って代わられることとなる。この新たな氏姓制度が日本国民全員に確立されたのは、明治8年([[1875年]])の[[平民苗字必称義務令]](明治8年太政官布告第22号)<ref>明治8年(1875年)2月13日、「[{{NDLDC|787955/71}} 平民自今必苗字ヲ唱ヘシム]」、国立国会図書館近代デジタルライブラリー。</ref>によってである。
[[明治]]4年[[10月12日 (旧暦)|10月12日]]([[1871年]][[11月24日]])、[[姓尸不称令]](せいしふしょうれい、明治4年太政官布告第534号)が出され、一切の公文書に「姓尸」(姓とカバネ)を表記せず、「苗字實名」のみを使用することが定められた<ref >明治4年10月12日(1871年11月24日)、「[{{NDLDC|787951/220}} 公用文書ニ姓尸ヲ除キ苗字実名ノミヲ用フ]」、国立国会図書館近代デジタルライブラリー。</ref>。これに先立ち、明治政府は、明治3年([[1870年]])の[[平民苗字許可令]](明治3年太政官布告第608号)<ref>明治3年9月19日(1870年10月13日)、「[{{NDLDC|787950/212}} 平民苗氏ヲ許ス]」、国立国会図書館近代デジタルライブラリー 。</ref>、明治5年([[1872年]])の[[壬申戸籍]]編纂の二段階によって、「'''氏'''(シ、うじ)='''姓'''(セイ、本姓)='''苗字'''='''名字'''」の一元化を成し遂げ、旧来の氏・姓を公称することを自ら廃止した。このため、事実上、「藤原」などの旧来の氏、「朝臣」などの姓は、その役割を完全に終えた。この壬申戸籍以後、旧来の姓は、それと一体化していた旧来の氏と共に、法的根拠をもって一本化された「'''氏'''(シ、うじ)=姓(セイ、本姓)=苗字=名字」に完全に取って代わられることとなる。この新たな氏姓制度が日本国民全員に確立されたのは、明治8年([[1875年]])の[[平民苗字必称義務令]](明治8年太政官布告第22号)<ref>明治8年(1875年)2月13日、「[{{NDLDC|787955/71}} 平民自今必苗字ヲ唱ヘシム]」、国立国会図書館近代デジタルライブラリー。</ref>によってである。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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<references/>
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参照文献 ==
== 参照文献 ==
* {{Cite book |和書 |author=[[阿部武彦]] |title=氏姓 |publisher=[[至文堂]]|date=1960-8|asin=B000JAP79U |ref=阿部 1960}}
* 太田亮著『日本上代における社会組織の研究』1921年、溝口睦子「記紀神話解釈の一つのこころみ」『文学』1973年-1974年
* 太田亮著『日本上代における社会組織の研究』1921年、溝口睦子「記紀神話解釈の一つのこころみ」『文学』1973年-1974年
* 篠田賢著「カバネ「連」の成立について」成城大学大学院文学研究科編『日本常民文化紀要 第二十六輯』(成城大学、2006年)
* 篠田賢著「カバネ「連」の成立について」成城大学大学院文学研究科編『日本常民文化紀要 第二十六輯』(成城大学、2006年)
* {{Cite book |和書 |author=[[篠川賢]] |title=物部氏の研究 【第二版】 |series=日本古代氏族研究叢書 1 |publisher=[[雄山閣]] |date=2015-9|isbn=978-4-639-02375-3 |ref=篠川 2015}}
* {{Cite book |和書 |author=[[虎尾達哉]] |title=古代日本の官僚 天皇に仕えた怠惰な面々 |series=[[中公新書]] |publisher=[[中央公論新社]]|date= 2021-3|isbn=978-4-12-102636-1 |ref=虎尾 2021}}
* {{Cite book |和書 |author=[[中村友一]] |title=日本古代の氏姓制 |publisher=[[八木書店]] |date=2009-5|isbn=978-4-8406-2036-9|ref=中村 2009}}
* {{Cite book |和書 |author=[[中村友一]] |editor=[[佐藤信]] |title=テーマで学ぶ日本古代史 政治外交編 |chapter=I-3 氏姓制と部民制 |pages=25-34 |publisher=[[吉川弘文館]] |date=2020-6|isbn=978-4-642-08384-3|ref=中村 2020}}
* {{Cite book |和書 |author=[[山尾幸久]] |title=カバネの成立と天皇 |publisher=[[吉川弘文館]] |date=1998-4|isbn=978-4-642-02171-5 |ref=山尾 1998}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2021年10月30日 (土) 14:43時点における版

