ブリュノワ

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Brunoy


行政
フランスの旗 フランス
地域圏 (Région) イル・ド・フランス地域圏
(département) エソンヌ県
(arrondissement) エヴリー郡
小郡 (canton) 小郡庁所在地
INSEEコード 91114
郵便番号 91800
市長任期 ローラン・ベタイユ
2001年-2008年
自治体間連合 (fr) fr:Communauté d'agglomération du Val d'Yerres
人口動態
人口 25,981人
2007年
人口密度 人/km2
住民の呼称 Brunoyen
地理
座標 北緯48度41分52秒 東経2度30分16秒 / 北緯48.6979148度 東経2.5044322度 / 48.6979148; 2.5044322座標: 北緯48度41分52秒 東経2度30分16秒 / 北緯48.6979148度 東経2.5044322度 / 48.6979148; 2.5044322
標高 平均:m
最低:37 m
最高:94 m
面積 6.62km2
Brunoyの位置(フランス内)
Brunoy
Brunoy
公式サイト www.brunoy.fr
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ブリュノワBrunoy)は、フランスイル=ド=フランス地域圏エソンヌ県コミューン

地理[編集]

パリの南東約21マイルの地点にある。セーヌ川の支流イエール川が横切る。コミューン南部はセナールの森に含まれる。

交通[編集]

由来[編集]

ブリュノワ最古の名前は、ラテン語のブレンナドゥム(Brennadum)である。Brennとは、ケルト語で首領を意味し、ブレンナドゥムとは『ブレンの家』を意味するという説が優勢である[1]

1799年にはBrunoisとつづられていたが、その後現在のつづりとなっている。

歴史[編集]

カッシーニ地図に描かれたブリュノワ
19世紀のイエール川

先史時代のブリュノワは、2つの地区に分かれて人が暮らしていた。セナールの森にあった砂の採取場と、イエール川の湾曲部である。

5世紀以降、フランク族がこの地域に定住した。638年、ダゴベルト1世はブリュノワの王領を分散させた。同じく、サン=ドニ教会もブリュノワの土地を受け継いでいた。ブリュノワはいくつかの封土に分けられていた。トゥルネルは王領で、砂採取場の近くに城が置かれていた。この軍事用の城は1346年にフィリップ6世が水の憲章を発令した場である。唯一残っていた塔は、1836年に崩れ落ちてしまった。

分散化されていた封土はラノワ家によって再度まとめられた。1656年、アンヌ・ド・ラノワはブリュノワを持参金としてエルブフ公シャルル3世・ド・ロレーヌの元へ嫁いだ。1676年、ブリュノワを含む封土がロシュフコー家のものとなった。

1722年、王の財務官ジャン・ド・モンマルテルがブリュノワの封土を購入した。1757年にブリュノワは侯爵領に昇格した。彼は多額の資産をつぎ込んで城を飾り立てた。彼の城をルイ15世ポンパドゥール夫人が訪れている。ジャンの子であるブリュノワ侯アルマンの代に、華美な生活がたたってブリュノワ侯爵領は再び売りに出された。次の領主はルイ16世の弟であるプロヴァンス伯ルイ・スタニスラス(のちのルイ18世)であった。彼は自分の好みに城を改装し、セナールの森で狩猟を楽しんだ。フランス革命によって、巨大な城と領土は廃された。

1849年、ブリュノワに鉄道が敷かれた。ベル・エポック期、イエール川沿いやセナールの森にギャンゲットやバーが軒を連ねた。同じ時代に土地の分譲が始まった。ブリュノワは住宅地へ変貌していき、1906年に人口が2,745人であったのが、1936年には8,149人に達していた。20世紀半ばから、大規模な集合住宅群が次々と建設されていった。1968年に建てられたレ・ゾー・マルデル団地は約6000人が住めるものだった。

政治[編集]

ブリュノワは右派傾向のコミューンである。ブリュノワにおける2002年フランス大統領選挙の第一回投票では、ジャン=マリー・ル・ペンが約15%の票数を獲得して首位となった。しかし2004年の地方選挙やEU関連の選挙では左派寄りの傾向が見られた。

姉妹都市[編集]

出身者[編集]

脚注[編集]

  1. ^ Brunoy Esquisse historique, première partie, Charles Mottheau