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'''中島 敦 |
'''中島 敦'''(なかじま あつし、[[1909年]]([[明治]]42年)[[5月5日]] - [[1942年]]([[昭和]]17年)[[12月4日]])は、[[日本]]の[[小説家]]。 |
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中島家は代々、[[日本橋区|日本橋]]新乗物町で[[駕籠]]を製造販売する[[商家]]だった。敦の[[祖父]]中島慶太郎(号を撫山)は家業を嫌い、[[漢学者]][[亀田鵬斎]]の子稜瀬の門下となり、稜瀬没後は稜瀬の養子鶯谷に師事した。後に[[埼玉県]]久喜町(現[[久喜市]])に漢学塾「幸魂教舎」を開き、『斗南先生』のモデルとなった伯父、中島端蔵([[戸籍謄本]]上は長男と記載されているが撫山には先妻との間に子があり、実際は撫山の次男)が祖父の漢学塾を受け継いでいた。 |
中島家は代々、[[日本橋区|日本橋]]新乗物町で[[駕籠]]を製造販売する[[商家]]だった。敦の[[祖父]]中島慶太郎(号を撫山)は家業を嫌い、[[漢学者]][[亀田鵬斎]]の子稜瀬の門下となり、稜瀬没後は稜瀬の養子鶯谷に師事した。後に[[埼玉県]]久喜町(現[[久喜市]])に漢学塾「幸魂教舎」を開き、『斗南先生』のモデルとなった伯父、中島端蔵([[戸籍謄本]]上は長男と記載されているが撫山には先妻との間に子があり、実際は撫山の次男)が祖父の漢学塾を受け継いでいた。 |
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父、中島田人(撫山の六男。戸籍謄本上は五男)は[[1889年]]、[[文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験|文部省教員検定試験]]の漢学科に合格し、銚子中学校([[旧制中学]])で[[漢文]]の[[教員]]をしていた。生母チよは、[[旗本]]の出で[[警察官]]をしていた[[岡崎勝太郎]]の一人娘で、[[小学校]]の教員であったらしい。 |
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[[深田久弥]]と深い交友を持ち、デビュー作の『[[山月記]]』と『[[文字禍]]』(発表時の題は2作まとめて『古譚』)、続けて発表された『[[光と風と夢]]』などは、彼の[[推薦]]による。[[気管支喘息]]のため早逝。『[[李陵]]』他いくつかの作品は没後に発表された。[[漢文]]調の格調高い端正な[[文体]]とユーモラスに語る独特の[[文体]]を巧みに使い分けている。 |
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『[[李陵]]』は無題であったものを深田が命名したもので、中島はいくつかの題を記した[[覚書|メモ]]を遺している。 |
『[[李陵]]』は無題であったものを深田が命名したもので、中島はいくつかの題を記した[[覚書|メモ]]を遺している。 |
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*1909年 5月5日 - [[東京府]][[東京市]][[四谷|四谷区]]箪笥町59番地岡崎勝太郎方(現[[東京都]][[新宿区]]三栄町。岡崎勝太郎の名から、母方の祖父の家と思われる)に、父田人、母チよの長男として生まれる(但し[[本籍]]は[[北海道]][[空知郡]][[滝川市|滝川町]])。 |
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*[[1911年]] 8月 - 父母の[[離婚]]により、2歳から6歳までを祖母のいる[[埼玉県]][[久喜町]]で育つ(離婚届を出したのは[[1914年]][[2月18日]])。 |
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*[[1915年]] 3月 - [[奈良県]][[大和郡山市|郡山町]]に移り住む。 |
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*[[1918年]] 5月 - [[静岡県]]立[[浜松]][[尋常小学校]]に転入。 |
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*[[1920年]] 9月 - [[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]][[ソウル特別市|京城市]]の小学校に転入。 |
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*[[1926年]] 3月 - [[京城中学校]]を卒業。[[上京]]し、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]に入学。 |
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*[[1933年]] 3月 |