カバネ(姓、可婆根、骨、尸)は、古代日本のヤマト王権において、治天下大王(天皇)から有力な氏族に与えられた、王権との関係・地位を示す称号である。

概要

カバネは古代日本の氏(ウヂ)の名前に付され、氏の体裁・性格を示す称号である[1]。古代日本の人名について語られる際には姓・氏姓・姓字といった用語はしばしば多義的な意味合いを含み、文脈・論者によって異なる意味合いで使用される場合があるが、本項では人名から個人名を除いた部分を(ショウ/セイ)とし、姓に続けて書かれる「臣」「連」あるいは「朝臣」「宿禰」と言った称号をカバネ、姓からカバネやその他の族字を除いたウヂ(氏)の名前を示す部位を氏名と表記する[注釈 1]。具体的に以下のような人名のうち、カバネにあたるのは太字の部分である。

  • 物部
  • 蘇我馬子
  • 藤原朝臣道長
  • 朝臣家康(徳川家康)

カバネには「姓」という漢字表記が当てられているが、この字は先時代の中国では血縁的氏族を指し、一方で「氏」字は領土的氏族を指すものであったが、代には両者が混同されるようになっており、日本に漢字が伝来した際こうした字義の混用も伝わった[2]。古代日本の史書では「姓」字によってウヂ、カバネ、あるいはその双方を指す場合がある[2]

古くから、カバネは氏の格を表す尊号であり序列を表すものとしても解されているが、元来はそうした序列を示す機能はなかったとも言われ、カバネがいつ頃、どのような理由で誕生したのかは厳密にはわかっていない。通説的には氏(ウヂ)の確立と共に6世紀半ば頃までには成立していたとされ、天皇(大王)から氏に、あるいは個人とその家族の単位に賜姓されるものであった。代表的な古代のカバネには(オミ)、(キミ)、(ムラジ)、(アタヒ)、(ミヤツコ)、(オビト)などがある。

684年(天武13年)に八色の姓(やくさのかばね)が制定され、上位から順に真人(マヒト)・朝臣(アソミ)・宿禰(スクネ)・忌寸(イミキ)・道師(ミチノシ)・臣(オミ)・連(ムラジ)・稲置(イナギ)の8種に整理された。これらは奈良時代から平安時代にかけて上位の冠位を得ることができる氏と下級の氏を分けるものとして扱われ、上位のカバネを求めて改正が繰り返された。最終的には朝臣・宿禰以外はほとんど賜姓の対象とならなくなり、また平安時代後期頃までに藤原氏に代表される特定氏族が上位の冠位を占有するようになるとともに実質的な意味合いを失っていった。しかし、カバネ自体はその後も命脈を保ち明治時代初期まで存続した。明治維新後、日本人の人名に関する規定が整理される中で、1871年(明治4年)の姓尸不称令によって公文書においてカバネ(尸)を表記しないことが定められた。

起源

カバネの発祥の経緯は明確ではない。通説的には6世紀なかば頃までのある時期に制度として確立し、当初はヤマト王権の朝廷で政治的地位を有していた氏(ウヂ)に対し、地位・職掌に基づき与えられた称号であるとされる[注釈 2]。カバネを冠する氏(ウヂ)の起源もまた明確ではないが、『日本書紀』『古事記』(記紀)において中臣大伴などの氏名が人名に関されて記述されるようになるのは概ね応神朝以降である[5]。外国史料では確実に氏の名であろうと思われる記載が現れるのは『隋書』(7世紀成立)であり、『日本書紀』に引用されている百済系史料(『百済三書』)では欽明朝(6世紀)頃を境に日本人(倭人)の人名表記に氏名と見られるものが表記されるようになっている[6]。また、年代・読解ともに確実ではないが、考古学的史料では隅田八幡神社人物画像鏡に登場する「開中費直」が「河内直」であるとする見解があり、同鏡に記載されている癸未年という年号が503年であるとすれば[注釈 3]6世紀初頭には河内というウヂが存在し、直(アタヒ)というカバネが使用されていたと見ることができる。これらのことから、概ね欽明朝(6世紀)までには氏(ウヂ)とカバネが成立していたであろうと考えられる[8]

