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* 阪急ブレーブス<br />オリックス・ブレーブス (1976 - 1990)
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* [[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]] (1991 - 1994)
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2016年10月22日 (土) 20:54時点における版

住友 平
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府大阪市阿倍野区
生年月日 (1943-08-17) 1943年8月17日(80歳)
身長
体重
171 cm
72 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 二塁手
プロ入り 1965年 ドラフト3位
初出場 1966年4月9日
最終出場 1975年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

住友 平(すみとも たいら、1943年8月17日 - )は、大阪府大阪市阿倍野区出身の元プロ野球選手内野手)、野球指導者、解説者

来歴・人物

プロ入り前

浪商高校では3度甲子園に出場。1960年、2年生の時に、1年生エース尾崎行雄を擁し、五番打者、二塁手として夏の甲子園に出場。2回戦で法政二高柴田勲投手に完封負け。翌1961年は三番打者として春夏の甲子園に出場。春の選抜では準々決勝でまたも法政二高に敗れるが、1回戦で大会第1号本塁打を記録している。夏の選手権では、準々決勝で中京商山中巽投手から本塁打を放つなど活躍、順調に勝ち進む。準決勝で因縁の法政二高を延長11回2-4で破り、決勝に進出。桐蔭高を1-0で降し優勝[1]。高校同期に大塚弥寿男捕手大熊忠義三塁手、2学年下に、大学でも後輩となる高田繁外野手がいた。

卒業後は明治大学に進学。東京六大学リーグでは優勝に届かなかったが、1963年春季リーグでベストナイン(二塁手)に選出される。同年秋季リーグの明立2回戦では、走者であった土井正三との接触プレーを巡り、高校同期の前田周治(立大立正佼成会河合楽器)との乱闘事件を起こす。

現役時代

1965年ドラフト3位で阪急ブレーブスに入団。一年目の1966年からレギュラー二塁手となり、チャンスメーカーとして活躍した[1]。しかし翌年から山口富士雄が二塁手に回り、激しいポジション争いが長年続く。1967年からのリーグ3連覇、1971年からのリーグ連続優勝に貢献。1972年の日本シリーズでは第1戦に本塁打を放つ。1973年には初めて規定打席に到達(21位、打率.263)、阪急黄金時代を築いた名脇役であった。1975年限りで現役引退。[2]

1967年7月30日東京オリオンズ戦では、日本プロ野球史上唯一(2015年シーズン終了時)の「無補殺三重殺」(1人でのトリプルプレー)を達成している。

指導者・解説者として

引退後は、上田利治監督の名懐刀として、1976年 - 1982年は阪急二軍打撃コーチ[3]1983年 - 1988年は一軍打撃コーチ[4]1989年はオリックス二軍監督、1990年はヘッドコーチを務めた。当時阪急・オリックスに在籍していたブーマー・ウェルズは「住友さんという素晴らしい打撃コーチがいた。彼はピッチャーがどのように攻めてくるか研究して的確なアドバイスをくれた」と語っている[5]

1991年1993年近鉄一軍打撃・守備走塁コーチ、1994年二軍監督、1995年1999年、上田の監督就任に伴い日本ハムヘッドコーチ、上田の休養に伴い1996年、1999年と17試合指揮を執った[6]2000年からは2006年まで、テレビ埼玉野球解説者を務めた。

2007年オリックス・バファローズの二軍であるサーパスの監督に就任。2008年5月22日テリー・コリンズ監督の退団に伴い、チーフコーチに異動し、2009年まで務めた。

2010年から2015年まで、関メディベースボール学院硬式野球部でコーチ・監督を務めていた。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1966 阪急 89 313 280 34 60 10 3 6 94 24 13 5 4 2 22 0 5 58 3 .214 .283 .336 .619
1967 103 240 220 21 45 9 2 4 70 20 7 0 3 2 12 0 3 51 3 .205 .255 .318 .573
1968 79 199 187 28 50 8 3 6 82 17 8 2 1 0 10 0 1 33 2 .267 .308 .439 .747
1969 60 95 85 9 17 0 0 2 23 6 1 1 0 0 9 0 1 13 2 .200 .284 .271 .555
1970 68 167 153 28 45 9 0 6 72 29 18 1 2 2 8 0 2 23 0 .294 .337 .471 .808
1971 74 143 117 20 27 3 2 3 43 15 6 2 4 1 15 2 6 15 1 .231 .348 .368 .716
1972 76 153 138 25 46 9 1 4 69 18 6 5 3 1 11 0 0 18 2 .333 .383 .500 .883
1973 127 558 453 82 119 14 3 10 169 62 21 12 13 4 72 0 15 48 10 .263 .381 .373 .754
1974 121 396 348 37 83 17 3 12 142 37 13 6 2 2 37 1 7 32 8 .239 .324 .408 .732
1975 82 116 97 7 19 2 1 2 29 8 3 2 3 2 12 0 2 13 2 .196 .297 .299 .596
通算:10年 879 2380 2078 291 511 81 18 55 793 236 96 36 35 16 208 3 42 304 33 .246 .327 .382 .709

通算監督成績

  • 17試合 7勝9敗1分 勝率.438

表彰

背番号

  • 28 (1966年 - 1971年)
  • 24 (1972年 - 1975年)
  • 65 (1976年 - 1990年)
  • 74 (1991年 - 1994年)
  • 82 (1995年 - 1999年)
  • 96 (2007年 - 2009年)

脚注

  1. ^ a b 阪急ブレーブス黄金の歴史 [永久保存版] よみがえる勇者の記憶 1936-1988、ベースボール・マガジン社、2011年、P61
  2. ^ 1974年プレーオフでロッテに敗退して、課題であるセンターラインの強化として二塁手にボビー・マルカーノ、外野手にバーニー・ウイリアムスを獲得。住友はレギュラーを奪われ、長池徳士は指名打者に回された。
  3. ^ 阪急ブレーブス黄金の歴史 [永久保存版] よみがえる勇者の記憶 1936-1988、ベースボール・マガジン社、2011年、p128-129
  4. ^ 阪急ブレーブス黄金の歴史 [永久保存版] よみがえる勇者の記憶 1936-1988、ベースボール・マガジン社、2011年、p129
  5. ^ 阪急ブレーブス黄金の歴史 [永久保存版] よみがえる勇者の記憶 1936-1988、ベースボール・マガジン社、2011年、p77
  6. ^ 日本プロ野球平成の名将―1989ー2012、2012年、ベースボール・マガジン社、P103

関連項目