アポロ15号

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アポロ15号
Apollo 15-insignia.png
ミッション名 Apollo 15
コールサイン 司令機械船: エンデバー
月着陸船: ファルコン
乗員数 3名
打上げ 1971年7月26日
13:34:00 (UTC)
ケネディ宇宙センター39番A発射台
月面着陸 1971年7月30日
22:16:29 (UTC)
ハドレー谷(北緯26度07分55秒99 東経3度38分01秒90)
月面船外活動時間 LM上待機: 33分07秒
1回目: 6時間32分42秒
2回目: 7時間12分14秒
3回目: 4時間49分50秒
合計: 18時間34分46秒
司令船外活動時間 39分07秒
月面滞在時間 66時間54分53.9秒
標本採集量 77 kg
着水 1971年8月7日
20:45:53 (UTC)
北緯26度13分 西経158度13分
合計時間 12日07時間11分53秒
月周回数 74周
月周回時間 145時間12分41秒68
質量 司令機械船: 30,370 kg
月着陸船: 16,430 kg
Apollo 15 crew.jpg
左から:デイヴィッド・スコットアルフレッド・ウォーデンジェームズ・アーウィン

アポロ15号(あぽろ15ごう、Apollo 15)はアポロ計画における第9番目の有人飛行ミッション、第4番目の月着陸ミッションである。このミッションは以前のアポロミッションに比べて科学調査をより重視し、月面に長時間滞在することを目指した「Jミッション」の最初の例であった。

乗員[編集]

予備乗員[編集]

支援乗員[編集]

ミッション内容[編集]

  • 質量:
    • 打上げ時質量: 2,921,005 kg
    • 司令機械船: 30,354 kg(司令船: 5840 kg, 機械船: 24,514 kg)
    • 月着陸船: 16,428 kg(再上昇時: 4,951 kg)
  • 地球軌道: 往路3周、復路約1周
  • 月軌道: 74周

月着陸船ドッキング[編集]

船外活動[編集]

船上待機[編集]

  • スコット(月着陸船上部ハッチ部分で待機)
  • 開始時刻: 1971年7月31日00時16分49秒 (UTC)
  • 終了時刻: 1971年7月31日00時49分56秒 (UTC)
  • 活動時間: 33分07秒

EVA 1[編集]

  • スコット、アーウィン
  • 開始時刻: 1971年7月31日13時12分17秒 (UTC)
  • 終了時刻: 1971年7月31日19時45分59秒 (UTC)
  • 活動時間: 6時間32分42秒

EVA 2[編集]

  • スコット、アーウィン
  • 開始時刻: 1971年8月1日11時48分48秒 (UTC)
  • 終了時刻: 1971年8月1日19時01分02秒 (UTC)
  • 活動時間: 7時間12分14秒

EVA 3[編集]

  • スコット、アーウィン
  • 開始時刻: 1971年8月2日08時52分14秒 (UTC)
  • 終了時刻: 1971年8月2日13時42分04秒 (UTC)
  • 活動時間: 4時間49分50秒

EVA 4[編集]

  • ウォーデン(地球帰還軌道上)
  • 開始時刻: 1971年8月5日15時31分12秒 (UTC)
  • 終了時刻: 1971年8月5日16時10分19秒 (UTC)
  • 活動時間: 39分07秒

概要[編集]

船長のデイヴィッド・スコットと月着陸船操縦士のジェームズ・アーウィンは月面に3日間滞在し、月面船外活動で合計約18時間半を船外で過ごした。アポロ15号は月の海以外の場所に着陸した初めてのミッションで、雨の海地方のハドレー谷の近く、Palus Putredinus(腐敗の沼)と呼ばれる地点に着陸した。二人の飛行士は初めて月面車を使って付近を探査し、以前のアポロミッションよりもずっと遠くの場所まで移動することができた。彼らは合計77kgの月面試料を採集した。

一方、月周回軌道上の司令船操縦士アルフレッド・ウォーデンは科学実験装置モジュール (SIM) を用いて月面の調査を行ない、パノラマカメラやガンマ線分光計、マッピングカメラ、レーザー高度計質量分析器などを用いて月面環境を詳細に調べた。ミッションの最後には月を周回する孫衛星の打ち上げも行なった。

三人の宇宙飛行士たち全員がミシガン大学の学位を持っていた。

ミッションのハイライト[編集]

障害事象[編集]