古代日本の史料に登場し地名や部名で呼ばれる氏(ウヂ)は原始社会に普遍的に見られる氏族とは大きく異なるものであった。氏は日本の古代国家における政治的集団であり、その氏が冠するカバネはヤマト王権と諸氏の政治的関係の表現であった[9][注釈 4]。ヤマト王権・日本の古代国家の内部構造について厳密なことは不明であるが、恐らく天皇(大王)にある種の精神的権威を持たせて結合の中心とし、緩やかな連合体を構築した大和地方(奈良県周辺)の諸豪族と、各職業を分掌する伴造(トモノミヤツコ)で構成されていたと考えられる[11]。ヤマト王権による日本列島の統合が進み王権が強化されると共に、これらの諸豪族に一定の地位が与えられてそれが継承されるようになり、カバネが付与されて政治的組織として確立されていくようになっていったと見られる[11]。カバネと判断できる称号がヤマト王権から諸氏へ与えられるようになった時期ははっきりとはわからない。『先代旧事本紀』などの文献では垂仁天皇(第11代)ころから朝廷による付与が行われていたという記載があるが、こうした古文献の記述をそのまま史実とすることはできない[12]

カバネという言葉の語源もまた、明確にはわかっていない。「アガメナ(崇名)」「カハラネ」「カブネ(株根)」「カハホネ」「カバネナ」「カボネ」「カラホネ」などといった言葉から派生したとも、朝鮮語で「族」の意味を持つ「骨」字を日本語読みにしたものとも言われる[11]。しかし、カバネという用語が「蘇我臣」「物部連」「河内直」などのように氏名の下に書かれる(オミ)、(ムラジ)、(キミ)といった称号を指すものであったことは確実である[13]。左に挙げたような代表的なカバネは大化の改新(7世紀半ば)以前から存在したと考えられるものである[14]。各カバネの起源も同じく明らかではない。より古い時代には酋長・部族の長たちが、多くの場合は地名に尊称を付して呼ばれており、これらが後のカバネの原型であったとも考えられている(原始的カバネ)[13]。このような尊称にはヒコ(彦)、ヒメ(媛)、キミ(君)、タケル(梟師)、トベ(戸畔)、ネコ(根子)、ミミ(耳)、タマ(玉)、ヌシ(主)、モリ(守)、ツミ(積)などがある[13]。これらのうちのいくつかは『三国志』「魏書」東夷伝倭人条(魏志倭人伝)に対応すると見られるものがあり、極めて古い時代から使用されていたことがわかる[13][注釈 5]。「魏志倭人伝」に見られるこれらの「原始的カバネ」が「官」の名前であり、かつ地名に彦や媛を追加した古代の人名と関係が深いと考えられることから、これらの原始的カバネは元来、尊称というだけではなく官職とも関係の深いものであったとも想定される[15]

古代のカバネ

古代のカバネは(オミ)、(キミ)、(ワケ)、(ムラジ)、(アタヒ)、(ミヤツコ)、(オビト)、国造(クニノミヤツコ)、県主(アガタヌシ)など、およそ30種弱が知られている[12]。氏(ウヂ)に対してどのようなカバネが与えられるかは概ね祖先の出自もしくは官職によって決まったものと言われている[12]。祖先の出自によるカバネの代表例として皇別氏族に多い「臣」、神別氏族に多い「連」があり、官職によるものには「国造」「県主」「稲置(イナギ)」「史(フヒト)」「画師(エシ)」、あるいは「(何々)人」と言ったものがあるとされる[16]。このような観点は近代歴史学のものではあるが、阿部武彦によれば既に大化の改新の頃にはそのような認識が存在したらしく、古代の詔勅の中には「基の王の名をかりて伴造(トモノミヤツコ)となし、祖の名によりて臣連となす」というものがある[16]。前者は王権に奉仕する名代子代のような集団が「造」のカバネを称していたことを、後者は有力な氏が祖先の出自に基づいて「臣」「連」を称していたということを意味すると考えられ、7世紀の人々がカバネについてこのような認識を持っていたことを示す[16]

しかし、これらのカバネが初めて登場するのはより古い時代であり、7世紀の記憶が史実を伝えていると見ることはできない。各カバネを有する氏族に見られる特徴から、カバネは古代の部民制の発達と密接な関わりを持って発展したもの見られ、「臣」「君」「連」「造」「直」などのカバネは与えられた基準が比較的はっきりしている[17]。以下、通説的理解とされる阿部武彦のまとめに従って代表的なカバネについて列挙する。

