安中宿

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木曽海道六十九次 安中(歌川広重画)
安中宿の位置(日本内)
安中宿
安中宿(本陣跡)

安中宿(あんなかしゅく)は、中山道六十九次江戸(日本橋)から15番目の宿場町である。

概要[編集]

安中宿周辺の空中写真。北を九十九川、南を碓氷川に挟まれた河岸段丘上に位置する。国道18号南側を東西に並行して走る狭い街道筋が旧安中宿である。1975年撮影の4枚を合成作成。
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。

安中宿は、上野国碓氷郡安中の碓氷川九十九川に挟まれ海抜180m河岸段丘上にあり、中山道で日本橋から15番目の宿場町であった。現在の群馬県安中市、JR東日本安中駅の真西方向、また、駅北東側・碓氷川南岸にも安中中宿に相当する。

天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、安中宿の宿内家数は64軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠17軒で宿内人口は348人であった。

安中宿の往還御用人足は50人、馬50疋として日役を務める規定となっており、助郷の村は19ヶ村、助郷高は17,000石であった。安中宿の助郷の村々と助郷高はの内訳は以下の通りであった[1]

安中宿助郷高 17,000石
高尾村 1,030石
小桑原村 181石
野殿村 1,077石
下秋間村 554石
下後原村 1,293石
古屋村 271石
谷津村 405石
下間仁田村 737石
大谷村 181石
中宿村 610石
中秋間村 428石
大竹村 300石
桑原村 404石
上野尻村 505石
岩井村 526石
下野尻村 412石
小俣村 277石
高別当村 338石
安中宿 助郷村数 19ヶ村[2]

最寄り駅[編集]

史跡・みどころ[編集]

碓氷郡役所
1911年に建築された木造平屋の役所建築。1923年の郡制廃止、1926年の郡役所廃止により役所として使用された期間は短く、その後は主として農業関係の公的施設として使われてきた。1996年に安中市重要文化財指定を受け、復元保存。
安中教会
日本基督教団の教会。教会としての設立は1878年。キリスト教会としては群馬県初のもの。設立者は新島襄。教会堂・旧牧師館・旧柏木義円書斎・旧ベーケン邸の4棟が国の登録有形文化財。教会堂は新島襄没後30年記念として1919年に建てられた石造建築で、正式名称は「新島襄記念会堂」という。
旧安中藩郡奉行役宅
旧猪狩家住宅。安中藩の幕末期における奉行であった猪狩家より寄付を受け、安中市が文化財として保全管理を行っている。一般公開されている。
旧安中藩武家長屋
安中藩の家臣が居住していた長屋(隣家と壁を共有する集合住宅)。安中藩奉行役宅の並びにあり、一般公開されている。
有田屋
安中の名士である湯浅家が経営する醤油味噌醸造会社。三代目湯浅治郎は新島襄の後援者であり、また安中教会や便覧舎の設立にもかかわっている。
便覧舎址
有田屋の向かいに石碑が残る。日本最初期の図書館のひとつ。
新島襄旧宅
新島襄は安中藩士の子として江戸に生まれ、アメリカからの帰国後、父母の住むこの家に暮らした。旧宅は市街地西端近くに残されており、新島襄記念館として一般公開されている。もっとも、新島襄はほとんどこの家に落ち着いてすごした時期はなかった模様である。

脚注[編集]

  1. ^ 矢嶋(1940)、95頁
  2. ^ 矢嶋(1940)95・96頁

参考文献[編集]

  • 児玉幸多 『中山道を歩く』 中公文庫、1988年 ISBN 4122015561
  • 矢嶋仁吉「徳川時代、上州安中宿に於ける助郷課役と農村人口との関係」、『地理学評論』第16巻、日本地理学会、1940年、94-109頁。

隣の宿[編集]

中山道
板鼻宿 - 安中宿 - 松井田宿