打上げ時の第1段分離の直後、第1段に搭載されていた装置が機能を喪失した。調査の結果、これは第2段エンジンの排気が第1段を直撃して電気回路が焼けたために起こったことが判明した。このような事象はこれ以前には発生した例がなかった。この原因は逆推進ロケットの装填数を8個から4個に減らしたためであることが後に分かった。分離時に実際に第1段と第2段が不自然なほど接近していたことが分かっており、これは第1段に搭載されているF-1エンジンの推力の減衰が遅かったことと逆推進ロケットのうちの一つが正常に働かなかったことによって双方の衝突を引き起こしたものと考えられた。これ以降の飛行では逆推進ロケットは開発当初の装填数に戻された。

計画・訓練[編集]

1971年3月19日、ニューメキシコ州で地質学の実地訓練を受けるデイヴィッド・スコット船長

アポロ15号の乗員は過去にアポロ12号の予備乗員だったメンバーである。12号の正乗員が全員海軍の出身者であった一方、予備乗員は全員が空軍の出身で、両者の間には友好的ながらも競争意識があった。

当初の計画ではアポロ15号は12号、13号14号と同様の「Hミッション」となる予定だった。しかしアポロ13号ミッション終了後の1970年9月2日に NASA は、当初予定での15号と19号のミッションを中止すると発表した。これに伴って残りのミッションでの成果を最大限に得るため、新たにアポロ15号は科学調査主体の「Jミッション」として飛行することになり、月面車を使用した初ミッションという栄誉を得ることとなった。

計画変更に伴って15号チームの訓練に生じた変更点の大きな一つは地質学の訓練であった。これ以前の飛行でも乗員は野外地質学の訓練を受けていたが、15号では初めてこの訓練が優先的に行なわれることになった。スコットとアーウィンは先カンブリア時代を専門とするカリフォルニア工科大学の地質学者リー・シルバーから訓練を受けた。シルバーは後にアポロ17号に搭乗する地質学者ハリソン・シュミットが、それまで NASA が任用していた地質学の講師に代えて推薦した人物だった。シルバーは数々の業績の中で特に、1950年代後半に、岩石中のウラン同位体崩壊する現象を用いて岩石の年代測定を行なう手法の重要な改良を行なった仕事で知られていた。

最初シルバーは普通の野外地質学の講義と同様に、15号の正乗員と予備乗員を様々な地質学的特徴のある場所に連れて行った。しかし打上げが近づくにつれてこういった野外調査は次第に現実的なものになった。乗員達は月面で使用するバックパックの模型を背負い、テントにいる交信担当管制官とトランシーバーで通信を行なった(ミッションの間は通常、宇宙船交信担当官 (Capsule Communicator; CapCom) が乗員との会話を行なう唯一の係となる)。ミッションの本番では地質学者のグループが交信担当官となり、宇宙飛行士の説明を頼りに調査地域の状態を把握することになる。

15号でハドレー谷付近に着陸するという決定は1970年9月になされた。着陸地点選定委員会は着陸地点をハドレー谷とマリウス・クレーターの2ヶ所に絞っていた。これらの近くには火山性のものと思われる低いドーム状の地形が点在していたためである。アポロミッションではミッションの船長の意向が最終決定ではないものの常に強い影響力を持っていた。15号のデイヴィッド・スコットの選択は明快で、ハドレー谷を詳細に探査することを希望した。

司令船操縦士のアルフレッド・ウォーデンも地質学の訓練を受けたが、彼の訓練はやや異なるものだった。彼はエジプト人のファールーク・エル=バズとともに飛行機で様々な地域を飛行し、月周回軌道上の司令機械船から見た時に月面の地表が流れていく速度を想定した訓練を受けた。この訓練によって彼は眼下を通り過ぎる物体の観察にかなり熟練した。

ハードウェア[編集]

アポロ15号で初めて使用された月面車ボーイング社が受注して1969年5月に開発された(ボーイングはサターンVロケットの第2段 (S-II) の開発企業でもあった)。月面車は格納時には 1.5m × 0.5m のサイズに折り畳むことができた。無負荷時の重量は 209kg で飛行士2名と装置類を搭載した場合の重量は 700kg であった。各車輪は独立駆動で、電動モータにより各 1/4 馬力 (200W) の出力を発生した。車の操縦はどちらの飛行士も可能なようになっていたが、通常は船長が操縦した。移動速度は約 10-12km/h で、これにより飛行士は初めて着陸地点から遠く離れた場所まで移動し、なおかつ十分な時間を科学調査に費やすことができるようになった。

