ヘンリー・バサースト (第3代バサースト伯爵)
第3代バサースト伯爵 ヘンリー・バサースト Henry Bathurst, 3rd Earl Bathurst | |
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3代バサースト伯(ウィリアム・ソルター画、ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵) | |
生年月日 | 1762年5月22日 |
没年月日 | 1834年7月27日 (満72歳没) |
死没地 | イギリス、ロンドン |
出身校 | オックスフォード大学クライスト・チャーチ |
所属政党 | トーリー党 |
称号 |
ガーター勲章勲爵士 (KG) 枢密顧問官 (PC) |
配偶者 | ジョージアナ・レノックス |
親族 |
第2代リッチモンド公爵 (義祖父) 第2代バサースト伯爵 (父) |
内閣 | パーシヴァル内閣 |
在任期間 | 1807年3月31日 - 1812年9月29日 |
国王 | ジョージ3世 |
内閣 | パーシヴァル内閣 |
在任期間 | 1809年10月11日 - 1809年12月6日 |
国王 | ジョージ3世 |
内閣 | リヴァプール内閣 |
在任期間 | 1812年6月11日 - 1827年4月30日 |
国王 | ジョージ3世・ジョージ4世 |
内閣 | ウェリントン内閣 |
在任期間 | 1828年1月28日 - 1830年11月22日 |
国王 | ジョージ4世・ウィリアム4世 |
第3代バサースト伯爵ヘンリー・バサースト(英: Henry Bathurst, 3rd Earl Bathurst、1762年5月22日 - 1834年7月27日)は、イギリスの貴族、政治家。ガーター勲章勲爵士、枢密顧問官。
1794年にバサースト伯爵を襲爵するまでは、「アプスリー卿」(Lord Apsley)の儀礼称号で称されていた。
経歴
[編集]大法官や枢密院議長を務めた法律家・政治家の第2代バサースト伯爵ヘンリー・バサーストと、妻のトライフィーナの間に生まれる[1][2][3][4]。イートン・カレッジを経て、1773年から1778年までオックスフォード大学クライスト・チャーチで学ぶ[1]。
1783年から襲爵により貴族院に移る1794年まで、グロスタシャー州サイレンスター選挙区選出の庶民院議員[5][6][3]。議会ではトーリー党に所属。
ウィリアム・ピット (小ピット) と親しく[2][3][4]、彼の下で1783年から1789年まで海軍本部委員(Lord of the Admiralty)[7][8][9]、1789年から1791年まで大蔵卿委員(Lord of the Treasury)[10]、1793年から1802年までインド庁の委員[1][2][3][4]を務めた。1804年に小ピットが再び首相となると、バサーストは王立造幣局長(Master of the Mint)[1][3][4]に任じられた。
第3代ポートランド公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンクが1807年に組織した第2次内閣では商務庁長官[11]兼王立造幣局長[1][3][4]として入閣、次のスペンサー・パーシヴァルの内閣においても両方の職を引き続き務めた。また1809年には、外務大臣のジョージ・カニングと陸軍・植民地大臣のカースルレー子爵ロバート・ステュアートが決闘事件を起こして辞職したことを受け、2ヶ月間外相[12]を兼ねた。
1812年、第2代リヴァプール伯爵ロバート・ジェンキンソンの内閣において陸軍・植民地大臣[13]として入閣。バサーストは有能な大臣であり[6][2][3][4]、半島戦争のさなか陸軍を担当する閣僚としての職務を全うした。次官のヘンリー・ゴールバーンとともに陸軍・植民地省の改革も行い、青書(Blue book)を導入した。ゴールバーンの後任の次官となったロバート・ウィルモット=ホートンは、バサーストを以前この職を務めた誰よりも注目に値すると評した[2]。また彼は人道的見地から奴隷制度廃止運動を支持していた[3]。
初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーが1828年に組織した内閣では枢密院議長[14]として入閣。トーリー所属でありつつもカトリック解放に賛成の立場をとっていたが、第1回選挙法改正案(Reform Bill; 選挙法改正法案)には強く反対した[3][4]。1830年に退任し、政治家としてのキャリアを終えた。
1793年に枢密顧問官[1]に列せられ、1817年にガーター勲章[15]を授けられた。
1834年にロンドンで死去、グロスタシャー州のサイレンスターに葬られた。爵位は長男のヘンリーが相続した。
オーストラリアのニューサウスウェールズ州にあるバサースト郡およびバサースト市[16]とノーザンテリトリー(北部準州)にあるバサースト島[17]、カナダのニューブランズウィック州にあるバサースト市[18]とヌナブト準州にあるバサースト島[19]、ガンビアの首都バンジュールの旧名バサースト[20]は、彼を記念して名づけられた。
家族
[編集]バサーストは1789年4月にレディ・ジョージアナ・レノックス(1765年 - 1841年)と結婚した[1][3][4]。彼女は第2代リッチモンド公チャールズ・レノックスの次男ジョージ・レノックス卿の娘であった。
夫妻は四男二女をもうけ、長男のヘンリーが第4代バサースト伯爵に、ついで次男のウィリアムが第5代バサースト伯爵となった[1][3]。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h Lundy, Darryl. “Henry Bathurst, 3rd Earl Bathurst of Bathurst” (英語). thepeerage.com. 2010年12月5日閲覧。
- ^ a b c d e "Bathurst, Henry [third Earl Bathurst] (1762 - 1834)". Australian Dictionary of Biography (英語). Canberra: Australian National University. 1966. 2010年12月5日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Earls Bathurst". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 3 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 520.