オミ
「臣」と表記される。畿内地方を中心に、地名を名とする氏(蘇我臣小野臣出雲臣吉備臣など)に多く見られ、その多くは地方的な豪族に由来を持つものと見られる。蘇我臣、和珥臣阿倍臣春日臣葛城臣など、古代において天皇の后妃を出した氏が多く、その数は他のカバネを圧倒している。これらのことから、古くは天皇(大王)と共にヤマト政権を連合的に形成した諸豪族を中心に臣姓が与えられたものと見られる。オミという言葉の意味は不明であるが、何らかの尊敬の意味を持った言葉であろうと言われている。「臣」という漢字が用いられた理由も不明である[18]
キミ
「君」「公」と表記される。いずれもキミと読むが「君」「公」は必ずしも同一のカバネではなかったと見られ、「公」字をあてるものは継体天皇の一族、および継体以降の皇別氏族に与えられている。上毛野氏下毛野氏関東)、綾氏四国)、のように遠隔地の半自立的な豪族が目立ち、関東九州北陸国造に君姓のものが多かったこともこの傾向を明らかにしている。筑紫君、火君のように、君姓氏族は臣姓氏族と同じく地名を氏の名とするものが多いのも特徴である。他に大三輪氏のような祭祀的な伝統を持つ氏族も君姓を名乗っており、「キミ」のカバネは概ね、継体以降に分かれた新しい皇別氏族、遠隔地の半自立的氏族、伝統的な地祇系氏族の三者に与えられたものと見られる[18]
ムラジ
「連」と表記される。この漢字表記の由来は不明瞭であるが[注釈 6]、ムラジという名称は元来「群主(ムレアルジ、あるいはムラウシ)」の意で、伴部の首長を表したものと見られる。後代では「祖の名によって」与えられたカバネとされるものの、中臣連物部連大伴連土師連掃部連のように職掌を氏名とするものが多く、元来は中臣部、物部、土師部などの部民の長として天皇(大王)に奉仕していた人々のカバネであったと考えられる。時と共に職掌外の任務も担うようになりその中から有力氏族として台頭する氏も現れた[22]
ミヤツコ
「造」と表記される。宮ツ子、あるいは奴(ヤッコ)から来ているとも尊称であるとも言われる[注釈 7]。造姓を持つ氏族はほとんどが職業部、名代子代の伴造であり、基本的に伴部の首長のカバネであったと考えられる。同じく伴部の首長のカバネであったと見られる「連」との違いは明確にはわからない。「非常に大ざっぱ」(阿部)な区分としては、山部、海部、土師部などに典型的に見られるように地方に居住し現地で部民を統括していた長が「造」であり、この現地の長を中央で従える広義の伴造が「連」であったかもしれない(山部に対する山部連、海部に対する阿曇連など)。また、山部などと同じく地方に居住し長を持つが、中央の豪族ではなく官司に隷属しており、貢納よりも中央への上番を中心とする部民、例えば馬飼部、鍛冶部、史部、蔵部なども「造」姓のものが多い。このタイプの氏は基本的に渡来人(帰化人)であり、このため「造」のカバネは渡来系氏族に数多く見られる。この二つのタイプの伴部(品部)は前者の方がより古く、「連」によって統率される伴部は基本的に前者のものであり、より新しい後者の伴部の長には「造」しか存在しなかったと見られる。「造」「連」のカバネがこのように画一的に把握できることは、これらのカバネがある時期に(複数回)制定的に定められたことを示す[25]
アタヒ
「直」と表記される。「費」「費直」と書くこともあり、アタエとも読む。語源については、アタは「貴」、エは「兄」を意味するとも、朝鮮語で上長の意味とも言われる。「直」字が使用された理由は不明瞭であるが「番人」の意味であり、地方の長官としての役割を示すとも考えられる。国造のカバネに良く見られるが、全ての国造が直姓であったわけではなく、主に近畿吉備出雲以外の中国地方四国東海道関東南部に直姓の国造が広がっていた。関東北部や九州の国造には君姓のものが多く、吉備と出雲の国造は臣姓である。ヤマト王権は征服された地方豪族を完全に滅ぼすことは少なく、概ね国造として地位を認め支配したと見られ、そうした地方豪族に「直」のカバネが与えられていったものと見られる。
オビト
「首」と表記される。首姓氏族には大きく3類型がある。1つは伴部(山部首、海部首、忌部首など)で、例外はあるが地方に居住して現地の部民を統括する地方有力者である。2つ目は渡来人(帰化人)系氏族(西文首、馬飼首、韓鍛冶首など)で、官僚的な職位によるものと見られ職掌名を氏の名とする。3つ目は屯倉(ミヤケ)の管理者、県主稲置であり、地名を氏の名とする(例えば大戸村の屯倉の管轄者が大戸首、志紀県主が志紀首とされるなど)。「首」姓氏族全体に共通して地方村落の首長という性質が見られる[26]