アポロ15号を打ち上げたサターンVロケットは SA-510 と呼ばれ、同型機で10機目の実飛行機体だった。15号の司令機械船は CSM-112 で、キャプテン・クックの南太平洋探検の第一回航海の帆船エンデバー号にちなんで、コールサインはエンデバー (Endeavour) と命名された。月着陸船は LM-10 でコールサインは空軍学校のマスコットにちなんでファルコン (Falcon) と命名された。当初の計画に基づくHミッションでのアポロ15号には CSM-111 と LM-9 が使用される予定だった。この CSM-111 司令機械船はアポロ・ソユーズテスト計画で使用され、月着陸船 LM-9 は未使用のまま現在はケネディ宇宙センターに展示されている。

アポロ計画のロケットのペイロードが重量化するにつれて、ロケットの打上げ軌道やサターンV自身にも変更が加えられるようになった。ロケットはより南寄りの方角(方位角 80-100 度)へ打ち出されるようになり、地球周回軌道は高度166kmまで引き下げられた。これら二点の変更により、従来より 500kg 余計に打ち上げられるようになった。ロケットの推進剤の余裕分も削減され、第1段 (S-IC) の逆推進ロケットも8個から4個に減らされた。第1段の5基のエンジンのうち先に燃焼停止する中央の1基と分離直前まで燃焼する外側の4基の両方ともに燃焼時間が延長された。また第2段 (S-II) にもポゴ振動を抑えるための改良が加えられた。

月着陸船では燃料と酸化剤のタンクが下降ステージ・上昇ステージともに大きくなり、下降ステージのエンジンスカートも延長された。また電力供給を増やすためにバッテリーと太陽電池が追加された。これらの変更によって月着陸船の重量は約 16,330 kg となり、従来より 1,800 kg 増加した。

さらに15号から宇宙飛行士も新型の宇宙服を着るようになった。これ以前のアポロの飛行では、月へ向かわなかった飛行も含めて船長と月着陸船操縦士は生命維持装置と水冷装備、通信ケーブルの3つのコネクタがそれぞれ2列に並んで付いている宇宙服を着ていた。アポロ15号では A7L-B と呼ばれる新しい宇宙服が採用され、これにはこれらのコネクタが三角形に配置されていた。このコネクタの配置変更と、着用ジッパーの位置変更(旧型では上下に動かすタイプだったのを右肩から左の臀部へ斜めに配置した)によって、宇宙服のウエストに新たにジョイントを付けることが可能になり、これによって飛行士は体を完全に折り曲げたり月面車に座ったりすることができるようになった。またバックパックも長時間の月面歩行用に改良された。司令船操縦士は以前は5個のコネクタが付いた宇宙服を着用していたが、15号からは地球への帰還軌道上で機械船からフィルムカートリッジを回収する軌道上船外活動が予定されたため、水冷用コネクタを省略したコネクタ3個の新型宇宙服を着ることになった。

アポロ15号機械船の SIM ベイ (NASA)

ケネディ宇宙センターの技術者は科学実験装置モジュール (SIM) ベイについて多くの問題を抱えていた。SIM ベイは15号で初めて搭載されたが、開発当初から問題に直面した。問題は、これらの装置が無重力環境で使用するように設計されているにもかかわらず、地上の1G環境でテストせざるを得ないところにあった。質量分析器やガンマ線分光計など、7.5m のブームを伸ばす機器の試験では、宇宙環境を模擬するガイドレールを用いたテストしか行なえず、このような条件ではうまく動作しなかった。ガンマ線分光計のテストを行なった際にはテスト場所の半径16km以内にある全てのエンジンを停止させなければならなかった。

全ての装備がサターンVロケットに取り付けられると、ロケットは39A発射台へと移動した。1971年6月下旬から7月初旬にかけて、ロケットと移動式整備塔には少なくとも4回の落雷があったがいずれも小規模な被害で済んだ。

打上げ[編集]

アポロ15号は1971年7月26日午前9時34分00秒(EDT)に打ち上げられてから月に到達するまで4日間を要した。地球周回軌道に約2時間滞在した後、サターンVの第3段 (S-IVB) に再点火されて月へと向かった。