*[[1933年]] 3月 - [[東京大学|東京帝国大学]][[日本文学|国文学]]科を[[卒業]]。[[卒業論文]]は「[[耽美派]]の[[研究]]」。 |
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*[[1933年]] 4月 - 私立横浜高等女学校(現[[横浜学園高等学校]])に[[国語]]と[[英語]]の[[教師]]として赴任。 |
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*[[1941年]] 教職を辞し、[[パラオ]][[南洋庁]]へ教科書編纂掛として赴任。 |
*[[1941年]] - 教職を辞し、[[パラオ]][[南洋庁]]へ教科書編纂掛として赴任。 |
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*1942年 3月 [[戦争]]の激化により、[[土方久功]]と共に帰国。7月 辞職。 |
*1942年 3月 - [[戦争]]の激化により、[[土方久功]]と共に帰国。7月 辞職。『古譚』、『光と風と夢』を『文學界』に発表、後者は[[芥川龍之介賞|芥川賞]]候補となる。12月4日 - [[気管支喘息]]で死去(享年33)。 |
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==作品リスト== |
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* 光と風と夢 (筑摩書房 昭和 |
* 光と風と夢 (筑摩書房 昭和17年7月発行) |
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**古譚 |
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*** 寂しい島 |
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*** 夾竹桃の家の女 |
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*** ナポレオン |
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*** 真昼 |
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*** マリヤン |
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*** 風物抄 |
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** [[わが西遊記|悟浄出世]] |
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** [[わが西遊記|悟浄歎異]] ——[[沙門]]悟浄の手記—— |
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** 古俗 |
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*** [[かめれおん日記]] |
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* 没後発表作 |
* 没後発表作 |
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** [[名人伝]] |
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** [[弟子(文学)|弟子]] [[孔子]]と門弟[[子路]] |
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** [[李陵]] (小山書店、昭和二十一年) [[遺作|絶筆]] |
** [[李陵]] (小山書店、昭和二十一年) [[遺作|絶筆]] |
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* その他の作品 |
* その他の作品 |
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** [[北方行]] 未完作 |
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==近年刊行の作品集== |
==近年刊行の作品集== |
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*※文庫作品集「李陵、山月記、弟子他」は、[[新潮文庫]]、[[角川文庫]]に加え |
*※文庫作品集「李陵、山月記、弟子他」は、[[新潮文庫]]、[[角川文庫]]に加え[[岩波文庫]]、[[集英社文庫]]、[[小学館文庫]]、[[ランダムハウス講談社|ランダムハウス講談社文庫]]「中国小説集」で刊行。 |