八色の姓

天武天皇13年(684年)、八色の姓(やくさのかばね)の制定が行われた。これは「『氏姓』変革の歴史に於いて画期的な事件として注目されている[27]。」(阿部)この時の詔では旧来の諸氏の族姓を改めて、上位から順に真人(マヒト)・朝臣(アソミ[注釈 8])・宿禰(スクネ)・忌寸(イミキ)・道師(ミチノシ)・臣(オミ)・連(ムラジ)・稲置(イナギ)の8種のカバネを与えることが宣告された[27]

この族姓改革の理由、意図については様々に論じられており、大化の改新以来の対氏族政策の最終的な処置として、古い氏姓制度を新しい体制の中に取り込むために行われた、または古い姓に付随した政治的特権を整理し新しい体制を構築するためのものであったなどの見解がある[28]。また、上記のような対氏族政策とは別に、大化の改新以降の政治改革と関係があり、新たに整備された官僚制が、族姓制度の改革をも要求したのではないかという見解もある[29]

いずれにせよ、八色の姓の制定は単独で実施された孤立した政策ではなく、制定の数年前から「造」「値」姓の氏、または個人に次々と「連」姓が与えられていたことが『日本書紀』に記録されている[29]。これもまた、天武朝期における官僚制の強化と関係があるとも考えられ、臣・連・伴造・国造、あるいは品部といった古い政治組織が改変されて律令官へと組み替えられる中で、この変化に合わせてカバネも変更されたと見られる[30]。また、官の位階の昇進について職務精励を評価して昇進させるという規定が存在したことで、旧来「臣」「連」姓を持つ氏に独占されてきた上位の冠位に登る「造」「直」出身者が登場した。この情勢が天武朝期に「造」「直」姓から「連」姓への改姓が繰り返された理由であるかもしれない[31]。実際にはこのような大きな人事制度の変更とそれに伴う急激な昇進は紛争の種であったらしく、天武11年(682年)には人事査定において行状のみならず族姓も勘案して考課することとしし、「族姓が定まらずば考選の色にあらず」とされた[32]

このような中で天武13年(684年)の八色の姓の制定は行われ、翌天武14年には位階制の拡張が行われた[32]。八色の姓で定められた姓のうち、実際に賜姓が行われたのは基本的に真人、宿禰、朝臣、忌寸の4つだけであった[32]。なぜ上位の4姓以外が運用されなかったのかについて記録は残されていない。八色の姓の制定は恐らくは官人の任用・昇進において族姓を考慮することが明確化されたことによって、族姓の等級をはっきりさせる必要が生じたことから、カバネを整理し改めたものと考えられる。また、それと併せて皇親の地位を明確化する意図があったとも言われている[33]。天武朝期に真人姓が与えられた氏のうち、出自がわかっているものは継体天皇の近親またはそれ以後の王裔である[34]

阿部武彦は八色の姓の制定以降、奈良時代を通じて改姓の実例はほとんどが5位以下の低い位階のものであることに注目し、忌寸以上の姓を与えることは小錦(律令制の規定では5位[注釈 9])以上の冠位を得ることができる氏であることを定めるものであったことに重点が置かれており、これより上位の姓を得ることに人事上の意味があったためであるとしている[37]。昇進に一定以上のカバネが必要であったことから官人たちは競って改姓を願い出るようになった[38]。八色の姓が制定された天武朝以降、六国史に記録された改姓は1200件にも及ぶ[38]。この時代の改賜姓は上述のように5位以下の低い位階の官人を中心としており、また個人およびその近親といった小さな単位で行われていることが特徴である[38]。このような事実は、八色の姓制定時点で名門とされた氏には当初から5位以上の冠位に昇進可能なカバネが与えられていたことを予想させ、また賜姓の単位が個人レベルまで細分化していることはカバネの上昇が官人としての活躍と関連していたことを示す[38]

こうして、古代の政治組織の確立と密接に関わっていたカバネは、奈良時代に入ると律令体制の確立と共に整備された官僚制と結びつくことになる。奈良時代を通じて頻繁に行われた改姓は時期によって異なる特徴がある。阿部武彦によれば概ね4期に区分することが出来、それぞれの時代の特徴は以下のようなものである。