司令機械船の下部に格納されている月着陸船を引き出す作業中、制御パネルに機械船推進系のバルブが開いており、エンジンが点火している旨を表すランプが点灯した。しばらくしてエンジンの冗長バルブを制御するスイッチの一つがショートしているのが見つかり、これに対処するための対策が講じられた。スコットとアーウィンが月着陸船を最初に点検した際には、テープメータのガラスカバーが割れているのが見つかり、ガラスの破片を吸い込まないように掃除しなければならなかった。

打上げから4日目に彼らは月周回軌道に入り、月面降下の準備に入った。

月周回軌道での作業[編集]

スコットとアーウィンが月面で3日間にわたって探査を行なう間、ウォーデンは多忙な観測スケジュールをこなした。アポロ15号は SIM ベイを搭載した初めてのミッションで、このモジュールにはパノラマカメラ、ガンマ線分光器、マッピングカメラ、レーザー高度計、質量分析器などが含まれていた。ウォーデンはカメラのシャッターやレンズを操作したり、様々な機器のスイッチを入れたり切ったりしなければならなかった。地球への帰還途中には、ウォーデンは船外活動を行なってカメラからフィルムカセットを回収した。

月面での作業[編集]

星条旗に敬礼するジェームズ・アーウィン
アポロ15号で採集されたジェネシス・ロック

アポロ15号は月面で3回の船外活動を行なった初めてのミッションだった。月面の北緯26度08分、東経3度38分に着陸した後、スコットは月着陸船の上部ハッチを開けて着陸地点付近の観察を行なった。第1回の船外活動で飛行士二人は月面車に乗ってハドレー・デルタ山の麓に向かった。その後月着陸船に戻ると、二人はアポロ月面実験パッケージ (ALSEP) の展開を始めた。スコットは熱流実験のために月面にドリルで穴を掘る作業に非常に苦労し、作業を終えるために翌日も穴を掘りに来なくてはならなかった。

第2回の船外活動でスコットとアーウィンは再びハドレー・デルタ山の麓へ向かったが、この時は山の斜面を上った。ここで彼らはジェネシス・ロックと呼ばれる非常に古い岩石を発見した。着陸船に戻ってからスコットは熱流実験用の穴を掘り終え、再び苦労して穴を掘ってコアサンプルを採取した。ここでも彼は翌日まで作業を持ち越さざるを得なかった。

コアサンプルの採取に手間取ったため、北部地域への縦断は中止し、飛行士達はハドレー谷の縁まで遠征した。月着陸船に戻った後、スコットはハヤブサの羽と自分の地質調査用ハンマーとを月面に落とす実験を行い、重力場の下では物体が落下する割合は質量によらないことを示した。

アポロ15号の月面車には以下のように記された銘板が取り付けられていた。

MANS FIRST WHEELS ON THE MOON, DELIVERED BY FALCON, JULY 30, 1971

これにアポロ15号の飛行士のサインが添えられていた。

地球への帰還[編集]

国立アメリカ空軍博物館に展示されているコマンドモジュール「エンデバー」

月着陸船ファルコンの上昇ステージは月面を離れ、司令機械船エンデバーとのランデブー及びドッキングを行なった。月面の試料と観測機器を司令船に移した後、ファルコンは投棄された。ファルコンのエンジンが噴射され、月面に衝突させられた。月面を離れる間は合衆国空軍の軍歌である "Wild Blue Yonder" が流された。

アポロ15号はこの後もう1日月軌道上に滞在し、ウォーデンによる観測が続けられた。孫衛星を放出した後、彼らは機械船のエンジンに点火して地球へ帰還する軌道に乗った。翌日、ウォーデンは船外活動を行い、SIM ベイのカメラからフィルムカセットを回収した。

ミッション第12日目は特に予定はなく、地上のミッション管制室は記者会見を開いて飛行士達がニュースメディアからの質問に答えた。13日目と最終日には彼らは大気圏再突入の準備に入った。地球降下時にはパラシュートの一つが開かず、司令船は2個のパラシュートで着水した。

コマンドモジュールの実物は国立アメリカ空軍博物館で見ることができる。

論争[編集]