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*『中島敦全集』は、[[筑摩書房]]で3度刊行。現行版は全3巻別巻1。 |
*『中島敦全集』は、[[筑摩書房]]で3度刊行。現行版は全3巻別巻1。 |
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**[[ちくま文庫]]版「全集」(全3巻)で、上記作品は所収。 |
**[[ちくま文庫]]版「全集」(全3巻)で、上記作品は所収。 |
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**また一部作品が、『中島敦 |
**また一部作品が、『中島敦 1909 - 1942 (ちくま日本文学012)』 新版ちくま文庫版、2008年にある。 |
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*[[宝島社]] 「[[別冊宝島]] 中島敦」-生誕100年特別企画、2009年。 |
*[[宝島社]] 「[[別冊宝島]] 中島敦」-生誕100年特別企画、2009年。 |
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*『南洋通信』 [[中公文庫]]BIBLIO 書簡集 |
*『南洋通信』 [[中公文庫]]BIBLIO 書簡集 |
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*[[高橋英夫 (評論家)|高橋英夫]]・勝又浩ほか編 『中島敦全集 別巻』、筑摩書房、増補改訂版2002年 |
*[[高橋英夫 (評論家)|高橋英夫]]・勝又浩ほか編 『中島敦全集 別巻』、筑摩書房、増補改訂版2002年 |
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*村山吉廣 『評伝・中島敦 家学からの視点』 [[中央公論新社]] 2002年 |
*村山吉廣 『評伝・中島敦 家学からの視点』 [[中央公論新社]] 2002年 |
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*[[勝又浩]] 『中島敦の遍歴』 筑摩書房 2004年 |
*[[勝又浩]] 『中島敦の遍歴』 筑摩書房 2004年 |
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*[[川村湊]] 『狼疾正伝 中島敦の文学と生涯』 [[河出書房新社]] 2009年 |
*[[川村湊]] 『狼疾正伝 中島敦の文学と生涯』 [[河出書房新社]] 2009年 |
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*『KAWADE道の手帖 中島敦 生誕100年、永遠に越境する文学』 [[河出書房新社]] 2009年 |
*『KAWADE道の手帖 中島敦 生誕100年、永遠に越境する文学』 [[河出書房新社]] 2009年 |
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*[[島内景二]] 『中島敦「山月記伝説」の真実』 [[文春新書]]、2009年 |
*[[島内景二]] 『中島敦「山月記伝説」の真実』 [[文春新書]]、2009年 |
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*『南海漂蕩 ミクロネシアに魅せられた土方久功・杉浦佐助・中島敦』 |
*『南海漂蕩 ミクロネシアに魅せられた土方久功・杉浦佐助・中島敦』 [[岡谷公二]] [[冨山房]]インターナショナル 2007年 |
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*[[渡辺一民]] 『中島敦論』 [[みすず書房]] 2005年 |
*[[渡辺一民]] 『中島敦論』 [[みすず書房]] 2005年 |
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*[[辻原登]] 『枯葉の中の青い炎』 新潮社、表題作中に脇役として中島が登場 |
*[[辻原登]] 『枯葉の中の青い炎』 新潮社、表題作中に脇役として中島が登場 |
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*『県立神奈川近代文学館蔵 中島敦文庫直筆資料画像データベース』 |
*『県立神奈川近代文学館蔵 中島敦文庫直筆資料画像データベース』 (DVD-ROM版)、[[神奈川近代文学館]] 2009年 |
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==舞台芸術== |
==舞台芸術== |
2011年2月4日 (金) 16:55時点における版
中島 敦 (なかじま あつし) | |
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誕生 |
1909年5月5日 日本・東京市 |
死没 | 1942年12月4日(33歳没) |