  1. 天武天皇から元正天皇時代:八色の姓の制定時、基本的な方針としては遠い皇親に朝臣、神別氏族には宿禰、といったように氏族の出自を重視して上位のカバネが授与された。しかし、この時期はカバネの変更は少なく無姓の官人に臣・連・君・造と言った古いカバネが与えられている。なぜ古い姓の授与が行われいたのかは不明である[39]
  2. 聖武天皇から称徳天皇時代:多数の渡来人(帰化人)にカバネが与えられていることに特徴がある。また、聖武天皇の時代には忌寸・連の賜姓が中心であるのに対し、時代が進むほど宿禰や朝臣など上級のカバネが与えられるようになっていった。渡来人(帰化人)への賜姓は中下層の官人における彼らの重要性の増大によると考えられるが、これによって朝臣・宿禰といったカバネで元来考慮されていた氏族の出自の基準が形骸化し、最終的には完全に失われた。『新撰姓氏録』ではこの世相について序文で『諸蕃にゆるして願にまかせて之を賜ふ。遂に前姓後姓をして文字これに同じく、蕃俗倭俗相疑わしむ」と描写している[40]
  3. 光仁天皇から桓武天皇の時代:カバネ賜与の整理期であり、賜姓件数が減少するとともに諸氏の出自を調査し、石上朝臣を物部朝臣に服するなど、氏名の復古的な動きがみられた。氏名の変更・改姓に祖先の出自を重視するようになっている点において第2期から大きく変化している[41]
  4. 平城天皇以降:仁明天皇の時代頃までに朝臣・宿禰以外のカバネが全く賜姓の対象とならなくなる。これは上級の官が特定の氏族に独占される傾向が強くなっていったことで、冠位の昇進において有力な氏との関係性の方が重要となり、カバネの高低に実質的な意味がなくなっていったことと関係していると考えられる。カバネに比べ氏名の重要性が増したことで、各氏が昇進が見込める(本宗家の)氏名に変更を願い出るケースが目立つようになる(引田朝臣や狛朝臣から阿倍朝臣への変更など)。最終的に上級官職のほとんどが藤原氏に独占されるにに至って賜姓の記録は急速に減少し、光孝天皇代にはわずか8件(全て朝臣)にまで減少する[42]

このように、元々ヤマト王権との政治的関係性の表現として登場したカバネは、天武朝における皇親政治の進展と律令制・官僚制の整備と共に八色の姓という形で再編され、官人たちは人事上の必要性から上位のカバネを競って求めるようになったものと見られる。再編されたカバネは本質的に皇室に奉仕する官僚に天皇から与えられるものであったが、その重要性は官位が特定の氏に独占されていくと共に失われていった。そして最終的に藤原氏が政権を掌握すると共に、カバネの高低はその実質的な意義を喪失した[43]

カバネについての諸論

上記のような通説的理解についてはさらに検討が重ねられており、上記のような通説的理解によってカバネの実態が完全に解明されているわけではない。

問題の1つはカバネに関わる史料状況である。カバネの記録上の初出は多くの場合7世紀後半以後の史料においてであり、7世紀前半以前の状況を史料から跡付けることには困難が伴う。例えば「造」というカバネの存在を史料から辿ることができるのは「馬養造」「神功部造」が670年に登場するのが最古の確例であり、「連」姓の確例は藤原宮出土木簡522号にある「井於連」(684年)が最古である[24]。「連」の用例のより古い記録は『日本書紀』巻19(欽明紀)引用の『百済本記』に「物部至々連」「津守連」とあるが、恐らく7世紀末の表記と見られ[24]、恐らくは法隆寺の幡銘にある「山辺名嶋弖古連公」が現存最古の用例と見られ664までは遡り得るという[24]。このような問題から、例えば「連」「造」といったカバネが実際に7世紀前半以前に実在した確証は乏しく[44]、伴造設置の年代を『日本書紀』から復元することはほとんど不可能とも言われる[45]

山尾幸久は『日本書紀』において「百官」の「群臣」がほとんどの場合「臣連等」と「伴造等」に二分されていること[46]、「連」姓の氏に「尾張連」「狭井連」「手嶋連」など地名を氏名とする氏族が存在することや[注釈 10]、『日本書紀』巻6(垂仁紀)に「土部連」から「土部臣」への改姓記事があることなどを指摘し、「臣」「連」や「造」といったカバネ差異は本質的には出自の差異(皇別の「臣」、神別の「連」であり、職掌や政治的地位とカバネが直結していたわけではないとしている[48][注釈 11]