月に持っていったカバーの実物

アポロ15号ミッションが大成功のうちに完了した後、乗員達が H・ウォルター・アイアーマンというアメリカ人とある取り決めをしていたことで彼らの評判にはいささか傷が付いた。アイアーマンは NASA の職員や宇宙飛行士の団体と数多くの専門的・社会的接触を持っていた人物だった。スコットは398通の非公式な初日カバーを自分の宇宙服の中に入れて月面に持ち込んでいた。アイアーマンは各々の飛行士との間で、月から持ち帰ってサインした初日カバー100通に対する報酬として預金口座の形で7,000ドルずつを支払う約束をしていた。彼は飛行士達に、アポロ計画が終了するまではこの初日カバーを宣伝したり販売することはない、と話していた。

スコットは月面に持参した初日カバーのうち100通をドイツのシュトゥットガルトのアイアーマン宛に送った。アイアーマンはこのカバーをドイツのロルヒから切手販売業者のヘルマン・E・ジーガーに転送した。ジーガーは以前にアイアーマンと接触してこの取引を持ちかけた人物だった。ジーガーはこの初日カバーをドイツ国内で約1,500ドルの値段で売り始めた。スコットはこの知らせを聞いてアイアーマンと連絡を取り、販売をやめるよう依頼した。また飛行士3人はアイアーマンから一切金銭を受け取らないことにした。これにより、残り298通のカバーの所有権は NASA が管理することになった。

彼ら3人の飛行士は公式に懲戒処分を受け、彼らの軍人としての勤務評定でも「良識の欠如」が見られるとして評価が変更された。

この他にも、スコットについては2個の時計(腕時計ストップウオッチ)に関して物議を醸す事態が起きた。彼は友人からの求めに応じて、これらの時計の評価をすることで時計メーカーと合意していた。スコットは、これらの時計は特に緊急時に手動でエンジンを操縦している際の時刻計測などで実際に役立つと考え、優先使用権の認可を受けないままこれらの時計をアポロ15号ミッションで使用した。

銘板の手前にある人型の像がFallen Astronautである

さらに別の問題がミッション終了後にも起きた。15号の飛行士達はベルギーの彫刻家ポール・ヘイドンク英語版と会い、宇宙探査の進展のためにこれまで命を落とした米ソの宇宙飛行士を追悼する小像の制作を依頼していた。この依頼を受けて、"Fallen Astronaut" という題名の小さなアルミニウム製彫刻が作られ、14名のアメリカとソ連の宇宙飛行士の名前が刻まれた銘板とともに月面に残された。15号の飛行士達はこの彫刻のレプリカを制作しないことでヘイドンクと合意していた。飛行後の記者会見でこの彫像について触れた後、国立航空宇宙博物館が飛行士達に、展示用の彫像のレプリカを作ることを打診した。飛行士達は、良識ある展示方法を取ること、宣伝をしないことを条件にこの打診に応じた。その後、このレプリカの制作がヘイドンクに依頼された。1972年5月になって、スコットはヘイドンクが博物館向けでないレプリカの制作・販売を計画していることを知った。販売の広告が出されはしたものの、NASAからの否定的な見解もあって、結局レプリカの販売は行われなかった。

ミッション・エンブレム[編集]

アポロ15号の円形のワッペンには月面のハドレー谷の上空を飛ぶ赤・白・青の鳥の姿が図案化されている。鳥の背景にはクレーターが "XV"(ローマ数字の15)を描くように並んでいる。この図案の周囲にはミッション名と3名の飛行士の名前が記されている。この3羽の鳥のモチーフを初めとする基本的アイデアはファッションデザイナーのエミリオ・プッチの提案によるものである。当初は緑と青を用いたデザインだったが、飛行士達の意見によって米国のシンボルカラーである赤・白・青になった。

LROから撮影されたアポロ15号の着陸地点[編集]

月周回衛星LROによってアポロ15号の着陸地点が撮影され、月着陸船や、月面を歩行した跡等が撮影され、2012年3月に公開された[写真はこちら]。


参考文献[編集]

  • Chaikin, Andrew (1994). A Man On The Moon: The Voyages of the Apollo Astronauts. Viking. ISBN 0670814466.
  • Harland, David M. (1999). Exploring the Moon: The Apollo Expeditions. Springer/Praxis Publishing. ISBN 1852330996.
  • NASA Manned Spacecraft Center (1972). Apollo 15 Preliminary Science Report. Scientific and Technical Office, NASA.
  • Lattimer, Dick (1985). 'All We Did was Fly to the Moon. Whispering Eagle Press. ISBN 0961122803.

外部リンク[編集]