安中教会

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安中教会の教会堂新島襄記念会堂)

日本基督教団安中教会(にほんキリストきょうだんあんなかきょうかい)は、元日本基督組合教会教会で、現在は日本基督教団の教会。新島襄記念会堂

前史[編集]

1878年明治11年)3月30日に安中教会で最初に洗礼を受けた人々

1864年元治元年)7月、新島襄は、函館から海外脱出し、アメリカキリスト教に入信して、ボストンの教会で按手礼を受けた。新島はキリスト教主義の学校設立のために、1874年明治7年)に帰国した。

帰国した新島は最初に新島の父母が住む上州安中に赴き伝道を行った。新島は3週間の滞在中、藩校造士館と龍昌寺を会場にキリスト教を講義した。その集会で30人の求道者が出て、日曜日ごとに聖書研究会が行われた。その中心的存在が、千木良昌庵湯浅治郎森本成徳であった。日本基督組合教会海老名弾正の協力があり、1878年(明治11年)3月30日に、男子16名、女子14名[1]の30名が新島襄より洗礼を受け、安中教会が設立された。海老名弾正が仮牧師になり、千木良、湯浅、森本の3人が初代執事になった。安中教会は群馬県最初の伝道の拠点となった。

安中教会は最初から自給教会として出発した。それは、湯浅の献金が重要な支柱になっていた。1879年(明治12年)12月1日に海老名が正式に牧師に就任する。海老名を支えたのは湯浅の財力であった。1880年(明治13年)頃から、湯浅らの平信徒伝道により伝道が拡大した。その結果、安中教会は1882年(明治15年)以降は士族に代わって、豪農富商によって担われていくようになる。

1884年(明治17年)には同志社を退学して、小学校校長をしていた柏木義円が海老名より洗礼を受ける。柏木は同志社に復学し新島に薫陶を受ける。

1897年(明治30年)に同志社を卒業し、新島の信頼を受けた柏木が牧師に就任する。柏木は1898年(明治31年)より『上毛教界月報』を創刊し、安中教会の牧師を務めながら1935年昭和10年)に引退するまで、足尾鉱毒事件廃娼運動未解放部落問題朝鮮人虐殺問題など地域伝道と政治・社会批判運動を活発に展開した。この活動を支えたのも湯浅であった。

建築[編集]

新島襄の召天30周年を記念して古橋柳太郎の設計により1919年に完成。東正面のロマネスク様式の会堂で大谷石による石造。東南の隅に角形の鐘塔を建て、外壁には控壁を付けている。内部は単廊で天井は板張り中央部分をヴォールト風の半円形にして三廊式の扱いにしている。両脇にはコンポジット式の茨城産の大理石製円柱が建つ[2][3]

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ この女子の内の一人が内村鑑三の最初の妻、浅田タケであった(鈴木範久、1983年、25ページ)。
  2. ^ 日本基督教団安中教会教会堂(新島襄記念会堂) 文化遺産オンライン” (日本語). bunka.nii.ac.jp. 2018年11月14日閲覧。
  3. ^ 安中市. “日本キリスト教団安中教会|観光スポット|安中市” (日本語). www.city.annaka.lg.jp. 2018年11月14日閲覧。