カバネの廃止

その後、カバネは、公的な制度としては明治維新の初期まで、命脈を保った。たとえば、徳川家康が「源朝臣家康」、初期の明治政府の公文書では大村益次郎は「藤原朝臣永敏」、大久保利通は「藤原朝臣利通」、大隈重信は「菅原朝臣重信」、山縣有朋は「源朝臣有朋」、伊藤博文は「越智宿禰博文」など、姓(カバネ)と諱(いみな)によって表記することを通例とした[注釈 12]。これらの「朝臣」「宿禰」の真偽はともかくとして、天皇及び朝廷に仕えるために必要不可欠とされた氏・姓が用いられたものである。

明治4年10月12日1871年11月24日)、姓尸不称令(せいしふしょうれい、明治4年太政官布告第534号)が出され、一切の公文書に「姓尸」(姓とカバネ)を表記せず、「苗字實名」のみを使用することが定められた[49]。これに先立ち、明治政府は、明治3年(1870年)の平民苗字許可令(明治3年太政官布告第608号)[50]、明治5年(1872年)の壬申戸籍編纂の二段階によって、「(シ、うじ)=(セイ、本姓)=苗字=名字」の一元化を成し遂げ、旧来の氏・姓を公称することを自ら廃止した。このため、事実上、「藤原」などの旧来の氏、「朝臣」などの姓は、その役割を完全に終えた。この壬申戸籍以後、旧来の姓は、それと一体化していた旧来の氏と共に、法的根拠をもって一本化された「(シ、うじ)=姓(セイ、本姓)=苗字=名字」に完全に取って代わられることとなる。この新たな氏姓制度が日本国民全員に確立されたのは、明治8年(1875年)の平民苗字必称義務令(明治8年太政官布告第22号)[51]によってである。

脚注

注釈

  1. ^ 古代の氏姓に関連する用語は曖昧さを含み、関連する用語や概念の範囲が研究者によって微妙に異なる場合がある。本項での定義は中村 2009のまとめを参考にしているが、便宜上のものであり、厳密なものではないことに注意。
  2. ^ 今日の通説的理解は基本的に阿倍武彦の研究に基づくものであり[3][4]、本項では阿部の見解を基本としてカバネについてまとめる。
  3. ^ 癸未年は503年の他、383年、443年の可能性もあるが、503年と見るのが通説である[7]
  4. ^ 中村友一は「氏(ウヂ)」について次のようにまとめている。「日本古代の『氏』は家族(family)・親族を中心としつつも、その周縁などに擬制的同祖同族関係の氏族も結びついて構成される政治集団である。いわゆる、親族・血縁集団の集合で構成される西洋歴史学の概念である『氏族(Clan)』とは異なるものである[10]。古代日本の史書では「姓」字によってウヂ、カバネ、あるいはその双方を指す場合がある[2]。」
  5. ^ 例えば複数の国に見られる官名「卑狗(ヒコ)」「卑奴母離(ヒナモリ)」や、不弥国にみえる「多模(タマ)」、投馬国に見える「弥弥(ミミ)」等[13]
  6. ^ 山尾は「連」字を用いる理由について連続(豆々企[19])の意味の連を宛てたらしいものとしている[20]。朝鮮において主張を意味する「連」が日本語のムラジと意味的に近かったため、この漢字表記が採用されたとする説もある[21]
  7. ^ 阿倍武彦は「奴」(ヤッコ)、あるいは貴人の尊称とも言われるが明瞭ではないと述べている[23]。山尾幸久は「宮ツ子」から来ており「宮の子」の意味であると解している[24]
  8. ^ 後に「アソン」、更に「アッソン」とも。
  9. ^ 小錦は大化3年(647年)の七色十三階冠制定の際に設置された冠位。途中変遷を経つつ、天智3年(664年)には(大小)織、(大小)縫、(大小)紫、大錦(上中下)、小錦(上中下)という位階になっていた[35]。小錦下以上がいわゆる上級の官人となる[36]
  10. ^ これらは通説的には「臣」を帯びるのが自然である[47]
  11. ^ この理解に従えば、「連」を「造」を統括する古い職掌のカバネとする定義とは異なるものとなる。渡来(帰化)氏族は「造」姓のものが多く、全く連姓の氏族が見られないが、カバネが出自と結びついているとするならば、渡来氏族が神別のカバネである「連」を帯びず、基本的に「造」姓である場合が多いのは当然のものと理解できるという[48]
  12. ^ たとえば、明治4年6月の『職員録・改』(国立公文書館アジア歴史資料センター ref.A09054276400)では、「従三位守大江朝臣孝允木戸」のように、位階・「行」(位階相当より低い官職の場合)または「守」(位階相当より高い官職の場合)・本姓・カバネ・諱に苗字を付記してある。なお、姓尸不称令が出された後の同年12月の『諸官省官員録』(同、ref.A09054276600)では、位階・苗字・実名と簡素化されている。

