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{{by|1996年}}には[[ジュニアオールスター]]で先発して勝利投手となり優秀選手に選ばれたが<ref>読売新聞、1996年7月20日付朝刊、P.18</ref>、一軍では5年間で14試合の登板に終わり{{by|1999年}}オフに[[戦力外通告]]を受ける。 |
{{by|1996年}}には[[ジュニアオールスター]]で先発して勝利投手となり優秀選手に選ばれたが<ref>読売新聞、1996年7月20日付朝刊、P.18</ref>、一軍では5年間で14試合の登板に終わり{{by|1999年}}オフに[[戦力外通告]]を受ける。 |
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[[大久保勝信]]と[[愛敬尚史]]が[[2000年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト]]で指名されて投手陣が手薄となった[[パナソニック野球部|松下電器]]から誘われ<ref name="asahi_20021024">朝日新聞、2002年10月24日付夕刊、P.3</ref>、同年[[11月30日]]に入社試験を受けて翌[[12月1日]]付で入社した。[[鍛治舎巧]]野球部長からは野球に対する姿勢も評価されていたという<ref>読売新聞、2002年10月19日付朝刊、P.24</ref>。{{by|2001年}}シーズンは先発と[[リリーフ|抑え]]を務めて活躍し、2年目の{{by|2002年}}には[[第73回都市対抗野球大会|都市対抗野球]]で21回2/3を投げ[[防御率]]0.42の好投で2勝を挙げ、チームの13年ぶりのベスト4進出に貢献。[[第29回社会人野球日本選手権大会|同年の日本選手権]]でも1勝、防御率1.50と年間を通じて安定した活躍を見せ<ref>毎日新聞、2002年12月5日付朝刊、P.13</ref>、元プロ選手としては初めて[[社会人ベストナイン]]に選出された。また、{{by|2003年}}1月には[[日本スポーツ賞]]の優秀選手賞を受賞している<ref>読売新聞、2003年1月31日付朝刊、P.19</ref>。{{by|2004年}}は投手コーチを兼任して現役を続けていたが、2大大会の登板もなく同年オフに引退した。 |
2013年6月11日 (火) 01:38時点における版
パナソニック野球部 コーチ | |
---|---|
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 兵庫県姫路市 |
生年月日 | 1972年4月26日(52歳) |
身長 体重 |
174 cm 68 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1994年 ドラフト2位 |
初出場 | 1995年6月17日 |
最終出場 | 2000年9月9日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
| |
コーチ歴 | |
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この表について
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丸尾 英司(まるお えいじ、1972年4月26日 - )は、兵庫県姫路市出身の元プロ野球選手(投手)。2008年から、社会人野球のパナソニック野球部にてヘッドコーチを務める。
来歴・人物
網干中学では完全試合を達成するなど活躍し、東洋大姫路から勧誘を受けたが、のびのびした環境を求めて地元の姫路南高校に進学した[1]。高校では1年夏からエースとなり、2年および3年の夏に県大会で5回戦まで進出している[1]。
高校卒業後は佛教大学に進学。京滋リーグで通算30試合に登板し25勝1敗。最優秀選手3回、最優秀投手2回、ベストナイン4回受賞。18連勝のリーグ記録を樹立する。1992年秋季の京都学園大戦でノーヒットノーランを達成する。[2]。3年生の1993年には日本・キューバ対抗戦で日本代表に選出され、山部太らを押しのけて先発した[3]第1戦で3回を2安打無失点に抑え、プロから注目されている。その一方で講義にもよく出席しながらアパートで一人暮らしをし、週2回はコンビニエンスストアで深夜にアルバイトをするなど、一般的な学生生活を送っていた[1]。1994年のドラフトでオリックス・ブルーウェーブから2位指名を受けて、同大学初のプロ野球選手となる。契約金、年俸はそれぞれ8,000万円、1,000万円(いずれも推定)だった[4]。
1996年にはジュニアオールスターで先発して勝利投手となり優秀選手に選ばれたが[5]、一軍では5年間で14試合の登板に終わり1999年オフに戦力外通告を受ける。
テストを受け2000年に大阪近鉄バファローズに年俸800万円[6]で入団し、過去最高となる19試合登板を果たしたが同年オフに戦力外通告を受けた。
大久保勝信と愛敬尚史がドラフトで指名されて投手陣が手薄となった松下電器から誘われ[7]、同年11月30日に入社試験を受けて翌12月1日付で入社した。鍛治舎巧野球部長からは野球に対する姿勢も評価されていたという[8]。2001年シーズンは先発と抑えを務めて活躍し、2年目の2002年には都市対抗野球で21回2/3を投げ防御率0.42の好投で2勝を挙げ、チームの13年ぶりのベスト4進出に貢献。同年の日本選手権でも1勝、防御率1.50と年間を通じて安定した活躍を見せ[9]、元プロ選手としては初めて社会人ベストナインに選出された。また、2003年1月には日本スポーツ賞の優秀選手賞を受賞している[10]。2004年は投手コーチを兼任して現役を続けていたが、2大大会の登板もなく同年オフに引退した。
2005年からはコーチ専任でチームを支え、同年チームの社会人野球日本選手権大会2度目の優勝に貢献している。翌2006年限りで一度退部したものの、2008年からヘッドコーチに就任して2年ぶりに現場復帰した。
プレースタイル
サイドスローから繰り出す最速143km/hの速球とスライダーを武器にしていた[3]。プロではこの2つの球種だけでは通用せず、3年目の1997年にシュート、1999年にフォークボールを習得している[7]。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1995 | オリックス | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 38 | 7.2 | 13 | 1 | 3 | 0 | 0 | 10 | 0 | 0 | 6 | 6 | 7.04 | 2.09 |
1997 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | -- | 1.000 | 71 | 17.1 | 16 | 0 | 6 | 0 | 0 | 8 | 1 | 0 | 6 | 6 | 3.12 | 1.27 | |
1998 | 7 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 79 | 16.0 | 19 | 2 | 13 | 1 | 1 | 8 | 1 | 1 | 15 | 12 | 6.75 | 2.00 | |
2000 | 近鉄 | 19 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 165 | 37.2 | 41 | 4 | 11 | 2 | 2 | 28 | 1 | 0 | 18 | 15 | 3.58 | 1.38 |
通算:4年 | 33 | 6 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | -- | 1.000 | 353 | 78.2 | 89 | 7 | 33 | 3 | 3 | 54 | 3 | 1 | 45 | 39 | 4.46 | 1.55 |
記録
- 初登板:1995年6月17日、対千葉ロッテマリーンズ9回戦(千葉マリンスタジアム)、9回裏に4番手で救援登板・完了、1回2安打無失点
- 初奪三振:同上、9回裏にピート・インカビリアから
- 初先発:1997年9月28日、対千葉ロッテマリーンズ24回戦(千葉マリンスタジアム)、5回6安打4失点
- 初勝利・初先発勝利:1997年10月5日、対近鉄バファローズ27回戦(グリーンスタジアム神戸)、8回4安打1失点
背番号
- 14 (1995年 - 1999年)
- 49 (2000年)