- ^ a b c d e f g h Kebbel, Thomas Edward (1885). Stephen, Leslie (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 3. London: Smith, Elder & Co. p. 408. . In
- ^ Drummond, Mary M. "BATHURST, Henry, Lord Apsley (1762-1834).". The House of Commons (英語). The History of Parliament Trust. 2013年5月12日閲覧。
- ^ a b Fisher, David R. (1986). "BATHURST, Henry, Lord Apsley (1762-1834), of Oakley Park, Cirencester, Glos.". In Thorne, R.G. (ed.). The History of Parliament: the House of Commons 1790-1820 (英語). London: Secker & Warburg. 2013年5月12日閲覧。
- ^ "No. 12505". The London Gazette (英語). 27 December 1783. p. 2.
- ^ "No. 12531". The London Gazette (英語). 27 March 1784. p. 2.
- ^ "No. 13006". The London Gazette (英語). 8 July 1788. p. 329.
- ^ "No. 13120". The London Gazette (英語). 4 August 1789. p. 529.
- ^ "No. 16014". The London Gazette (英語). 28 March 1807. p. 393.
- ^ "No. 16305". The London Gazette (英語). 10 October 1809. p. 1617.
- ^ "No. 16611". The London Gazette (英語). 9 June 1812. p. 1109.
- ^ "No. 18436". The London Gazette (英語). 26 January 1828. p. 185.
- ^ "No. 17271". The London Gazette (英語). 26 July 1817. p. 1644.
- ^ "Bathurst". Encyclopædia Britannica Online. 2010. 2010年12月4日閲覧。
- ^ "Bathurst Island". Encyclopædia Britannica Online. 2010. 2010年12月4日閲覧。
- ^ Glendenning, Burton. "Bathurst". In James H. Marsh (ed.). The Canadian Encyclopedia. The Historica Dominion Institute. 2010年12月4日閲覧。
- ^ Finlayson, Doug. "Bathurst Island". In James H. Marsh (ed.). The Canadian Encyclopedia. The Historica Dominion Institute. 2010年12月4日閲覧。
- ^ “History of Banjul” (英語). Access Gambia (2009-2010). 2010年12月5日閲覧。
外部リンク
[編集]- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Mr Henry Bathurst
- Henry Bathurst, 3rd Earl Bathurst (1762-1834) - ナショナル・ポートレート・ギャラリー
グレートブリテン議会 | ||
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先代 ジェイムズ・ホイットシェッド サミュエル・ブラックウェル |
庶民院議員 サイレンセスター選挙区選出 1783–1794 同職:サミュエル・ブラックウェル 1785年まで リチャード・マスター 1785–1792 サー・ロバート・プレストン 1792 - |
次代 マイケル・ヒックス=ビーチ サー・ロバート・プレストン |
公職 | ||
先代 ジョン・スミス |
造幣局長官 1804–1806 |
次代 チャールズ・スペンサー卿 |
先代 初代オークランド男爵 |
商務庁長官 1807–1812 |
次代 第2代クランカーティ伯爵 |
先代 チャールズ・バサースト |
造幣局長官 1807–1812 | |
先代 ジョージ・カニング |
外務大臣 1809 |
次代 初代ウェルズリー侯爵 |
先代 第2代リヴァプール伯爵 |
陸軍・植民地大臣 1812–1827 |
次代 初代ゴドリッチ子爵 |
先代 第4代ポートランド公爵 |
枢密院議長 1828–1830 |
次代 第3代ランズダウン侯爵 |
グレートブリテンの爵位 | ||
先代 ヘンリー・バサースト |
バサースト伯爵 1794–1834 |
次代 ヘンリー・バサースト |