出典

  1. ^ 中村 2009, pp. 6-7
  2. ^ a b c 中村 2020, p. 25
  3. ^ 篠川 2009, p. 28
  4. ^ 山尾 1998, pp. 24-28
  5. ^ 阿部 1960, p. 17
  6. ^ 阿部 1960, pp. 20-21
  7. ^ 阿部 1960, p. 23
  8. ^ 阿部 1960, p. 24
  9. ^ 阿部 1960, p. 1
  10. ^ 中村 2020, p. 32
  11. ^ a b c 阿部 1960, p. 28
  12. ^ a b c 阿部 1960, p. 31
  13. ^ a b c d e 阿部 1960, p. 29
  14. ^ 阿部 1960, p. 16
  15. ^ 阿部 1960, p. 30
  16. ^ a b c 阿部 1960, p. 32
  17. ^ 阿部 1960, p. 52
  18. ^ a b 阿部 1960, p. 37
  19. ^ この語は『日本書紀』巻2に「数多く長く続くこと」を意味する語として現れている。コトバンク参照
  20. ^ 山尾 1998, p. 49
  21. ^ 阿部 1960, p. 39
  22. ^ 阿部 1960, pp. 39-40
  23. ^ 阿部 1960, p. 42
  24. ^ a b c d 山尾 1998, p. 38
  25. ^ 阿部 1960, pp. 42-48
  26. ^ 阿部 1960, pp. 50-51
  27. ^ a b 阿部 1960, p.65
  28. ^ 阿部 1960, p.66
  29. ^ a b 阿部 1960, p.68
  30. ^ 阿部 1960, p.71
  31. ^ 阿部 1960, p.72-73
  32. ^ a b c 阿部 1960, p.73
  33. ^ 阿部 1960, p.74
  34. ^ 山尾998, p. 17
  35. ^ 虎尾 2021, pp. 6-7
  36. ^ 虎尾 2021, p. 20
  37. ^ 阿部 1960, p.75
  38. ^ a b c d 阿部 1960, p.78
  39. ^ 阿部 1960, p. 80
  40. ^ 阿部 1960, p. 81
  41. ^ 阿部 1960, p. 82
  42. ^ 阿部 1960, p. 84
  43. ^ 阿部 1960, p. 85
  44. ^ 山尾 1998, p. 32
  45. ^ 山尾 1998, p. 37
  46. ^ 山尾 1998, p. 35
  47. ^ 山尾 1998, p. 40
  48. ^ a b 山尾 1998, pp. 30-45
  49. ^ 明治4年10月12日(1871年11月24日)、「公用文書ニ姓尸ヲ除キ苗字実名ノミヲ用フ」、国立国会図書館近代デジタルライブラリー。
  50. ^ 明治3年9月19日(1870年10月13日)、「平民苗氏ヲ許ス」、国立国会図書館近代デジタルライブラリー 。
  51. ^ 明治8年(1875年)2月13日、「平民自今必苗字ヲ唱ヘシム」、国立国会図書館近代デジタルライブラリー。

参照文献

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  • 太田亮著『日本上代における社会組織の研究』1921年、溝口睦子「記紀神話解釈の一つのこころみ」『文学』1973年-1974年
  • 篠田賢著「カバネ「連」の成立について」成城大学大学院文学研究科編『日本常民文化紀要 第二十六輯』(成城大学、2006年)
  • 篠川賢『物部氏の研究 【第二版】』雄山閣〈日本古代氏族研究叢書 1〉、2015年9月。ISBN 978-4-639-02375-3 
  • 虎尾達哉『古代日本の官僚 天皇に仕えた怠惰な面々』中央公論新社中公新書〉、2021年3月。ISBN 978-4-12-102636-1 
  • 中村友一『日本古代の氏姓制』八木書店、2009年5月。ISBN 978-4-8406-2036-9 
  • 中村友一 著「I-3 氏姓制と部民制」、佐藤信 編『テーマで学ぶ日本古代史 政治外交編』吉川弘文館、2020年6月、25-34頁。ISBN 978-4-642-08384-3 
  • 山尾幸久『カバネの成立と天皇』吉川弘文館、1998年4月。ISBN 978-4-642-02171-5 

関連項目