職業 | 小説家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 学士(文学) |
最終学歴 | 東京帝国大学国文科 |
活動期間 | 1942年 - 1942年 |
ジャンル | 小説 |
代表作 |
『山月記』(1942年) 『光と風と夢』(1942年) 『李陵』(1942年) |
デビュー作 | 『古譚』(1942年) |
ウィキポータル 文学 |
中島 敦(なかじま あつし、1909年(明治42年)5月5日 - 1942年(昭和17年)12月4日)は、日本の小説家。
人物
中島家は代々、日本橋新乗物町で駕籠を製造販売する商家だった。敦の祖父中島慶太郎(号を撫山)は家業を嫌い、漢学者亀田鵬斎の子稜瀬の門下となり、稜瀬没後は稜瀬の養子鶯谷に師事した。後に埼玉県久喜町(現久喜市)に漢学塾「幸魂教舎」を開き、『斗南先生』のモデルとなった伯父、中島端蔵(戸籍謄本上は長男と記載されているが撫山には先妻との間に子があり、実際は撫山の次男)が祖父の漢学塾を受け継いでいた。
父、中島田人(撫山の六男。戸籍謄本上は五男)は1889年、文部省教員検定試験の漢学科に合格し、銚子中学校(旧制中学)で漢文の教員をしていた。生母チよは、旗本の出で警察官をしていた岡崎勝太郎の一人娘で、小学校の教員であったらしい。
深田久弥と深い交友を持ち、デビュー作の『山月記』と『文字禍』(発表時の題は2作まとめて『古譚』)、続けて発表された『光と風と夢』などは、彼の推薦による。気管支喘息のため早逝。『李陵』他いくつかの作品は没後に発表された。漢文調の格調高い端正な文体とユーモラスに語る独特の文体を巧みに使い分けている。
『李陵』は無題であったものを深田が命名したもので、中島はいくつかの題を記したメモを遺している。
没後1948年、中村光夫、氷上英広らの編纂で『中島敦全集』全3巻が筑摩書房から刊行され、毎日出版文化賞を受賞。以後、国語教科書に「山月記」が多く掲載されたため広く知られた作家となる。
略歴
- 1909年 5月5日 - 東京府東京市四谷区箪笥町59番地岡崎勝太郎方(現東京都新宿区三栄町。岡崎勝太郎の名から、母方の祖父の家と思われる)に、父田人、母チよの長男として生まれる(但し本籍は北海道空知郡滝川町)。
- 1911年 8月 - 父母の離婚により、2歳から6歳までを祖母のいる埼玉県久喜町で育つ(離婚届を出したのは1914年2月18日)。
- 1915年 3月 - 奈良県郡山町に移り住む。
- 1918年 5月 - 静岡県立浜松尋常小学校に転入。
- 1920年 9月 - 朝鮮京城市の小学校に転入。
- 1926年 3月 - 京城中学校を卒業。上京し、第一高等学校に入学。
- 1933年 3月 - 東京帝国大学国文学科を卒業。卒業論文は「耽美派の研究」。
- 1933年 4月 - 私立横浜高等女学校(現横浜学園高等学校)に国語と英語の教師として赴任。
- 1941年 - 教職を辞し、パラオ南洋庁へ教科書編纂掛として赴任。
- 1942年 3月 - 戦争の激化により、土方久功と共に帰国。7月 辞職。『古譚』、『光と風と夢』を『文學界』に発表、後者は芥川賞候補となる。12月4日 - 気管支喘息で死去(享年33)。
作品リスト
- 光と風と夢 (筑摩書房 昭和17年7月発行)
- 新鋭文学全集2 南島譚 (今日の問題社 昭和17年11月発行)
- 没後発表作
- その他の作品
近年刊行の作品集
- ※文庫作品集「李陵、山月記、弟子他」は、新潮文庫、角川文庫に加え岩波文庫、集英社文庫、小学館文庫、ランダムハウス講談社文庫「中国小説集」で刊行。
- 『中島敦全集』は、筑摩書房で3度刊行。現行版は全3巻別巻1。
- ちくま文庫版「全集」(全3巻)で、上記作品は所収。
- また一部作品が、『中島敦 1909 - 1942 (ちくま日本文学012)』 新版ちくま文庫版、2008年にある。
- 宝島社 「別冊宝島 中島敦」-生誕100年特別企画、2009年。
- 『南洋通信』 中公文庫BIBLIO 書簡集
- 川村湊編 『中島敦 父から子への南洋だより』 集英社
参考文献
- 中村光夫・氷上英廣編 『中島敦研究』 筑摩書房 1978年
- 高橋英夫・勝又浩ほか編 『中島敦全集 別巻』、筑摩書房、増補改訂版2002年
- 村山吉廣 『評伝・中島敦 家学からの視点』 中央公論新社 2002年
- 勝又浩 『中島敦の遍歴』 筑摩書房 2004年
- 川村湊 『狼疾正伝 中島敦の文学と生涯』 河出書房新社 2009年
- 『KAWADE道の手帖 中島敦 生誕100年、永遠に越境する文学』 河出書房新社 2009年
- 島内景二 『中島敦「山月記伝説」の真実』 文春新書、2009年
- 『南海漂蕩 ミクロネシアに魅せられた土方久功・杉浦佐助・中島敦』 岡谷公二 冨山房インターナショナル 2007年
- 渡辺一民 『中島敦論』 みすず書房 2005年
- 三浦雅士 『出生の秘密』 講談社。 中島の短編『狼疾記』と『悟浄出世』、未完長編『北方行』を2章を費やし論じる。
- 辻原登 『枯葉の中の青い炎』 新潮社、表題作中に脇役として中島が登場
- 『県立神奈川近代文学館蔵 中島敦文庫直筆資料画像データベース』 (DVD-ROM版)、神奈川近代文学館 2009年